1.基本情報

1.1概要

長野県松本市の温泉。信州の五大温泉郷のひとつにかぞえられる。

1.2歴史

浅間温泉の開湯は698年の飛鳥時代にさかのぼる。1300年の歴史がある。昭和30年代頃の浅間温泉は、大型建築物がなく、木造3階建の風情があり豪華な温泉宿が建ち並んでいた。どの宿も灯りが点き、湯治客で賑わっていた。(([[松本の奥座敷、開湯から1300年の歴史を持つ浅間温泉。202**1.2歴史
浅間温泉の開湯は698年の飛鳥時代にさかのぼる。1300年の歴史がある。昭和30年代頃の浅間温泉は、大型建築物がなく、木造3階建の風情があり豪華な温泉宿が建ち並んでいた。どの宿も灯りが点き、湯治客で賑わっていた。*1
「浅間」の由来
説1:
浅間山(群馬県嬬恋村、長野県軽井沢町・御代田町)や阿蘇山(熊本県阿蘇市)と同じ語源で、ポリネシア語のような南方系の言語で、煙や湯気を意味する「asa(アサ)」や「asap(アサプ)」からなまった言葉。
説2:
この地が古くは「麻葉野(あさはの)」と呼ばれていたことから。*2
説3:
西暦698年の飛鳥時代には「束間」と呼ばれていたとされる浅間温泉は、平安時代の939年には、土地の豪族犬飼半左衛門によって「犬飼の湯」と呼ばれた…と言われている。その後、中世の「吾妻鑑」の文治2年(1186年)の頁に「浅間社」の名が記載されているので、1000年頃に「浅間温泉」と呼ばれ始めたのではないか。*3
温泉の始まり
939(天慶2)年(平安時代)に、この地の豪族が発見したといわれる。
江戸時代初代松本藩主の「御殿湯」が置かれた。
城主や臣下の武士たちの別邸が建ち並び、浅間温泉は「松本の奥座敷」と呼ばれるようになった。*4
伝承によると、大和朝廷貴族の別荘地から始まった浅間温泉は、「束間(ツカマ)の湯」と呼ばれ以後「筑摩の湯」と改められました。鎌倉時代には、守護北条氏が領有し、新しい国司が来るたびに浅間のいで湯に馳せ参じ武士達の奥座敷となっていた。さらに、石川氏、小笠原氏、戸田氏・・・歴代の領主は「士族の湯」を持ち人民の湯とは分けられていた。*5
路面電車
大正13年〜昭和39年、松本駅から浅間温泉まで、路面電車(チンチン電車)が朝5時〜夜12時まで10〜20分間隔で、多くの乗客を乗せて走っていた。戦後、車の普及により路面軌道が障害となり、41年間走り続けた浅間線は、東京オリンピックの年、1964年(昭和39)に廃止された。*6

松本城の前で踊る芸妓衆
温泉での芸者遊びが盛んだった頃、浅間温泉にも20軒近い置屋があり、100人もの芸者さんたちがいた。中でも、市丸は、浅間温泉から浅草に出て人気芸者になったあと、歌手になり、アメリカ公演もし、レコード大賞特別賞にも輝いた昭和のトップスターで、浅間温泉に生家がある。
今は、芸者さんは1人もいないが、地元の人が通う共同温泉には女風呂の方が大きい所もあり、そこから華やかな芸妓さんたちが「出勤」した小路が当時の面影を残している。*7

1.3気候

内陸性気候
中央高地式気候
湿度が低く、年間降水量が少ない*8

1.4アクセス

・JR松本駅から  車で15分
         バスで25分(浅間線・新浅間線)←浅間温泉内まで入ってくる
           20分(信大横田循環線・横田信大循環線)   浅間温泉入口バス停まで

・松本ICから    車で20分
・松本空港から   車で40分
         バスで50分  

松本市の観光地との距離
・松本城  車で10分、自転車で15〜20分
・松本市美術館   車で10分
・中町通り     車で10分
・ナワテ通り    車で10分     *9*10

1.5泉質

アルカリ性単純温泉 
無色透明
泉温は49.7℃
適応症  神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・冷え性・疲労回復など
禁忌症  急性疾患・悪性腫瘍・重度の心臓病呼吸不全など*11

