冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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ベロヴォージエへの旅案内


ベロヴォージエは、ロシア東部の古儀式派の伝説に登場する伝説上の国であり、「古正教会」(分裂以前、「ニコン以前」)の聖職者制度が完全に維持されており、反キリストは存在せず、存在することもできない。そのベロヴォージエが日本に存在するとして、「日本国(オポーニア)への旅案内」というような文書も流布した。

以下は現存する3つのバージョンの写本の訳:


  • 初版(北ロシア版)MP-1: P. I. メルニコフ=ペチェルスキー著「司祭職に関するエッセイ」の注釈として出版
旅人、すなわちオポン国への行程記
実際にその地を訪れたトポゼル修道院の修道士マルコによる記述。かの旅人自身の語り。

旅程、すなわち旅人の道筋: モスクワよりカザンへ、カザンよりエカテリンブルクを経てチュメニ、カメノゴルスク、ヴィベルヌム村、イズベンスクへ。そこよりカトゥニ川を上り、クラスノヤルスクを通ってウスチュバ村へ。その村にて、宿の主ペトル・キリーロフに訪ねるべし。
この付近には数多の秘密の洞窟があり、少し進むと雪を戴く山々が三百ヴェルスタ(約320km)にわたり連なり、その雪は決して融けることがない。その山々を越えたところにウムメンスカ村があり、そこには礼拝堂と、隠遁修道士イオシフがおられる。
そこから中華の国への通路があり、グバンを経て四十四日でオポン国へと至る。かの地の住人は、ベロヴォージエと呼ばれる大海の果ての領域に住まい、七十の島々に散らばって暮らしている。その中には五百ヴェルスタ(約530km)も離れた島もあり、小さき島々は数えきれぬほど存在する。
かの地の民の暮らしについては、古き信仰に従うキリストの模範者たる正教会の聖なる会衆により知られている。真実をもって証しする。なぜならば、我ら修道士三人、罪深き老マルコを含めて、まさにその地を訪れたからである。東方の地にて、我らは熱心に古の正教の敬虔なる司祭制を探し求め、神の助けによりこれを見出した。
アッシリア語を用いる教会が百七十九あり、正教のアンティオキア総主教の任命による総主教を戴き、四人の府主教がいる。また、ロシア語を用いる教会が四十ほど存在し、こちらもアッシリアの任命による府主教と司教を有している。ローマの異端者による迫害から逃れた人々が、北極海を船で、または陸路を通ってこの地に辿り着いた。神はこの地を満たしておられる。
疑いを抱く者には、神を証人として示そう。キリストの再臨まで、この地では血を流さぬ聖なる犠牲(聖体礼儀)が捧げられ続けるであろう。
ロシアから訪れし者は、まず三度の浸礼により完全なる洗礼を受けることになる。そして永住を望む者は受け入れられる。共に旅した二人の修道士は、永遠にそこにとどまる決意をし、聖なる洗礼を受けた。彼らはこう語る――「汝らはすべて、反キリストの異端により穢されてしまった。『この不敬なる人々の中から出でよ、彼らに触れるな』と記されているではないか。龍が女を追いかけるも、地の裂け目に隠れし女に及ぶことはできぬ」と。
この地には、盗みや強盗、その他法に背く行為は存在せず、俗世の裁判所もない。民を治めるのは霊的な権威のみである。木々は他のどの地の木々にも劣らぬほどに高く育ち、冬には大地の裂け目を伴うほどの異様な寒気が訪れる。雷と地震もまた珍しくない。地の果実は豊かで、葡萄やソロチンスクの粟も実る。

『スウェーデン人の旅行記』によれば、かの地には金銀に数限りなく、宝石や貴石も豊富に存在するという。だが、オポンの人々はその国に他国の者を入れず、いかなる戦争にも関わることはない。彼らの地は遥かに隔てられている。
中国には驚くべき都市があり、陽の下にそれに匹敵するものは他にないという。彼らの最初の都は「カバン」と呼ばれる。
  • 初版(北ロシア版)IRLI-1: ロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所(プーシキン・ハウス)。古代遺物収蔵庫。ウスチ=ツィレムスコエ・ソブル、第70号。1882年コレクション、第8部、156〜161頁。
ケルジェネツからの旅の物語 7382年(1874年

