基本情報

泉質

・アルカリ性単純温泉 42〜52.3度
・源泉は第1号源泉、第2号源泉、第4号源泉、東北源泉、山田源泉、大下源泉、鷹の湯源泉の7カ所が使用されている。この他に旧松の湯源泉が存在したが昭和29年頃に枯渇した。また、温泉街中心から南東約300メートルを隔てた山林内に未利用の源泉が自噴している。
・おおむね無色無臭であるが、第1号源泉のみ微かな硫黄臭を感じる。*1

効能

浅間温泉のお湯は、お肌がスベスベになるアルカリ性単純温泉、いわゆる「美人の湯」。無色透明のお湯にはにおいはほとんどなく、万人が楽しめる温泉である。
神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・うちみ・痔疾・慢性消化器病・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進といった効能がある。*2

アクセス*3

・公共交通:篠ノ井線松本駅前の松本バスターミナルより松本電鉄バス浅間線(信州大学前経由)・新浅間線(横田経由)で約25分。
この2路線は中心部へ乗り入れる。ただし、浅間線は1時間に1本、新浅間線は平日2.5往復のみの運転である。
同じく松本バスターミナルより松本電鉄バス信大横田循環線(信州大学前経由)・横田信大循環線(横田経由)で約20分、浅間温泉入口下車。
この2路線は浅間温泉の入口までしか行かないため、中心部へは歩く必要がある。ただし、2路線合わせると平日は10分毎、土休日は15分毎の運転である。
1964年3月までは、松本電気鉄道浅間線という軌道線(路面電車)によって松本駅と結ばれていた。

・車:長野自動車道松本ICより国道143号などを利用。ただし、松本IC〜国道143号は慢性的に混雑するため、松本トンネルが無料開放された2020年(令和2年)9月1日以降は梓川スマートICより松本トンネルを抜け県道284号を通るルートが推奨されている。

上中下のエリア分けの変遷 *4

・上浅間の発展
松本領主によりすべての源泉が集中している上浅間で温泉の支配がされていた。しかし1742年に大洪水により上浅間は被害を受ける。この災害をきっかけに下浅間が開発された。当時、農業と兼用で旅館を経営する人が多かった。また、保養・湯治の役割を果たしていた。
明治時代になり、養蚕業が盛んになり、善光寺および御嶽参拝が自由になったことから,蚕種製造業者ができ,浅間温泉は商談および接待のために利用され,歓楽的な温泉集落へと発展していった。
戦後復興は早く、美ケ原観光株式会社の設立, 浅間温泉スキー場の開設,さらに浅間温泉国際スケート場の開設など,浅間温泉周辺の観光およびスポーツ・娯楽施設が整備された。また,三才山トンネル有料遭路の開通および中央高速自動車道西宮線の開通により,
浅間温泉と関東地方および中京,関西地方との自動車利用による時間距離が短縮された。

・上浅間から下浅間へ
1980年代半ば、住宅およびアパートの増加により,住民が著しく増加した。しかも,江戸時代に成立していた上浅聞の内湯所有者の住宅および内湯旅館が温泉付アパートに建て替えられたのである。また,入湯料を支払い外湯を利用する住民が増加したのである。この傾向は,特に下浅間の外湯で顕著にみられる。

・中浅間の開発
以前は団体客が多かったのが家族旅行等、少人数旅行に客層が変化した。また,娯楽目的の客が多かったのに対し,会議を目的とした客が増加した。このような浅間温泉の利用客の変化に対応して,家族向け散策コースが整備され,松本文化会館が1975年に中浅間に建設された。また,低料金の民宿も開設された。さらに,地域住民にも自家用車の利用者が多いことから,駐車場が著しく増加した。他方,既存の内湯旅館・ホテルは,新装,改築することで設備を充実させ,旅行会社およびバス会社と協定を結び入湯客の誘致に努めた。



