冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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資料集: 「ベロヴォージエ伝説」


中村喜和(1981)によれば、「キーテジ伝説」とともに、ロシアにはユートピア伝説として、「ベロヴォージエ伝説」がある。
コニベアのいわゆる合理主義派に属するドゥホボールやモロカン教徒が天国は人の心の中にありと考えて自己修養にはげんだのに対し、旧教徒の中でも逃亡派は驚くぺき執拗さをもって地上に楽園を追い求めた。ヴォルガがカスピ海にそそぐアストラハン近くに移住して、葦の原に泥小屋の集落を形成したこともあった。楽園探しが・シアの国境を越えたこともある。ピョートル一世の治世にネクラーソフなる人物を指導者とする容僧派に属するコックが、自由を求めてトルコに亡命したことがあった。彼らが異境で束縛のない豊かな暮らしを送っているという風聞がロシアにつたわった。十九世紀の後半にはネクラーソフ派のもとへおもむく逃亡派信者が少なくなかった。それより早く十九世紀の初めごろから、アルタイの山々のかなたにべロヴォージエ(白水境)と呼ばれる旧教徒の住む国があり、そこではは古式を守る教会もあるという噂がロシアの北部やシベリアにひろまっていた。そのベロヴォージエが日本に存在するとして、「日本国(オポーニア)への旅案内」というような文書も流布した。これを書いたポモーリエのトポーゼ・修道院の僧マルコも逃亡派と関係があったらしい。トポーゼ・修道院にはエフィーミイが二年ほど滞在したことがあった。噂を真に受けてジュンガリァの砂漠に足を踏み入れたロシア人の数は当局の記録にのこっているだけでも数百人にのぼった[13]。

ベロヴォージエも含めて、宗教的ユートピアは元来逃亡派だけのものではなかった。分離派とされた旧教徒たちはみずからの信仰の支えとして、常人の目には見えないが聖なるキリスト教徒が正統的な教義を保持する修道院がどこかにあると信じていた。その一つが、ヤロスラーヴリの西へ三〇〇キ・ほどはなれたトヴェーリ県(現在カリーニン州)上ヴォロックムリョーヴォ村の修道院である。ムスタ川にそったこの小村に古い壕がある。それはかつていくつかの修道院が土の下に沈んだ跡で、今でも修道院には男や女の修道僧が生きている。祭日のたびに鐘の音がそこから聞こえてくる。地下の修道院に行くことは非常にむずかしいけれども、全く不可能というわけではない。この話をつたえているのもメーリニコフである[14]。彼はさらに、ヤロスラーヴリの真北にあるヴォログダのキリーロフ、白海に面したアルハンゲリスク、あるいはヴォルガの下流のジグリーの山々などにも、古い儀式を守る修道士が老いることを知らずに隠れ住んでいる噂がある、と書いている。

[13] これについてはかつて以下の拙稿で論じたことがある。「日本国白水境探求」、金子幸彦編『ロシアの思想と文学』, 昭和五十二年、五〇九−五三七ぺージ。
[14] Л И Мельников Оцерки поповщйны стр 26

[ 中村喜和: "見えぬ町キーテジの物語" (1981) ]

「ベロヴォージエ伝説」についての中村喜和(1977)による解説は...
はじめに

自由な広い土地に対するあこがれば、ロシア農民の本源的な衝動であった。ペルヴィ=フレロフスキイは、その古典的な名著『ロシアにおける労働者階級の状態』を次のような農民心理の観察ではじめている。

中部ロシアのどこへ行ってもこんな声が聞こえる。「おれたちの暮らしときたらひどいもんさ。土地は狭いし年貢は高い。ところがサラトフやペルミへ行けば、みんなちゃんと暮している。土地は広くて、いくらでも耕せる。むこうなら野垂れ死することはない。」私はロシア東部のエルドラドを見物に出かけた。だがペルミに着くが早いか、また同じ文句を耳にした。「ここの暮らしは話にならない。トポーリスクへ行けば、まともに生活できる。むこうの土地は肥料なんか要らないんだ。」急いでトポーリスクに行ってみると、やはりみじめな暮らしをして、トムスクを羨んでいるのだった[1]...

トルストイの民話風の短編『人にはどれほどの土地が必要か』も、肥沃な広い土地を求めて中央ロシアから転々として、ついにヴォルガの東のパシキール人のもとまで出かけていく男の物語である。

宗教上の少数派に属する農民の場合、自由な土地への憧憬は一層切実であった。ロシア政府は、彼らが独自の教会をもつことを許さず、一時は国教徒の二倍の人頭税を課すなど行政面でもさまざまな抑圧を加えたからである。公式統計によれば、国家教会たるロシア正教会に所属しないいわゆる分離派教徒の数は、19世紀を通じてほぼ百万人であった。これに対して、自ら内務省官吏として分離派行政に関与していた作家メーリニコフは、60年代における分離派教徒の実数を、900万ないし1000万とふんでいる。大まかに言ってロシア内務省は総人口の10%ないし15%が分離派に属すると考えていたようである[2]。公の統計にあらわれない分離派教徒 --- 彼らは17世紀にニーコン総主教の典礼改革に反対して伝統的な信仰儀式を保持したので旧教徒とも呼ばれる --- はいわば「かくれ信徒」として正教会に服従をよそおうか、あるいは官憲の手の及ばなぬ僻地に身をひそめていたのである。信仰を守るために、プロシャ、オーストリア=ハンガリー帝国、あるいはトルコなどのような外国に逃亡した者も少なくなかった。

