冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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ロシア右翼, ロシア史教科書

ロシア史教科書が糊塗する大祖国戦争前のソ連



ロシア史1914-1945
(日本語)

ロシア史(10学年)の教科書は、しれっと、独ソ戦に至るソ連の邪悪さ(東欧分割)とスターリンの失敗を、もっともらしいものに見せようと試みている。

まずは、しれっといヒトラーと中東欧を分割(フィンランド侵略を含む)したことを書いている。


一方、独ソ戦でドイツの奇襲を受けたことについて、「ドイツとの戦争は不可避だとわかっていて準備していたが、時期を予測できなかった」というストーリーを書いている。


実際は、フルシチョフのスターリン批判では、たんたんと警告・情報を無視したスターリンを断罪しているとおり:
戦争中も戦後も、スターリンは、戦争の初期にわが国民がこうむった悲劇は、ドイツ軍がソ連を「不意に」攻撃した結果であるという命題を掲げていました。しかし同志の皆さん、これはまったく事実に反していたのであります。ヒトラーはドイツで政権を握るや、共産主義をみずからの課題にしたのです。ファシストはそのことを公然と述べており、自分たちのこの計画を隠しはしませんでした。この侵略的な目的を達成するために、彼らはありとあらゆる条約や同盟を結んだのです。たとえば評判倒れのベルリン=ローマ=東京枢軸がそれであります。戦前の多くの事実がはっきりと示しているように、ヒトラーはソヴィエト国家と戦争するためにあらゆることを準備し、ソ連国境に戦車兵団を含む大部隊を集中したのです。

ドイツ侵入は予告されていた

現在公表されているある文書から明らかなように、すでに1941年4月3日、チャーチルは駐ソ・イギリス大使クリップスを通して、ドイツ軍はソ連を攻撃する目的で軍隊の再編成を開始したということを直接スターリンに警告しております。

もちろんチャーチルがこのように警告したのは、けっして彼がソヴィエト国民に友情を感じていたからではありません。チャーチルは、ドイツとソ連を互いにけしかけて流血の戦争に導き、それによってイギリス帝国の立場を強化しようという帝国主義的な目的からそうしたのです。

しかし、ともあれチャーチルはその回想録の中で「スターリンに警告を発し、迫りつつある危険に彼の注意を向け」させようとしたと断言しております。チャーチルはこのことを4月18日およびそれ以後の日付けの電報で何度も強調しているのです。しかしスターリンはこの警告になんの注意も払いませんでした。それどころかスターリンは、相手を刺激して戦闘開始に至らしめないよう、このような情報に注意を向けるなと指令を出したほどであります。

われわれは、ドイツがソ連に対し武力攻撃を準備しているという情報を、わが国自身の軍事、外交筋からも受け取っていたということを述べないわけにはいきません。しかし指導部はこの種の情報を歓迎していませんでした。そこでそれらの情報は恐る恐る送られ、その中で述べられている状況もきわめて控えめに評価されていたのです。

たとえは1941年5月6日、ベルリン駐在のソヴィエト大使館付陸車武官ヴォロンツォフ大尉が送ってきた情報には次のように述べられておりました。

「大使館付海軍武官代理に対し、ソヴィエト市民ボーゼルは、ヒトラー直々の本部で働いているあるドイツ人将校から得た情報によると、ドイツ軍は5月14四日、フィンランド、沿バルト海諸国およびラトヴィア方面からソ連を攻撃する準備をしていると連絡してきた。これと同時にモスクワおよびレニングラードに対して集中的な空襲が行なわれ、国境近接都市に対しても空中降下部隊が攻撃するはずである・・・。」

1941年5月22日、ベルリン駐在の大使館付陸軍武官代理フロポフは、その報告の中で「・・・ドイツ軍の攻撃は6月15日に予定されているが、6月初旬に行なわれる可能性もある・・・。」と伝えてきております。

