ロシア右翼, ロシア史教科書
メトロポリ事件(1979)とは...
掲載された作品をひとつ取り上げておくと...
メトロポリ事件(1979)とは...
ソビエト連邦では、1953年にヨシフ・スターリンが死去すると、ほぼ直ちに変化が訪れた。彼の死は「春」の到来を思わせ、ソ連の市民はこれを「雪解け」と呼んだ。文学の世界では、スターリンの死により出版規制が緩和され、設立から20年を迎えていたソ連作家同盟も、ある程度自由を得ることができた。
しかし、この「雪解け」は長くは続かなかった。1960年代末になると、レオニード・ブレジネフ政権下で作家同盟は再びロシア文学に「社会主義リアリズム」の枠組みを強要するようになった。これは「労働者を社会主義精神で教育し、思想的に変革すること」を目的とした厳格な美学だった。そして10年も経たないうちに、「雪解け」の温もりは遠い記憶となってしまった。
しかし、ソ連は作家たちを完全に検閲したわけではなかった。実際、当時のソ連には公式には「検閲」という制度は存在しなかった。とはいえ、出版・放送・映画などのすべての作品は、党の官僚である「アパラチキ」による厳格な審査を受けた。これは、「一党独裁のイデオロギーを守りつつ、芸術家を国家権力に服従させる」ためのものであった。
この厳しい規制を回避するために、詩人や小説家、さらには音楽家たちは「イソップ風の言葉」を使い始めた。これは、政治的に敏感な要素を、イソップ寓話に登場するモチーフなどに置き換えることで、社会の腐敗や検閲を風刺的に表現する技法だった。こうした表現手法に熟達した作家たちは、検閲官との間にある種の「暗黙の了解」が生まれたと感じていた。彼らは、自らの限られた創作の自由をさらに危険にさらすことを恐れ、あからさまな表現を避けるようになった。こうして、作家たちは検閲を内面化し、それを創作過程の一部として受け入れてしまったのである。
このような環境の中で、1979年に起こった「メトロポリ事件」は、ソ連最後の大きな文学スキャンダルとして知られることとなった。
「メトロポリ」は、作家ヴァシリー・アクショーノフとヴィクトル・エロフェーエフが歯医者にいるときに思いついたとされる。そのため、「歯痛」がこの文学アルマナックの誕生のきっかけとなったとされるが、もしかするとこれは、ブレジネフ政権下の抑圧を象徴するものなのかもしれない。アクショーノフとエロフェーエフを含む23人の作家が、詩やエッセイ、短編小説を寄稿し、その総ページ数は760ページにも及んだ。この中には、アメリカの小説家ジョン・アップダイクや、ソ連全土で絶大な人気を誇りながらも、公式には詩を出版できず、レコード販売も許されなかった音楽家ウラジーミル・ヴィソツキーといった著名な人物も含まれていた。
20世紀初頭の革新的なロシア未来派の作家たちが独自の美学に縛られていたのとは異なり、『メトロポリ』に寄稿した作家たちは倫理的な原則によって結びついていた。それは、全体主義的な思考に反対し、それを乗り越えることへの誓いだった。彼らは熱心な「社会主義リアリズム」の信奉者ではなかったが、かといって完全な反体制派でもなかった。むしろ、彼らは政治的な「グレーゾーン」に身を置くことで、優れた作品を発表しながらも、同時に編集者たちが受け入れ難いと考えるような作品を生み出すことができる立場にあった。彼らの目的は、そうした作品を公にし、地上と地下の両方からロシア文学の豊かな多様性を紹介することだった。
『メトロポリ』の目的は、「ソ連文学により広範な美的アプローチを導入し、作家が『ソビエト的』か『反ソビエト的』かという二者択一を迫られることなく、公式な言説や要請、儀礼に縛られずに自由に表現できる場を作ること」だった。彼らが目指したのは、いかなる政治イデオロギーを支持することも拒否することもなく、純粋に書かれた文学だった。
要するに、彼らは単に自分たちの作品を印刷された形で世に出したかったのだ。
『メトロポリ』は、この問題に対する解決策のように思われた。アルマナックの編集者たちは作家同盟を迂回し、公式な出版ルートに未編集の原稿を提出する計画を立てた。そして、「一切の改変なしに出版すること」を条件に、各機関にその機会を与えたのである。しかし、予想通り、その申し出は拒絶された。その理由は、必ずしもアルマナックの内容そのものではなく、この出版の試みが抗議の形を取り、公式の儀礼を無視していたことにあった。
当然ながら、『メトロポリ』の作品を「下品で無価値、あるいは理解不能」とみなし、ロシア文学の倫理、人道的精神、そして社会的・道徳的価値を損なうものだと批判する声もあった。