旧教徒のほとんどは農民であり、彼らには教育を受ける途もとざされていたので、祈祷書や典礼所や聖書伝を除き、彼ら自身の手になる文献資料はきわめてとぼしい。それだけに、同時代の旧教徒を扱ったレスコフ、メーリニコフ(筆名ペチュールスキイ)らの作品は、旧教徒の風俗や生活態度を知る上で貴重な資料を提供する。メーリニコフの長編小説『森の中で』に登場する老旧教徒ストゥコロフは、長い放浪の末に故郷に帰った時、幼馴染の同信者たちにむかって、彼がある修道僧の命令で、正しい信仰を守っている民を見出すために、まずトルコとペルシャの境にあるユーフラテス河畔、次にエジプトのテーベにある『エマカーニ国』、最後にシベリアのかなたの日本をおとずれ、やっと日本なる「ベロヴォージエ」で旧教徒の国をたずねた次第を物語る[3]。小説ではストゥコロフはのちにペテン師であることが発覚するが、日本と旧教徒の結びつきは作者メーリニコフの虚構ではなく、ロシアの農民の間に流布していた風説にもとづくものであった。現代ソビエトの民俗学者キリール・チストフによれば、ベロヴォージエは19世紀ロシア農民の最もポピュラーなユートピア伝説であったという[4]。本稿は、この伝説の紹介を試みるとともに、若干の考察を加えることを目的としている。

[ 中村喜和「日本国白水境探求 -- ロシア農民の一ユートピアについて」『ロシアの思想と文学』、恒文社、1977 ]
1. 「日本国への旅案内」

ベロヴォージエ伝説がはじめて公式の記録に残ったたのは、1807年のことである。この年シベリアはトムスク県の百姓ポプィリョフなる人物がペテルプルグの内務省に出頭して、次のような申し立てをした。南アルタイのプフタルマから中国との国境を越え、さらに中国のかなたの海に浮かぶベロヴォージエというところに、旧教徒のロシア人が住んでいる。彼らはソロフキ修道院の蜂起(1668-1676。コーエンの改革に反対して起こった)のさいにロシアから逃亡した者の子孫で、今なお古いしきたりにしたがって生活している。最近皇帝が旧教徒に教会再興を許すという話が伝わったので、今や皇帝の臣民として帰服することを望んでいる。彼らは国境のむこうの三カ所に分かれ住んでいる。第一の場所には1000人あまり、第二の場所には約700人、第三のベロヴォージエには50万かそれ以上、いずれも税金をだれにも納めすに暮らしている --- というのである。

ポプィリョフは、自分がベロヴォージエに案内してもいいと申し出た。内務省は彼に150ループルという大金を与えた上でシベリア総督のもとへ改めて出頭するように命じたが、この男は二度と役人の前に現われなかった[5]。首都の役人が百姓に一杯食わされた図であるが、内務省はそれ以前からこの種の噂を知っていたのではないかと前述のチストフは推測している。

ベロヴォージエの所在をもっと明確に示す短い文書がある。「日本国への旅案内」と題された手書きの写本がそれである。確実に現存するのは4点、ほかに3点が19世紀後半から20世紀初頭までに活字となっている[5](この3点はいすれも原本は伝わらない)。そのうち最良の写本とされるものを次に翻訳して掲げる。このテクストは、メーリニコフがその長大な論文「旧教徒容僧派の歴史的概観」(1864-1866)に脚注として収めたものである(容僧派とは、旧教徒の中ても司祭の権威を認める比較的穏健なグループで、分離派内部ではラジカルな無僧派に対して多数派であった。もっともこの伝説が容僧派のみにかかわるものてはないことは後述のとおりてある)。訳文中〔〕の中の語句は、*印で示された部分についての他のテクストからのヴァリアントである。

日本国への旅案内、すなわち経路。日本国をおとすれたる正真正銘の目撃者トボーゼロ僧院修道僧マルクの記。マルクの手になる旅案内。
経路すなわち旅の案内。モスクワよりカザンへ、カザンよりエカテリンプルグまで、さらにチュメーニ、カメノゴルスク、ヴィベルスム村、イズベンスク、カトゥーニ川をさかのほってクラスノヤルスク、ウスチュバ村へ。この村で旅人宿のピョートル・キリーロフをたすねよ。
近くにあまたの秘密の洞窟があり、そこからいくばくもないところに雪をいただく山々が三百露里にわたって連なり、この山々の雪は決して融けることがない。これらの山の背後にウミメンスク村がありそこに小礼拝堂があって、苦行僧ヨシフが守っている。そこより中国に通する道あり、徒歩で44日、グバニを経て、やがて日本国に至る。

そこの住民は、大洋にかこまれたベロヴォージエと呼ばれるところに住んでいる。住民たちは70ほどの島々に分かれ住み、その島のいくつかは五百露里も離れていて、小さな島にいたっては数えることも不可能である。