これは、7382年にポニ王国へ旅をした際の道中を、現地で見聞した修道士、トポゼルスカヤ修道院のマルコ修道士が語った記録である。
この旅はモスクワから始まり、カザンを経て、エカテリンブルク、チュメニ、バルナウル、ベイスクへと至る。そこからカトゥニ川を上り、クラスノクート、さらにウスチューバ村へ向かう。ここでは、旅人をもてなすピョートル・キリーロフという者に道を尋ねるべし。
この村の周辺には多数の洞窟があり、隠者たちが暮らしている。また、近隣には雪山が広がっており、三百ヴェルスタ(約320キロ)にもわたって雪が融けることなく残っている。これらの山々を越えるとウマイスカ村がある。そこには小さな礼拝堂があり、スキーマ修道士のイオシフが暮らしている。彼のもとから中国の国への通路があり、そこを進むこと四十四日で、ブーラト川を渡り、さらに進めば日本国に至る。
その地では、海の果てに「ベロヴォージエ(白水の地)」と呼ばれる諸島があり、七十の島々が五百ヴェルスタにわたり連なっている。小さな島々は数えきれず、その間には大きな山々がそびえる。この地には古き敬虔の道を守る人々が住まい、正統信仰を有する使徒継承の聖なる公同教会が存在する。私、マルコは二人の修道士とともにこれを直接目にし、彼らと日々を共にした。
私たちは、救いのために必要な古き正教の祭祀を熱心に探し求め、神の助けにより、シリア語を用いる古き正教の教会170を見出した。これらはアンティオキア総主教の任命を受けたもので、四人の府主教を有する。スラヴ語を用いるロシア正教会もまた40あり、同様に府主教とアッシリア教会による司教を有している。
これらベロヴォージエの島々に暮らす民は、ローマの西方異端者たちの迫害から逃れ、古き祭式を守り続けている。また、ロシアでは、モスクワ総主教ニコンによる典礼改革の際、多くの信者がソロヴェツキー修道院などを逃れて北極海を渡り、船や陸路によりこの地へ辿り着いた。
この私の証言を、古き信仰を愛する皆に信じていただきたい。私が語るのは、まことに神の前において誓ってのことである。主の御言葉に従い、キリストの体と血が再臨の日まで捧げられるこの地において、ロシアから来る者はまず三度の全浸による洗礼を受け、生涯そこに留まる者のみが受け入れられる。共に旅した二人の修道士もまたこの地に残り、聖なる洗礼を受けた。
この地の人々と聖職者たちは言う。「我らは皆、獰猛なる獣たる反キリストにより汚された」と。そして聖書には「不敬虔なる者らの中から出でよ、彼らに触れるな」と記されている。また、女を追う蛇、すなわち迫害の手から逃れた者らは地の裂け目に隠れ、追跡から逃れた。
この地では盗みも災厄もなく、世俗の裁判も存在しない。人々は霊的な権威によって治められている。そこでは、山と同じ高さに達する木々がそびえ、冬は異常な寒さと地の裂け目が現れ、夏には恐ろしい雷鳴が地を揺るがす。地は豊かに実り、葡萄やソロチンカ粟など、数多の甘美な果実が育つ。金や銀、宝石、真珠も極めて豊富であり、数知れず、思慮では計り知れない。
このような理由から、日本人たちは自らの地に他者を入れず、また他国との戦争も行わない。その地は他の国々から遠く隔たっているためである。そしてその地には「スキタイ」という名の都市があり、天下に比するものなきほど驚くべき町である。その他にも多くの人々の住むに適した町が点在している。
最後に記しておきたい。旅人の語るには、この「ベロヴォージエ」の地に辿り着けるのは、すべてを捨て、後戻りをしないという熱き願いと覚悟を持つ者のみである。主はそのような者をまことに導いてくださる。アーメン。
  • 初版(北ロシア版)IRLI-2: ロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所(プーシキン・ハウス)。古代遺物収蔵庫。ウスチ=ツィレムスコエ・ソブル、第71号。19世紀後半〜20世紀初頭コレクション、第8部、12〜19頁(改訂)。
(巻頭の紙葉は逸失)

