冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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「キーテジ年代記」を作った「古儀式派逃亡派」


中村喜和(1981)によれば、
年代記全体の編纂はこれよりさらにおくれる。(1)の歴史的叙述と(4)の結びのあいだに(2)と(3)を挿入したばかりでなく全体に独得のセクト的色彩を加えたのは、分離派教徒の中でもとくに「逃亡派」と呼ばれる一派である、とコマローヴィチは断定する。アンチキリストの到来を暗に陽に指摘していること、それに「救いを受けるにはこの世から身を避けなければならない」とする考え方などはまさしく逃亡派の基本的な思想だからである。この点については別に傍証もある。すなわち年代記のにおいて、人はアンチキリストの支配をのがれて洞穴に住まねばならぬと述べられているが、スヴェトロヤールの湖岸に実際に洞窟を掘って住んでいたのは逃亡派の信者たちであった、とメーリニコフが証言しているのである。逃亡派の本拠はヴォルガ河畔のヤロスラーヴリから十ニキロほどはなれたソベルキ村であった。かくてキーテジ年代記が現在みられるような形でまとめられたのは最古の現存写本が書かれる1790年ごろ、編まれた場所は右のソベルキ村、というのがコマローヴィチの到達した結論なのである。

「古儀式派」は「司祭派(容僧派)」と「無司祭派(無僧派)」に分かれ、「司祭派(容僧派)」は現在「ロシア古正教会(Russian Old-Orthodox Church, Русская Древлеправославная Церковь)」となっている。

「逃亡派(бегунов)」は古儀式派(старообрядчество)の最も過激な信仰で
キーテジの伝説は、ジョチ・ウルスの支配下にあった時代の口承に遡る。後に古儀式派の間で広まり、キーテジは古信仰の信奉者たちの避難所という性格を帯びるようになった。この美しい伝説を初めて文学作品として表現したのは、古儀式派だった。最も初期の作品は『グラゴリャム年代記 西暦6646年(1237年)9月5日記』(単に『キーテジ年代記』と呼ばれることもある)で、18世紀後半に古儀式派の最も過激な宗派の一つである「逃走者」あるいは「放浪者」の間で創作された。その筋書きは13世紀に遡る伝説に基づいている。この伝説のもう一つの出典は、古儀式派の写本『秘密都市キーテジの物語と探求』である。 『キーテジ年代記』とは異なり、この作品には歴史的背景が欠けており、地上の楽園に関する外典的な物語のタイプに属している。

[ Фокина Елена: "Китеж Град", PR в славянской мифологии ]



なお、中村喜和(1981)による『キーテジ年代記』の全文訳は...
〔1: 歴史的述〕
ゲォルギイ・フセーヴォロドヴィチ大公は洗礼名をガヴリールといい、プスコフの奇蹟成就者である。父のフセーヴォロド大公はムスチスラフ大公の子であり、ロシアの亜使徒ともいうべきキーエフ大公ウラジーミルの孫にあたる。

フセーヴォロド公ははじめ大ノヴゴロドを治めていた。しかしノヴゴロドの市民は公がまだ洗礼を受けていないという理由で彼を追放した。公は伯父にあたるキーエフのヤロポルクのもとに去った。その後フセーヴォロド公はプスコフの町に招かれ、洗礼を受けてガヴリールと名のり大いに精進につとめた。やがて6671年 (1163年) 11月11日にこの世を去り、息子のゲオルギイによって葬られた。彼の遺骸からさまざまな奇蹟があった。

