なだらかな斜面に新緑が眩しい5月の昼下がり。
私は穏やかな陽気に誘われるように
ピアノを爪弾いていた。

柔らかな空気に乗せて
どこまでも音色が届くように。
世界を邪魔しないように
優しく優しく。

一人の男性が尋ねてきた。
70近いであろう年齢を感じさせない足取り。
ここへの来訪者は決して少なくないが
東洋人は珍しい。

男性は拙いドイツ語で施設の案内を願い出た。
日本語で大丈夫な旨を伝えると
少し驚いた様子で、少しホッとしたようです。



日本人は良く来るのか?

男性の問い掛けは至極尤もである。

「滅多に見えませんね。
主が意図的に日本を避けていましたから。」

だろうな。
男性は複雑な笑顔を浮かべて呟いた。




「この屋敷は、彼女の反対を押し切る形で
一般公開されています。
元々は彼女の家族で住んでいた屋敷でした。」



掃除の行き届いたホールを抜け、
彼の歩調に合わせるようにゆっくり階段を上る。
一家で住むには少々大きすぎる屋敷は日差しが降り注ぎ、
暖かな空気が充満して、その広さを感じさせない。



各部屋は展示用に改築され
主の人生を写真と映像で追う事が出来るようになっていた。

その中の一枚の写真。



「それは彼女が世に出る前の貴重な写真です。
元々記録に残すことを極端に嫌がっていた彼女は、
とりわけその写真を大切にしていました。」



ステージとすら呼べないような舞台。
若い女性二人、男性一人。
バンドのライブであろうか。


「後に性愛のピアニストと称された彼女は
そのステージを自分の原点であると語っていました。
それまでの自分は、ただのピアノ演奏家であったと。
そのステージとその後の5年間で彼女はピアニストになれたんだ・・・と。」



男性は懐かしさと哀しみとが入り混じったような表情で写真をしばし見つめていた。



次の部屋。




「彼女はその後ウィーンに定住しました。
同じく日本人だった男性と結婚。
オーストリアの定住資格を取得し
精力的に公演を行っていきました。

彼女の名声は凄まじいスピードで広まりましたが、
決して自分の力ではないと繰り返していたようです。
全ては夫の力であると。」



夫?



「はい。現存する写真はこれ一枚だけです。
彼は彼女以上に記録を残そうとしませんでした。
自分は全てを捨て去った人間であると。
自分は彼女の中にのみ存在すると。」



「これが、彼 北原春希の唯一の写真です。
これも妻である冬馬かずさがこっそり写した物と聞きました。」



…あぁ。



そこに写っていたのは、紛れも無い春希だった。
既に50近くになっているだろうか。
過ぎた年月は確かに刻まれているものの。



幸せそうですね。



「そうですね。彼は彼女を護る為にその人生の大半
…いえ全てを捧げました。
自分がそれまで築きあげた物。
自分がそれまで得てきた物。

それは彼にとっても、周りの人間にとっても
極めて深刻な傷痕を残しました。

彼は自分は咎人であると言っていました。
決して許されない人間であると。

そして赦されないからこそ幸せにならなければならないと。」



勝手な奴ですね。



「そうですね。妻には激甘でしたが、子供や孫には無茶苦茶厳しかったです。
口煩くてお節介で。自分を棚に上げてガチガチのモラリストで。」






失礼ですが、お嬢さんお名前は?


「春希の孫で、かずねと言います。
始めまして、飯塚武也さん」






穏やかな一日に夜の帳が架かりはじめる頃、
武也は夕陽に包まれながら屋敷を後にした。


ふと立ち止まり写真を取り出し、
誰にともなく語りかける。



依緒、お前も一緒に来たかったな。
傷つき傷つけて、それでも生きてきた甲斐があったよ。
お前も一緒にこのゴールを味わって欲しかったな。



妻の写真を大切にしまうと、
彼はまたゆっくり斜面を下っていった。





あとがき

私のベクトルは基本的に全てかずさの幸せに向けられています。
転載一部改修 Jakob ◆VXgvBvozh2

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