冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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資料集

原爆戦に生きぬく道(1953)


太平洋戦争前・戦中に航空部隊(1940)スマトラ紀行(1943)航空決戦(青年軍事新書,1944)航空要塞(陸軍新輯,1945)などを執筆していた筑紫二郎が、1953年に原爆戦について「原爆戦に生きぬく道(1953)という本を書いている。幅広く、原爆から国際情勢まで触れているが、最後の部分で、核攻撃に対する防護について、書いている。(国立国会図書館デジタルアーカイブ

想定としては、ソ連による核爆弾が高々5発:
ソ連が日本に対して原爆をどう使用するかが最大の問題である。それはソ連が無差別爆撃をやるか制限爆撃をやるかに懸っている。それは又ソ連が日本全体を敵とするか、或は米軍に協力する当時の政府のみを敵とするかによって分れる。又これは日本がソ連に対し宣戦布告をするか否かに依って異なる。こう考えると日本の立場は誠に複雑多岐で微妙至極である。政治家の頭を悩ます所もここにあるのではあるまいか。何れにせよ、ソ連は日本に対して原子爆弾を何発あてがうであろうか。

若し彼の保有数が三〇〇発とすればその五分である一五発は覚悟しなければなるまい。そして到着率を三分の一とすれば五発は確実に目的地に投下されることになる。

それではこの五発を如何に使用するであろうか。

何れにせよ無差別爆撃の場合は政治経済の中心地として東京を目標とし、港湾の主要地として神戸、大阪、関門、横浜、横須賀、佐世保、舞鶴等が選定されるであろう。又北海道と本土の遮断のため、青森若は函館が目をつけられる。その細部選定は知る由もないが無差別爆撃に五発を使用されたら日本は一応麻痺状態に入ると共に少なくとも百五〇万の死者と二百万の負傷者を出すと思わなければならない。

又制限爆撃の場合の目標選定はよく分からないが、死傷者は若干少なくなると思われるが、やはり相当大きな打撃を受けることは確実であろう。

[ 筑紫二郎: "原爆戦に生きぬく道 : 米ソ若し戦わば", 慶文社, 1953, p.207, 一 米ソ戦と日本を巡る諸問題 (六)日本を巡る原爆戦の攻防]

まずは一般論として、食料自給や分散備蓄に触れ...
原爆被害については既に述べた通りであるが、先ず政治的に原爆攻撃を避けることに努力するのは勿論であるが、若し国防兵力を持ったらここに重点を置かなくてはならない。徒らに地上兵力のみを増強しても一発の弾丸も射つことなく潰滅するかもしれない。それとて充分なる防空兵力を持つことは又国力上むずかしいかも知れないが、力のある限り日本本土の完全防空の線に向かい不断の前進を続けなければならぬ。一方消極的方面では都市計画においても、官庁官衡の配置にしても、指揮通信、重要書類の分散に至る迄、常に原爆攻撃を案中に含めなくてはならない。食糧問題にしても自給自足を急ぎ、分散貯蔵に徹底する等枚挙にするに邊がない。ただ為政者は大英断を以て将来の大被害を避けるため、小乗を捨て、大乗的見地から思い切った対原爆施策を平時から漸進的に実施すべきであろう。個人としても住宅の建設にも又防空壕或は防原爆衣等の個人防護について、常に計画し、時迫れば直ちに実施出来るように準備することが必要である。備えあるものは常に憂なしとは今後も一大鉄則であることを忘れてはならない。已むなくば心の準備だけでもいではないか。

[ 筑紫二郎: "原爆戦に生きぬく道 : 米ソ若し戦わば", 慶文社, 1953, p.236, 二 日本の進むべき道 (七) 原爆の被害対策はよいか

その後に、防護手段を述べている。その内容は、住宅の分散以外は、Survival Under Atomic Attack(1950)と大差のなく、プラスチック(ナイロン)の風呂敷でどうγ線を防ぐといった記述まである。
原爆に対する防護手段