それでもなお、『メトロポリ』の手作りコピーが12部だけ印刷された。それ以上を作れば、違法な書籍制作と見なされる可能性があった。これらの「グーテンベルク以前の写本…墓石ほどの大きさの」アルマナックは扱いづらく、隠すことは不可能だった。これは、秘密裏に複製されることを前提とした伝統的な反体制文学の概念を否定するものであった。そして同時に、権威への明確な反抗でもあった。さらに問題を深刻化させたのは、著者たちが©(著作権)マークを使用し、国際法上の出版権を主張したことである。この小さな記号は、ソ連の作家たちにとって特に重要だった。なぜなら、彼らは独自に作品を出版・販売することも、国外での出版許可を与えることも許されていなかったからだ。
しかし、アルマナックはすぐに国外の協力者たちへと渡された。アクショーノフは「かさばる本だったが、どうにか2部を国外へ持ち出すことに成功した」と書いている。その2部は、パリのエディシオン・ガリマールと、ミシガン州のカール・プロッファーが運営するアルディス・プレスに届けられた。アルディスが『メトロポリ』を出版した際には、誤植や手書き・タイプによる修正など、オリジナルの「違反」の痕跡をそのまま残したファクシミリ版も同時に発行された。これは、単なる文学作品としてではなく、物理的な「物」としての重要性を際立たせるためだった。ロシア語を理解しない外国の読者にとっては、このアルマナックの物質的な特徴――滲んだ活字や手書きの修正――そしてそれが引き起こしたスキャンダルの方が、そこに収められた物語や詩の内容よりも大きな意味を持っていたかもしれない。
オリジナル版と同様に、ファクシミリ版も必ずしも「読むため」に作られたわけではなく、「見る」「触れる」ためのものだった。最も重要なのは、その形状と物質性であった。ロシアの作家アレクセイ・ユルチャクは、「スターリン後の権威主義的な言説においては、内容よりも形式や儀礼が優先された。何を言うかよりも、どのように、どこで言うかが重要だった」と述べている。
『メトロポリ』が国外で出版された後、寄稿者たちはソ連当局から様々なレベルの処罰を受けた。短期間の処罰で済んだ者もいれば、1990年代のペレストロイカ(共産党の改革)まで影響を受け続けた者もいた。主導者・首謀者とされたヴァシリー・アクショーノフは、作家同盟からの除名を余儀なくされ、ソ連を離れ、最終的には国籍を剥奪された。
『メトロポリ事件』は国際的な小さな文学スキャンダルとなったが、かつて検閲と戦い、二元論に囚われない「第三の立場」を体現していたこの「亡命文学の層」は、アメリカではほとんど忘れ去られてしまった。
[ lyuba: "Banned! — Metropol: Literary Almanac" (2019/09/25) in Rare Books ]
掲載された作品をひとつ取り上げておくと...
1.「ヴォリューガ」
ある日、ガリブターエフは綿入りジャケットの内ポケットに半リットルのウォッカを忍ばせて家に帰ってきた。
今どきのウォッカや酒類の値段を考えれば、それだけで酒飲みの唇に苦い笑いが浮かぶものだ。ガリブターエフもそんな笑いを妻のマーシャに向けた。
「余計なこと言わないで。座って、ご飯にしましょ。」
「黙れ、ヴォリューガ。」
ガリブターエフは厳しく言い放ち、ウォッカをテーブルに置いた。しかし彼の顔には笑みがあった。
彼はジャケットとブーツを脱ぎ、足布をほどいて手を洗い始めた。
裸足になり、洗い終え、下着姿のままテーブルについた。キャベツスープの湯気が立ち昇り、グラスのウォッカが輝く瞳のように光っていた。
「やれやれ、ウォッカだ。」
ガリブターエフは一杯飲み干した。
マーシャも飲んだ。
「今なんて言った?『ヴォリューガ』? 何度言ったら分かるの、そんな呼び方しないでって。私は働く女よ。」
「分かってるさ。ガリブターエフは何でも知ってる。でも『ヴォリューガ』ってのは、お前を照らすためのものだ。分かるか?」
「分からないわ…。」
「分かった方がいいぞ。俺は照らされたものを見たいんだ。照らされてないものなんか見たくもないし、実際見えない。だからお前をヴォリューガと呼ぶんだ。分かったか?」
「ラミネート? それ何よ?」
「違う、ルミネートだ。光のことだ。」
マーシャはムッとした。
「分かったわよ。そんな話続けるなら、この家から叩き出してやるからね。そんな輝いた男なんていらないわ。」
彼女は残りの半分を一気に飲み干した。
ガリブターエフは考え込んだ。そして考えるべきことがあった。
問題は、自分の家がないことだ。マーシャは妻とはいえ、結婚証明書もない。ただの同居人だ。だから彼女が出て行けと言えば、それで終わりだった。
