◇ ◇ ◇



 幽かな意識の中、これは夢だと唐突に気付いた。

 肌を突き刺すような冷たい夜気の中、白い花弁が幾つも舞っている。

 俺が伸ばした左手の先に朧に見えるのは、誰かの右手。
 触れそうで、触れ合えなくて、触れたかと思った瞬間、幻のようにすり抜けた。
 一度は求め合った繋がり。俺が拒絶した繋がり。その手の主は、俺が誰より傷つけたひと。

 決して忘れてはいけない記憶。
 どれほどの月日が過ぎようと、忘れてしまうことのできない記憶。
 応援してくれた人たちがいた。大切な友人がいた。
 そして他にも、背中を押してくれた温かな人たちが、連続的に浮かんでくる。



 ずぼらでいい加減で、物臭でだらしのない、でも少しミステリアスなあいつがいた。
 そんなところはかずさに似ているくせに、女を感じさせない奴だった。
 あいつの真意が那辺にあるのかは、結局わからないままだった。

 誰かさんみたいにお節介で、行動力に溢れていて真っ直ぐで、でも真っ直ぐ過ぎる後輩がいた。
 かずさが髪を縛れば、あんな髪型になるだろうか。そういやあの子も猫舌だっけ。
 俺の醜い部分を曝け出してしまったにもかかわらず、俺を認めてくれた。

 教えを受け、頼りにし、尊敬し、戦慄し、でも少しかわいいと思ってしまった上司がいた。
 格好良くて魅力的な女性だった。付属時代のかずさに感じたものと似た何かを抱いたかもしれない。
 抱えた悩みに「わからない」と言ってもらえた時、俺だけがわからないものではないと知って少し救われた。



 なのに全てを台無しにした、抗い難く、許し難い俺のエゴの数々。
 俺の抱えた自己矛盾。最初の裏切り。全てが始まる前のステージが思い出される。

 壁越しのセッションで作り上げた関係。屋上で出会った運命。
 一生に一度有るか無いかという出会いが同時に二回。ギターがそれを呼び寄せてくれた。
 一人だったものが二人になり、別の二人になり、やがて三人になって、観客に喝采をもって受け入れられた。

 めちゃくちゃ楽しかった思い出は、俺がその日に滅茶苦茶にした。

 三人は二人と一人になり、別の二人と一人になり、やがて一人と一人と一人に分かたれた。
 ギターはピアノと触れ合う事ができなくなり、音が消えたのち、歌声も失われた。
 どれほど望んでも、二人と出会う前へと巻き戻すことは叶わない。

 俺が傷つけたのは片方だけじゃなく、二人とも両方だった。
 雪降る夜の街角で一人立ち竦ませるような、手酷い傷つけ方をした。
 明かりの灯らぬ散らかった部屋の中、声を殺して泣き咽ぶくらいに嘆かせた。



 俺の見たことの無い情景が浮かぶ。これも夢ならではだろう。
 ホテルかどこかの窓の向こうに座り込んで、雪の降る夜空を見上げるかずさが見える。
 その雪の中、踏み切りを前に、途方に暮れているような彼女が見える。

 俺が逃げたかずさをホテルに迎えに行った時、ちょうど雪が降っていた。
 さっきまで雪だったんだよ、と言った俺に、ホテルの窓から見てた、と言った。
 ちょうどこんな感じだったんだろうか。そしてその頃、彼女もこんな感じだったんだろうか。