浅間温泉案内図を基に作成

上浅間


GoogleMapより引用

最も古くから集落の立地していた地区。浅間温泉の7源泉すべてが集中しているため,旅館・ホテルを中心とした内湯および外湯が多数立地する。その多くは明治時代から大正時代にかけて立地した。
1973年以降,各旅館・ホテルは,近代的な鉄筋コンクリート構造に新・改築した。他方,伝統的な木造建築の内湯旅館も残存するため、比較的新しい中・高層旅館・ホテル群と伝統的な低層木造旅館群とが混在した景観を呈している。
また、外湯が立地し,それらの建物は木造平屋建てあるいは2階建て構造であることが多い。これらの旅館・ホテルおよび外湯は,上浅間の南部と北東部に集中している。 
しかし,これら内湯および外湯が集中している地区は,近年の人口増加に伴い,内湯所有者の個人住宅および内湯旅館が温泉付アパートに建て替えられた。内湯所有者の個人住宅は,温泉付アパートに建て替える工事が進められた。
他方,上浅聞の北西部は,浅間温泉の人口が増加していることを反映して,住宅およびアパートが卓越した。
 
上浅間は,駐車場が多いこともその特徴の一つである。それらは,旅館・ホテルの利用客専用駐車場とこの地区内の住民用駐車場との2種類に区分できる。この地区内の旅館・ホテルは,その敷地内に専用駐車場をそれぞれもつが,それだけでは収容しきれず,それぞれの旅館・ホテルの近くに駐車場を確保する事例が多い。また,新・改築の際に1階を駐車場とする旅館・ホテルもみられる。なお,地区内の住民が利用する駐車場は,住宅およびアパートの卓越したこの地区の北西部にみられる。
 
また,上浅間は山麓に位置するために,滝がかかり林地も広く分布する。したがって,浅間温泉集落内でも自然景観が最もよく残されている地区だといえる。さらに,この地区には御射神杜,松本城主小笠原家の墓などの文化的遺跡も多数残されている。したって,この地区は宿泊客の散策には最適である。
 
上浅間は源泉と内湯を利用した旅館・ホテル,外湯,駐車場が集中していること,そして自然景観と文化遺跡が多数残されていることに特徴がある。宿泊施設は15軒、日帰り入浴ができる施設は6軒と一番多い。*5

行事*6

三九郎(1月上旬〜中旬)
正月飾り等を集めて焼く火祭り。子どもたちが中心となり実施。燃えさかる炎にまゆ玉をそえ、焼いて食べる。

繭玉祭
浅間温泉の春祭りとして復活した。御射神社を出発し児童達がお舟を曳き温泉街を練り歩き、商売繁盛、家運隆盛を元気良く唱える。
昔、浅間温泉は温泉より蚕の種を作る養蚕が盛んで、当時も子供達が船を曳いて健全な育成と発展を祈った。そのためお舟には蚕の繭が乗っている。

浅間温泉ほたる祭り(6月末日〜1週間ほど)
浅間温泉ほたる祭り実行委員会の皆様が、川掃除からホタルの幼虫の世話から、えさになるカワニナの世話まで、1年間一生懸命育てている。

歴史・文化

古代の浅間温泉
浅間温泉の開湯は西暦698年の飛鳥時代に遡る。当時「束間の湯」と呼ばれ、信濃の国の名湯として都にもその名が轟いていたことが、日本最古の歴史書のひとつである『日本書紀』に記述されている。また、『くる人多き筑摩の湯 (中略) しるき名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる』と長野県歌「信濃の国」の一節に登場する筑摩の湯とは、松本市に隣接する「浅間温泉」と「美ケ原温泉」のあたりを指す。天慶年間(938〜947年)、浅間温泉は当時この地を領有していた豪族、犬飼(犬甘)氏の名をとって「犬飼の御湯」と呼ばれていた。*7*8