彼らがここに住んでいることは、宗教会議にもとづく聖使徒教会の古き信仰を守るキリストのまねび人たちに周知のことである。予がこの事実を断言するのは、予すなわち罪障深き修道僧マルク自身、二人の修道僧とともにここをおとずれたからである。東方の国々において、かれらは大いなる熱意と努力を払って、〔魂の〕救済に欠かせぬ古き信仰を守る正教の牧者たちをさがし求めてきたが、神のみ助けによって、シリア派の179の教会を見出した。彼らはアンチオキアで立てられた正教の総主教と、四人の府主教をいただいている。一方40にのばるロシア人の教会もまた、シリアで立てられた一人の府主教と主教たちをいただいている。ローマの異端者どもの迫害をのがれて、多くの人びとが北氷洋を経由する海路ならびに陸路でこの地に赴いた。神はこの地を充たされている。〔ロシア人もまたモスクワ総主教ニーコンが古き信仰を裏切ったとき、ソロフキ修道院はじめロシア各地から逃げ出し、あらゆる身分の者が北氷洋を船で渡り、他の者はロシアから陸路で、この地を充たすためにやってきた。〕疑いをいだく者があれば、予は神をわれらの証人に立てよう。キリストの再臨まで、血汐を流さぬ生贄がささげられるであろう。

この地ではロシアから米る者は最高の格式をもって迎えられる。すなわち生涯ここにとどまることを望む者は、三たび浸水して完全な洗礼を受ける。予の伴侶たりし2人の修道僧はここに骨を埋めることに同意し、聖なる洗礼を受けた。彼らの言うには、「御身らはみなアンチキリストのさまざまな大異端によってけがれている。『けがれたる人びとの群より出でよ、女を追い求める蛇に触るるなかれ、地の裂目にかくれたる女をとらえることはかなわぬゆえなり」と書かれているとおりである。」

この地には盗み、騙り、その他掟にそむく行為はない。俗権による裁判は行なわれず、教会当局がもろもろの民とあらゆる人びとを治めている。そこでは本々は最も高い木々〔山々〕と同じ高さである。冬季には異常な寒気が襲い、大地に亀裂が生ずる。かなりの地震をともなう轟音もよく起こる。ありとあらゆる大地の実りもある。ぶどうや米も育つ。「スウェーデンの旅案内」で語られているように、彼らのもとには金と銀が無限にあり、宝石や高価な真珠もきわめて多い。彼ら日本人は自国に何びとも入れす、どことも戦争を行なわない。彼らの国は遠く離れているからである。

中国にはこの世のどこにも類がないような驚くべき町がある。彼らの第一の首都はカバンである。〔この地にスキタイという名の町があり、これは世界に比類のない驚くべき町である。ほかにも多くの町があり人びとはむつまじく暮らしている。改めて言うまでもないが、上述の旅案内の語るところでは、このべロヴォ1ジェの地に到達できるのは、あとへは退かぬと炎のごとき熱烈な覚悟をかためた者のみである。主はかかる者をこそ真に導きたもうのである。アーメン。〕


他の写本と比較して、右のテクストに多少注釈を加えておく。

「旅案内」の作者がマルクとなっているもの4本(かりにこれをA群とする。右の訳文のテクストも、〔〕内の補足の典拠としたものもここに含まれる)、ほかに作者をミハイルとしているもの3本。後者のうち2本では、ウスチュバの旅人宿がA群同様ピョートル・キリーロフと呼ばれ(B群)、残りの1本はピョートル・モシャーロフとする(C)。Cでは日本への言及がない。

すべての写本を通じて、モスクワからウスチュバまでの地名が一致しない。しかし底本を除くA群諸写本では、モスクワ -- カザン -- 工カテリンプルグ -- チュメーニ -- バルナウール -- ビイスク --カトウラ川(カトウーニの誤りか) -- クラスノクート -- ウスチュバの径路がほば共通している。ビイスクまでは当時のシベリアへの幹線ともいうべき道筋。ウスチュバに達するにはビイスクから右に折れて南のアルタイ山地へ向かうのである。ただしクラスノクートは現在の同名の町とは別の村落らしい。

邦訳の底本では国境のかなたのグバニGuban'に刊行者のメーリニコフが「ゴビ?」と自分自分の訂正案を示している。この個所、群の他の写本はBuratあるいはBuran [1]。

これに対しB群の1本は、ヨシフの礼拝堂から「中国を徒歩で40日間横切り、さらに4日のkukanie(意味不明)通過して、4日ののちに日本国に至る」、別の一本は「キジ国を徒歩で40間横切り、さらに四日のTutanijaを通過してOseon国に至る。」とし,Cはいかなる地名も挙げすに「12昼夜の海路、3日間不毛のステップを通過し、険阻な山脈を横断してさらに進むこと。行程しめて二カ月半」と述べる。

BとCは全体的に記述が簡略であるが、Bの1本は日本に到着してからの浸水洗礼について述べる代わりに、3年半の見習期間があるとしている。

メーリニコフの写本の成立年代は不明である。ただし最初の刊行は1864年。(彼の手もとには別にもう一本あったらしい。)現存する写本はいすれもそれより遅く、19世紀の70年代から20世紀の初めにかけて書き写されたものであることがわかっている。

[ 中村喜和「日本国白水境探求 -- ロシア農民の一ユートピアについて」『ロシアの思想と文学』、恒文社、1977 ]