1.6人口

  男性女性総数世帯数
浅間温泉1丁目774人 894人1668人858世帯
浅間温泉2丁目240人 266人506人238世帯
浅間温泉3丁目497人 494人991人530世帯
大字浅間温泉1人  3人4人1世帯
1512人1657人3169人1627世帯
        
(2020年11月現在)*12

1.7ゆるきゃら*13

温泉たぬきのおんちゃん
長野県松本市の「奥座敷」として知られる浅間温泉のゆるキャラ。デブっとした姿態がユニークな雄のタヌキで、垂れ下がった大きな目や口角の上がった笑顔はとても優しそうな印象を与える。温泉街に通じる県道に「浅間温泉」と大書されたゲートがあり、「間」と「温」の文字の上に雄と雌のタヌキが小さく描かれている。おんちゃんはその子孫。ツイッターなどの会員制交流サイト(SNS)を通して、温泉街の街並みなどを紹介しているほか、手ぬぐいなどのグッズの売り上げも好調。「生みの親」は、さまざまなデザインを手掛ける「Hot(ホット) Butter(バター) Club(クラブ)」代表の峯村哲朗さん。

1.8芸術

伊藤左千夫などの浅間温泉にちなんだ歌が刻まれている行灯形街灯 
松本市内に位置し近世以降松本城下町の奥座敷として発展してきた歴史の豊富な浅間温泉は
正岡子規、伊藤左千夫、与謝野晶子など多くの文人墨客に親しまれてきた。*14
「近藤光紀」展開催
「白壁のある道」は1948年の年記があり、作家が亡くなる年の春に描かれた作品。 浅間温泉街を抜け美鈴湖へと上がる道の集落が途切れるあたりから、画家は山側を見上げている。画面に描かれた土蔵は今も現存している。
 (元松本市美術館学芸員・大竹永明)
 近藤光紀 こんどう・みつのり(1901〜48)
 東京本郷生まれ。祖父は東京帝国大学初代総長の加藤弘之。成蹊中学在学中に曽宮一念に師事。川端画学校で藤島武二に学ぶ。大正10(1921)年東京美 術学校に入学するが病気のため中退。中央美術展、光風会展、帝展に入選。帝展無鑑査となる。昭和8(1933)年新美術家協会に参加。12年から一水会展 に出品。昭和14年一水会賞。16年会員。昭和21(1946)年1月疎開先の岡山県津山市から来松。浅間温泉の水源に腸チフス菌が混入する事件に巻き込まれ病死。*15

1.9イベント*16

浅間温泉枕ンピック
松本・浅間温泉のイベントパーク「浅間温泉オンベリコ」(松本市浅間温泉1)で、枕投げを楽しむイベント「枕ンピック」が行われた。
旅館や商店の後継者らでつくる「浅間温泉タビオコシ会」が中心となって準備を進めており、信州大学付属中学生も参加してPR動画を作成したりと、地域全体を巻き込んだ広がりを見せた。会場となった同パークは、2015年に廃業した旅館の跡地。更地となり宅地化が進む中、「温泉街全体の価値や魅力が下がっては困る」と同ホテルが購入した土地で、同温泉の中心部にあることからイタリア語でへそを意味する「オンベリコ」と名付けた。
浅間温泉新そば祭り
浅間温泉で11月頃開催されるそばのお祭り。新そばブースが7つ程度出店されるほか、温泉入浴の割引券なども販売して賑わっている。
信州カーフェスin浅間温泉
本郷小学校グラウンドで開催される車の祭典。県内外の自動車愛好家が自慢の車を持ち寄り100台の展示を目標にスーパーカーなど往年の名車が並ぶ。地元バンドや演劇ステージ、飲食ブース、展示ブースもある。

2.通り

本町通り

土産物屋や外湯が建ち並ぶ浅間温泉街。昔ながらの情緒が残る建物や、文化財散策などが楽しめる。おしんこ餅をほうばりながら、薬師堂参りや湯の町通りのレトロな町並みを目指し、散策を楽しむことができる。*17
現在のローソンのあたりに松電ストアがあった。*18