ゲォルギイ・フセーヴォロドヴィチ大公はプスコフ市民の願いで父の跡を継いだ。ゲオルギイ公はこの年チェルニーゴフのミハイル公をおとずれて歓待を受け、ロシアの町々に神の教会を建立する允可状を得た。そこから公はまずノヴゴロドにおもむいて聖母就寝教会を建てることを命じ、ついでプスコフを経てモスクワに行き、そこにも聖母就寝教会を建立させた。あくる6672年にはペレャスラヴリを通ってロストフにはいり、やはり聖母就寝教会を建立した。教会を建てるために溝を掘っているとき、ロストフ市民に洗礼をほどこしたレオンチイ主教の聖骨が発見された。ゲオルギイ公はロストフ公アンドレイ・ボゴリュープスキイにも命じてムーロムの町に聖母就寝教会を建てさせ、自分自身はヴォルガ河畔のヤロスラーヴリに出てここからヴォルガを下り、この川の岸に小キーテジの町を建設した。町の住民の懇請にしたがいフョードロフの聖母像を運んでこようとしたが、途中で聖像が動かなくなったので、公は聖母が選ばれたその場所に修道院を建てるように命じた。ゲオルギイ公はそこから陸路をとり、・ウゾラ、サンダ、サノグタ、ケルジェネッの四つの川を横切って、スヴェトロヤールと呼ばれる湖に着いた。そこは景色も美しく、住民も大勢住んでいた。公は住民の願いを容れ、湖畔に大キーテジの町を建設し、聖架挙栄、聖母就寝、聖母福音の三つの教会を建立するように命じた。町の大きさは長さ200サージェン (1サージェンは約2.1km)、6673年に工事をはじめて、完成までに3年かかった。小キーテジと大キーテジの町の距離を測らせると、百露里であった (一露里は約1km)。公は神に感謝をささげ年代記を書くように命じてから、プスコフの町に戻った。プスコフでは精進にはげみ、貧しい者たちに多くの施しをしながら暮らしていた。

二つの町を建設してから75五年たって、6747 (1239) 年になった。われらの罪の報いとして、この年、神を知らぬ王バツがロシアに来襲して町々を荒らし、教会を焼き払い、.男たちを殺し、女たちをはずかしめた。ゲオルギイ公は手勢を集めて、バツの軍勢とはげしく戦った。しかし味方の数が少ないので、公はヴォルガを下って小キーテジに立てこもった。夜になって、公はひそかに大キーテジに移った。翌日バツは小キーテジを占領して住民を殺戮したが、公は見つからなかった。そこで一人の男を拷問にかけると、彼は苦しみに耐えきれずに道を教えた。バツは大軍をひきいてスヴェトロヤールの湖畔の大キーテジを占領し、.ゲオルギイ公を殺した。それは2月4日のことであった。

〔2: 護教論〕
バツが去ってからゲォル.ギイ公の遺骸を収容した。大キーテジはそのとき以来、目に見えなくなった。キリストの再臨のときまでこの町は見えることはないであろう。このようなことはかって多くの聖なる教父たちの伝記や聖僧列伝にも録されており、その数は天の星、.浜辺の砂のようにおびただしくて、枚挙にいとまがないほどである。むかしダビデ王も義人はきっと栄えると述べたし、使徒パウロや金口ヨハネもそれに類したことを語っている。またわが国の教父イラリオンも、義なる町や修道院はかくされるだろうと書いている。アンチキリストがこの世を支配するようになると、人びとは山や洞窟に逃げこむが、人間を愛する神は救いを望む者を見捨てたもうことはない。

〔3: 短い歴史的叙述〕
ゲオルギイ公が戦死して葬られてから、バツはふたたびロシアに来襲した。チェルニーゴフのミハイル公は貴族たちとともにバツと戦い、戦死した。それは6750 (1242) 年9月20日のことであった。スモレンスクのメルクーリイ公もバツと戦って最期をとげた。