2.旧教徒「逃亡派」

「日本国への旅案内」は、修道僧マルクあるいはミハイルの手になるとされるがチストフはマルクとミハイルを同一人物と考える。俗名と剃髪後の僧名の相違と見るのである。ニキータがニーコン(総主教)、エスターフィがエフィーミイ(後述)と名乗るように、俗名と僧名は最初の音が一致することが多かった。トボーゼロはフィンランドに隣接するカレリア地方北部の湖の一つで、ここの修道院は旧教徒の中でも無僧派の一分派である逃亡派begunyと関係が深かった。この分派は遍歴派strannikiの名でも知られる。

逃亡派は十八世紀の後半、エカテリーナ二世の宥和政策に呼応し無僧派の中に体制側と妥協する動きがあらわれたのに反発して成立したセクトである。創始者はウクライナ出身の農奴エフィーミイ(俗名はエスターフィ)で、彼は農奴の身分のまま軍隊に取られ、まもなく脱走してャロスラヴリ、コストロマー、ヴォログダなどの北部諸県を流浪しながら、独特の教義を説いて信者を集めた。この分派はニーコンの改革と同時に、アンチキリストの時代がはじまったと考える点ではすべての旧教徒と同様であったが、神と個人のあいだに立つ者としての司祭の存在を認めないばかりか、皇帝とあらゆる国家制度と機関をアンチキリストの体現と考えた。そして具体的には税金を払うこと、徴兵に応じて軍隊にはいること、貨幣を使用すること、家族を構成すること、バスポートを受取ること、人口調査を受けること等々をもアンチキリストへの屈服として否定した。彼らにとって雎一の正しい生き方は、あらゆる社会関係を断ち、「キリストのために」放浪することであった。信者たちが集団生活をいとなむ場合には、衣服や履物に至るまであらゆる財産を共有とした。私有財産と身分の不平等は、あらゆる悪の根源と考えられた。彼らは仲間以外の人間に対してつねに兄弟bratetsと呼びかけ、役人の前に出ても帽子を取ろうとしなかったという[7]。この派の信者の大部分が農民であったことは言うまでもないが、軍隊からの脱走兵や逃亡農奴も多かった。

エフィーミイの後継者たちの代になると、戒律はややゆるめられ、信者は教義の実践の程度によって三つの段階に分けられた。第一は完全な成員、第二は成員と認められるまでの見習期間中の者、第三は「在俗信徒」で、彼らは「肉体的」には権力に服従することを許され、逃亡派に属することを世間に明かすことなく、遍歴する信者に宿と衣食を提供することを義務づけられていた。在俗信徒はロシア語でstrannopriimetsと呼ばれていたが、「日本国への旅案内」でウスチュバのピョートル・キリーロフがまさに同じ呼ばれ方をしているのである(訳文では「旅人宿」)。逃亡派の身分区別は恒久的なものではなく、このstrannopriimetsもいずれは完全な成員にならなければならぬと考えられていた。部外者に対する彼らの信仰秘匿は徹底的で、森の奥や洞窟に好んで居住し、家をつくるときには壁や床下にかならす隠れ場所をもうけていたという。

同じ十八世紀に出現した分派でも、ドウホポール派やモロカン派は、天国は人の心の中にあり、これを外界に求めてはならぬとして、各人が自己修養にはげむことを教えたのに対し、逃亡派はこの地上に天国を熱心に探し求めた。チストフはその執拗さを「百姓流」の渇望の表現と評している。彼らの思考はときに終末論的な形をとった。この世の終りは近い、

まもなく救世主があらわれてアンチキリストと戦い、その勝利の後に正義の千年王国が出現すると信じたのである。彼らはこの王国がカスビ海の岸にきすかれると考え、ヴォルガがカスビ海にそそぐアストラハンに大挙して押し寄せ、葦の原で穴居生活をいとなんだこともあった。「日本国への旅案内」におけるウスチュバ付近の「秘密の洞窟」への言及、ベロヴォージエの住民の黙示録的な志向(アンチキリストの大異端云々)は、この文書の逃亡派的色彩をますます濃厚にしている。

湖底の町キーテジの伝説の形成に、この分派が一役演じていることも明らかにされているし[8]、メーリニコフによれは、ヴォルガ下流のジグリーの山や、「ムレフ修道院」にまつわる一種のユートビア伝説も逃亡派と関係があった。十九世紀後半には、政府の禁令を無視してプルガリアやトルコへ移住する信者もあった。

もっとも、地上の楽園を国外に求めたのは逃亡派だけではなかった。ピョートル一世の治世に起こったいわゆるプラーヴィンの蜂起(1707-1708)が鎮圧されたのち、イグナート・ネクラーソフを指導者とする容僧派旧教徒のコサックたちは、ドンから当時トルコ領であった北コーカサスのクバーニ河畔へ移住して、コサック特有の合議制にもとづく自治を行なった。ネクラーソフの一味が自由な暮らしをいとなんでいるという噂がロシア全土に広まって、ここへ逃亡する農奴があとをたたなかったため、ロシア政府は三十年以上にわたってクバーニへ向けて懲罰部隊を派遣した。ネクラーソフ派も数回報復的にロシアへ侵入したが、1740年にいたってクバーニの地を捨て、再度トルコ政府の許可を得て、今度はドナウ河畔(現在のルーマニア領)に移った。新しい移住地にも依然としてロシアからの逃亡民の流入がつづいた。ネクラーソフ派の住む土地が理想化されたばかりでなく、彼ら自身の中にも新しい理想の国を探求する運動が起こった。19世紀の中葉にネクラーソフ派の一部は、さらに自由の地を求めてトルコ国内のマイノス湖ゃべイシェイル湖に移動した。同じころ彼らのあいだにイグナート・ネクラーソフは、一部のコサックをひきつれて「砂の海」(アラビアの砂漠らしい)のかなたにおもむいたまま、まだ存命しているという伝説が生まれていた。ネクラーンフ派の子孫は、かっての指導者が住むという「イグナートの町」を探し求めて、十九世紀の末にいたるまでエジプト、エチオピア、さらには中東や近東の諸国をたすね歩き、ついにはインドや中国にも足跡をしるしたという。