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温泉、宿
・別亭一花
中庭が見える温泉がある。3階には、浅間の湯を源泉かけ流しで楽しめる露天風呂が付随した貸切風呂が2つ。ヒノキ風呂・大理石風呂と、それぞれ趣の異なる造り。ランチなどもやっている。
浅間温泉に来た時、まずこの旅館を良くしたいと考えていました。しかし、そもそも浅間温泉に魅力がなくお客さんの選択肢に入っていないのではないかと考え、「浅間温泉自体を変えなければ」という思いが強くなりました。そんなときに浅間温泉を良くしようとする「タビオコシ会」に誘われて、参加することになったのです。タビオコシ会には旅館の2代目が少なく、自分のような外部から来た人が何人もいます。本当はもっと2代目の人に参加をしてもらいたい。浅間温泉にずっと住んでいる人は長期的に温泉街を変えようとするけど、自分のような外部から来た人はいつ異動になるかわからないから、“今”をどうにか良くしたい、そう思っています。立場によって考え方は変わってくるので、浅間温泉を良くしていくにあたって、時間をかけて長期プランで浅間温泉を変えようとする案と、短期的にできることを能動的に行っていく案を、しっかり分けて考えることが必要なのかなと思っています。*19

・帰郷亭ゆもとや
食事処
・つけもの喫茶
ホテル玉之湯直営のそば処・お茶処。

・カフェおちゃのわ
いちごを使ったドリンク、スイーツや地元食材を使った軽食を食べることができる。夜にはアルコールの提供もある。*20
・開運堂柳沢商店
スポット
・わいわい広場
音泉いちごハウス、カフェおちゃのわ、物産えんの屋、いちご公園の4つのエリアで構成されている。*21
わいわい広場の完成した形はきっとないと思う。そのことを楽しみながら、常に外の人と模索しながらやっていけたらいいなと思っている。自分達の⽅からどれだけ積極的に地域の方と関わっていけるかが大事。わいわい広場を使って、いろんな⼈がいろんなものを発信してくれればいいと思う。*22

・下浅間広場
歴史・文化
・下浅間薬師堂
この地は約400年前までは念仏寺があった所で、寛保2年(1742)横谷沢の大水害の後に上浅間より薬師の湯と共にここに移転、下浅間の守護のために建築された。現在の堂は天保12年(1841)木曽の大工により再建。堂前の祠内にある石造の薬師は上浅間の薬師堂前の土中から発見されたものといわれ、以前はここの本尊であった。薬師さまの霊顕は顕著で、遠近より湯治に来る。人々の万病祈願の参拝者が多い。*23
名物
・おしんこもち
明治時代から代々受け継がれた浅間温泉の代表的な郷土菓子。白い皮の中に小豆のあんが透けて見える。口触りはぷるぷるとやわらかいが、かむとさくっと歯ごたえよく切れる。新粉独特のコシがありながらソフトな食感。*24
お米の新しい粉=新粉を使っているため「おしんこもち」といいます。


スズラン通り

昭和40〜50年が観光のピークで、歩く時に肩が当たるくらい人がいた。酔っ払いもたくさんいたので、浴衣のひもや小銭が道に落ちていた。もともとこの通りは商店街で魚屋、肉屋、おもちゃ屋、時計屋などがあった。*25

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街灯
りんどう(花)をモチーフにした丸みを帯びた街頭

リンドウの花 2019.11.19
食事、土産   
・とうふ料理まるい
浅間温泉内にあった豆腐屋の中で、今も頑張って営業している昭和5年創業の「まるい」は、2階が豆腐料理専門の食事処となっていて、その味は地元の食通の間で評判。

・萬山園
1927年(昭和2年)から浅間温泉でお店をやっている。おじいさんの代から始まり、現在3代目。
店主のおじいさんは、横浜や神戸など中華料理が有名な地に住んだ経験があったと聞いています。その後、浅間温泉でこのお店を開くことになりました。当時、中華料理はメジャーではなく、温泉街にはあまりなかったので、あえてそれをやってみたいと浅間温泉で始めたそうです。看板メニューは、萬山麺と醬油ラーメン。自家製たまご麺を使っているのがポイントです。萬山麺は野菜などを煮込んだ白湯煮込み醤油味・醤油ラーメンは昔ながらの中華そば。観光客も来てくださりますが、地元のお客さんが特に多くいらっしゃいます。*26