〔4: 結び。隠された町キーテジの物語とその探求〕
本心からこの町に行きたいと思う者は、精進潔斎して大いに涙をながし、たとえ飢え死にをしてもこの町からふたたび戻らぬ覚悟をきめなければならない。神はそのような者だけを救いたもうからである。ある淫婦は聖教父と修道院にはいろうとしたが、門の前で息絶えてしまった。しかし結局この女は救われた。神学者ヨハネは七つの角をもっ獣にまたがった淫婦のことを書いている。淫婦は手に汚物にみちた盃をもっていて、それをこの世の王や富める者どもに与える。救いを求める者はこの世から身を避けなければならない。謙虚な心をもてば、神から見棄てられることはない。この世で悔い改める者は神の栄光を見るであろう。真心をもって不退転の覚悟をかため、家族のだれにも口外しない者に神は門をびらき、避難所へみちびきたもうであろう。そこでは聖なる父たちが昼夜祈りをささげ、芳香がたちこめている。ここに迎えられた者は救われる。心に何か企みをもつ者は門をとざされるので、森や荒野しか目にできない。この世の終りに、見えぬ町はあらわれる。大キーテジの町は神の御手によって隠されているからである。

われらはこの年代記を6759 1251) 年に書き、後にこれを読み、また聞くことを望む正教徒のために教会にゆだねた。この文書をののしり、われらをあざける者は、神と聖母をののしり、あざけっているのである。この文書に一字一句といえどもつけ加えたり消し去ったりする者は呪われるであろう。

[ 中村喜和: "見えぬ町キーテジの物語", 一橋大学研究年報 人文科学研究, 1981 ]

「逃亡派(Бегуны)あるいは放浪派(странники)」とは...
逃亡派(Бегуны)あるいは放浪派(странники)とは、18世紀に古儀式派無司祭派(беспоповцы)のフィリッポフスコエ・ソグラシエ(филипповского согласия)から離脱した未婚の僧侶たちであり、彼らはより断固とした現世拒絶に基づいており、もはや救済は不可能であるとされた。

フィリッポフスコエ・ソグラシエの創始者は誰であったかという問題は未だ解決されていない。N. I. コストマロフは、逃亡派の創始者はヤロスラヴリ・フェドセーエフ派のイヴァンとアンドリアンであると考えた。逃亡派自身によると、彼らの告白はトヴェリ州で生まれたという。パーヴェル・リュボピトニーは、「逃亡派」の創始者をアンドリアン修道士(1701-1768)に明確に帰している。パヴェル・リュボピトニーは彼についてこう書いている。「…ヤロスラヴリの町民であり、この町の近郊に住んでいた。フィリッポフ教会の裏切り者であり、粗野な文字通りの解釈者だった。彼はわがままで、乱暴な性格で、深い迷信を抱いていた…頭が空っぽで無知な人々の間では、かなり有名だった。」

多くの研究者は、このフィリッポフスコエ・ソグラシエの起源は、新儀式派教会から古儀式派に改宗したエフスタフィ(1741 or 1744- 1792)という人物にあると考えている。彼はペレヤスラヴリ=ザレスキーに生まれ、新兵として召集された後、二度にわたり兵役から脱走した。最初の脱走後、彼はフィリッポフスコエ・ソグラシエの古儀式派の間で数年間モスクワに住み、そこでエフスタフィという洗礼を受け、しばらくの間、同胞団の裁判所で書記官を務めた。彼は当局に捕らえられたが、再び脱走に成功した。二度目の脱走後、おそらくそこで身を潜め、修道士として剃髪された。フィリッポフ派を観察した彼は、彼らが「二心があり、二心のある」人物であり、当局に妥協し、都市の法律に従っているという結論に達した。彼はこのテーマについて39の質問からなるエッセイ(いわゆる「講話」)を書き、モスクワ・フィリッポヴィテ派の指導者たちに送った。返答が得られなかったため、彼は世俗社会を完全に否定する説教を行った。彼はピョートル1世(1672-1725)を反キリストと同一視し、「終末の獣は王権であり、その象徴は民権であり、その働きは霊的権力である」と説いた。したがって、人は社会とのあらゆる繋がりを断ち切り、パスポートを持たず、兵役に就かず、裁判所に出廷せず、税金を納めず、常に身を隠し、反キリストの印を持つ者との接触を避けなければならないとされた。彼はアルハンゲリスク州トポゼロの庵を訪れた。その辺りで、彼は「幼少期から隠れて暮らしていたため、いかなる国勢調査にも記録されていない」イオアンという老人に出会った。当時、エウティミウス自身は、真のキリスト教徒にとって、当局に「分離主義者」として記録されることは致命的であるという結論に達していた。1784年、エウティミウスは、仲間のヨハネの影響を受けて、反キリストと関係のある者は洗礼や再洗礼を受けるべきではないと決意した。そして「旅のために」自ら洗礼を受け、他の無司祭たちから距離を置いた。彼はヤロスラヴリ近郊で生涯を終え、ヤムスキーの森に埋葬されました。彼は以下の著作を著している。『講話』(1784)、『メッセージ』(1787)、『花園』、『ローマ教皇ヒッポリュトスの黙示録に関する言葉の解釈』、『不幸な終末と反キリストの兆候について』。