モスクワよりカザンへ、カザンよりエカテリンブルクを経てチュメニ、さらにバルナウルを通りて、カトゥニ川を上りてベイスク村へ至り、さらにクラスノクート村のウスチュブ村に赴くべし。かの地にては、旅人宿の主ペトル・キリーロフを尋ね問うべし。
その近辺には数多の隠者の洞窟あり、やや遠き所に雪を戴く山々連なりて、三百ヴェルスタ(約320km)に及ぶ。これらの山には雪解けることなく、永く白きを保てり。かの山を越えし先にはウマイスカ村あり。村内には礼拝堂ありて、隠遁者ヨシフ修道士そこに住す。さらに彼らのもとより進めば、中華国に通ずる道あり。四十四日を要すが、ブラン川を渡りて、さらに日本国に至る。
その地の人々は、海原の果てに「ベロヴォージエ(白き水の地)」と称する境域を持てり。そこには島々七十余りあり、中には五百ヴェルスタ(約530km)の隔たりを有する島もあり、小島の数を数うるは不可能なり。その島々の間には、高峻なる山々もあり。
かの地に住む人々の在り様は、古き信仰を篤く守りし者たちの伝へにより知れり。彼らは正教会の聖なる公同(カトリック)かつ使徒継承の教義を保ち、真の信仰を堅持す。われ、身の不相応なる老マルコと名乗る者、二人の修道士とともに実際にその地を訪れたり。
われらは、東方の地にて、魂の救いにとりて必要なる、正教聖職者の古き信心を尋ね求めしなり。そして神の助けにより、シリア語を用いる教会百七十を発見せり。その教会はアンティオキア総主教の任命を受け、四人の府主教を擁す。また、ロシア語(スラヴ語)を用いる教会も四十ほどあり、アッシリアの主教の任命による府主教と司教を持てり。
ローマ異端者の迫害を逃れ、数多の民がこれら東方の地に移り住めり。また、ロシアにて信仰の変化が起こりし折、多くの者がソロヴェツキー修道院および他の地より離反し、氷海を船にて渡り、あるいは陸路を行きて、かの地を満たせり。もし疑いを抱く者あらば、神を証人とす。我らの見し所、そこにはキリストの再臨の時まで聖なる供犠が捧げられており。
ロシアより訪れる者たちは、最初に正しき礼にて迎えらる。洗礼は三度の全身水中潜没を以て完全に行われ、願いあれば終生そこに留まることも許さる。我と共にありし二人の修道士もまた、かの地に永住を望み、洗礼を受けたり。
彼らの言葉に曰く:「汝ら皆、反キリストの大なる獣らにて穢れたり。されば書に曰く『悪しき者どもより離れ、彼らに触るなかれ。また、女を追いし竜(サタン)に触るな』。されど竜は女を捉え得ず、女は地の裂け目に隠れたり」と。
かの地には盗賊もなく、盗みもなし、俗世の裁判も存在せず、人民の統治はすべて霊的権威に委ねらる。そこに立つ樹木は、最も高き山と並ぶほどに大きく、冬には尋常ならぬ厳寒あり、大地は裂け、雷鳴と地震と共に轟く。
地の果実は豊かに実り、葡萄や「スラチン」なる粟も育ちたり。旅人の記すところによれば、かの地には金銀数えきれず、宝珠や貴石また無量なり。
しかしながら、彼の「アポン人」たちは、外よりの者を自国に入れず、また戦争もなし。かの国は遠く隔たれり。
スキタイは驚くべき都なり。そのごとき都市、日の下に並ぶものなし。旅人はその地に至りしことを記して、筆を擱く。終わり。
  • 初版(北ロシア版)IRLI-3: ロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所(プーシキン・ハウス)。上ペチョラ・コレクション、第61号。19世紀最後の四半期のコレクション、第8部、p.1〜5改訂。
キルジェネツ7382年より旅路は始まる

これは実際にポン国を訪れた、トポオゼルの隠者修道院の修道士による見聞であり、彼自身の巡礼の記録である。
旅の道筋は以下の通りである:モスクワよりカザンへ、カザンよりエカテリンブルク、さらにチュメニ、バルナウルを経て、カトゥニ川を遡ってベイスク村、そこからクラスノクート、ウスチュブ村へと至る。このウスチュブにて、旅人は「客人宿(ストランノプリイミェッツ)」のピョートル・キリーロフを訪ねよ。
彼らの洞窟の近くには無数の隠された地があり、そのすぐ先には雪山が三百ヴェルスタ(約320キロ)にもわたり連なり、これらの山々の雪は決して融けることがない。
この山々を越えたところに、ウマイスカ村があり、そこには礼拝堂と修道士イオシフが住んでいる。さらにそこから中国国境までは徒歩で四十四日かかる。途中、ブラン川を越え、やがてアポン国(=日本)へと至る。

この地には「白水の地(ベロヴォージエ)」と呼ばれる、海の彼方の領域があり、その中には七十もの島々がある。中には小島から数百ヴェルスタ離れた大島もあり、すべてを数えることはできぬ。そしてその島々の間には、そびえ立つ大山がある。
この地に住む人々は、古き善き敬虔の道に生き、キリストに倣う者たちであり、正統なる公同使徒教会に属し、真の信仰を保っている。なぜなら、かく言う我もまたそこに至りし、罪深き老修道士マルコなればなり。

われらは東方の地において、大いなる願いと努力をもって、正教の古き敬虔さを求めた。それは魂の救いにとって極めて重要なものである。神の御助けにより、シリア語を用いる170の教会を見いだし、彼らはアンティオキア総主教の任命による一人の総主教と四人の府主教を擁していた。また、ロシア・スラヴ語を話す者たちも四十の教会を持ち、彼らもまたアッシリアより任命された府主教と司教を戴いていた。

ローマ異端者たちの迫害を避け、多くの民がこの東方へと逃れた。ロシア人たちもまた、敬虔が破壊された時代に、ソロヴェツキー修道院などから逃れ、多くは氷海を船で、または陸路でこの地を目指した。そしてその地は満ち溢れるに至った。