・中ちゃん
居酒屋・フィリピン料理

・宮島商店
道路を挟んで2つの店舗がある。1つは70年ほど前からお土産屋さんをやっていて、もう1つは漬物専門で30年位前から始められた。もともとあった肉屋が辞めたので、先代が買い取り始まった。
漬物専門にした理由は、開いた当時漬物ブームだったからです。当時、浅間温泉に漬物屋がなかったことも理由の一つ。昔はもっと活気がありました。夜になると下駄で歩き回る人たくさんいたし、朝でも帰る前のお客さんが歩いていました。2,30年前(バブルの時)は、お店がたくさん、旅館も40軒くらい。でも今は20数軒にまで減った。お土産屋さんも減ってしまった。観光客が少ない。外に出てくるお客さんも車で移動したり送迎バスだったり、街中を歩かない。平日の夕方、朝晩、人通りが少ない・おしんこもち ・戦前におしんこもちを作ってたお店が2,3軒あったけど戦争で途絶えてしまった。先代が20年位前にまた作り始めた。今買いに来るのは、観光客と地元の人と五分五分。誰かに継がせるなど先のことはどうなるかわからない。*27

・魚よし
・あるぷす
・しののめ
歴史、文化   
・アトリエMOO 
手作りのおやきが有名

中央通り

かつては、芸者さんが住む置屋が多く立ち並んでいた。昼間はそこから芸者さんが練習している音楽が聞こえてきたり、夕方は歩けないくらい人があふれていたりととても賑やかであった。*28

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食事、土産  
・吉亭
お母さんおひとりでやっている、家庭料理が味わえるお店。
旅館ではかしこまった懐石料理が多いかと思いますが、このお店ではほっこりする田舎の味を楽しんでもらいたいです。*29


・天定
昭和50年からお店を始める。
私(店主のお父さん)も元々料理人でしたが、浅間温泉のこの店は兄弟子さんが最初にオープンしたものです。兄弟子さんが事情によりお店をやっていくことができなり、私(お父さん)にお店を授けました。メニューですら、何も決まっていなかったので全て私(お父さん)が決定。居酒屋のメニューはできないので、会席料理などをメインに始めました。看板メニューは、うな重と海鮮かき揚げ定食。昔は芸者さんがいたので、夜にたくさんのお客さんが来たんです。芸者さんがいなくなってからは20年ほど、今は観光客も来るが、地元のお客さんが多く、50代以上の方に人気。信大生も来てくれていました。外国のお客さんも来ます。うなぎがおいしい時期にお客さんが特に多いです。*30


・藍蔵
中華・丼類

・サルビア
・心
・スナックMORE
・宮田名産店
昔は団体旅⾏が主流だったので、ここのお店には⼤勢の旅⾏客が⼀気に来て、⼀度にたくさんお⼟産を購⼊していきました。饅頭の包み紙のデザインを名曲「上を向いて歩こう」の作詞をした永六輔さんが行った店で手作りしています。*31
スポット
・湯けむり公園

湯の街通り

レンガは大正12年からあり、昔は田んぼで筑摩神社に奉納されていた。*32

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温泉、宿    
・仙気の湯
明治14年から始まった。誰が作ったかは不明。「俺(の先祖)が仙気の湯をつくったんだ!」という人がたくさん現れ、埒が明かなくなった結果、平成9年に創成会と話がつき、創成会が仙気の湯を管理することになった。浅間温泉にある3つの外湯(一般の方も入れる温泉)の中で唯一源泉かけ流しである。相生の湯付近の源泉からお湯を引いている。お湯の温度は源泉が約47〜48℃だが、そこから約200m離れているので、仙気の湯は約44℃である。*33
一度タンクにお湯をためているため40〜42℃くらいになることもありますが、常連のお客さんからは「ぬるい」と言われることもあります(笑)。お風呂だけでなくシャワーも源泉かけ流しなので、よくある温泉のシャワーとは異なり利用者が止めない限り流しっぱなしです。源泉かけ流しあるあるですが、白いごみのようなものがよく浮いてきます。地元の人はこれを「湯の花」と呼んでいますね。1日当たりの利用者は約30〜40人ほどで、男湯、女湯各5〜6人入ることができます。*34