ベルヴィ=フレロフスキイからの引用にもうかがわれるように、宗教的な意味での理想郷伝説とは別に、バイカル以遠の東シベリアや極東に途方もなく肥沃な土地が無尽蔵にあるという風説は、ロシア北部やウクライナに根づよく流布していた。この種の伝説や噂が、シベリア植民にかなりの役割を果たしたであろうことは容易に想像される[9]。ロシアからシベリアにおもむいたのは、探検家や流刑囚ばかりではなかったのである[10]。

V・アルセーニエフは、沿海州探検の記録である「デルスウ・ウザーラ』の中で、この地方の旧教徒との出会いを再三叙述している。家族づれでジギト湾に上陸したある旧教徒の老人は、それまで黒竜江河畔に住んでいたが、ロシアから米た正教徒の移民が盗みをはたらくので、新しい未開地に移ってきたとアルセーニエフに語る。彼らは隣人との争いを極端に嫌うのである。この地方の旧教徒は政府に税金を納めす、その代わりさまざまな補助金を受けることもなかったらしい。ある旧教徒の部落は十八世帯から成っていたが、「彼らは未だに純粋な大口シア人の風貌をとどめ、家父長制服装、道具類、衣服の縫取、本彫などはすべて古代ロシアを思わせた(リ」とアルセーニエフは書いている。残念ながら、アルセーニエフは彼らがいかなる分派に属したかは述べていない。

「日本国への旅案内」の作者マルク(ミハイル)が逃亡派信徒であった確たる証拠のないことは、チストフも認めている。確実なのは、ベロヴォージエ伝説が容僧派と無僧派とを問わず、多くの旧教徒を東方の理想郷へと惹きつけたことである。

[ 中村喜和「日本国白水境探求 -- ロシア農民の一ユートピアについて」『ロシアの思想と文学』、恒文社、1977 ]
3. アルタイの「石の民」

トムスクの百姓ポプイリョフがベロヴォージエへの中継地として挙げたのは、アルタイのプフタルマであった。プフタルマは元来川の名、南アルタイ山脈から流れ出てイルトウィシュにそそぎ、やがてオビ川に合流する。プフタルマがイルトウィシュに合する地点の海抜は三三0メートル、そこまでの川の全長は三九八キロ、水源のアルタイの峰々は3000ないし4500メートルである。行政上はカザフ共和国の最東端に位置し、分水嶺をへだてて中華人民共和国新彊ウイグル自治区に接する。

一方、「旅案内」にみえるカトウーニ川は、オビの直接の支流の一つ、その水源はやはりアルタイ山中にあって、プフタルマとは尾根一つをへだてるのみである。ウスチュバ村の位置は確認できないが、これがもし文字どおりウバ川の河口にあるとすれば、プフタルマより下流のイルトウィシュ川沿いのはすである。ここへ到達するのにビイスクからカトウーニ川を遡行するのは不自然である。このあたり「旅案内」に齟齬があったのではあるまいか。

プフタルマの峽谷そのものが、ます理想郷ベロヴォージエとしてロシア本国に知られたことは疑問の余地がないようである。ベロヴォージエbelovodjeは字義どおりには白水境のこと(beloは白、vodjeはvodaから水のほとり、あるいは水にかこまれた場所)。一説にはこの名は白濁したプフタルマの川水に由来するともいわれるが(プフタルマの支流にBelaja「白」なる川もある)、チストフはこれを斥け、ロシア語の「白」は色名のみならす、「純粋」や「自由」の含意もあるとして、ダーリの辞書の記述を援用している。

シベリア史家のZ・ボクロフスキイによれば、南アルタイ地方にロシア人が入植したのは18世紀の40年代である[12]。はじめウバ川にクジマという修道僧が庵を構えていたが、やがて名高い強盗のセレズネフ三兄弟 --- 彼らがいかなる行為で名を揚げたか、ボクロフスキイは語っていない。一般にロシアの強盗は民衆に恐れられるより愛された --- がトムスク県のクズネック監獄を脱走して親類縁者をひきつれ、イルトウィシュ川をさかのばってプフタルマの流域に住みついたという。この地方は当時のロシア政府が国境と認めて守備隊を配置していた。いわゆるコルィバノ=ヴォスクエセンスク線よりさらに南であった。容僧派旧教徒のセレズネフ一党は、例によって露シアの官権の埓外に出たのである。アルタイ山地が「石の山」kamen'と呼ばれていたところから彼らは「石の民」kamenshchikiと名づけられた。帝政末期のプロックハウス=エフロンの百科辞典にこの名がのこっている。「石の民」はいかなる権力の支配も受けす、家畜を牧し、農耕をいとなみ、旧教の掟にしたがって不自由を知らすに暮らした。彼らは合議制の自治をしいた。裁判での最も重い刑罰は追放で、罪人は筏に乗せられてプフタルマ川を流されるのであった。「石の民」の噂は急速に広まりシベリアやロシアの各地から、逃亡農奴や脱走兵が国境守備隊の目をくらまして流入しはじめた。1788年にはこの川の上流にすでに100人以上のロシア人が住みついているのを、守備隊駐屯地カメンノゴールスクから派遣された車隊が発見している。この峽谷から北側の尾根を越えてカトウーニ上流のウィモン峽谷に移住する者もあらわれた。

