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1812年のモスクワ核爆発を題材とする、ロシアの作家Щепетнев Василий Павлович(1955〜)の作品に"Москва, 1812 год"(Певчие ада(2015)所収)というのがある。

[Adolph Norhten: Napoleon's Retreat from Russia ]
1812年のモスクワ核爆発を題材とする、ロシアの作家Щепетнев Василий Павлович(1955〜)の作品に"Москва, 1812 год"(Певчие ада(2015)所収)というのがある。
1812年の有名なモスクワ大火災は、広く論じられることはなかった。ロシア人にとって、ナポレオン軍によって古来の都が冒涜され降伏したという事実そのものが非常に不快なことであり、不用意に関心を惹くことは喜ばれなかった。しかし、フランス人にとって、大都市の火災に屈服したことは、やはり恥辱であり、それは先進文明国を自認するフランスとは相容れることではなかった。そして、何が起きたか、はっかりと詳しく伝えられる、火災の目撃者はほとんどいなかった。モスクワ市民、特に教育を受けた階層の人々は、都を去っていた。多くの侵略者たちはロシアからの不名誉な撤退途中に死亡した。このフィクションが、ロシア語圏では事実としてネット上で散見される。
3つの説が有力であり。モスクワはフランス軍によって意図的に焼き払われた。モスクワはロシアに愛国者によって故意に放火された。モスクワは侵略者とごく少数の残留者の双方の過失によって火災になった。小説「戦争と平和」で、考えられる説を検討したレフ・トルストイは結論に到達した。確固たる秩序が失われれば、ささいな火災でも、都市全体を脅かし、モスクワは大火災となってしまった。
最近の発見により、まったく予期しない新たな仮定ができた。
昨年、モスクワの役人がフランス南部のツーロンの近くに放置された不動産を購入した。その古い邸宅の引き渡しが終わると、彼は改修に着手し、修復のために家具を準備し、書き物机の秘密の引き出しのひとつから、ナポレオン軍の分隊長のひとりシャルル・アルトワの日記を発見した。日記には、モスクワでの出来事と、ロシアからの軍の撤退について詳しく書かれていた。現在、日記は多くの調査を受けている途中だが、所有者の好意で、我々は以下の部分を入手できた。
「私は大きなロシアの邸宅の中庭に立っていた。低い日差しがモスクワに金色の光をあてていた。突然、2つめの太陽が現れた。明るく白く眩い光だった。最初の位置から20度ほど高い位置に移動し、5秒ほど輝き、バルコニーで休んでいたポール・ベルジェの顔を焼いた。家屋の壁や屋根から煙が出始めた。私は数十のバケツの水を屋根にかけるよう兵士に命じた。これにより、邸宅を火災から守れた。新たな生まれた太陽の近くの住居で火災が始まった。この謎の空の閃光が火災を起こし、モスクワは破壊された。...」
ナポレオン軍のロシアからの撤退について興味深い記述があった。知ってのとおり、フランス軍は撤退せざるをえなかった。(実際、ナポレオン軍は多国籍で構成され、フランス人は少数派だった。)フランス軍は、荒廃したスモレンスク道路に沿って撤退せざるをえなかった。食料と飼料不足、冬の軍服がないことにより、かつて強大だった軍隊は、絶望的に死にゆく群衆と化した。しかし、ナポレオン軍を苦しめた病気は冬将軍と飢餓将軍だけによるものだったのだろうか? 大陸軍がモスクワにいた1812年9月に立ち戻ろう。
「周辺では火災が続いていた。我々が宿泊していた邸宅は健在だったが、それは幸運によるものだったのだろう。新たな攻撃があった。ロシアの腐った水や、良くない食料、あるいはその他の理由で、全員が激しい血性下痢に苦しんでいる。全員が衰弱・目眩・吐気・嘔吐などのさらなる不幸な状態に陥った。同様の状況にいるのは我々だけではなかった。我々の連隊のすべての大隊、モスクワのすべての連隊がそうだった。赤痢やコレラの疑いがあり、医師たちは居住条件の悪い都市から撤退を推奨した。ピエール・デュロイはたったいま到着した。彼の部隊はモスクワ郊外から10マイルの地点にて、誰もが健康で元気だったが、ロシアの遊撃隊に悩まされていた。我々のひどい状況を見て、感染を怖れて、ただちに彼は撤退した。...」
一週間後、分隊長は次のように書いている:「髪が抜け始めた。ジャーデンも気が付いた。そして彼も髪が抜け始めていた。分隊全員が、それどころか連隊全員がハゲになってしまうのではないかと恐れた。...」
「多くの馬が重病になり、獣医たちを困惑させた。獣医たちは医師たちと同様に、モスクワの空気に混じった瘴気のせいだと主張している....」
「最終的にモスクワ撤退の決定がなされた。我々は何も達成することなく撤退する。病気になり、衰弱し、力を失って撤退する。フランスにいる家族に会えるという希望だけが勇気となった。そうでなければ、我々は大地に横たわり死んでいくだけだっただろう。我々の状態はとても悪い。...」
撤退についての記述は重く悲惨である:アルトワの分隊では、日々死人が出ていたが、それは戦闘によるものではない。戦うことすらできなかった。謎の病気による衰弱と疲労によるものだった。なんとか手に入れた、わずかな食料も、役立てられなかった。彼らは消化できなかったのだ。兵士たちは膿疱と潰瘍にやられていた。人も馬も死んでいった。モスクワに入らなかった部隊はロシア人と戦っていたが、隊列は崩れており、ロシア軍は日に日に強くなっていた。
ナポレオン軍の大半はロシアの広大さに敗れた。シャルル・アルトワは運がよかった。強い精神が衰弱した身体を支えた。その病気で彼は身体障害者になった。そのため、フランスに帰国すると彼はすぐに除隊となった。しがし、長くは生きられず、子をなすことなく32歳で死亡した。
この邸宅の新たな所有者(とりわけ物理と数学の意欲のある)は、1812年にモスクワを占領した軍が核空爆を受けたことを示唆する記述を読んで、専門家に相談した。熱線が火災を起こし、貫通放射線で放射線障害が起きて、軍は壊滅した。
しかし、どうやって過去に、核爆弾ができたのか? 第1に、爆弾でなくても、反物質や落下した隕石でも爆発は起きるだろう。そのようなことが起きる理論的可能性は無視できほど小さいが、ゼロではない。第2は、ロシア政府の要請により、ロシアの地下に存在する謎の文明「偉大な古代」による攻撃がもたらされた可能性である。この仮説は、戦闘で勝利後に一時的にモスクワを離れるというクトゥーゾフの決定と、その時にモスクワ市民の前例のない大量避難ということから、支持される。政府は敵の死と引き換えに建物を犠牲にする決定をした。最後の、そして最も可能性が高いが、同時に最も恐ろしい仮説は、はるか未来の、はるかに強力な核爆発の調波が1812年のモスクワに到達したというものである。制御不能の核反応による放出エネルギーの一部が、過去と未来に移動するという理論がある。未来から核爆発のエコーがナポレオン軍に到達した。爆発の時に石造の建物にいたフランス皇帝は比較的少量の放射線被曝をし、セントヘレナでのみ影響を及ぼした。...
[ Щепетнев Василий Павлович: "Москва, 1812 г." (Из книги "Певчие Ада") ]

[Adolph Norhten: Napoleon's Retreat from Russia ]
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