冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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ロシア右翼

ロシアの「小さな勝利の戦争」


簡単に勝てる戦争として始まり、そのまま成功した「小さな勝利の戦争(Маленькая победоносная война)」に終わった戦争と、失敗した戦争は、さまざま国に見られる。ロシアではおおよそ以下のものが、「小さな勝利の戦争」として挙げられる。

紛争期待された結果実際の結果
クリミア戦争1853–1856容易な勝利失敗
露土戦争1877–1887容易な勝利成功
日露戦争1904–1905容易な勝利失敗
ポーランド・ソビエト戦争1920急速な征服失敗
冬戦争1939–1940迅速な征服ピュロスの勝利
ソ連・アフガニスタン戦争1979–1989政権支援失敗
第一次チェチェン戦争1994–1996分離主義者の鎮圧失敗
第二次チェチェン戦争1999–2000支配権奪還成功(国内)
ロシア・グルジア戦争2008迅速な勝利成功
クリミア併合2014無血占領成功
ウクライナ侵攻2022–継続中迅速な政権交代失敗(今のところ)

ロシアも「小さな勝利の戦争」を「小さな勝利の戦争」で終わらせられなかったことが多くあった。

以下、もう少し長めのコメント...



クリミア戦争(1853–1856): 失敗
この戦争は突発的にオスマン帝国と勃発したが、その発端はきわめて些細なものであった。ロシア皇帝が、世界中のキリスト教徒の擁護者を自任し、キリスト教徒を抑圧しているとされたトルコのスルタンに対して軍事行動を起こしたことに端を発する。しかし、スルタンは予め西欧諸国の支援を取り付けていたため、ロシアに対して強硬な姿勢を取った。ロシアは開戦し、当初は優勢に戦いを進めた。というのも、相手は長年「ヨーロッパの病人」と揶揄されていた衰退著しいオスマン帝国であったからである。しかし、戦局はフランス・イギリス・イタリアからなる欧州列強の連合軍の参戦により一変した。連合軍はクリミア半島に上陸し、本格的な戦闘が始まった。また、ロシア各地の辺境も連合艦隊により砲撃され、カムチャツカやソロヴキ修道院などの拠点も攻撃対象となった。ロシアは多方面での戦争や、当時最強を誇った列強との全面対決に備えがなく、対応が後手に回った。さらに、この戦争のさなかに、19世紀ロシア帝国の保守主義の象徴たるニコライ1世が死去した。戦局を覆すことができないまま、ロシアは屈辱的な講和条約に調印する。これにより黒海での艦隊運用が事実上禁止され、ロシアの威信は大きく失墜した。旧来の軍事力を回復するには、20年以上の歳月を要した。(NEOLURK)

ロシア・トルコ戦争(1877–1878): 成功
ニコライ1世の息子アレクサンドル2世は、クリミア戦争の敗北後に軍の再建に尽力した。抜本的な軍制改革の結果、ロシア軍は後進性を脱し、近代的な軍隊へと変貌した。国際政治情勢も有利に転じ、1870年のナポレオン3世の退場により、旧来の欧州同盟関係は崩壊していた。復讐の機会は整った。1877年、オスマン帝国内のスラブ人による反乱を口実としてロシアは侵攻を開始した。戦争はロシアに有利に展開し、軍は帝都コンスタンティノープル(イスタンブール)近郊にまで迫った。南カフカス方面でもロシア軍は大きく進軍した。最終的にオスマン帝国は降伏し、領土の一部を割譲した上で、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアなどスラブ系新興国の独立を承認した。ブルガリアは約500年ぶりに自治を獲得し、オスマン帝国の支配を離れることとなった。この戦勝により、アレクサンドル2世は「解放者」として歴史に名を刻むことになる。彼は農奴制を廃止し(農民の解放)、またバルカン半島のスラブ民族をトルコの支配から解放したのである。この勝利によって帝国はクリミア戦争の屈辱を払拭し、20世紀への道を穏やかに歩むことが可能となった。(NEOLURK)