近世の浅間温泉
江戸時代、浅間温泉には初代松本藩主の石川数正により「御殿湯」が置かれ、松本城主のお殿様が通うようになる。御殿湯の初代湯守には、石川数正の三男康次の子である石川昌光が就任。城主や臣下の武士たちの別邸も建ち並ぶようになり、この頃より浅間温泉は「松本の奥座敷」と呼ばれる。現在、この御殿湯の詰所跡が、日帰り入浴施設の「枇杷の湯」として残っている。ところが、この御殿湯の設置により、温泉は藩主の権力によって支配されてしまう。湯坪16坪のうち6坪を藩主専用の御殿湯、7坪を家臣の湯とし、残りの僅か3坪を「入込の湯」として一般に開放し共同浴場にしたのがそれである。 その後、新しい源泉の発見や、個人持ちの内湯の私有が認められたが、松本藩主によるこの特権は明治維新まで続いた。また、藩士の保養を目的とした御組の湯、柳の湯、御用馬の湯なども置かれた。元禄年間の『善光寺街道名所絵図』には、内湯や外湯を利用して旅の疲れを慰める旅人の様子が描かれており、善光寺街道に接した宿場として栄えた。*9

近代の浅間温泉
明治時代に災害により御殿湯等が被害を受け、近隣の山には植林等の災害対策が施された。明治時代以降、浅間温泉は多くの文人墨客に愛されるようになり、特に正岡子規や伊東左千夫からなるアララギ派発祥の地として知られている。竹久夢二、与謝野晶子、若山牧水、田山花袋ら多くの文人墨客が訪れて、この地で優れた作品を残した。太平洋戦争末期には特攻隊員の待機所が置かれた。
・寺社仏閣
湯薬師
ここは古くから湯が湧き出ており浅間御殿もここから引湯し、薬師堂があった。
万治2年(1659)水野氏が浅間御殿を改修した時、湯谷社を祀って湯薬師と名づけた。絵馬が奉納されている。
堂は明治13年上浅間の大火で古仏の本尊も共に類焼し、同31年やや上方へ再建された。*10
御射神社
文治2年(1186)吾妻鏡(あずまかがみ)にある古社で浅間社と呼び浅間郷(本郷六か村)を社領とする大社で、神宮寺を持ち正応5年(1192)には円空が写経を奉納している。 
建武2年頃(1335)浅間郷の地頭赤沢氏が諏訪より御射神社を勧請(かんじょう)し後に、御射神社春宮と呼ばれるようになった。
古代の祭神は山ノ神であったが、後に諏訪大社と同じ祭神となった。 
現在の社殿は明治28年の再建で、本殿は神明造りになっている。 
松明祭りは御射神社の例大祭である。虫送りの行事から発生したもので昼の押鉾(神輿)で神を送るのが主体であった。
神宮寺
臨済宗妙心寺派の寺院。御射神社の別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺)として創建された。創建時からある木造薬師如来は松本市重要文化財に指定されている。
*11
薬師堂
神宮寺の境内にも薬師堂がある。古くは寺平にあり荒廃していたが、延宝2年(1674)松本城主水野忠直の母清陽院の祈願によりここに堂を建てた。
昭和23年近火の飛火により類焼、同33年東大の藤島玄次郎博士の設計により平安後期の御堂形式に再建された。
本尊薬師如来坐像は像高74cm、檜材一木造り、彫眼、神宮寺創建当時の古仏で藤原時代後期の作といわれている。
*12
西宮恵比須神社
大正時代に西ノ宮から勧請、商売繁昌の神として祀っている。当時、信徒は松本商業組合を始め遠近の各地に多くいた。玉垣は大正6年浅間公園を作った際に、拝殿は昭和30年に建立。
*13

・石碑
老鼠堂機一句碑
咲いてみせ散って見せたる桜かな
老鼠堂機一
句碑の近くにあるしだれ桜の古木の花を詠んだ句。大正一〇年九月建立。老鼠堂機一は江戸神田生まれの俳諧の大家。のちに八世其角堂となる。*14
芭蕉句碑
春雨の木下につとふ雫かな はせを (側面)  松に影のこして入りぬ春の月   蔵六
蔵六は波田町の俳人。この句碑は南方の真観寺へ天保11年(1844)に建てたものだが、大正6年5月浅間公園を造った時に移された。
木村素衛詩碑
真実は実在を愛する人にとっては自己の死は何でもない。大きな交響曲の一音が私の一生であろう。発すべき時に発すべき音を発したとき  そして消えた時それで一切はいい 秋雨よ静かに降り続け  木村素衛
木村素衛(もとより)は石川県出身。京都大学西田幾多郎門下で教育学を講じたほか、戦前から県下の学校で度々講演をした。碑文は昭和11年10月26日の日記より。裏面に建碑の由来を刻んでいる。昭和43年建立。*15