1791年に「石の民」がロシア政府に帰順したのはプフタルマの谷に不作がつづき、国境内との交易と往来が必要になったことと、もう一つ先住民キルギス族からの圧迫が強まった(リためであった。しかし国教徒に転向することは拒否したので、エカテリーナ2世は彼らに対して人頭税を課さず、異民族なみに毛皮による貢租を支払うように命じた。こうして徴兵と納税の義務を免れ、ある程度の自治が確保された。1878年にエカテリーナの勅令が廃止されるまでこの特権は維持され、トムスク県の役人や警察はこの地域の行政にほとんどロ出しできなかった。帰順直後に提出された名簿によれば、プフタルマ峽谷の村落は30を数え、人口は男250、女68であったが、1815年の調査では男313、女314となっている。25年間に女の数が激増しているように見えるのは、最初の報告が故意に不完全であったためらしい。

アルタイの山ふところに抱かれたプフタルマが、温和な気候と類まれな自然の美に恵まれていることはロシアでもよく知られていた。1863年にこの地をおとすれた・プリンツという人物はこう書いている。この地方では草本がいちじるしく繁茂し、平地では草の交が馬の背より高く伸び、通行を妨げるほどである。一般に地味は豊かで、穀物がよく実る。とりわけプフタルマの右岸にあたる南向きの斜面では肝本、にわとこ、すぐり、えぞいちごなどが随所に密生し、昆虫では蝶の種類が多い。実際に見た者でなければ、この景観を想像するのも困難である[14]、と。

政府の統計資料によると、カザン、エカテリンプルグ、チュメーニを経てアルタイ地方に移住したロシア人の数は、1866年から1877年までの間に8000人を記録したが、それから数年後の1882年から1884年には、その数は実に58000にのばったという。この移民の約20%は北部ロシアの農民であった[15]。

豊穣の地アルタイへのあこがれが現在もなおロシア人のあいだに生きていることは、ソルジェニーツインの「収容所群島」の次のような記述からも知ることができる。

どういうわけか、監房ではアルタイ地方に関する伝説がもてはやされていた。そこへ行ったことのあるごくわすかな人びとが、いや何よりも一度も行ったことのない人びとが監房の仲間たちに美しい夢を語ってきかせたのだ。

アルタイはすはらしい土地だ!そこにはシベリアのような広い土地と、温和な気候がある。穀物の実る岸辺にはさまれて、蜜の川が流れている。草原と山々、羊の群、野島、魚、人口稠密の農村[18]...


ソルジェニーツインは右の個所に対して「アルタイ地方についての囚人たちの夢は、古くからの農民の夢の延長ではなかろうか」と注を加えている。現代の「分離派」作家の臆測が的中したと言うべきか。

[ 中村喜和「日本国白水境探求 -- ロシア農民の一ユートピアについて」『ロシアの思想と文学』、恒文社、1977 ]

4. はるかな国を求めて

アルタイのプフタルマの名が高まる一方で、理想郷ベロヴォージエはますますそこから遠ざかっていった。

ベロヴォージエがプフタルマのかなたに位置するとはすでに1807年にポプイリョフが内務省で陳述したことであったが、この話を信じたのが皇帝の役人ばかりであったとは考えられない。19世紀の初頭あるいはもっと早く18世紀の末から、幻の国ベロヴォージエを求めてアルタイの峯を越える者があったにちがいない。

トムスク県の裁判記録では、1826六年に中国官憲が、すでに峠の東側のカナス湖に達していたロシア人逃亡民の引取を要求してきたことが判明している。このとき中国の守備隊はプフタルマ川上流三分の一ほどのチンギスタイに駐屯していたというから、当時の国境線は現在より100キロほど西を走っていたことになる。カナス湖畔で中国側に保護された不法越境者は、アルタイ地区の工場に「登録」されていたロシア人43名で、その中には子供をふくむ家族づれの者もいた。工場の「登録」労働者とは身分上は農奴であって、移動の自由をもたなかったことは言うまでもない。逃亡者には特赦令が発布されたにもかかわらず、彼らは帰国後1人あたり31ループルという高額の罰金を課せられた。

カナス湖は現在も中国領であるが、1827年にはふたたびここへ11人のロシア人があらわれた。彼らはその先へは進まずに引返し、翌年さらに前述のような工場農奴や百姓の仲間をともなって国境を越えようとした。このときの人数は86人であった。その一部は役人に捕えられたが、役人の訊問に対して、「楽な暮らしができる肥えた場所」を見つけるためにどこかの湖に行くのだと答えた。

