「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 何でなんだろう。

「はぁっ、はっ、げ、げほ、げほ……」

 何で、俺、走ってるんだろう……。





『お願い、何とかして!』
『いや、何とかしてって、俺に言われても』
『だって、あたしたちだって思わなかったんだもん、こんな展開』
『それは、確かに、な』
『でしょう?でもどれだけ説得しても聞く耳持たないし』
『そうそう、そもそもこの話が出てから男共が俄然乗り気になっちゃってさ』
『だからさ、何とか止めてよ!あんたもやりたいかもしれないけどさ』
『でも、本気なのか?その……』
『だから未だに本気で信じられないんじゃん!冗談なんじゃないかって今でもどっかで思っちゃうんだよ!』
『でもこのままだと間違いなくやらされるよ!この勢いだと!』
『だから止めて!今の状況の中で男で良識あんのあんただけだから!』
『あの娘を……雪菜を止めて!』





「っく、はぁっ、はぁっ……」

 ……ああもう、何でこんなことになっちゃうんだ?
 そもそもこれって決定事項じゃなかったのか?
 まあ、やりたくないって周りの声も分からないでもないけど。
 でも俺にその役目を押し付けるか?
 自分たちで説得に失敗したからって、俺が適任とも思えないんだけどな……。
 ……ああもう、何でこんなことになっちゃったんだ?
 何度考えても、あまりにも理不尽だよな、これって。





「はぁっ、はぁっ、つ、着いたっ……」

 ようやく目的地に辿り着き、俺は必死で息を整える。
 何といってもこれからは走ることよりも確実に緊張感を伴うのだから。気持ちの整理もつけておかないと。
 だって、今回こんなことになってしまったのは……。
 俺が、こんな貧乏くじを引くことになってしまったのは……。





「春希、お前あれから雪菜ちゃんと会ってるのか?」
「いや、会ってない」
「何?まだ引き摺ってんのあんたたち?」
「いや、電話はしてるよ。何だか向こうが時間とれないらしくて」
「そういや最近、雪菜ちゃん講義終わるとすぐ帰っちゃうな」
「案外、春希と顔合わせたくないのかもね」
「止めてくれ。そのことでちゃんと話しようと思ってるのに出鼻を挫くような発言は。
 そもそもそんなことでここにまで来たのか?」
「他に何があるんだよ?」
「だよね。あたしらだって今さら色ボケ春希の世話焼くのは面倒なんだけど」
「なら来るな。わざわざこんな遠くまでお節介焼かなくても」

 バタンッ!

「春希、いるかっ!」

 大きな音と共に扉が開いたことで、注目が一斉に集まった。
 その視線の先には……。

「……友近?」

 驚愕な表情をした春希が。
 彼の友人と共に俺を見詰めていた。

「春希、ちょっといいか」
「何だよ、いきなり押し掛けて強引だな」

 俺は春希の腕を掴み、そのまま講義室を出てから再度向き直る。

「悪いが、これから来てもらうぞ」
「はぁ?一体どこへだよ?」
「俺たちのゼミ室」

 そう言った途端、俺の中に再び脱力感が蘇る。
 何せここは三号館。文学部の領域で、敷地の北端。
 俺たち政経の領域である南端の六号館とは真逆なのだから。
 春希が不服そうな表情になるのも無理はない。





「……全く、何でこんなことになってんだよ」
「……それはむしろ俺が言いたい」

 まあ、周りの愚痴も無理はない。飯塚と水沢が春希についてきてしまったのは計算外だったけど、まあこの二人のおかげで春希を無事に連れてこられたのに都合がいいのは確かだ。

「……でもよ、本当に一体どうしたんだよ雪菜ちゃん?」
「だからそれは……ああもう、説明するよりも来て見た方が早いって」
「だから何なの?雪菜に何があったってのよ?」

 そんなやり取りの中でも、春希は終始無言だった。表情を崩すでもなく、激昂するでもなく、ただただ何かを考えている風だった。
 転部してからこっち、春希が六号館に来る理由もないだろうし。
 たった今も飯塚と水沢の説得と同行がなければ俺とは関わり合いにすらなりたくないだろう。
 そんなこんなでようやくゼミ室に着いたが、入り口付近に妙な人だかりができていた。それもよく見ると同じゼミの男性陣。
 何だか浮き足立っているのが傍目にも明らかで、妙にそわそわしている感じだ。

