縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。
履歴
国内製造としても唐の職人が技術指導しない限り模写も困難では?。日本に工房がすでにあったとしたら同様な銀金製品は発見確認されているのかな?。
第56回正倉院展にでた「佐波里蓋」には魚々子がありますが、こまかく見るとやや粗雑な魚々子の打ち方にみえます。魚々子は円になっていないものがあります。唐の職人が技術指導したなら、もう少しうまくできそうです。第64回正倉院展にでた瑠璃坏の台脚裾は比較的疎らな打ち方で、韓国・弥勒寺西九重石塔発見の金銅製舎利外壺と共通性があるため、百濟製とみられています。
宮内庁にある金銅四鐶壷は飛鳥から奈良時代のもので、錆がかなりあるが、拡大してみると、魚々子が打たれていることが分かります。明治11年(1879年)に,奈良県高市郡明日香村大字豊浦小字古宮(当時,堺県高市郡和田村古宮)より出土したものです。
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国内製造としても唐の職人が技術指導しない限り模写も困難では?。日本に工房がすでにあったとしたら同様な銀金製品は発見確認されているのかな?。
第56回正倉院展にでた「佐波里蓋」には魚々子がありますが、こまかく見るとやや粗雑な魚々子の打ち方にみえます。魚々子は円になっていないものがあります。唐の職人が技術指導したなら、もう少しうまくできそうです。第64回正倉院展にでた瑠璃坏の台脚裾は比較的疎らな打ち方で、韓国・弥勒寺西九重石塔発見の金銅製舎利外壺と共通性があるため、百濟製とみられています。
宮内庁にある金銅四鐶壷は飛鳥から奈良時代のもので、錆がかなりあるが、拡大してみると、魚々子が打たれていることが分かります。明治11年(1879年)に,奈良県高市郡明日香村大字豊浦小字古宮(当時,堺県高市郡和田村古宮)より出土したものです。