もし疑いを抱く者あらば、神を証人とせん。この地では、キリストの再臨まで絶えることなき聖なる供犠が捧げられている。ロシアからの来訪者は第一に受け入れられ、洗礼は正規の三度の全身浸水にて行われ、生涯その地にとどまることを望む者もいる。
わが同伴の二人の修道士も、そこで永住を決意し、聖なる洗礼を受けた。彼らはこう語った。「汝らは皆、反キリストの獣どもによって穢された。記されているとおり、悪しき者どもの中より出でよ、彼らに触れることなかれ。女を追う蛇もまた彼女を捉えること叶わず、地は裂けて彼女を隠したるなり。」

この地では盗みも無く、世俗の裁きも存在しない。すべての人々は霊的権威のもとに治められている。
樹々は高く、山にも匹敵するほどである。冬には特異なる寒気が訪れ、大地は裂け、雷鳴と地震をともなう。
あらゆる地の実りは豊かであり、葡萄やサラチン小麦までも育つという。

この旅記の中には、彼らの地には金銀数知れず、宝玉と貴石もまた非常に多いと記されている。しかし、アポン国(=日本)の民は、その地に他者を容易に入れず、戦も…… (※最後の頁は逸失)
  • 初版(北ロシア版)IRLI-4. : ロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所(プーシキン・ハウス)。古代収蔵庫。選集、op.24、No.133。20世紀初頭のコレクション、第8部、p.7〜11。
旅の案内記

シュリフェル郡トナシール修道院の罪深き隠者が、実際に見聞した旅路、すなわち心に聖人たちの忍耐を倣いながら進むべき巡礼の道筋をここに記す。預言者イサヤが第40章にて言うごとく、「主を待ち望む者は力を新たにし、鷲のごとく翼を得て飛び、走れども疲れず、歩めども飢えず」と。
まずモスクワを発ち、カザン、エカテリンブルク、チュメニ、カメンスク、バルナウルを経て、カトゥール川を上り、イズベンカ村を通り、さらにクラスノヤルスクへ。そこから「イズバ(小屋)」に至り、そこで旅人宿のペトル・キリーロフに尋ねよ。その周囲には多くの隠れ里があり、すぐ近くには雪を頂く山々が連なり、三百ヴェルスタ(約320キロ)に及ぶ。雪は決して融けることがない。
その山々の向こうにウスタノフカという村があり、そこには礼拝堂がある。その礼拝堂には修道誓願を立てたヨシフという修士が住む。そこより中華の国を通る道があり、四十四日をかけてクバーニ川を越え、ついには日本の国へと至る。その地の住人は大洋の岸辺に暮らし、「ベロヴォンツィ(白香人)」と呼ばれる。彼らはアッシリア系の正教を保ち、独自の府主教と司教を戴いている。
反キリストの迫害を避けて、多くの民が氷海や陸路をもってこの地へ逃れた。神はその事業を成し遂げ給うた。われ、これを偽りなく神の御前に証言する。
聖なる書に曰く、「我らの救い主キリストの御体と御血は、再臨の時までこの地に顕される」と。ロシアより来る者を彼らはまず第一に受け入れ、三度の浸礼をもって完全に洗礼を施す。望む者は終生そこに住まうことができる。かくて我と同行した二人の修道士も、この地に永住することを誓った。
彼らは来訪者にこう語る──「汝らはすでに多くの反キリストの異端により汚されておる。聖書に曰く、『不敬虔なる者の中より出で、これに触れるなかれ』と。また、『蛇が女を追いしが、その女には翼が与えられ、荒野に飛び去りたり』と」。
この地の住人は四百ヴェルスタに渡る諸島に散在し、小島は数えきれぬほどある。島々の間には高き山々がそびえ、その民はそこに住まう。我ら、キリストに倣いて古の信仰を慕う者に告ぐ──ここには聖なる公会と使徒伝来の教会が存する。我ら三人、すなわち我が身の不相応なる修道士マルコと二人の僧は実際にこの地に至った。
東方の地において、真なる正教の古き敬虔さを探し求め、神の助けを得て、アッシリア語を用いるその地に七十の教会を見出せり。彼らはアンティオキアの系譜を継ぐ総主教を戴き、かつての離反以前に二人の府主教、四十の教会を有していた。
この地は人の知では計り知れぬ奥深き地の裂け目に隠されており、いかなる国とも戦いを交えず、盗みも争いも無く、世俗の法廷も存在せず、すべて霊的裁きによって治められている。
そこには様々な樹木が生い茂り、高き山々が連なる。季節により、特異なる霜や雷鳴が地を揺るがし、恐ろしき雷光と地震がある。されど地の果実は豊かに実り、「ソロチンスクの粟」までもが育つ。
また、シュツク旅記にはこう記されている──彼らの地には金銀、宝石、真珠が数知れず存在し、彼らは他国の者を一切その地に入れぬ、と。
  • 初版(北ロシア版)Tikh.-1: ロシア科学アカデミーシベリア支部国立公共科学技術図書館。 M. N. ティホミロフ・コレクション、第185号。1882年コレクション、第8、2〜6頁。
旅人記