「おい、どうだ?」
「今支度してるって」
「でもマジか?マジでやってくれるって?」
「今までそんな素振りすら全然見せなかったのに」
「ガード固いので有名だからなぁ彼女」
「でもよ、言いだしっぺが他ならぬあの娘だってのがなぁ」
「ああもう、これだけでこのゼミ入って良かったって思うよなぁ」

 遅かったか。他の娘たちも無理やりやらされてるのか、それとも……。

「あ、友近、お前も来いよ。今準備してるからよ」
「準備って、まさか」
「ああ、大学祭のゼミの出し物の」
「ば、馬鹿止せ。そ、そういえば反対してた他の女子たちは?」
「それが用意した衣装見たら意外とノリノリでさ」
「今一緒に準備中だ」

 はぁ?それじゃあ俺の今までの苦労は何だったんだよ?
 これじゃあ俺、ただの骨折り損?
 いや、それよりも……。

「……友近」
「……げ」

 案の定、俺の背筋を凍らせるのに充分な冷たい声が背中から響く。

「どういうことだよこれは?」
「……春希」

 春希の表情は、逆に感情がなかった。それが却って俺の背筋を冷やす相乗効果をもたらす。

「……何?北原?」
「何々?あ、マジ北原だ」
「どゆこと?ひょっとしてお前もこのことどこかで嗅ぎつけた?」
「いったい何の騒ぎだよこれは?」
「いやまあ、お前ならおこぼれにあずかる資格はあるかもな」
「ああ、このゼミの元・仕切り屋委員長君だしな」
「訳分からん。おい友近、ひょっとしてこの騒ぎ、雪菜が関係してるのか?」
「ああ、まあ、そうなんだけど」
「そうなんだよ北原!今小木曽が中で準備してんだ!」
「ああもう、これは俺たちがこの大学入って最大のイベントだ!」
「俺どうしよう!あの衣装で小木曽ちゃん出てきたら今晩眠れなくなりそうだ!」
「おいおいお前、何品のねえこと言ってんだよ」
「だってよう、お前らだったら正気保ってられる自信あるか?」

 そんなこんなで勝手に会話を続けるゼミ生の言葉に春希の表情はみるみる強張っていく。

「お前ら、雪菜で何しようとしてんだ?」
「だから、言いだしっぺは小木曽なんだって言ってんじゃん」
「雪菜が?いったい何を」

 その時、ゼミ室の扉が開き、その場にいた全員の視線が集まった。

『うおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!!!』

 その時に出てきたのは……。
 一時代前、というにはあまりにもレトロな雰囲気の“女学生”だった。

「お待たせ〜。どう?」

 そしてその場でくるりと一回転した……。

「小木曽……」
「せ、雪菜……?」

 今回のゼミの出し物の発案者だった。

「ん?」

 そして小木曽の視線は……。
 春希に向けられた。
 しかし、小木曽の視線を受けた春希の表情は。
 何故か引き攣ったような、何とも硬い表情だった。
 しかもよく見ると、心なしか震えているようにも見える。

「せ、雪菜、そ、の、恰好……」

 そんな春希の尋常ならざる様子を見て、小木曽は……。
 最初、キョトンとした表情に、次に嬉しそうな微笑み、そして何か悪巧みをしているかのように口元をほんの少し歪め……。
 そう、喩えるなら獲物を見付けた女豹……。