爆心直下の被害に堪えるためには大変な設備がいるが、しかし原爆恐るべしと云って何も施さないのは愚かなことだ。一哩も離れると爆風力も、放射能効果も、著しく逓減するので、一哩以外の地域では少しの施策が大変その被害を左右することになる。そこで原子爆弾が落ちたら何もかも駄目だとあきらめるには早い。その防護法を根本から解説しは大変であるが一寸した着想で軽易に出来る防護法の一部を述べてみよう。

1. 将来個人住宅は、やはり郊外に求めるのが賢明である。例え毎日三十分早起きしなくてはならなくても、万一の場合を考えると一家を救うことになる。それにやはり爆心から七哩位離れなくてはならない。東京都において爆心を東京駅と仮想した場合安全地帯を求めるならば、西は多摩川以西、東は荒川放水路以東、北は成増―鳩谷以北に住宅地を求めるのが賢明である。これに対して政府も郊外電車のスピードアップや、公営住宅での位置選定を考える悲痛用があるだろう。徒に便利主義に陥って結局原爆の餌食を集めて提供することになる。更に考えれば大都市の地域的居住制限も当然考えられるべきことである。

2. 住宅も地形を利用し、上からの力に強く建てることを考えたり、或は可燃物を可成外に出さなく、色も黒より明るい色にするとか、或は硝子も広い一枚のものではなく出来るだけ小さいものにすれば、燃えたり壊れたりする率が少なくなる。

3. 個人の持物もいざと云う時には直にガンマー線の被害を防げるように、風呂敷を求めるにも、プラスチック系のものにするとか、或は自転車の一台位持って、いざ鎌倉の時は交通途絶に対応する等位考えてもよい。

4. 家庭にある洗濯剤や磨き粉、溶剤、気発油等が残留放射能を除去するに役立つ位の原爆常識を必要とする。

[ 筑紫二郎: "原爆戦に生きぬく道 : 米ソ若し戦わば", 慶文社, 1953, pp.237-8, 二 日本の進むべき道 (七) 原爆の被害対策はよいか
さらに、その後の記述はSurvival Under Atomic Attackと同様:
その他のことは日本人として大東亜戦争で既に経験済であって今更云うべきことはないが、ここに原爆の急襲を受けた場合の注意はどんなものだろうか。

先ず第一に閃光が起こったらそれを見ることなく、直ぐにその閃光から自分の露出部を速かに隠すことに努める。そして、物体の陰に身をかくす。もし戸外にいたら直ちに地面に伏せて、露出した腕や手首及び頬を衣服で隠すように覆いかぶせる。まるまったその姿勢は少なくとも一〇秒間は続けなければならない。こうしても完全にガンマー線を防ぐことは出来ないが、閃光による火傷を軽減するには役立つ。もし戸口や角とか樹木とか防禦となるものがあれば、光を背にしてうずくまればよい。もしその防禦物が離れていたら避難所に走ってはならない。広場のまん中にいると同じようにうずくまるのが最良の方法である。この時ガラスの破片に注意するのが肝心だ。建築物の中にいる時は窓を背にして床に伏せてしまうか、テーブルや机の下に伏せなければならない。

こうして出来るだけ被害を防ぐにつとめるのである。

なお汚染された地域を通る時は、特別な防禦被服をつけ、靴の上には布製の長靴をはくか、手袋もゴム製を用いる。要すれば防毒面を使用する等考えなければならない。

このように原爆の被害から逃れることは、特にその爆心に近い程むずかしいことであるが、平素から準備をして少なくとも精神的打撃を受けてその被害を増大してはならない。

最後に原爆戦の余りに恐ろしさを知り自暴自棄となることなく、飽く迄雄々しく逞しく生き抜くことを考えようではないか。

[ 筑紫二郎: "原爆戦に生きぬく道 : 米ソ若し戦わば", 慶文社, 1953, pp.239, 二 日本の進むべき道 (七) 原爆の被害対策はよいか
そして、おわりは「最後に原爆戦の余りに恐ろしさを知り自暴自棄となることなく、飽く迄雄々しく逞しく生き抜くことを考えようではないか」という豪快な一文。





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