真に神の力を帯びし修道僧マルコなる者にして、道中の行程をここに記す。はじめにカザンの都へと赴き、カザンよりエカテリンブルクへ、さらにチュメニ、ベルナウム、カメネスク、そしてイズベンスクという村へ至るべし。そこよりカトゥリ川を遡り、クラスノブルフに至る。この地にては、客人を迎える老僧ピョートル・キリーロフを訪ねられよ。彼の者の近くには、多くの秘密の洞窟あり。
その地より程遠からぬ場所に、三百ヴェルスタ(約320km)にも及ぶ雪山連なりて、その雪は四季を通じて融けることなし。かの山々を越えたる所に「ウモンカ」と呼ばるる村あり。そこには小祠と、厳格なる修道者イオシフがおられん。彼の導きにより、グバンを通りて四十四日をかけて、中華の国に至る道あり。そこよりさらに「オポンスク国」なる地へと至る。
そこに住まう者どもは、「白き水の国(ベロヴォージエ)」と称される海辺の地に暮らし、エミディア族の島々に散在す。諸島の広さは五百ヴェルスタに及び、その数は計ること能わず。島々の間には「シルの山々」と呼ばるる山脈あり。
その地における民は、古の敬虔さを守りしキリストに倣う者どもなりて、聖なる公同の使徒的教会を崇敬せり。かく語るは、拙僧マルコが、他の修道士二人とともに、実際にそこを訪れしがゆえなり。
東方の地において、我らが熱心と尽力をもって正教の聖職と信仰を探し求めしに、神の助けを受けて、シリア語典礼にて行われる七十の教会を見出せり。そこにはアンティオキア正教の定めによる総主教と四人の府主教あり。また、ロシアより移りし者らも四十の教会を設け、アッシリアの伝統に従いて府主教および主教を戴けり。ロシアの異端者による迫害を逃れて、数多の民ここに集いぬ。
これら東方の民および一部のロシア人は、敬虔の変容の時に、ソロヴェツキー修道院を離れ、また他の地々より船に乗りて来たり。神、かの地を満たし給う。信じ難き者あるとも、われらが証として、再臨の時まで神を証人とす。訪れし者は皆、正しい儀式により受け入れられ、三度の全身浸水にて完全なる洗礼を施され、終生その地に留まらんと誓いを立つ。かくありし我と同行の修道僧二人も、永住を望み、聖なる洗礼を受けぬ。
そして彼ら曰く、「汝らすべて、反キリストのさまざまな異端にて汚されぬ。書に曰く、『汝ら不義の者どもの中より出でよ。蛇の触るることなかれ。』追いすがる蛇に逃げる女ありて、大地の裂け目にて姿を隠すがごとし。」
かの地にては盗賊も窃盗もなく、世俗の裁きの機関も存在せず。民を治むるは、霊的な権威によりてなされる。草は良き薬効を持ち、冬の間には大地の裂け目に響く雷鳴と地震までもが見らるる。
豊かな土地には葡萄も実り、ソロチンスクの粟も育つ。遊行僧の書に曰く、「我らが地には金銀尽きることなく、宝石と真珠の数も多し。」されど、これら住民は外からの者を地に入れず、いかなる国とも戦いをせぬ。
彼らの地の光輝は驚くべきもので、日の下にてそのような地は他になし。首都なる町の名は「カバン」と申す。
キリスト者、ビリュチェフ郷パチョスカヤ村の住人、エフレム・レオンチエフ・ブィルィギン筆記。1882年7月7日。ブィルィギン。
  • 初版(北ロシア版)Perm-1: E. M. スモルグノヴァ著『古儀式派の出エジプト 過去と現在:世俗を離れ、約束の地を求めて//教会史:研究と教育』。キリスト教二千年祭記念学術会議議事録。1999年11月22〜25日。エカテリンブルク、1999年。217〜218頁。1978年、ペルミ地方イユルスコエ村における考古学調査中に発見。
旅人