「まあ学生さん、こんな最果ての地にわざわざわたしを訪ねに来て下さったのですか?」

 ……ススススッと音もなく、擦り寄るかのように春希との間合いを一気に詰めた。
 そしてそのままあっさりと、固まったままの春希の胸元にしがみついた。

『……え?』

 俺も、周りにいた他の皆も、一体何が起こったのか分からずただ茫然と成り行きを見守るしかなかった。

「せ、雪菜……」
「あなたが遥か北の地に移り住んでしまいましたから、わたしはあなたに想いを馳せながら毎夜枕を濡らしておりましたのですよ」

 しかし、それは春希も同じのようで、あまりの展開に訳が分からなくなっているらしい。

「え、えと」
「でも学生さん、わたしの想いはあれから少しも色褪せることはありませんでした。
 いつかきっとあなたの許に届くと信じて」

 そんな小木曽に対して春希はどうしていいか分からないまま少しずつ後ずさっていく。
 しかし小木曽もそんな春希を逃さずにすかさず間合いを詰めていく。

「ちょ、ちょっと」
「そして今こうしてわたしの所にあなたは来て下さいましたね」

 しかし所詮この狭い廊下では逃げ場はなく、春希はあっという間に壁際に追い詰められてしまった。

「も、もうやめ」
「学生さん。あなたは今ここでわたしに何を告げようとしていますか?」

 それでも尚春希との距離を詰めようとする小木曽は、息遣いが聞こえるのではないかという程の距離まで春希に顔を近づける。

「わたしとはもう二度と会わないという永遠の別れの言葉ですか?」

 それでも飽き足らないのか、更に背伸びをして春希の耳元に顔を近づけ……。

「それとも、わたしとの永久(とわ)の愛に応えるための誓いの言葉ですか?」

 息を吹きかけるかのような細い声で春希の耳に囁く。

「……っ」

 その途端、ドスン、と鈍い音が廊下に響いた。
 春希が緊張に耐え切れず、尻餅を突いてしまったのだ。

「……」

 春希は何も言えず、ただ荒い息を吐くばかり。手を床に突いて立ち上がろうとするが全く微動だにしない。

「腰、抜け、た……」

 と、辛うじて呟くのが精いっぱいだった。

「春希くん、大丈夫?」
「……」

 小木曽がしゃがみ込んで尋ねるが、春希はただ首を横に振るだけ。

「あ、依緒、武也くん。よかった、ちょっと手伝って」
「え?え、ええ」
「お、おう」

 小木曽に呼ばれてようやく我に返った二人が両脇から春希を抱え上げ、四人はそのままゼミ室に姿を消した。
 後に残された俺を含めた面々は、今までの成り行きに着いていけず、開いた口が塞がらないままポカンと突っ立っているしかできなかった。

『うおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!!!』

 次の瞬間、再び廊下中に雄叫びが。

「な、何なんだよ今の小木曽ちゃん!」
「ちょっと待て、本当にあれが小木曽なのか?」
「だよなぁ、どう考えたってありえねえって!」
「いつもの小木曽とはまるで別人じゃん!」
「でもよ、あれはあれでアリじゃねえ?」
「ああ、アリアリ。何つうかさ、子供っぽいってのとはまた違った……」
「無邪気さっての?それとも小悪魔的な可愛らしさ?」
「そうそうそんな感じ!いつもの清純で可憐な美女とはまた違った感じでよ!」
「くぅ〜〜っ!やべえ!俺マジで今晩眠れなくなりそう!」

 そして口々に、今の光景に賞賛を浴びせていた。
 でも正直、俺にはそんな騒ぎはどうでもよかった。
 肝心だったのは、そのやり取りをしていた本人たちだったから。
 春希と、小木曽と。
 確かに、今まで俺が見たことのない二人だった。
 いつも真面目でお節介が過ぎる堅物の“委員長” の春希と。
 物静かに周りの注目を集める“アイドル” の小木曽と。
 そんな二人のイメージを、木っ端微塵に打ち砕くワンシーンだった。
 正直、あの二人の間にかつて何があったのか俺は知らない。
 これ以上あの二人のことについて知る術もないし、その資格が今の俺にあるとも思えない。
 あの二人に不用意に近づき、掻き乱し、そして縁を断ち切られた俺には。
 それでも俺は知っている。あの二人の心の内を。
 小木曽に告白した俺を殴らずにはいられなかった春希を。そんな春希の行動を聞いて悦びを隠しきれなかった小木曽を。
 そしてその時に小木曽がほんの僅かだけ俺に見せてくれた、彼女に眠る真の魅力を。
 そう、今まさに俺たちの前で繰り広げられたやり取りこそが、二人がお互いにしか決して見せない真の魅力。
 心から愛する者たちの間でのみ許される二人の逢瀬に、それは間違いなく存在していた。
 そうだとすれば、二人はあの時から間違いなく前に進んでいるということか。
 お互いに想い合いながら結ばれることも決別することもできずにもがき続けていたあの頃から、ようやく抜け出せたということか。
 互いを傷つけあうことを恐れて本当の気持ちを押し殺していたあの頃から、今の自分たちのありのままの気持ちをさらけ出せるようになったということか。
 だから今の俺の心は、諦めの気持ちが半分、ほっと安堵している気持ちが半分。
 あそこまで見せつけられてしまってやっかみの気持ちがあるのに、周りが目に入らないほどのそんな二人の溢れた想いに思わず微笑ましくなってしまった。
 あの二人なら、もう大丈夫だろう。
 あの二人からはもう友達とは認められなくとも、そんな二人を祝福することが許されなくとも、それでも二人を友達と信じる俺がこの結末に納得するくらいは許されるだろう。
 だから、これで今度こそ本当に、さよならだ。
 これからも二人で、誰もが認める幸せを手に入れてくれよな……。

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