ロシア右翼
大祖国戦争や日露戦争ほどではないが、「モンゴルのルーシ侵攻」も、ロシアンタイムトラベル歴史改変SF・オルタナティブ・ヒストリーの舞台となっている。
この「モンゴルのルーシ侵攻」後、ロシア史では「タタールのくびき(1240-1480)の時代を迎える。派手な戦いの時代が終わると、周辺諸国との戦いやモンゴル勢力との戦いはあるものの、「歴史が動く」と言えるようなイベントは多くない。結果として、歴史改変SFは多くない。
その中では、「タタールのくびき」の終わりの始まりである3つの戦いが取り上げられることがある。
1つの例は...
そして、ロシア史上は「タタールのくびき」の終わりとされるのが...
既に1380年に趨勢が決して、そこから100年は事態が大きく変動したというわけではない。そのせいか、この時代にはタイムトラベラーは到来しないようである。
なお、タタールのくびき(1240キエフ公国滅亡〜1480独立回復)の期間の主要なロシア史上のイベントは以下の通り:
(wikipedia:Time line of Russian history, Хронология истории России))
大祖国戦争や日露戦争ほどではないが、「モンゴルのルーシ侵攻」も、ロシアンタイムトラベル歴史改変SF・オルタナティブ・ヒストリーの舞台となっている。
この「モンゴルのルーシ侵攻」後、ロシア史では「タタールのくびき(1240-1480)の時代を迎える。派手な戦いの時代が終わると、周辺諸国との戦いやモンゴル勢力との戦いはあるものの、「歴史が動く」と言えるようなイベントは多くない。結果として、歴史改変SFは多くない。
その中では、「タタールのくびき」の終わりの始まりである3つの戦いが取り上げられることがある。
| 1377/8/2 | ピャナ河の戦い | シバン・ウルスのアラブ=シャー・ハンと、イヴァン・ドミトリエヴィチ率いるヤロスラヴリ、ユーリエフ、ニジニ・ノヴゴロド、ムーロムらルーシ諸公国からなる連合軍との間で行われた戦い。戦闘前から泥酔していたルーシ諸公国軍はアラブ=シャーの小部隊にほぼ全滅させられ、イヴァン・ドミトリエヴィチは配下の兵とともに溺死した。 |
| 1378/8/11 | ヴォジャ河畔の戦い | モスクワ大公国とジョチ・ウルス(金帳汗国)との間で行われた戦い。この戦いにおいて史上初めてロシア人はモンゴル人(タタール人)に勝利を収め、1380年のクリコヴォの戦いとともにモンゴル人によるロシア支配の弱体化を象徴する事件と見なされている。 |
| 1380/9 | クリコヴォの戦い | モスクワ大公ドミートリー1世(ドミートリー・ドンスコイ)の率いるルーシ諸侯連合軍が、ジョチ・ウルスの事実上の支配者ママイの軍とそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦い。 |
1つの例は...
| Роман Злотников, Михаил Ремер | Спасти Москву |
| ロマン・ズロトニコフ, マイケル・レマー | モスクワを救え (2015) |
![]() | 過去を変えることは、多くの人が大切にしている夢である...しかし、それが現実になったら、それは悪夢に変わるのではないだろうか? 我々の現代人が 14 世紀のルーシにいたら、人生はどのようなものになるだろうか? ニコライ・セルゲーヴィッチは単なる教師であり、空挺部隊員でも軍人でもビジネスマン兼経営者でもない。彼はロシアに対する知識と愛情だけで歴史の流れを変えることができるのだろか? |
| Роман Злотников, Михаил Ремер | Тайны митрополита |
| ロマン・ズロトニコフ, マイケル・レマー | 帝都の秘密 (2015) |
![]() | 学校の歴史学者ニコライ・ブリツキー – 遠い昔。古代ルーシの世界で、武器も持たずに孤独に生きる我々の高齢の現代人は、言葉と行動でモンゴル軍の前に立ちはだかる準備ができている。14世紀に彼が考案した「工業化」を誰もが好んだわけではないが、ドミトリー・ドンスコイとラドネジのセルギイの後援を得たこの男には、はるかに多くのことを成し遂げる能力があった… |
| Роман Злотников, Михаил Ремер | Пушки и колокола |
| ロマン・ズロトニコフ, マイケル・レマー | 大砲と鐘(2016) |
![]() | 現代の普通の学校教師であったニコライ・ブリツキーは、14世紀にタイムスリップし、そこで産業革命を成功させた。そして同時に、モスクワ公国は近隣の有力な国々から望まない注目を集めた。これから全ルーシの大公となるのは誰だろうか?野心的なヴィトフト・ケイストトヴィッチ、陰険なヤギェッロ・オルゲルドヴィッチ、それとも結局、厳格なイワン・ドミトリエヴィッチ・ドンスコイだろしょうか?モスクワ公国の将来が危機に瀕している。ルーシは現代の技術の助けを借りて中世の侵略者に抵抗することができるだろうか? |
そして、ロシア史上は「タタールのくびき」の終わりとされるのが...
