ロシア右翼, ロシア史教科書
特別軍事作戦対応「ロシア史教科書10学年1914-1945年」には、満州事変について、以下の問いが書かれている。
しかし、実際には「西側諸国」と同じく、ソ連も「日本の侵略を阻止しなかった」。
まずもって満州事変に対して、米国とともにソ連も、日本に対する制裁としての経済ボイコットを拒否した。
そして、諸外国も中国を見捨てていく...
その頃、そもそも、ソ連は日本との妥協を優先していたようである:
そのことは「「ソ連・ロシア擁護と西側批判」というコンテキスト優先という教科書記述の方針があることを示唆するもの。
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特別軍事作戦対応「ロシア史教科書10学年1914-1945年」には、満州事変について、以下の問いが書かれている。
4. Выделите основные направления советской внешней политики на Дальнем Востоке в 1930-е гг. Как возник очаг военной опасности в Азии? Подумайте, почему страны Запада не препятствовали японской агрессии в Китае.いかにも、ソ連は中国を守って、日本の侵略に対処しようとしたかのような印象を与える「問い」である。
4. 1930年代の極東におけるソ連の外交政策の主な方向性をハイライトせよ。アジアで軍事的危険の温床がどのように発生したのか? 西側諸国が中国における日本の侵略を阻止しなかった理由について考えてみよう。
[ § 27. СССР и мировое сообщество в 1929—1939 гг. on
しかし、実際には「西側諸国」と同じく、ソ連も「日本の侵略を阻止しなかった」。
まずもって満州事変に対して、米国とともにソ連も、日本に対する制裁としての経済ボイコットを拒否した。
国際連盟の歴史における第三期、すなわち紛争の時代は、1931年9月18日に日本軍が満州の中国当局に突然攻撃を仕掛けた満州事変で幕を開けた。これは明らかに、国際連盟規約に違反する戦争行為だった。日本は当初、軍隊を撤退させると宣言したが、後に(1932年2月)、満州国という傀儡国家を樹立し、これによって国際連盟の介入の法的根拠がなくなったと主張した。これは国際連盟規約体制の最初の大きな試練であり、これ以上困難な状況は想像できなかった。国際連盟の小規模な加盟国や、あらゆる地域の国際連盟支持者の多くが、国際連盟規約の厳格な適用と日本に対する経済ボイコットを求めた。しかし、主要理事会メンバー自身が経済危機に陥っており、また米国とソ連は協力を確実に拒否した。経済制裁が真剣に検討されることはなかった。長い交渉の末、米国は交渉を支持し、米国代表が一会期中ずっと安保理に同席することさえ認め、調査委員会が任命された。1932年4月に満州に到着した委員会は、新国家満州国がすでに樹立されていることを確認した。しかし、委員会は詳細な報告書を作成し、日本の権利と必要に対するさまざまな保障措置を講じて満州を中国の主権に返還すべきであると結論付けた。この報告書の結論は総会で満場一致で採択された(1933年2月)。日本はこれを拒否し、1か月後に連盟から脱退した。こうして1933年は、連盟が中国を侵略から守ることに失敗し、軍縮会議が決裂し、日本とドイツが脱退するという年となった。
[ Third period (1931–36) inLeague of Nations inPolitical history ]
そして、諸外国も中国を見捨てていく...
これと同時に秘密公文で鄭総理より菱刈全権あて「満洲帝国は現に満洲国が日本国との間に有する条約、取極または契約を尊重すること、並びに大同元年九月一五日調印の日満議定書の趣旨にのっとり、満洲帝国の外交に関する事項その他国家防衛上必要なる事項につき、必すあらかしめ日本帝国に十分かっ隔意なき協議を遂ぐることを通報する」旨文書を発した。これに対し同日付き菱刈全権より右声明を了承し、かつ申出でに対し異議なき旨回答があった。
また謝外交部大臣は、日本を除く七一カ国の政府責任者あて満洲帝国の成立を正式に通告し、彼我国交関係が将来良好に進展することを希望する旨表明した。また謝大臣は、本通告とは別に対外声明書を発し、満洲国の成立が東亜の平和維持に唯一の要件であること、並びに大同元年三月一二日発表の外交宣言に表明した国際信義に対しては、新帝国の実現により何ら変わるところなき旨併せて宣明した。
右の新帝国成立通告に対し、ノルウェー、リべリア、リトアニア、ローマ政庁、トミニカ、ネパール、トルコ、ボリヴィアの各国から正式回答があった。
[ 満洲国史編纂刊行会: "満洲国史 総論", 満蒙同胞援護会, 1970, p.415 ]
- 康徳二年九・一五 満洲国、ポーランド国間に、為替交換開始
- 康徳五年一〇・一九 満洲国、ポーランド国正式国交承認、交換文調印完了
- 康徳八年八・二 満洲国はクロアチア国を承認に決定
- 康徳八年八・五 泰国は満洲国を正式承認
- 康徳四年一二・一 日本政府はスペイン政府としてフランコ政権承認、同時に満洲国も承認
- 康徳六年三・二七 満洲国はスペインと防共協定に参加し日独伊と議定書に調印
- 康徳八年七・一一 スペインは満洲国初代公使にパルグエンを任命
- 康徳八年九・一八 満、西(スペイン)友好通商条約成立
- 康徳八年八・一三 デンマーク政府は満洲国を正式承認
- 康徳九年九・一〇 駐満初代デンマーク公使ライリッツエ信任状奉呈
その頃、そもそも、ソ連は日本との妥協を優先していたようである:
一ニ、ソ聯外交の本質そして、実際のところ、日ソ中立条約においても、満洲国の領土の保全と不可侵の尊重を認めていた。それが形式に過ぎないとしても、書面上ですら「日本の侵略を阻止しなかった」
次に昭和十六年四月十三日調印された日ソ不可優の間題にも觸れることになりますが、日ソ不可侵條約に就きましては一九三一年、昭和六年に駐佛大使であった芳澤識吉氏が時の大養内閣の外務大臣に就任する爲に歸の途大モスクワに立寄ったときにソ聯の方から話しがあったのであります。時ソ聯は實は日本の攻勢に恐れをなしてゐたので、被らとしては非常な譲歩をしたつもりで日本に提携を申込んで來たわけであります。当時日本としてもコミンテルンを恐れてゐたところもあり、左翼運動も猖獗であった時だから、ソ聯と手を握ることには難色があり、ソ聯と手を握ることは共産主義を日本に公然と輸人するに等しいと云ふやうな議論をなす者もあってソ連からの提携は、一年ばかり考慮の結果日本側から斷ったのであります。
[ 竹尾弌: "独ソ戦とソ聯", 武蔵野書房, 1943 ]
声明書このあたりの流れは、「ロシア史教科書」には書かれていない。
大日本帝国政府及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦政府ハ千九百四十一年四月十三日大日本帝国及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間ニ締結セラレタル中立条約ノ精神ニ基キ両国間/平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝国カ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴィエト」社会主義共和国連邦カ満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトフ約スル旨厳粛ニ声明ス
大日本帝国政府/為
松岡洋右
建川美次
「ソヴィエト」社会主義共和国連邦政府ノ委任ニ依リ
ヴェー・モロトフ
[ "声明書" in "日本国及ソヴィエト連邦間中立条約"(1941/04/13) in 北方領土問題対策協会: "北方領土ソ連の言説に対するわが方の反論" (1977) ]
そのことは「「ソ連・ロシア擁護と西側批判」というコンテキスト優先という教科書記述の方針があることを示唆するもの。
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