施設

・宿泊施設
浅間温泉油屋旅館
伊藤園ホテル浅間の湯
梅の湯(日帰り入浴も可)
尾上の湯旅館
onsen hotel OMOTO
香蘭荘(日帰り入浴も可)
御座之湯
栄の湯旅館
錦の湯 地本屋
ひなの湯
HOSTEL&SPA FAN! MATSUMOTO
富士乃湯
松本十帖
みやま荘(日帰り入浴も可)
露天風呂と料理の宿 山映閣

・入浴施設
坂本の湯
仙気の湯
湯々庵 枇杷の湯

・商店
グリム洋菓子工場
てづかや商店
平和堂菓子店
茂住青果店
山本食糧販売店
横山美容室

・飲食店
藍蔵
あさま茶房
サルビア
新三よし 浅間温泉いろりかこむ店
草創庵
天定
パブスナック心
MORE
吉亭

中浅間


GoogleMapより引用

中浅間は南部を中心に発展した。旧本郷村役場庁舎をそのまま利用している松本市役所本郷支所,本郷消防署, 浅間温泉郵便局,第八十二銀行浅間温泉支店などの生活において必要な業務施設が多数立地し,さらに飲食店および土産物屋の立地によって特徴づけられる。これらの飲 食店および土産物屋は幹線道路沿いに集中する。また,本郷小学校,本郷公民館,松本文化センターなどの公共施設が多数立地することも,中浅間の特徴である。
*16

行事*17

松明祭り
御射山神社の例大祭。麦わらを束ねて作った松明を持って青少年たちが温泉街付近の浅間橋へ集まる。直径2~3メートル程の松明もある。御神火から火を灯した70~80本の松明を担いだり転がしたりして目抜き通りを練り歩き、秋宮まで登って消火する。秋宮で五穀豊穣と人々の安泰を守っている神様が、松明の煙に乗って三才山の春宮に帰るという言い伝えがある。*18*19

火焔太鼓
浅間温泉の守り神、御射神社春宮の秋の祭り「松明祭り」の奉納太鼓として、昭和38年に現在の火焔太鼓として編成以来、地域の代表的郷土芸能として活躍。*20

浅間節
浅間の民謡。
《浅間湯の町 松本平 山や谷間の 山や谷間の 蔭じゃない》

浅間温泉 朝市
 ・毎週日曜日 午前8時から(売切れ次第終了) 4月末〜11月頃まで開催
 ・浅間温泉ホットプラザ浅間前(雨天でも開催します)
 ・農家直販野菜・果物・豆類+花・山菜・卵・その他等々

渡来人祭り
5世紀の桜ヶ丘古墳から「天冠」が出土した浅間温泉の地で、北東アジアから海を越えてはるばる日本へ渡ってきた「渡来人」の心を偲び、理解と友好を深め、共に生きる未来の在り方を考える。

青山様 ぼんぼん(お盆のころ)
【青山様】
お盆前四・五日間夕食後、小学生の男子が、ハッピと鉢巻姿で杉の葉で囲み青山神社と書いた神輿をかつぎ「青山様だいワッショイコラショ…」と言いながら地区の内外を練り歩く、祖先信仰から発した子どもの行事。
【ぼんぼん】
青山様と同時に幼児から小学生の少女たちが長袖着物で下駄をはき、髪に紙リボンをつけ、ほうずき提灯を持ち「盆々とても今日あすばかり…」と歌って自分の地区を歩く夏の夜の風物詩。

浅間温泉夏祭り
1)盆踊り
地域に伝わる伝統的な踊り「浅間節」や「松本ぼんぼん」「炭坑節」等、誰にでも親しみのある盆踊りに加え、「信州そば切り音頭」も披露。
2)夜店等
1 夜店として (1)かき氷 (2)生ビール (3)綿あめ (4)ヨーヨー釣りを出店
2 抽選会として、会場にお越しいただいたお客様を対象として各種景品が当たる抽選会を3日間行う。