| 1480/10/8-1480/11/28 | ウグラ河畔の対峙 | ウグラ川のほとりで行われた、大オルダのアフマド・ハン軍とモスクワ大公国のイヴァン3世軍による対陣。アフマド・ハンがモスクワ軍を破ることを諦め、退却したことで終結した。この対陣を経てロシアとモンゴルの関係が劇的に変化したわけではないが、ながらくロシアに対して軍事的優位にあったモンゴル軍が正面衝突を避けて退却したことから、ロシアの歴史観ではタタール人(=モンゴル人)によるルーシ支配の終焉を象徴する事件と位置づけられている。 |
なお、タタールのくびき(1240キエフ公国滅亡〜1480独立回復)の期間の主要なロシア史上のイベントは以下の通り:
| 1223 | カルカ河畔の戦い: ルーシの戦士たちは、チンギス・ハーンのモンゴル軍と初めて遭遇。 |
| 1227 | ボヤールの陰謀により、ノヴゴロド公ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ(1176?-1228)は、義理の息子であるハンガリーのアンドラーシュ2世に譲位。 |
| 1236 | アレクサンドル・ネフスキーはノヴゴロド人から招致され、ノヴゴロド大公となり、軍事指導者として、スウェーデンとドイツの侵略者から北西部の領土を防衛。 |
| 1237/12 | モンゴルによるルーシ侵攻: バトゥ・ハーンはモスクワに火を放ち、民間人を虐殺して奴隷にした。 |
| 1238/1/1 | コロムナの戦い、バトゥ・ハーン(バトゥ)によるコロムナ市の破壊、ロマン王子、知事エレメイ・グレボヴィッチ、軍事指導者クルハン(チンギス・ハーンの末息子)の死。モンゴル人による北東ルーシの都市の荒廃。コゼリスク防衛のシチ川の戦いでウラジーミル・ユーリ・フセヴォロドヴィチ大公が敗北。 |
| 1239 | バトゥ・ハーンの軍隊がロシア南部の領土に侵攻。ペレヤスラヴリとチェルニゴフの破壊。 |
| 1240 | バトゥの軍隊がキエフを占領。 |
| 1240/7/15 | ネヴァ川の戦い: ノヴゴロド軍は、イジョラ川とネヴァ川の合流点でスウェーデンの侵攻軍を撃破。 |
| 1242/4/5 | 氷上の戦い: ノヴゴロド軍は凍結したペイプス湖面で侵略してきたドイツ騎士団を撃破。 |
| 1243 | バトゥ・カーンがジョチ・ウルス国を建国。 |
| 1252 | ネヴリュエフの軍隊、ウラジミールにおけるアレクサンドル・ネフスキーの偉大な統治の始まり。 |
| 1250年代後半 | モンゴル人が貢物を徴収するためにルーシの人口調査を実施。 |
| 1263/11/14 | ネフスキー死去。彼の属領は家族内で分割され、末息子のダニエルがモスクワ公となった。弟のヤロスラフ・フォン・トヴェリはトヴェリ大公およびウラジミール大公となり、ダニエルが未成年の間モスクワ公国を運営する代理人を任命。 |
| 1268 | ラコヴォルの戦い。 |
| 1276 | モスクワでダニイル・アレクサンドロヴィチが帝位に就く(1303まで)。 |
| 1281-1293 | アレクサンドル・ネフスキーの息子たちの大公国をめぐる闘争。 |
| 1293 | ドゥーデン・ハーンがルーシに対して遠征し、その結果、ルーシ北東部の14の都市が破壊され、焼き払われた。 |
| 1303/3/5 | ダニエル死去。長男のユーリがモスクワ公を継承。 |
| 1317 | ユーリはモンゴルの王子ウズベグ・ハーンの妹と結婚。ウズベグはウラジミール大公を廃位し、ユーリをその職に任命。 |
| 1322 | 最後のウラジーミル大公の息子、ドミトリー恐眼公は、ユーリがハーンの貢納金を盗んでいたとウズベク・ハーンを説得。彼はウラジーミル大公に再任。 |
| 1325/11/21 | ユーリはドミトリーに殺害され、弟のイヴァン1世カリタが継承。 |
| 1327/8/15 | モンゴル帝国のジョチ・ウルスの使節がトヴェリ大公国での反乱中に閉じ込められ、生きたまま焼かれた。 |
| 1328 | イヴァンはウルス軍を率いてトヴェリ大公兼ウラジーミル大公に対抗。イヴァンは大公の地位を獲得。 |
| 1340/3/31 | イヴァンが死去。息子のシメオンがモスクワ大公とウラジーミル大公の両方を継承。 |