日露戦争(1904–1905): 失敗
日本との戦争は、ロシア側にとって「確実な勝利」と見なされていたため、極東での兵力集積や輸送網の整備も十分には行われなかった。これは多くのロシア将官に見られる「帽子で叩けば勝てる」的な油断(シャプカザカーダテリストヴォ)によるものである。日本は当初、遠く小国であり軍事力も劣ると過小評価されていた。しかし1904年初頭に開戦すると、実際には日本が手強く危険な敵であることが明らかとなった。ロシア軍は満州で敗北し、さらに日本海海戦(対馬沖海戦)ではバルチック艦隊が壊滅した。この敗北は、日本が強国であり、ロシアが弱体であることを世界に示した。また、戦争は「血の日曜日事件」に象徴される第一次ロシア革命を誘発し、戦争からの屈辱的撤退へと至った。その結果、ロシアはサハリン島南部を失うことになった(全島の喪失は免れた)。この敗北により、皇帝の威信は失墜し、国内における反体制的動きが加速した。政府は戦後、2年をかけて各地の反乱を鎮圧する必要に迫られた。(NEOLURK)

ソビエト・ポーランド戦争(1919–1921): 失敗
ロシア帝国の瓦礫の中から誕生したソビエト体制は、旧領土の奪還と、それに伴う共産主義の拡張を掲げていた。その最大の障害となったのがポーランドである。ポーランドは独立国家として復活しただけでなく、旧ロシア領をも掌握していた。戦闘は一進一退であったが、ソビエト軍はワルシャワ近郊まで到達し、ポーランドがソビエト共和国化される寸前まで至った。しかし、戦局は逆転し、ポーランド軍が反攻に転じた。ミンスクやキエフも陥落寸前まで迫られたが、赤軍の抵抗により、全面的な敗北は免れた。それでも戦後、ポーランドはベラルーシ西部とウクライナ西部(旧オーストリア=ハンガリー帝国領)を掌握し、ソビエトの宣伝とは裏腹に、実際にはロシア側の敗北という結果となった。西方領土の回復問題は、以後20年間にわたり棚上げされることとなる。(NEOLURK)

ソビエト・フィンランド戦争(1939–1940): ピュロスの勝利
この戦争は、フィンランドをソ連の衛星国化し、バルト三国と同様に併合することを意図したものであった。開戦前、ソ連はカレリア地峡の割譲と引き換えに東カレリアの領土を提供するという提案を行ったが、フィンランド側はこれを拒否。これにより、レニングラード軍管区を中心とした赤軍が侵攻を開始した。しかし、フィンランド側の抵抗は予想外に強固であり、ソ連軍の指揮系統の混乱や戦術的失敗も重なって、大きな損害を被った。フィンランド軍が構築したマンネルヘイム線は防衛上きわめて有効であり、ソ連は予定していた戦争遂行時間を逸してしまった。ヘルシンキ攻略は可能であったものの、長期化の懸念が高まった。講和条約の結果、フィンランドはカレリア地峡とヴィボルグ、さらに北極圏のペツァモ港を失ったが、国家としての独立と体制は保持された。以後、フィンランドは戦時中に雪辱を果たそうと試みることになる。(NEOLURK)

アフガニスタン戦争(1979–1989): 失敗
アフガニスタンへの介入は、ソビエト政府が友好政権を支援するための短期的「特殊作戦」として計画されたものであったが、実際には長期に及ぶ流血の戦争へと発展した。ソ連軍は、米国・中国・アラブ諸国から支援を受けるムジャヒディーンの頑強な抵抗に直面した。侵攻は1980年初頭に本格化し、当初は空軍による支援や戦略拠点の防衛にとどまる予定であったが、アフガン政府軍の脆弱さゆえに、ソ連軍自らが戦闘に直接関与せざるを得なくなった。1985年4月までの5年以上にわたり、全土で激しい戦闘が継続された。その後も1987年まではソ連の航空機・砲兵部隊がアフガン政府を支援し続けた。1987年、ゴルバチョフ政権下で撤退方針が採られ、翌年5月から段階的な撤退が始まった。最終的に1989年2月15日、全ソ連軍の撤退が完了し、ソビエト連邦にとってこの戦争は深い傷跡を残すこととなった。(NEOLURK)

第一次チェチェン戦争(1994–1996年): 失敗

ソビエト連邦の崩壊後、ロシアはチェチェン共和国イチケリアの分離独立に対して再統合を目指した。ロシア政府、特に当時の大統領ボリス・エリツィンは、短期的な軍事作戦によってチェチェンの分離主義勢力を迅速に鎮圧し、連邦政府の権威を回復できると楽観的に考えていた。モスクワの多くの政治・軍事関係者は、チェチェン側の抵抗力および戦闘能力を過小評価していた。しかし、。ロシアは屈辱的な敗北を喫し、圧倒的な兵力的優位にもかかわらず、部隊は準備不足、指揮系統の混乱、そして激しい市街戦での抵抗に直面した。戦争はロシア軍に大きな人的損害をもたらし、結果としてチェチェンは国際的には承認されなかったものの、事実上の独立状態を維持することとなった。(ie. Oliker, 2001; Cooling, 2022)