1830年代のトムスク県庁のアルヒーフには、アルタイ地方の百姓ゼミロフ一家が不穏な動きを示した記録ものこってている。彼らは国境のむこうにベロヴォージエという土地があって、そこではいかなる税金も賦役もなく安穏な暮らしができること、また正しい信仰が伝えられていて140の教会があり、主教が立てられている、などの噂をまきちらしたのであった。彼らが逃亡派の旧教徒であることは疑いないとチストフは断定している。1850年代の末にもトボーリスク県のフォマー・エゴロヴィチなる身元不詳の人物が逃亡派の教義を広めるとともに、ベロヴォージエへ案内すると称して100家族ほど希望者を集めたことがあった。事件は当時の新聞の記事になった。

ポプロフ兄弟のように、ベロヴォージエ探しに一生を睹けた者もあった。彼らは三十年のあいだに、この理想郷をめざして4回もアルタイ山脈を越えたのだ。最初は1840年のことで、このときは15年前にカナス湖まで行きっいた数人の百姓が先達となり、プフタルマやウィモン谷から300人あまりが参加したが、アルタイの峯を横断してジュンガリアの砂漠を千キロほど進んだところで疲労困憊し、ハミの中国官憲に助けを求めた。2回目の1858年には、セミョーンとフリサンフのポプロフ兄弟が指導者となり結果的には簡単に失敗したものの兄弟はかえって自信をふかめ、それから3年後の1861年の夏には、プフタルマの村々の住民156人をひきつれて3度目の旅に出発した。一行は少人数のグループに分かれコサック兵のピケット・ラインを突破し、国境ふかくはったチョールヌイ・イルトゥイシュ川で合流した。彼らはジュンガリアの荒野を長期に亘ってさまよい、最も悲惨な運命を体験するパーティとなった。本隊からはぐれてキルギス人の捕虜となる者もいた。あやうく彼らの手を逃れて、そのまま帰国する者もあった。しかし他の者は砂漠を歩きつづけて、ウルムチ付近とコンチェ川で越冬したという。コンチェ川という名に誤りがないとすれば、彼らの一部は天山山脈を踏破してタリム盆地に出たのであろうか。ポプロフらは翌年の春も砂漠の旅をつづけたが、結局ベロヴォージエを見出すことができす、マナスを経てプフタルマに戻った。1869年にフリサンフ・ポプロフは、またもベロヴォージエ探求者の群をひきいてアルタイを越え、今度は従来より北寄りに進んで現在のモンゴル領内にはいり、ウスト川に到達した。ここで彼らはロシア人旧教徒の集落を発見したが、彼らがロシア政府の支配に服していると知ってただちにそこを退去したという。(そんな隔絶した土地に住みながらロシア政府に服属していたとは理解しがたいことであるが。)一行は道中でロシア政府が派遣した探検隊に遭遇したが、その報告から察すれば、モンゴル領内を六「七百キロも東進したらしい。探検隊の一員であった。ハヴリーノフは、べロヴォージェをさがしあぐねて帰国したポプロフが、逃亡罪で重罰に処せられぬよう奔走している。

探検家として名高いプルジェヴァーリスキイによれば、1860年にはロプノル湖の周囲に約百人の旧教徒が住んでいたというから[17]、名前も移住の時期も伝わらぬロシア人越境者はすいぶん多かったにちがいない。

19世紀の末以後もアルタイを越えてベロヴォージエを発見しようとする試みが絶えなかったことは、さまざまの資料から明らかである。革命後の1927年にアルタイをおとずれた民俗学者たちは、土地の故老たちからチベット、アフガニスタン、インドなどにこのユートビアを求めようとした者がいたことを耳にしたという。

元米プフタルマの水源地付近から中国にはいる道は、18世紀以後の中露交渉の歴史の中で公には利用されたことのない間道であった。両国の外交使節や商人は、初期にはネルチンスクとチチハル、のちにはキ+フタとウランバートルを経由して往来した。南アルタイ、それもイルトウィシュの本流をさかのばってジュンガリアにはいる道筋を通ったのは、ロシアからの最初の使節F・バイコフ(1654-1657)だけのようである[18]。ベロヴォージエをめざすロシアの農民たちは、国禁を犯す者として間道しか利用できなかったのであろう。

海路によってベロヴォージエにおもむき、主教に叙任されたと詐称した人物も知られている。その名をアルカージイといい19世紀の半ばから1880年代にかけて北ロシアやウラルの諸県を放浪していた。彼が携行した文書の中には、「日本総主教」の署名人りの主教叙任証も含まれていた。この署名はのちに専門家によって文字にあらずと鑑定されたという。アルカージイはいたるところでベロヴォージエについて語りこの島は270万の住民を擁して、そのうち50万はロシア人で、教会の数は700であるとかこの国の皇帝はグリゴーリイといい、后はグラフィーラと呼ばれているとかといった類の話をまことしやかに吹聴したが、賢明にもベロヴォージエへの移住者をつのることはなかったらしい。そのうち50万はロシア人で、教会の数は七百であるとかこの国の皇帝はグリゴ,ーリイとしし

いかがわしいといえば、1839年の12月に、奥ヴォルガのケルジェネッ(ここには旧教徒の有名な僧院群があった) 近くの森で一人のあやしい浮浪者が捕まった。この男は警察での訊問に対し、日本国籍を有する旧教徒であると名乗り、日本には大勢の旧教徒が住んでいて、総主教さえいると述べたという。愚弄されたと怒ったのか、それとも人心攪乱を恐れたのか、当局は彼を即座にシベリア送りにした。これはメーリニコフが伝えている話である[19]。このエピソードは、19世紀前半に確実にベロヴォージエ=日本伝説が成立していたことを示すものとして注目に値する。