浅間温泉夕市
模擬店・ミニコンサート他開催。夏のお盆は浅間温泉で楽しく。

浅間温泉新そば祭り
とれたての新そば粉を使い、地元の自称「そば打ち名人」が、自慢のそばを提供する。又、そばと温泉入浴をセットにした商品もある。

歴史・文化

近代の浅間温泉
昭和30年代頃の浅間温泉は、大型建築物がなく、木造3階建の風情があり豪華な温泉宿が建ち並んでいた。どの宿も灯りが点き、湯治客で賑わっていた。大正13年〜昭和39年、松本駅から浅間温泉まで、路面電車(チンチン電車)が朝5時〜夜12時まで10〜20分間隔で、多くの乗客を乗せて走っていた。温泉での芸者遊びが盛んだった頃、浅間温泉にも20軒近い置屋があり、100人もの芸者さんたちがいた。中でも、市丸は、浅間温泉から浅草に出て人気芸者になったあと、歌手になり、アメリカ公演もし、レコード大賞特別賞にも輝いた昭和のトップスターで、浅間温泉に生家がある。今は、芸者さんは1人もいなくなったが、地元の人が通う共同温泉には女風呂の方が大きい所もあり、そこから華やかな芸妓さんたちが「出勤」した小路が当時の面影を残している。*21
現代の浅間温泉
2005年度から、浅間温泉観光協会が観光で利用する名称を「松本あさま温泉」に変更した。これは、「浅間」という名称が浅間山の近辺を連想させる事から、松本近郊の温泉であることをPRするための変更である。ひらがな表記にするという検討がなされたが、各団体で検討の結果、現状の浅間温泉という温泉地名は変更しない事が確認され、ひらがなを使用して宣伝に使用する場合も、必ず漢字の「浅間温泉」を注釈で記載するという決定もなされた。*22

・石碑
石井柏亭歌碑
たたかき春の日あびて丘に立ち 国やぶれしをしばし忘れつ
石井柏亭は明治から昭和時代の版画家、洋画家、美術評論家である。歌碑は昭和51年に建立された。*23
伊藤左千夫歌碑
秋風の浅間のやどり朝つゆに、あめのと開く乗鞍の山
伊藤左千夫は千葉県生まれ正岡子規の門人、あららぎの主宰、信州に有名歌人を多く育てた。明治42年8月来遊した時の作で、西石川旅館主石川温山の蔵する短冊を拡大して刻み、昭和15年建立。*24
萩原井泉水句碑
しなのは 山と 月と父のふる里   井泉水
萩原井泉水は東京都出身の俳人。父は池田町中島出身で、大正初年に鷹の湯を訪れて以来60年の因縁をもつ。句碑は昭和50年改築記念に建立した。*25*26

施設

・宿泊施設
浅間温泉 別亭一花

・入浴施設
ホットプラザ浅間

・商店
割烹弁当宅配 魚よし
(有)マスタヤ薬局
ローソン 浅間温泉店
八十二銀行 浅間温泉支店

・飲食店
赤いピアノ
アトリエMOO
あるぷすそば店
おやきとコーヒー by artless craft tea&coffee
ターメリック
つけもの喫茶
豆腐料理まるゐ
中ちゃん
萬山園浅間温泉店

・お土産
宮島商店(宮島みやげ店)
おしんこ餅
明治時代から作られている、粉の餅にこしあんを挟んだお菓子。宮島みやげ店にて販売されている。*27
宮田名産店
浅間温泉まんじゅう
「御菓子処 美月堂 宮田名産店」にて販売されている温泉まんじゅう。放送作家・永六輔がデザイン。浅間温泉の源泉が使用されている。黒糖入りとそば粉入り、つぶあんとこしあんそれぞれがある。*28