旅人にして、自らの目で見た証人、トポゼルスキイ修道院の修道士マルコは、アポン国を訪れ、その旅路を記した。旅路、すなわち巡礼の道は、モスクワからカザンへ、カザンからエカテリンブルクを経て、チュメニ、バルナウル、そしてイズベンスク村へと至る。カトゥニ川を上り、クラスノクールスクからウスチュブ村へ向かう。その地にて、旅人ペトルとキリルを尋ねるとよい。彼らの洞窟のまわりには、数多くの秘められたものがある。
そこからさほど遠からぬ地に、雪山が広がること三百ヴェルスタ(約320km)、その山々では決して雪が融けることはない。これらの山々の向こうには、ウンモイカ村があり、そこには小さな礼拝堂がある。その礼拝堂には修道士イオシフが住んでおり、彼らの地からは中国国への通路があり、四十四日を要する道のりである。クバン川を渡り、そこからアポン国へと至る。
この地の住人たちは、海の大洋に接する地、すなわち「ベロヴォージエ(白き水の地)」と呼ばれる境域に居を構えている。そこには七十の島々があり、そのいくつかは五百ヴェルスタもの間隔で離れており、小島は数えきれないほど存在する。これらの島々のあいだには、高き山々がそびえ立つ。
この地に住む人々について、かの地にて我が身をもって見聞したことを、古き信仰に倣うキリストの模倣者として、正教の全地公同(カトリック)かつ使徒的なる教会に証しする。我が名は不肖の老修道士マルコ、かの地には他の修道士二名とともに赴いた。
東方の地において、我らは大いなる好奇心と熱心さをもって、古き正教信仰の聖職を探し求めた。これは救いのために非常に重要なものである。神の助けにより、アッシリア語を用いる教会を百七十見出した。彼らはアンティオキアの正教の総主教の任命による者を有し、四人の大主教を抱えている。ロシア語を用いる教会も四十に及び、こちらも大主教と主教の任命を受けている。ローマの異端者たちの迫害から逃れて、多くの民がこの東方の地へと移住した。ロシアからも、信仰の改変の時代にあたり、多くの人々がソロヴェツキー修道院やその他の地を離れ、北極海を船で、あるいは陸路で向かった。
この地は神の恩寵に満ちており、もし疑う者があるならば、神をして我らの証人としよう。この地は、キリストの再臨の日まで存在し続けるだろう。われらの神は天にも地にもおられ、望むところすべてを成し遂げたまう。主よ、我が探求の途上に現れ、我を汝の牧場へと導きたまえ。
この地では、ロシアから来る者を特別な儀礼をもって迎える。終生この地に留まることを望む者は、三度の全身浸水による完全な洗礼を受ける。私と共にいた二人の修道士もその地にとどまり、聖なる洗礼を受けた。
かの人々は語る。「汝らは大いなる、かつさまざまなる反キリストの異端に汚された。『悪しき者の中より出でよ、彼らに触れるな』と記されている。女を追う蛇には彼女を捕えることができず、女は大地の裂け目に隠れた」と。
この地には、盗みや窃盗など、法に背くことは存在せず、世俗の裁判もない。すべての民を治めるのは霊的権威である。木々はそびえ立ち、高き山々に匹敵し、冬には異様な寒気が訪れる。大地には裂け目が生じ、雷と共に大地震が起こることもある。にもかかわらず、地の果実は豊かに実り、葡萄やソロチンスクの粟が育つ。スウェーデンの旅行者は、彼らの地に金や銀、貴石があると記している。
されど、かのアポンの民は、外の者を自らの地に入れず、いかなる戦も行わない。彼らの地は遠く隔たれり…


  • 第2版 RGIA-1] ロシア国立歴史文書館、f. 1284、op. 198、d. 59 (1840)、p. 2 rev. 発行者:V. F. ロバノフ。修道士ミハイルの『旅人』の新写本 // シベリアの史料研究と考古学。ノヴォシビルスク、1980年。pp. 208-211。
旅人より

聖地への道程と、聖なる父たちの修道院、総主教と府主教らがおわす地について。キリストの御言葉に曰く──「見よ、われ汝らと共にあり、この世の終わりまで」──との偽りなき約束による。キリル・エルサレムの証言にも、キリストの再臨のときまで純潔なる御手で供え物を捧げ続ける地があるとされる。
モスクワを発ち、カザン、エカテリンブルク、チュメニを経てカン(カンスク?)まで3058ヴェルスタ(約3260km)、さらにバルナウル、イベンまで行き、4654ヴェルスタ(約4960km)にてカトゥニ川を遡り、赤ヤール村、アイ村に至る。そこには小礼拝堂とウスチバ村があり、巡礼者はペトル・キリーロフという宿屋を訪ねよ。そこには多くの洞窟があり、洞窟の先には「雪の山」が300ヴェルスタ(約320km)にわたって広がる。その地ではアダムの時代から氷が融けることなく存在すると言われている。
その山の向こうにはジモンスコエ村があり、そこにも礼拝堂と修道院がある。修道院長はスキーマ修道士イオシフ。そこからは中国の地を経て40日間の道程、さらにクカニア(おそらく空想上の楽園)を4日間進めば、「アノニヤ王国」に至る。
彼らは海の湾、すなわち海の入り江に住まう。地の名は「ベロヴォージエ(白水の国)」といい、「ロプ湖」がある。その湖には70の島々が浮かび、島々は500ヴェルスタ(約530km)に及ぶ。その間には山々が連なる。
キリストに倣う人々の「大聖堂教会」がある。どうか正しき心で向かわれよ。偽りや媚びは不要である。そこには反キリストは存在し得ず、今後も現れぬ。
その地には深い森、高き山々、割れた岩山が広がり、そこに住まう人々はロシア人とは異なるが、盗みは一切ない。もしこれらの中国人がキリスト者であれば、一人として魂を失うことはなかっただろう。
キリストを愛する者たちよ、その信仰をもって、ヨハネ黙示録の言葉を信じよ──「女の後を追い、蛇が水を吐くも、大地が女を助け、女には二つの翼が与えられ、荒れ野へと飛び立つ。時と時の時、そして半時のあいだ。」
タイタン(獣、または反キリスト)は42ヶ月のあいだ現れる。これは明らかにされていることであり、異端者たちがどう解釈しようとも、キリストに反することだ。アッシリア人たちは教皇の迫害により500年前に故郷を離れ、二人の長老が彼らの居場所を探した。アッシリア教会は百を数え、その中にアンティオキアの総主教と四人の府主教がいる。彼らはすべて、使徒たちから続く霊的な存在である。その信仰は確かなものであり、壊れることなく守られている。
ロシアの地にも教会は40あり、四人の府主教がいる。彼らはシリアの総主教より聖別され、ニコン総主教の時代に本拠地から離れた。彼らの来歴は、ゾシマとサヴァティによるもので、船でリトアニアの海を越えてきた。同様にゾシマとサヴァティの修道院からも使者が遣わされている。
この記録は、私自身がそこに赴いた証であり、ここに記すものである。アーメン。
多くの罪を負いし修道士ミハイル、己の手にて記す。
  • 第2版 GIM; 国立歴史博物館。博物館所蔵、No. 1561。コレクション、4
キリストの御言葉に従いて――「見よ、我は世の終わりまで汝らと共にあり」と、偽りなく宣べ給いしその言葉のもとに、聖なる地を巡り、聖父たちの修道院、総主教や府主教らの跡を訪ねる巡礼の旅。キリル・エルサレムの証によりて、この世の終わりまで、キリストの来臨に至るまで、清き御手によりて活ける供え物が捧げられること疑いなし。