| 1353 | シメオンが死去。弟のイヴァン2世(美男)がモスクワ大公の地位を継承。 |
| 1359/11/13 | イヴァンが死去。息子のドミトリー・ドンスコイが継承。 |
| 1363 | ドミトリー・イワノビッチがウラジミール大公国として承認される。 |
| 1367-1369 | モスクワの石造クレムリンの建設。 |
| 1377 | ピアナ川の戦い。 |
| 1378 | ヴォジャ川の戦いでロシア軍がキプチャク・ウルスに勝利。 |
| 1380/9/8 | クリコヴォの戦い:モスクワ軍がクリコヴォ平原でモンゴルの青軍を撃破。 |
| 1382 | モンゴルのハーン、トクタミシュがモスクワを略奪し焼き払うことで権力を回復。 |
| 1385 | リャザン公オレグがコロムナを占領。 |
| 1389/5/19 | ドミトリーが死去。息子のワシリー1世が帝位を継承。 |
| 1395 | ティムールによるジョチ・ウルス軍の敗北。 |
| 1425/2 | ワシリー1世が死去。息子のワシリー2世がモスクワ大公の地位を継承し、妻のソフィアが摂政に就任。弟のズヴェニゴロドのユーリ・ドミトリエヴィチも帝位を主張。 |
| 1430 | ユーリはジョチ・ウルスのハーンに、自身の王位継承権を主張するよう訴えた。ワシリー2世はモスクワ公国を保持したが、ユーリはドミトロフ公国を与えられた。 |
| 1432 | モスクワ内戦: ワシリー2世は軍を率いてドミトロフを占領。彼の軍は敗北し、彼はコロムナに逃げることを余儀なくされた。ユーリーはモスクワに到着し、自らを大公と宣言。ワシリー2世は赦免され、コロムナ市長となった。 |
| 1433 | モスクワ内戦: モスクワのボヤールがコロムナのワシリー2世の宮廷に避難したため、ユーリはモスクワを甥に返還し、ガリチに移ることを決意。 |
| 1434 | モスクワ内戦: ワシリー2世はガリチを焼き払った。 |
| 1434/3/16 | モスクワ内戦: ユーリ・ドミトリエヴィチの軍隊がワシリー2世の軍隊を撃破。ワシリー2世はニジニ・ノヴゴロドに逃亡。 |
| 1434/4/1 | モスクワ内戦: ユーリがモスクワに到着し、再び大公を名乗った。 |
| 1434/7/5 | ユーリが死去。長男のワシリー・スカントが大公の座を継承。 |
| 1435 | モスクワ内戦: ユーリの次男ドミトリー・シェミャカがワシリー2世と同盟。ワシリー・スカントはクレムリンから追放され、失明。ワシリー2世は大公の座に復帰。 |
| 1438 | ロシア・カザン戦争: 新たに成立したカザン・ハン国のハンがモスクワに向けて進軍。 |
| 1445/7/7 | スーズダリの戦い: ロシア軍はカザンのタタール人の手により大敗。ワシリー2世は捕虜となり、政府の運営はドミトリー・シェミャカに委ねられた。 |
| 1445/12 | モスクワ大戦争: ワシリー2世は身代金を支払ってモスクワに連れ戻された。 |
| 1446 | モスクワ大戦争: シェミャカはワシリー2世の目を潰してウグリチに追放し、自らを大公と宣言。 |
| 1450 | モスクワ大戦争: モスクワのボヤールはシェミャカをクレムリンから追放し、ワシリー2世を帝位に復帰させた。 |
| 1452 | モスクワ大戦争: シェミャカはノヴゴロド共和国に逃亡を余儀なくされた。 |
| 1453 | シェミャカはモスクワの工作員によって毒殺された。 |
| 1462/3/27 | ワシリー2世が死去。息子のイヴァン3世大帝が大公を継承。 |
| 1463 | モスクワ大公国がヤロスラヴリ公国を併合。 |
| 1471/7/14 | シェロンの戦い: モスクワ軍が数で勝るノヴゴロド軍を撃破。 |
| 1474 | モスクワ大公国がロストフ公国を併合。 |
| 1476 | イヴァン1世が大ウルドへの貢物を納めなくなった。 |
| 1478/1/14 | ノヴゴロド共和国がモスクワの権威に降伏。 |
| 1480/11/11 | ウグラ河畔の対峙: イヴァンの軍隊が大ウルドのアフマド・ハーンのモスクワ侵攻を阻止。 |





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