・梅の湯
江戸元禄3年から宿屋をやっている。松の湯、竹の湯、梅の湯は敷居の高かった上浅間側より松竹梅の順で建てられている。江戸後期の建物があったが、松本市に寄贈。分解して再建する予定だったが松本市の財政難で実現しなかったが、一時期は愛知県の明治村(テーマパーク)に再建する話もあった。現在の建物は平成4年に作られ、梅の湯入り口の看板は江戸後期から使われていたものを塗りなおした。明治20年ころウォルター・ウェストンが梅の湯に宿泊したと伝記が残っている(「目の湯」か「梅の湯」かは定かではない)。源泉は50度くらい。旅館に来るお湯は40〜42度。外気の温度などにより、日によって違う。*35
昔からやっているので、第二次世界大戦中、二子玉川の小学生が梅の湯に疎開してきたこともありました。その後疎開児童だった彼らが大人になって、お客としてきたこともあります。昭和時代は団体客が多くバス3,4台くらいで来るようになったので、それに合わせて大広間といった広い部屋も作りました。梅の湯の目の前にウエストンホテルが建ったときに、先代の主人が「本当のウエストンにゆかりのある宿は梅の湯だ!」ということで、碑を建てたそうです。江戸時代からの宿屋は1泊2食で値段を決めるのが普通だったのですが、2年前から1泊朝食のみや素泊まりを始め、結構なお客さんにきていただけるようになりました。このように、今のやり方をもっとグレードアップさせていきたいです。泊食分離で浅間温泉の商店街にある飲食店に行ってもらって、浅間温泉を活性化できるように深く考えていきたいと思います。*36


・香蘭荘
江戸の天保時代創業。源泉は45.4度、旅館に来るお湯は42、43度。
源泉かけ流し100%が売りです。将来は、昔のものも残しつつ、現代のものも取り入れていければいいと思っています。お客様にとって、ゆっくり過ごせる宿であってほしい。*37建物の手前に源泉が湧いていますが、実は中のお風呂の源泉とは違うんです。*38


・ひなの湯
明治4,5年に開業。現在4代目。
明治以前は鷺(サギ)の湯でした。その後にできたから“ひな(雛)”の湯になったんです。建物は昭和に建て替えています。栄の湯前の分湯所からのお湯を使っていて、源泉は50度ちょっと。旅館のお湯は44、45度くらい。お湯が結構熱いので水でうめてる人もいます。なぜなら、お湯をタンクにためて流すのが一般的ですが、ひなの湯はタンクにためないで直で温泉に来ているからです。後継者がいないため、今の代で終わりの予定です。*39


・栄の湯旅館
現在5代目。温泉はゆこもりの下の分湯場からきており、温度は45度。
もともと先祖はお蚕の種の販売をしていました。上田市の武石村(たけしむら)に蚕の種を買い付けに行っていましたが、日帰りだと大変なので浅間に温泉があるということで温泉宿を始めました。自分の旅館が良くて何度も来てくれるリピーターの方を大切に、心を込めて接待しています。将来は、今までのことを大事にしつつ、新しいことも取り入れていきたいと思っています。*40


・相生の湯
川島芳子の恋人が住んでいた。*41

・竹の湯
明治時代から始まり、平成16年3月まで宿として運営されていた。平成16年9月から通所デイサービスを開始する。源泉は4号源泉、源泉は52.4度で、泉温は42度。お湯のままだと熱いので、シャワーからは源泉に水を混ぜた適温のお湯が出る(混合シャワー)。
宿として竹の湯が閉業するということで、温泉を途絶えさせないために「安心してゆっくり温泉に入ってもらう」をコンセプトとしてデイサービスを開始しました。通所者にも温泉の効果があるそうで、家に引きこもりがちだった高齢者も気持ちに張り合いが出て「生活の」リハビリの場となっています(病院のリハビリとは違う)。また、家から出るということで、足からの老いを抑制し現状維持につなげています。信州大学看護学部の2年生が実習で夏の間1週間3,4人実習に来て認知症や高齢者ケアの勉強の場にもなっているんです。*42


・まさごの湯
大正時代からある。温度は49℃で熱いので水でうめている。建物は30〜40年前に建てられた。
湯仲間は12家族(女12、男30)。南松本から来ている方もいらっしゃいます。お掃除は外部に頼んでいて、運営は町会長が行っています。*43