巡礼路の記。モスクワより出でて、カザン、エカテリンブルク、トゥーメニ、カム川のカバルナウル、そして天の高嶺を目指して、コトゥニ川に沿いてクラスノダールへ。
その地に「アイ」という村あり。ここには礼拝堂があり、「ユスチュバ」という川辺の村に至る。そこウスチュバにては、旅人を迎えるペトル・キリーロフを訪ねよ。
そこには多くの洞窟があり、そこから「雪の山」が300ヴェルスタ(約320km)にわたって連なり、アダムの時より氷が姿をとどめて融けることなく残る。
その山を越えると、「ディモンスカ」という村があり、村には礼拝堂と修道院がある。そこの長は、隠修士スキーマ修道士イオシフなり。
その修道院より道があり、休みを入れて40日の旅をもって中国の地を越え、さらに4日で「クカニヤ」を経て、日本の王国に至る。

彼らは海の入江に住まい、「ベロヴォージエ」と呼ばれる地に在す。湖が多く、七十の島が散在する。島々はそれぞれ600ヴェルスタ(約640km)にも及び、島の間には山々が連なる。

キリストに倣う者たち、正教会の信仰者よ、偽りなき心をもってこの地を目指せ。
そこには反キリストは入り得ず、今後も現れることなし。そこには深き森、高き山、石の裂け目があり、ロシアの民とは異なる人々が住み、盗みなどというものは決してない。もしそこにキリスト者あらば、ただの一魂も滅びることなし。
我を信じよ、キリストを愛する者たちよ。聖なる使徒ヨハネの言葉を信ぜよ――「竜が女を追いて水を吐きしも、水は分かれて地はこれを飲み込み、神は女を助け、二つの翼を与えて荒野に飛ばし、時と時々と半時(すなわち42ヶ月)を養い給う」と。
異端者らはこの地を支配せんと欲し、種々に解釈せんとすれども、これキリストに相反す。

アッシリアのキリスト教徒たち:彼らはローマ教皇によって迫害され、五百年の昔、故郷の地を離れ、二人の老者が新たな地を探し求めたり。
アッシリアの聖正教会は百の教会を有し、アンティオキアの総主教、四人の府主教、その他すべての霊的な者たちが不変にして堅固にその信を守りおり。
ロシアの正教会に属する四十の教会と四人の府主教もまた、アッシリアの総主教より派遣されし者たちにより、ニコン総主教の時代より故地を離れたり。
彼らの通った道は、ゾシマとサヴァティイのソロヴェツキーの修道士らが、氷海を船で渡りしと同じなり。
かくのごときこと、ゾシマとサヴァティイの奇跡を記した修道院より記されし書により知る。