 思い出すのは迎えた結末。海を隔てた別れと、心を隔てた別れ。
 どちらも俺が引き裂いた。二人を繋いだのも俺なら、引き裂いたのも俺だった。



 ステージの上の彼女がスポットライトを浴びて、白い手袋に包まれた左手を天にかざす。

 夜の街角でかずさは一人降り注ぐ粉雪を浴びて、冷たい冬の空に向かって右手を伸ばす。



 俺の右手は、その左手を握った。迷わず、しっかりと。
 降りしきる雪を共に浴び、空に伸ばさずぶら下げたままの、かずさの左手を。

 彼女の手は握れない。眩い世界にはもう、行けない。行かない。
 取るべき左手は天にかざされ、右手は取ろうとしてもすり抜けてしまったから。

 彼女には、二度と触れ合えないから。
 彼女とは、二度と触れ合わないから。
 この手に取って触れ合った、堅くて冷たい指を離さないために。



 ◇ ◇ ◇



 目覚めの感覚と共に、徐々に意識が戻ってくる。
 体と頭が睡眠から覚醒し、俺を現実へと導いた。
 3月24日の朝。起きてまず、目に入ったのは…

「………おはよ」

「………おはよう…っていうか、俺より先に起きてたのか」

 俺の顔を覗き込んでいるかずさの顔だった。
 胸板に回した腕や絡ませた足は寝た時と同じままに、顔だけ浮かせて寝顔を見ていたらしい。
 薄暗い中でも睫毛が確認できるくらいに顔を近づけ、夜色の虹彩に穿たれた黒い瞳が俺をじっと凝視していた。
 何か言いたいような、でも言えないような、なんとも複雑な感情を滲ませた表情で。

「寝てないのか…?」

「寝たよ。で、お前より早く起きただけ」

「本当か?」

「本当だ」

 起きたばかりのせいか、まだ頭の回転が鈍い。
 枕元から手探りで自分の腕時計を探し当てて、顔の前まで持ってくる。
 時刻は6時を回ったばかり…予定より30分も早い目覚めだ。

「お前が言ったことだろ。朝は6時半に起きるって。あたしはそれに従っただけだ」

「言うには言ったが、お前が俺より早起きするとは思わなかった…」

 些かばつが悪い…かずさを少し見くびり過ぎていたかもしれない。
 このぐうたらが、まさか俺より早く起きるとは、文字通り夢にも思わなかった。
 認識を修正するべきだぞ、俺。こいつのことなら何でも知っているなんて自惚れは捨てないと。

「ふふん、ざまあみろ。ぁ、ん…む」

「んぷ…!? ん、ぅ…」

「んっ、んぅっ、んぅぅっ…っはぁ、ちゅる…んん」

「ゅぅ…っぷ、ひゅぅ…ん、ちゅ…」

 得意げに微笑んだのも束の間、かずさは俺に覆い被さって口付けてきた。
 寝ぼけた頭と突然のことで戸惑う俺に構わず舌を差し込んでくる。
 覚えたてのキスで口内を侵食される。先制攻撃というか、牽制の口撃というか。
 本当に覚えが早い。それに、昨夜散々酷使した舌が、よくまだこれだけ動かせるな…

「っぷぅ………はぅ…」

「っはぁ…お前、朝からいきなりだな…」

「あ、いや…おはようのキス?」

「おはようで舌入れるのかお前は」

 それはあまりにも…良すぎるだろ。癖になったらどうする。
 朝からお互い口の周りが大変な事になってしまった。
 手で拭おうとして思いとどまる。ついでに顔を洗えばいいか。

「起きよう。風呂、行くか?」

「ん。行く」

 かずさを伴ってバスルームへ向かう。当たり前のように寄り添って。
 言葉にしなくても、一緒に入るという互いの認識にずれが無いことにやや問題を感じなくはないけれど。
 初春のウィーンの朝は肌寒い。朝風呂は習慣にしてもいいだろう。

 俺がスウェットを脱ぐ横で、かずさが着ていたシャツを脱いで下着姿になる。
 …やっぱりこのシャツ俺のだ。寝る時はあえて追及しなかったが…いつの間に。

 まあ言うまい。倒錯的な嬉しさを隠しつつ、何食わぬ顔でスルーしてトランクスを脱ぐ。
 かずさは既に一糸纏わぬ艶姿を披露している。俺も今さら躊躇うはずも無い。
 昨夜あれほど睦み合ったし、一緒に入浴するという時点でこいつも気にしない…