・椿の湯
もともと旅館だったが、4年前から松本第一高校の下宿を始める。
近所の人にも手伝ってもらいながら、経営はお母さんおひとりでやっている。
近所の人に"お母ちゃん"と呼ばれ親しまれていますね。*44


・尾上の湯旅館
食事、土産   
・み乃
ステーキ・馬刺し
・フルーツ屋さんもずみ(茂住商店)
お店を始めてから60〜70年。親戚同士で代々お店をやっている。
昔と比べてお客さんはかなり減ってしまいました。小さい頃は下駄を履いた観光客がたくさんいてね、最近は旅館とか学校への卸しメインでやっています。穂高の旅館とも契約しています。*45
源泉
・松の湯源泉
松の湯、竹の湯、梅の湯は敷居の高かった上浅間側より松竹梅の順で建てられている。*46
・東北源泉
・中央分湯場
・第四号源泉
・大下源泉

湯坂通り

特攻隊、学生、疎開児童、芸者が通っていた道と言われている。*47
1970〜80年代までは床屋、パチンコ屋、呉服屋、薬屋、花屋や温泉街ならではの射的屋、芸者さんがいる置屋など様々な店舗が軒を連ね、明るく華やかであった。*48

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温泉、宿    
・松本十帖(旧 蔵のある宿 静保庵 ホテル小柳)
2018年3月に、貞享3(1686年)創業の歴史を持つ老舗「小柳」を自由人が引き継ぎ作られた。*49
・伊東園ホテル浅間の湯
平成18年から始まる。源泉は49.5度、最上階にある温泉にいくころには適温になる。
伊東園ホテルになる前は、個人の経営していた富貴の湯という温泉でした。その後、星野リゾート「夜祭長者」となり、現在は伊東園ホテルとなりました。界(旧貴祥庵、現在の星のリゾート)と姉妹店的な感じで始まり、富貴の湯が貴祥庵を建てました。富貴の湯閉業後は、星野リゾートが経営していましたが、平成18年からは星野リゾートは界のみの経営している状態です。伊東園ホテル全体のコンセプトは「通える温泉宿」(1泊が比較的安価で、何度も行きやすい)です。*50


・HOSTEL & SPA FAN!MATSUMOTO(旧よしの湯)

山の手通り

山の手とは、低地にある下町に対して高台にある地域を指す言葉である。*51
木造の旅館や共同浴場が見られる。*52
昭和6年には地本屋の南側に25mの温泉プールができ昭和35年頃まで営業していた。*53

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温泉、宿    
・湯々庵 枇杷の湯
建物は、昭和初期から建っているため、築90年くらいになる。お休みどころの太い木(木のはり)は江戸末期からずっとあるもの。お風呂は再建したため、できてから27年ほど。庭にある松の木は400年前からあるもの。お湯の温度は42℃くらいに設定してあり、源泉かけ流しではない。
以前は「湯々庵(とうとうあん)」とは、名前についていませんでしたが、お父さんの頃から日帰り温泉を始め、その頃から付けたと聞いています。付けた当初は『〜庵』とどの旅館さんも付けていたんですよね。『枇杷』は庭に枇杷の樹が立っていたからという説と、戦時中、足を負傷した人に傷を癒す効果のある枇杷の葉を使って手当てをしていたからという説があります。*54


・飯田屋別館
もともとは富貴の湯の別館として明治時代に開業した。富貴の湯は現在の伊藤園ホテルでオーナーは変わっている。昭和12年に飯田屋がその建物を取得し、飯田屋別館となった。
浅間温泉内で戦時中からそのまま建物が残っているのは、飯田屋別館くらいしかないでしょう。世田谷区の小学校の疎開先だったんです。建物は3階建て(一部4階建て)で、昔は周りに高い建物があまりなかったので、駅前からでも飯田屋別館が見えたと聞いています。当時、木造3階建てはとても珍しかったんです。昭和40年代、浅間温泉はコンクリート造りに多くの旅館が改装しましたが、飯田屋別館は建物自体には大きく手を入れず経営を続けてきました。桜の木を使用しています。飯田屋別館で使われている木材は1本1本が長くて太い。大広間は天井が高い。さらに大広間の天井には屋久杉が使われています。現在では屋久杉は天然記念物なのでこの天井のようなものを同じようにつくることは不可能なんです。*55