「まあまあ、怒るなって。」
ガリブターエフはなだめるように言った。
「絶対に追い出すからね。」
マーシャは言い切った。「子供たちが帰ってきたら、すぐにね。」
「うーん、子供たちか…。」
ガリブターエフは残りのウォッカを注ぎ、食事を続けた。
それが問題だった。マーシャには四人の子供がいた。しかし娘二人は除隊した兵士と結婚し、どこかへ行ってしまった。
残ったのはミーシュカという息子。こいつが厄介だった。
彼はガリブターエフと同じ工場で働いていて、いつも彼の行動を監視していた。汚い質問を浴びせたり、押しのけたり、新聞の音読をさせようとしたり。ガリブターエフがひどい近視で読み書きが苦手なのを知ってのことだ。
そして、末っ子のセルヨージャ。今はまだ少年団にいるが、やがて成長すれば、母親の評判を恥じるようになるに違いない。それがガリブターエフの愛と居場所にとって脅威となる。
食事の後、二人は気分が良くなり、マーシャのテレビをつけた。
「このアメリカのブルジョワ教授は、マルクス・レーニン主義の基本をまったく理解していない。」
講義が続く。
その後、コンサートがあり、映画『命を懸けた戦い』が流れた。
やがて放送は終わり、画面が暗くなった。
一日が終わった。夜が訪れた。そして明日になれば、また生活のために働かねばならなかった。
「怠け者どもをぶちのめしてやりたいね。」
ガリブターエフは伸びをしながら言った。
「え?」
マーシャは聞き取れなかった。彼女はベッドの準備をしていた。
「怠け者どもだって言ったんだよ。聞こえないのか?」
彼は叫び、外のポーチに出た。
月が輝き、納屋は暗闇に白く浮かび上がっていた。兵舎の灯りはほとんど消えていた。夜だった。
ガリブターエフは家に戻り、ベッドに入った。ベッドの中では彼が王だった。
「マーシャ、今夜は俺が無理やりやる感じでいこう。」
マーシャは興味を持った。
「どういう意味?」
「こうさ。お前は本気で抵抗するんだ。でも俺はお前を捕まえる。」
「いいわね。」
「そして俺は獣のように飛びかかった。」
ガリブターエフは語った。「服を引き裂き、彼女は暴れ、引っかき、叫んだ。だが俺は諦めなかった。しかし突然、彼女が俺を蹴飛ばした。俺はベッドから落ち、足を痛めた。」
「それで?」
「右足の親指を骨折したんだ。」
翌日、ガリブターエフは工場で事故として報告し、労災補償を受けた。
一ヶ月の休養期間。彼はマーシャと夢のような日々を過ごした。
だが、結局、彼女は彼を追い出した。
「私には子供がいるのよ。」
すべての持ち物を返され、彼は工場のガレージで寝泊まりすることになった。
「でも、あの時間は誰にも夢見られないほどだったよ。」
ガリブターエフは幸せそうに笑った。
笑い終えると、彼は再び話し始めた。
「一つ言っておこう。子供の頃から近眼のせいで不自由してた。『寄り目』なんて呼ばれてたよ。学校も二年生までしか行けなかった。勉強ができなかったんだ。本当は、もっと丁寧に教えてもらう必要があったんだ。特別な指導、放課後の補習、それに俺の気分に合わせた配慮。でも孤児院でそんなことできるわけがないだろ?」
「孤児院はそんなにひどかったの?」
「ひどい? そんなことない。今でも家族みたいに思ってるさ。俺のために、最高の眼科医フィラートフのところにまで連れて行ってくれたんだ。でも彼は言ったよ、『連れてくるのが遅すぎた』ってさ。挙げ句の果てには、孤児院の院長のコートについてた勲章を剥ぎ取ろうとしたんだぜ。」
「勲章?」
「さあな。何の勲章かなんて知らないさ。でも確かに院長のコートについてた。フィラートフはそれを剥がそうとしたんだ。『この子を台無しにした』って怒鳴ってたよ。でも孤児院の人たちを責めるのは違うだろ? 彼らは俺のことを思ってくれてたんだ。だからこそ、フィラートフのところまで連れて行ってくれたんだから。ただ、もっと早く連れて行くべきだったってだけの話さ。」
「だから俺は、光ってるものしか見えないんだ。光ってないものは見えない。光ってないものってのは、書かれた文字も、周りの景色も、全部だよ。」
「でも、光るもの——それが俺のヴォリューガだった。」
ガリブタイエフは、それ以上話したくなさそうだった。俺が質問を続けたら、ただからかうためだと思われるのがオチだった。
[ Аксенов, Василий Павлович: "Metropol : literary almanac", New York, N.Y. ; London : W.W. Norton & Company, 1982 ]


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