下浅間



GoogleMapより引用

下浅間は,3地区のなかで松本市街に最も近い。上浅間の源泉から引湯することによって 内湯旅館・ホテルおよび外湯が経営されてきた。下浅間の旅館・ホテルは,浅間温泉の幹線 道路沿いに集中的に分布する。それらの旅館・ホテルは,上浅聞のそれらと同じく明治時代から大正時代にかけて開業しているものもあれば、近年新たにリニューアルして開業した旅館もある。規模が比較的大きいことが特徴となる。下浅間の幹線道路沿いを除いた地区は,住宅およびアパートが卓越する。特に,下浅間の南部は,4 軒の民宿が住宅地のなかに 点在している。また,水田などの農業的土地利用, 空地などがこの地区で多くみられる。 このように,浅間温泉の松本市街地からの入口にあたる下浅間は,幹線道路沿いに近代的内湯旅館・ ホテルが集中的に立地すること,一般住宅およびアパートが多数立地することが特徴である。また、飲食店及び商店が一番多い。*29

行事

手しごと市とふれあい音楽会
創造と文化の発信基地となれることを目指して開催。
松本およびその近郊で個性的な創造活動をしている作家、あるいは地道な活動を続けている演奏家が地元の文化を多くの方々に知っていただくために集結。
全国各地(遠くは京都・岡山)から、個性的な創作活動をしている作家にも参加頂き創造文化の交流を行うことで、この創造文化祭は更に熱をおびている。*30

歴史・文化

・寺社仏閣
下浅間薬師堂
寛保2年8月1日(1742)横沢沢の大水害の後、35軒が下浅間へ移住した時に、薬師の湯と共に移して下浅間の守護のために建立された。
現在の堂は天保12年(1841)木曽の大工により再建。格天井三十六歌仙の絵は優れた作品である。この地は約400年前までは念仏寺があった所で、寛保2年(1742)横谷沢の大水害の後に上浅間より薬師の湯と共にここに移転、下浅間の守護のために建築された。
格天井(ごうてんじょう)の三六歌仙の絵が飾られている。
堂前の祠内にある石造の薬師は上浅間の薬師堂前の土中から発見されたものといわれ、以前はここの本尊であった。
なおこの地は本州中央の地であるという標柱が立てられている。*31
・石碑
与謝野晶子歌碑
たかき山つつめる雲を前にして 紅き灯にそむ浅間の湯かな 晶子
与謝野晶子は明治から昭和期にかけて活躍した女流歌人。昭和11年初秋、上高地からの帰途富貴の湯旅館へ宿泊中の作。
真蹟を拡大して昭和32年春、旅館主滝沢久馬雄が神宮寺境内に建立。*32
高橋玄一郎詩碑
春愁 遠くなだれて散り止まぬ雪解(ゆきげ)の終夜(よもすがら)… 灯に打つ藁の手の暈(くま)ゆれて隔(き)里ゆくものよ 肌にしめりのしづかに移り来る涓滴(しずく)に臥(い)ね ああ胸の掌(て)の心臓(ヘルツ)に秘め運行(ゆきき)する歌章(アリア)よ 玄一郎
高橋弦一郎は本名の小岩井源一として浅間温泉の旅館「香蘭荘」を経営し、また本郷村の村長も務めた。
高橋弦一郎の名義で文学活動にも積極的に参加し、詩人としても知られた。*33 *34
上原三川句碑
五月雨や 山の温泉のさゝ濁り
上原三川は現安曇野市に生まれた東筑摩郡島内尋常高等小学校訓導(のちに校長に)。俳人としても活動し、正岡子規の門人でもあった。*35*36

施設

・宿泊施設
和泉荘
帰郷亭ゆもとや(日帰り入浴も可)
菊之湯
東石川旅館
星野リゾート 界 松本
ホテル玉之湯
民宿かじか

・商店
浅間西口薬局
イーストア浅間店
伊藤薬局
(有)エムケーマーケット
えんの屋
ことり薬局
子ども服イプニア
小林理容院
(有)塩入工務店
ジェルム
昭和シェル 浅間SS 松本シェル石油
信州まつやま
信用金庫
スワン美容室
セブン-イレブン 松本浅間温泉1丁目店
タカヤマ電機
フラワーランド恵里花
ヘアーサロンスガヌマ
マイショップ(犬飼酒店)
横山美容室
理容ませ
ローソン 松本総合体育館前店

・飲食店
がったぼうず
カフェ おちゃのわ
カフェレストガレージ
カラーズ
倶利伽羅
さくさくてい
山賊焼 河昌
スタジオ|スペース音音
つたのゆ
ビストロ鬼平
満月や

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