逃亡派は聖書を完全に正統派的に解釈し、そこから反キリストは人間であり、王であると理解した。反キリストの到来と人格に関するこの二つの仮説を統合し、彼らは反キリストを王、政府、そしてあらゆる権力として理解すべきだと結論付けた。彼らは19世紀半ばまでこの信念を固く守り続けたが、それ以降、彼らの多くは、ベズポポフツィの圧倒的多数に共通する反キリストの精神的な到来という考えにスムーズに移行した。反キリストの力に屈しないよう、逃亡派は市民社会とのつながりを断ち切った。彼らは国勢調査に登録せず、国家に税金を納めず、不動産、パスポート、恒久的な居住地を持たなかった。捕まったとき、彼らは親族関係を忘れたと言った。彼らの教えでは、お金の使用に関してのみ譲歩が認められていた。なぜなら、お金は反キリストの印が押されているにもかかわらず、手から手へと渡されるものであり、特定の人物の独占的な財産にはなり得なかったからだ(ただし、いわゆる無一文の放浪者もいた)。

警察国家において、パスポートを持たない人々からなる社会全体が長期にわたって存続できたのは、逃亡派が放浪者と異邦人という二つのカテゴリーに分かれていたからである。放浪者とは、世俗的な繋がりを完全に断ち切り、財産も住居も持たない人々であり、異邦人は逃亡派の重要な一部を占め、いわば洗礼を受けたような立場にあった。彼らは世俗との繋がりを完全に断ち切ったわけではなかった。こうした異邦人の家には、逃亡者たちのための特別な隠れ場所が用意されていた。異邦人が病気やその他の危険な状況に陥った場合、放浪者たちは彼に洗礼を施し、生き延びた者は家や財産を捨てて放浪しなければならなかった。放浪者たちは、無一文者、既婚者、そして聖職者(ステイテイニク)など、いくつかの特定の宗派に分かれていた。既婚の逃亡者たちは、司祭によらない結婚の存在に関するノヴォポモールの教えを受け入れていた。彼らは、迫害者から逃れるために家族と共に砂漠に隠れ、そこで結婚生活を送っていた初期のキリスト教徒をモデルとしました。ランナーはウラル山脈、シベリア、カザフスタンに居住している。彼らは現在、真の正統派放浪キリスト教徒を自称している。

[ Бегуны, или странники ]

なお「フィリッポフスコエ・ソグラシエ(филипповского согласия)」とは...
かつてフィリッポフスコエ・ソグラシエは、修道士フィリップ(Фотий Васильев, 1674-1742)の信奉者で、結婚を認めない無僧派の非常に多数の団体だった。 ("Филипповское согласие")

フィリッポフスコエ・ソグラシエは、古儀式派における無司祭派であり、その創始者となった長老フィリップ(俗称フォティ・ヴァシリエフ、1674-1742)の支持者がポモルトのヴィグ共同体から離脱した結果として1737年に生じたものである。(Филипповское согласие)


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