第二次チェチェン戦争(1999–2009年): 成功(国内的)

第一次戦争での敗北の後、ロシア国内で発生した複数のアパート爆破事件がチェチェン系テロリストによるものとされたことを契機に、ロシア政府はより徹底的かつ強硬な軍事介入を決定した。ウラジーミル・プーチンの主導のもと、この戦争はチェチェンにおける分離主義およびテロ勢力の完全排除、ならびに連邦の領土統一の再確立を目的として展開された。その結果は、軍事的にはロシアの勝利とされる。第一次戦争と異なり、ロシアはチェチェンの全域を再び掌握し、目標としていた軍事的支配を回復することに成功した。ただし、この戦果は極めて大きな代償を伴った。軍民双方に甚大な死傷者を出し、チェチェン地域の広範な破壊を招いた。戦後も長期間にわたる反乱・ゲリラ活動が継続し、また深刻な人権侵害の疑惑が国際的に問題視された。この戦争は、特に初期段階において「秩序の回復」および「国家的威信の再建」を掲げた「必要かつ勝てる戦争」として国民に提示された。しかし、それが「小規模」あるいは「容易な」勝利であったとは言い難く、その長期的な社会的・政治的影響は、現在に至るまでロシア社会に深く根を下ろしている。(ie. Oliker, 2001; Kowal, 2023)

ロシア・グルジア戦争 (2008):成功

ロシアは南オセチアとアブハジアへの介入を決意した。ロシアの利益を守り、ジョージアの親西側姿勢を打破するため、小規模なジョージア軍に迅速に勝利することを期待したのだ。この作戦は、迅速な武力誇示として計画された。ロシアは5日間で目的を達成し、ジョージア軍を撃破し、南オセチアとアブハジアを独立国家として承認した。この戦争は、ソ連崩壊後のロシアの軍事力の復活を象徴する出来事となった。国際的な批判にもかかわらず、ロシアは長期的な影響を最小限に抑え、この地域における影響力を強固なものにした。(ie Wood, 2025)


クリミア併合 (2014): 成功

ロシアによるクリミア併合は、「小さな勝利の戦争」として理解されうる。すなわち、限定的な軍事抵抗のもと迅速な領土支配を達成し、国内支持を高めたという狭義の意味においては、戦術的な成功と見なすことができる。しかし、この「勝利」は多大な代償を伴った。すなわち、国際的孤立、経済制裁、人権侵害、そしてウクライナとの武力衝突の激化である。作戦の成功は、ウクライナの政情不安、ロシア軍の既存の駐留、そして地域における親ロシア感情という、再現性の乏しい特異な状況に大きく依存していた。時間の経過とともに、クリミア併合は必ずしも「勝利」とは言い難い様相を呈している。ウクライナによる抵抗の持続と西側諸国による経済制裁は、ロシアの利益を著しく損ね、クリミアを安全な戦略資産ではなく、むしろ争奪の戦場へと変貌させている。(ie. Kotman et al. 2017; MacFarquhar et al., 2025)

ウクライナ侵攻 (2022–継続中): 失敗(今のところ)

ロシア・ウクライナ戦争は、ロシアにとって「勝利した小さな戦争」とは到底特徴づけられない。2014年のクリミア併合とは異なり、本戦争は迅速な領土支配も限定的な抵抗も伴わず、むしろ大規模かつ高コストの戦争となっている。ロシアの領土的前進はごく僅かにとどまり、甚大な人的損失、経済的圧力、そして国際的孤立によって相殺されている。ウクライナは西側諸国からの支援を受けて頑強な抵抗を続けており、ロシアの決定的な勝利を阻止してきた結果、戦争は長期的かつ消耗的な様相を呈している。クリミア併合は、長期的代償を伴いつつも戦術的成功であったと評価されうるが、現在の戦争はその規模と帰結において、戦略的な誤算であり、「勝利」とも「小規模」とも言いがたい。ロシアによる戦争の語りを批判的に検証すれば、プロパガンダと戦場の現実との間には明白な乖離が存在しており、プーチン大統領が掲げる最大限の目標を達成する明確な道筋も見出し難い状況にある。(ie Jones&McCabe, 2025; Max Intelligence, 2025)






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