「………」

「………? どうした?」

 …はずなんだが、かずさは俺の体を見て固まっていた。
 バスルームに入るでもなく、俺の傍を離れないまま、そっぽを向いている。
 白い頬を薄桃色に染めて羞恥に俯いているような…なんか様子がおかしいな。

「…かずさ?」

「…え? あ、うん…いいんだ」

「…? いいって何が…っ、と」

「うん…いいよ…春希。まぁ…嬉しいし。でも、お前さ…」

 しかもくっついてきたよこの甘えん坊。それも全裸で。柔らかいな…こいつ。
 思わず抱き締めてしまう。愛しさが溢れてしまう。心が…満たされていく。
 それを戒める理由は無いし、自重する必要も無い。

 でも、流石に今はやめておこう。今日からの時間は大切に使わなければならない。
 心苦しくはあるけど、この昂ぶりも今は押し留めて………って、ま、まさか!?

「…朝から底無しだな。ゆうべ何度したのか覚えてないぞ」

「こ、これは朝だからだよ!」

「…え?」

 かずさ…朝の男の生理現象は知らなかったんだな………
 って、こら、握るな! 気持ちいいだろ!?



 ◇ ◇ ◇



 シャワーで互いに寝汗を流し、着替えて朝市へ出かける。
 やはりと言うか、まだまだ寒さが厳しい。路面電車の乗り場へ行くまでに、耳や指先が真っ赤になった。
 俺の格好は、シャツにスラックス、ここ数年公私共に活躍している冬用コートと、代わり映えのしないもの。

「洒落っ気の無い奴…」

「…ほっとけ。うう、やっぱ寒いな」

 清潔かつ、だらしなくなければ服装にはあまり拘らないんだよ。
 とはいえ、もう少し防寒対策をしてくるべきだったか…次からはマフラーくらい巻いてこよう。

「お前は一人で温かそうだな…」

「…ほっとけ。ああ、ぬくいぬくい」

 かずさは襟元にファーの付いた厚いダウンジャケットに手袋のおまけつきときている。
 くそ、こいつに準備と先見性で遅れを取るとは、我ながら情けない。

 などと心中で嘆息しつつ、まだ人の少ない電車に乗り込んだ。
 俺が手の中の乗車券を矯めつ眇めつ眺める横で、かずさが窓から朝の街並みを流し見ている。
 時間がゆったりと流れているようなこの感覚は、日本には無かったものだ。

 懐から財布を取り出し、なんとはなしに開いてみる。
 そこから覗くカラフルなユーロ札。片面が国ごとに違う絵柄というユーロ硬貨。

 ボードゲームで使うおもちゃの通貨みたいだ、なんて考えは、きっと俺がまだまだ異邦人である証。
 見慣れない通貨に別世界の街並み。目に映るものすべてが珍しさを覚える光景。
 この国における自分自身というものに、異物感が纏わりついて拭えない。

 心の中で、もう一度そっと嘆息する。事ここに至って、終の棲家を異郷だと感じているなんて…
 慣れるまで、馴染むまで、どの程度の時間が必要なのか、なんて益体も無い想いにふける。

「………」

「…っと」

 そんなことをつらつらと考えていたら、かずさが身を寄せてきた。
 これは…考えてたことバレたかな。相変わらず勘の良い奴…というより、俺が露骨すぎたか?

「…べー」

「…この」

 ちょっとだけ申し訳なく思って目線を送ってみれば、舌を出して見せやがった。
 くそ、茶化された。しかもちょっとかわいいとか思ってしまった。
 とりあえず表情だけむくれて見せておき、そっと抱き寄せて誤魔化してみる。

 どうやらこれはお気に召したようだ。気持ち良さそうに目を細めて、俺の首に鼻をこすりつけてくる。
 俺の誤魔化しに付き合ってくれたかずさに内心だけで礼を言いつつ、目的地で電車を降りた。