そして、この記録は、我が身をもってその地に至りし者により書かれたり。
名は、多くの罪を背負える修道士ミハイルなり。アーメン。
  • 第2版 Shch: A. P. シャポフ。『ゼムストヴォと分裂 // ヴレミヤ』、1862年。第11号。pp. 277-278。転載:L. N. トレフォレフ。『放浪者』。『分裂史のエピソード // ヤロスラヴリ州統計委員会の著作』。ヤロスラヴリ、1866年。発行。 1. 211ページ。
エカチェリンブルク、トムスク、バルナウルを経て、カトゥルネ川を遡り、赤いヤール(Красной Яр)へ至る。その先にアカ村あり。ここには小さな礼拝堂とウストバ村がある。ウストバにては、旅人をもてなすペトル・キリーロフに問うべし。「ファテラ(隠棲所)」へ入ることを許されよ。此処には他にも多くのファテラあり。
やがて「雪の山々(スネゴヴィヤ・ゴーリ)」に至る――この山々は三百ヴェルスタ(約320km)にも及び、天地創造のアダムの時よりそのままに在りしという。その山を越えれば、「ダマスカの村」あり。そこにも礼拝堂があり、隠修士(スキミニク)にして修道者イオアンが住す。
この修道所より、休みをとりつつ四十日かけて「キジスカの地」を通り、さらに四日で「タタニヤ」に至る。そこに「セオンの王国」あり。人々は「海の湾(グバ)」に住み、大海に面す。その地は「ベーロヴォジエ(白き水の地)」と呼ばれ、「ロヴェ湖」があり、湖上には百の島が浮かぶ。その一島は非常に大きく、そこには山々が聳え、その山々には、キリストに従い、正教会の信仰を守る者たちが住みおり、彼らはまさに「キリストの模範者」である。

ここに、正教を愛する者に呼びかける―― 我ら、いかなる偽りもなく、ただ真っ直ぐに、すべての正教徒に伝えん。キリストの御足跡を辿ることを望む者よ、この道を進まれよ。かの地には反キリストはおらず、また来ることもない。そこには深き森、高き山、岩の裂け目あり。しかしながら、そこに住まう民は清らかにして、いかなる野蛮の痕跡もなし。もしすべての中国人がキリスト者であったならば、一人として魂の滅びる者はなかったであろう…

キリストを愛する者たちよ、この道を進み給え!
ある時、封建主より追われた人々は、己が地を離れて五百年を経たり。二人の老修道士が彼らのために住むべき地を探し出でた。彼らは「シリア教会(またはアッシリア教会)」に属し、まことのキリスト教徒なり。彼らの元にはロシア教会四十四があり、彼らの首座主教たる「ミトロポリト(大主教)」は、シリアの総主教より叙任された者たちである。彼らは、ニコン総主教による新歴改革の数えから離れ、「ゾシマ」と「サヴヴァティ」、すなわち聖なるソロヴェツキの奇跡者たちよりの伝来を受けたり。
この記録を書きし者は、自らかの地に在りし者なり。多くの罪ある身なれども、修道士ミハイル、己が手にて、キリストと兄弟たちの名において、これを記せり。

  • 第3版(シベリア語)BD. N. ベリコフ著『トムスク分裂(1834年から1880年代までの歴史論文)』トムスク、1901年。143ページ。— 別冊:『帝国トムスク大学紀要』トムスク、1900年。第16巻。1〜48ページ(別ページ)、1901年。第18巻。49〜248ページ(別ページ)。D. N. ベリコフによれば、このリストはオレンブルク州、ウファ郡ラグジン、およびトムスク州アルタイ郷ボブキンの農民から、軍曹モキエフによって選定された。 20世紀初頭、このリストはトムスク州文書館(St. 217、56ページ)の「ベロヴォディエへの農民逃亡計画事件」に収蔵されていた。
慈悲深き御方々、キリストにおいて愛しき兄弟たちへ
ベロヴォージエ(白き水の国)へ赴かんとする者は、まずビイスクの町まで旅をし、その後、スモレンスカヤ郷を経てウスチュバ村へ至るべし。そこには旅人を受け入れるペトル・モシャロフという者がおり、彼が石と雪に覆われた山々を越える道を示してくれる。
この先にはウイモンという村があり、そこには隠遁者にしてスキーマ僧のイオサフが住まう修道の庵がある。そこは、反キリストの手より身を隠すことのできる地であり、さらに先へと導いてくれる人々も住んでいる。しかしながら、その道は誠に困難である。
進まねばならぬ道は確かならぬもの。十二日間は海を渡り、さらに三日は飢えたる草原を歩む。そしてついには高き石の山へ至り、これを越えるのもまた至難の業なり。
ここより先の旅路はさらに不思議な時の流れの中にある。すべて合わせて二ヶ月半の道のりである。そこには人々が住まい、大きな村々があり、今もなお敬虔が保たれている。かの地には、ニコンという異端より逃れしキリスト者たちが生きており、川向こうの村には司教たちと司祭たちが住まい、彼らは皆、素足にて奉仕をなす。
その地には、教会が百四十もあり、できる限り、かの敬虔に至るよう努めよ。そして道を知る人々に頼み、祈りて導きを請うべし。努力せよ。この旅において神の助けあらんことを。
われ聞き、また見たり。そこに生きること、誠に善し。
この書を記せしは、旅の僧ミハイルなり。





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