・onsen hotel OMOTO(旧ホテルおもと)
「OMOTO」の由来は、縁起のよい植物として古くから日本で栽培されている「万年青(おもと)」である。創業した大正8年、庭にたくさんの「万年青」が育っていたことから「おもとの湯」と呼ばれていた。*56
(支配人の山本さんは)自分が継ぐしかないという想いと、近年の浅間温泉は厳しい状況の中で大変ではあるけれど残していきたいという想いから、後を継ぎました。客室や大浴場からみる松本と北アルプス絶景、ジャグジー露天風呂、信州ブランド使用の料理、景色のいい大浴場がこの旅館の魅力です。*57


・スズタケソウ
信大OGの方がリノベしました。*58

・NPO法人ケアタウン浅間温泉
浅間温泉を『観光からケアの町へ』と考えていた神宮寺の高橋住職が御殿の湯の主から「旅館をやめる。何かに利用できないか。」と相談されたのをきっかけに有志を募り、NPO法人「ケアタウン浅間温泉」が立ち上げられました。御殿の湯をデイサービス拠点としています。*59


・坂本の湯
明治18年に創業し、現在4代目で夫婦で経営している。ペットと一緒に宿泊できるのが特徴である。創業130年余の歴史に幕を下ろし、2021年4月から子育て施設となる。*60
屋号を決める際に坂の元にあるから坂元の湯となり、戦後、"元"から"本"になりました。戦時中は目立たないように壁を黒く塗っていたのですが、平成2年に白壁の木造3階建てだった建物を建て替えて今の姿にしました。松本市都市景観賞ができた年には受賞もしたんです。東京、名古屋、岐阜からのお客様が多いですね。皇族のほか、指揮者の小澤征爾さんも利用してきました。*61

・御座の湯
・浅間温泉油屋旅館
・錦の湯地本屋
・みやま荘
食事、土産   
・平和堂
戦前からやっているお菓子のお店。山の手通りの十字路にある。見た目がレトロで昔の浅間温泉の雰囲気がある。
お菓子を作っているのは店主のお父さんお一人。看板メニューは「浅間温泉小菊最中」。最中は25年前くらいから始め、最中のあんこは2日かけて作っています。昔は、白あんのそばまんじゅう(ふるさとの味という商品名)、栗まんじゅう、長寿餅、おもち、草餅、どら焼き、カステラ、アイスクリームなどを売っていました。添加物は一切使わないです。赤飯まんじゅう・今は地元のお客さんが多く、観光客も調べてきてくれる人がいます。昔は、芸者さんがおつかいものとして箱で買っていってくれることが多かったですね。お菓子やピーナッツの量り売りもしていました。*62


・草創庵
日本料理

・あさま茶房
あんみつやケーキセットのある喫茶店

・グリム洋菓子工房ペーストリー

・かどやそば店
歴史、文化   
・神宮寺
臨済宗の寺院。御射神社(みさじんじゃ)の別当寺として創建された。創建当時は真言宗。毎月第1・第3日曜日午前6時から坐禅会が開かれている。現在の住職は高橋卓志さん。*63

・恵比寿神社
商売の神様で全国的に有名。名称はいろいろだが、全国には全部で3500もの恵比寿さまを祀る神社があり、総本山が兵庫県の西宮にある西宮神社。明治時代に西宮神社から勧請。松本市深志にあったものを、昭和になって現在の場所に移した(建物はその時に新たに建立)。昔は1年に1回お参りに来て浅間温泉に宿泊した人もいた。*64

・薬師堂
この地は約400年前までは念仏寺があった所で、寛保2年(1742)横谷沢の大水害の後に上浅間より薬師の湯と共にここに移転、下浅間の守護のために建築された。
現在の堂は天保12年(1841)木曽の大工により再建。
格天井(ごうてんじょう)の三六歌仙の絵は優れた作品である。
堂前の祠内にある石造の薬師は上浅間の薬師堂前の土中から発見されたものといわれ、以前はここの本尊であった。薬師さまの霊顕は顕著で、遠近より湯治に来る。人々の万病祈願の参拝者が多い。なおこの地は本州中央の地であるという標柱が立てられている。*65

・湯こもり
・滑り止めのある道路
源泉
・第一号源泉
・第二号源泉
・山田源泉
・飲泉場(山の手使い湯)

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