ロンドン駐在のわが国の大使館が送ってきた1941年6月18日付の電報では次のように述べられています。

「クリップスは、ドイツとソ連のあいたの軍事的衝突は避けられず、それは6月中旬までにはじまるだろうと深く確信している。クリップスによると、ドイツ軍はすでに(空軍および増援部隊を含めて)147箇師団をソヴィエト国境近くに結集させた・・・。」

このようなきわめて重大な警告があったにもかかわらす、わが国をしかるべく防衛するための準備はなされることなく、わが国に対する奇襲攻撃を未然に防ぐための心要な措置もとられなかったのであります。

[ フルシチョフ (志水速雄 訳): "フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」", 講談社学術文庫, 1977, pp.76-70 ]

当時のソ連あるいはスターリンの公式的立場はそもそも日付予測などではなく、「1942年だと考えていた」ために奇襲になってしまったというものだった。
そして、ソ連公式の立場は、スターリンは独ソ戦開戦は不可避だが1942年以降だと考えていた、というもの。
すなわち、スターリンが1941年時点における独軍によるソ連攻撃、さらに同年6月22日未明にはじまる電撃的攻撃を予測していたか否かである。この具体的な問いにたいする答えは、ノーということができる。換言すれば、スターリンは、独ソ開戦の可能性一般を予測していたが、その実際の開始時期を見事に読みまちがえたのである。1942年8月訪ソ中のチャーチルに向い、スターリンが「私は、(イギリスから)警告をうけるまでもなく、(対独)戦争が起ることを知っていた」とのべた後に.次のように正直に告白したことは、良く知られている。「しかし、私は、もう6ヶ月ぐらいは時を稼げると考えていた。」ソ連に踏みとどまってユニークな「反体制」運動を続けているロイ・メドヴェーデフも、スターリンによって採られたソ連防衛能力強化処置の相対的完成が「1942年以後」と計画されていたことから判断して、スターリンの予測の誤りを指摘している。「彼(=スターリン)は、可能な戦争の期日をまちがえて、まだ時間が十分にあると考え」、「その結果として、軍も工業も.純心理的な側面ばかりでなく、物的な実際的な準備の意味でも、戦争に備えていなかった。」

[ 木村汎: "大祖国戦争緒戦におけるスターリンの誤算", 新防衛論集 12(3), 1984, p.4 ]

実態はもっとまずかったかもしれず...
まず考えられるのはイギリスへの強い猜疑心であろう。スターリンにしてみれば、独ソ不可侵条約(一九三九年締結)以来のドイツとの友好関係は、悪化しつつあったとはいえ、ポーランド分割をはじめ、独ソ双方に大きな利益に大きな利益をもたらすものであった。ヒトラーがその利益をむざむざ蜂起するわけがない。 ... 少なくとも、スターリンは、そう考えていた。イギリスはドイツを対ソ戦に誘導することをたくらんでいるとさえ、疑っていたのである。そうした猜疑心ゆえに、各国からもたらされる情報、とくにイギリスからのそれは、すべて謀略であると、スターリンは決めつけた。
...
戦争など起こってほしくない。いや、起こってはならないのだし、起こるはずがない。スタ、ーリンを現実逃避にも近い願望にしがみつかせた理由は、もう一つあった。当時のソ連軍は著しく弱体化していたのだ。一九三九年から四〇年のフィンランド侵略、「冬戦争」と呼ばれた戦いで、はるかに劣勢な相手に、ソ連軍は苦戦を強いられている。この戦争で暴露された通り、ソ連軍は劣悪な状態にあった。その原因は、一九三七年に開始された「大粛清」にある。

[大木毅: "独ソ戦 絶滅戦争の惨禍", 岩波新書, 2019, pp.4-5]

そして、
  • スターリンの赤軍粛清で赤軍がガタガタになっていたことを「よく訓練され教育を受けた中級および下級指揮官が不足していた」という結果だけを記述
  • ドイツ軍の奇襲でスターリンが凹んでしまったため、開戦のラジオ演説をモロトフ外相がやらざるを得なかっことを、「モスクワの住民がラジオで戦争開始のアナウンスを聞く。1941年6月22日」という写真照会囲み記事でしれっと流す

スターリンのホワイトウォッシュの例ではある。





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