 ◇ ◇ ◇



「…へえ、この時間でも賑やかだな」

 かずさを伴って初めて訪れた朝市は、規模もそうだけどまず客足の多さが意外だった。
 通りの両側に軒を連ねた無数の出店には、思ったよりも多くの客が訪れていた。

「あたしもこの時間に来たのは久しぶりだけど、今は特に賑やかなんだ」

「そうなのか?」

「もうすぐ復活祭(イースター)だからな」

「ああ…なるほど、だからか」

 磔刑に処されたイエス・キリストが三日目に復活したことを祝う祝日。
 春分の日の後の、最初の満月の、次の日曜日、という、やや複雑な移動する祭日。
 キリスト教圏ではクリスマスよりも盛り上がるのだとか。
 カトリックの多いオーストリアはウィーンにおいて、年に一度の大きなお祭りだ。

「よその国じゃ復活祭の二日前、御子が処刑された受難の日である『聖金曜日』も祝日なんだけど…
 オーストリアじゃ公式の祝日じゃない。でも、自主休日になってるところは結構あるんだ。
 国立歌劇場、ブルク劇場、あとは…フォルクスオーパーの公演なんかも休みだっけかな」

「へえ、さすがウィーン在住」

「お前もそうだろ。ま、そのうち嫌でも覚えるさ」

 他愛の無い世間話を連ねながら、屋台や食堂の集まる通りに進む。
 ドイツ料理系統の瀟洒なカフェだけでなく、国際色豊かなラインナップだ。
 よくよく見ればイタリアン、中華、タイにベトナム、それに日本食の店まである。
 店の前を通りかかったら、金髪碧眼の中年男性スタッフから「コニチワー!」なんて声をかけられた。

「Hallo!」

 軽く手を上げ、英語のHelloとは綴りの違う、ドイツ式のHalloで軽く挨拶。
 日本人相手の商売もだいぶ慣れている。商売人が逞しいのはどこの国でも同じみたいだ。

「Grus Gott. Zwei」

「Ja!」

 朝食には、かずさの選んだ小さなカフェに入った。
 出迎えてもらった年配の女性店員に二人連れと告げ、適当に席につく。

 グリュースゴットというこの地の挨拶は、神のご加護がありますように、という意味らしい。
 こんなところでも、カトリックの国だということが窺える。

 小さいけど、とても趣きのある温かな雰囲気の店だった。
 ログコテージ風のフロアに明るいランプ、テーブルには色つきアルコールグラスの蝋燭。
 オブジェではない本物の観葉植物の鉢、丸みを帯びたままの木材の支柱が目に優しい。

 客層は、お茶を楽しむ老夫婦、ステッキを椅子に預け、スーツ姿で新聞を広げる老紳士など。
 他には、料理をそっちのけにしながら、一心にスケッチブックにコンテを走らせている若者もいる。
 静かな中に優しい空気の揺蕩(たゆた)うこの空間は、実にかずさの好みっぽい。

「あたしはこれにする」

「どれ? げ…」

「…なんだよ?」

「い、いや、なんでも…俺はこれにしとく」

 かずさは、パンとホットチョコレートに仔牛のシチュー、なんて朝から胸焼けしそうなオーダーをしやがった。
 俺はとても付き合いきれそうにないので、パンの他にはエスプレッソと卵料理をチョイスしておく。

 頼んでから運ばれてくるまでおよそ15分。これはかなり早い方だという。
 観光客が行くような有名店は30分くらい普通にかかるらしい。

「ここは早いからよく来るんだ。人も少ないし」

「気が短くて人付き合いが苦手で、なのに外食ばっかのお前にはぴったりだな」

「うるさい。黙って食え。あ…なんだよ、いらないってこんなの」

「うるさい。黙って食え。野菜もちゃんと食わないと栄養が偏る」

 サラダボウルを挟んでじゃれあいつつ、食べ終わったころには7時を回っていた。
 慌てて、というほどでもないけど、一服することもなく店を後にする。

 そのまま朝市で食料品を買って歩く。
 基本的には、手間の掛からない食材を買い込んでいく。
 パン、生卵、ソーセージ、ハム、生野菜、果物…こんなところだろう。

「オマチドー!」

「あはは…Danke schon!」

 日本のようにビニール袋ではなく、紙袋で手渡される。ノリとしては、昔ながらの八百屋さんみたいな空気。
 これがまた人情味溢れて心地よい。基本的にキロ売りで、1キロ1ユーロという破格の安さもありがたい。
 おじさんやおばさんが味見するかと勧めてくれるのにも驚いた。

「朝じゃなければもうちょっとぶらついてみたいな、ここ」

「休みにもう一度来ればいいだろ。その時はあたしも行くから」

 品揃えも多く、ヨーロッパのものだけでなく、日本やアラブ系などアジアの食材も扱っている。
 周囲から移り住んできた様々な人種のせいか、食文化は多民族の影響を受けて多種多様だ。
 これなら当分買い物で困る事はなさそうだと安堵した。



 ◇ ◇ ◇



「じゃ…いってきます」

「ん…いってらっしゃい」

 買い物を終え、荷物を置くためだけに帰宅したのが7時半。
 俺はこの足でそのまま、株式会社冬馬曜子オフィス欧州営業事務所へと出勤する。
 そう、ついに初出勤…は、いいんだけど………

「帰りの時間がわかったら、あたしの携帯に電話しろよ」

「ん、事務所からかけるよ」

「昼はお互い勝手に食べていいとして、晩ご飯は一緒に食べるんだからな」

「わかってるって」

「あと…それから…あ、なんなら事務所まで迎えに行くぞ? 連絡くれればその時間に…」

「…心配すんなって」

 …袖を離せかずさ。もう5分以上も玄関でこんなやりとりを繰り返してるぞ俺たち。
 まあ、なかなか離してもらえないことに、俺も若干の嬉しさを感じてしまっているのは確かだけど…
 いつまでもこうしていたら流石に駄目すぎる。ここはかずさに我慢させるところだ。

「…かずさ」 

「あ…っ」

 かずさの袖を掴む手を取り、そっとキスしてみた。一度と言わず二度三度。
 いささかならず気障な真似をしてしまったと自嘲しないでもないが、効果はあった。
 驚いたように目を丸くして、さっきまで袖を離そうとしなかった指がほどけていく。

「お前のために、戦ってくる。送り出してくれ」

「春希…う、ん」

 かずさは呆けたような蕩けたような視線を俺の顔に注ぎつつ、渋々俺を送り出した。

 路面電車に乗りながら、出掛けのかずさの態度に違和感を覚える。
 俺とかずさは最低の裏切りを決意したあの日から、ずっと寝起きを共にしてきた。
 時間にして一ヶ月以上、ふらついた共同生活を送っていた時期も含めれば、二ヶ月以上も。
 その間、こんな風に駄々をこねる事は無かった。でも、今朝は、この変化はなんだろう?

 ほとんど自動的に電車を降り、かずさを想いながら駅前のオフィス街へ歩を進める。
 繋がりたい欲望を互いにずっと我慢した末に、気が狂うくらいに抱き合い、求め合ったゆえの変化だろうか?
 何がかずさをあんなに不安にさせてしまったのかわからない。

「時間切れ、か…頭を切り替えろよ、北原春希」

 考え事をしたままオフィスに着いてしまった。
 やっぱり昨日あちこちぶらついて周辺や交通機関を下見しておいて良かった。
 初日から道に迷いましたなんて言い訳から入るのは御免だったしな。

「さて…行くか!」

 まだ始まってもいない、俺の人生最大の真剣勝負。
 今日はその最初の一歩。気を引き締め、オフィスの入り口を開いた。



 ◇ ◇ ◇



 株式会社冬馬曜子オフィス欧州営業事務所には、二人の女性スタッフが詰めていた。
 フランス系の年配の女性二人組で、曜子さんとの付き合いも深く、しばらくこっちをフォローしてくれるらしい。
 一人が通常業務を担当し、もう一人が俺に付いてくれるという至れり尽くせりの環境。

 ついでに英語、ドイツ語、フランス語の三ヶ国語が通用するスタッフなのもありがたい。
 本当、お母さん…社長には、当分頭が上がりそうにない。

 取得した就労ビザの関係書類その他を事務所に保管させてもらう。
 滞在届、滞在許可証、労働許可証、定住許可証などなど。書類だけでも膨大だ。

 ちなみに、出国、入国、申請、準備などで、日本円にして数十万円が飛んでいった。
 これには基本的な勉強代と、国際法務専門の行政書士への依頼料なども含まれる。
 この辺りに関しても、社長に大いに助けてもらった。時間がかかるビザ取得がたったの三週間で済んだ。

 外国人同化協定に伴う講習の参加日程も、おおよそ決めておかなければならない。
 基礎的なドイツ語能力とオーストリアの知識の習得、ウィーンにおける歴史にも範囲は及ぶ。
 もっとも、大学時代は単位取得王とまで呼ばれた俺だ。なんとしても文句無しの成績を修めてみせる。

 昼前に事務所を出て、外を歩かせてもらった。
 銀行の口座も冬馬家と同じ所に作らせてもらい、携帯電話の購入も世話してもらった。
 …機種がかずさとまったく同じというのは、偶然じゃないよな。
 あ、こっち見て笑ったよこの人。どこまで話してあるんですか社長?

 昼食は外の屋台で買ったホットドッグで早々に済ませ、業務、まずは雑務を叩き込まれる。
 付き合いのある事務所、人の顔と名前、金を流し流される場所も、片っ端から覚えていく。
 さらに、今月末から入るサマータイムについても触れなければならない。
 メモに使っているノートは、この数時間で何十回ページをめくっただろうか。

 これで給料を貰えるというのが申し訳なくて堪らない。
 住む場所も生活費もかずさと折半している俺は、もう恥じ入るしかない立場だ。

 ………情けない事を考えてしまった。女性に貢がせて生活する男をヒモと言うわけだが。
 その女性の母親にすら貢がせているヒモはなんというヒモと呼ぶのだろう、なんて。ああっ…もうっ…!

 とはいえ、これは最初からわかっていたことだ。

 俺がお荷物になることなど、かずさもお母さんも最初から気にしていなかった。
 むしろその先に、ものになった俺が出来上がることを欠片も疑っていなかった。
 そして俺は、そんな二人の期待を裏切る気は最初から持ち合わせていなかった。

「ハルキ、2番に外線よ。社長から」

「はい、2番…え、社長?」

『あ、春希君? どう、うまくやってけそう?』

「おか…社長、こちらでは至れり尽くせりで本当に感謝するばかりで…お体はいいんですか?」

『なによ急に畏まっちゃって。いいから普通に話してよ。そんな仲でもないじゃない?』

「は、はぁ…わかり…ました?」

 だけど…俺は知らなかった。正確には、忘れていたと言うべきか。
 俺が新たに勤めることになった職場の社長は、無茶苦茶なことをする人だってことを。

『ま、いいわ。で、本題なんだけど』

「あ、はい」

『かずさの次の仕事、悪いけどこっちで決めさせてもらったから』

「それはありがとうございます。悪いなんてとんでもありませんよ。で、その仕事というのは?」

『わたしの知り合いがいる小さいオケが今度やるコンサートに飛び入り参加。
 協奏曲のピアノで、二、三曲弾かせてもらえることになったから』

 それに…俺は気付けなかった。正確には、見えていなかったと言うべきか。
 俺の義母は、母親で、親馬鹿で、音楽家の観点でかずさを見られる人だってことを。

『イースターコンサート…復活祭の当日、今月末よ』

「…今月末って、そ、それじゃ準備期間は!?」

『そうねえ』

 俺の慌てぶりに驚いたのか、あまりの急な話で俺の顔色が変わったのか。
 事務所の二人が何事かという視線で俺を見ているが、正直それどころではなかった。

『あと、一週間ね』

 正直、それどころではなかった。
 俺も、かずさも、早速振り回されることになりそうだった。



 ◇ ◇ ◇







作者から転載依頼
転載元
http://www.mai-net.net/
作者
火輪◆a698bdad氏
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