おそらくは偽主教アルカージイの法螺話に触発されたのであろう、中国を経由せすに船でベロヴォージエに到達しようと考えついた者があった。ウラル山地に住むコサックたちがそれで、まず1870年の初めにバルイシニコフほか2名がポンべィまで行って、そこから引きあげた。二度目にはホフロフはじめ3名のコサックが、篤信家や同郷のコサックから集めた寄付金2600ループルを懐にして、1898年5月末にオデッサからコンスタンチノープルを経てスエズ運河を通り、セイロン、スマトラ、シンガポール、サイゴン、香港、上海などに寄港した末に長崎に立ち寄り、どこにもベロヴォージエを探し出せぬままヴラジヴォストークに渡りその年の10月にシベリア経由で故郷のウラルへ戻った。ホフロフは帰国後その日記を雑誌に発表したり一冊の本(にまとめたりしたが、彼と親しかった作家のコロレンコもホフロフの本に序文を書き、興味ある記事をのこしている[21]。ホフロフの手記は筆者未見、コロレンコも明治31年の長崎がコサックの眼にどう映じたか一言も費やしていないのは残念である。

ホフロフ一行の世界半周旅行にもかかわらす、ウラル・コサックはまだ得心がいかなかったようである。彼らは1903年2月末に二人の代表をャースナヤ・ポリャーナのトルストイのもとへ派遣して、ベロヴォージエのありかについて教えを乞うことにした。トルストイはこのとき75歳、国内で迫害されていたドウホポール派のカナダ移住を助けるために長編『復活』を書き上げたばかりで、その名は久しく口シアの内外にとどろいていた。折悪しく病気だった作家が、コサックたちとどんな話をしたかは不明である。コサックがトルストイをたずねたことを知ったコロレンコは、自分が序文を書いたホフロフの本をヤースナヤ・ポリャーナに送り、ベロヴォージエ問題が彼らにとっていかなる関心事であるか説明した。トルストイは1904年1月20日付の返信でコロレンコに次のように書いた。

「・・・あなたの序文のおかげで彼らが米訪したわけがわかりました。この驚くべき感動的な現象は非常に非常に〔トルストイはochen'という副詞を重ねている --- 中村〕重要なことを考えさせます[22]。」

[ 中村喜和「日本国白水境探求 -- ロシア農民の一ユートピアについて」『ロシアの思想と文学』、恒文社、1977 ]
5. 理想郷日本

ベロヴォージエ伝説は、一種のユートビア説話である。しかしこの伝説は、ロシアの多くの農民をしばしば破減的な実践行動に駆り立てた恐るべきアビールを秘めていた。それは単に素朴な聞き手の想像を楽しませるための幻の楽園の叙述というより、確かに実在するはすの理想郷への旅立ちを同胞に呼びかける、檄文の役割を果たしたのだった。この種の伝説がほかにも流市していたらしいことは、たとえば「日本国への旅案内」中の「スウェーデンへの旅案内」への謎めいた言及からもうかがうことができる。

ロシアの農民が「日本国への旅案内」を文学作品として享受したとは考えられない。その点に、ユートビア文学の空想旅行記との根本的な相違があるといえよう。それにもかかわらす、この伝説が多くのユートビア的作品といくつかの点で顕著な共通点をもっことも否定できない事実である。遠い昔やはるかな国に幸福な幻想をいだくことは、古くからの人間の通性であった。ベロヴォージエもこの「はるかな国」のテーマの一ヴァリエーションにほかならない。白水境というその名称からしてこの国が水にかこまれた島であること、農産物や金銀宝石に富むこと、自国にはだれも入れず、(これはロシア人を最高の格式で迎えるという記事と明らかに矛盾するが)、他国と戦争もせすに外界から孤立した社会をいとなむこと、などは古来の多くのユートピアと軌を一にしている。「旅案内」が風聞の記録ではなく、実際にこの楽園をその目で見てきた人物の口から一人称で語られるという結構にしても、ユートピア譚の定石をふんでいるのである。

「旅案内」にみられるような日本はベロヴォージエ観が成立し、それがチストフのいうように、ロシアのユートビア伝説中で最大の人気を獲得するに至るまでには、さまざまな要因が働いたことであろう。まずこの伝説が旧教徒を魅了したのは、ベロヴォージエなる理想郷では、異端に毒されない真のキリスト教が保持されているという点であった。「ローマの異端者どもの迫害をのがれて」東方のベロヴォージエにおもむいた「シリア派」キリスト教徒の中には、中国で景教として発展するネストリウス派の東漸の伝承が影をおとしているのではあるまいか。もちろんい中央アジアを根拠に東西に広がったマニ一教や、十字軍時代の壮大な楽園説話プレスター・ジョンの伝説の余韻などが、ロシア農民の「東方のキリスト教国」像の形成に関係がなかったとも言いきれまい。もっと近いところでは、1670年代にロシア使節として中国へやって来たニコラエ・ミレスク(スパファリイ)が、北京でイエズス会士から得た日本についての情報もあった。スパファリイは、その中国見聞記の最後の章を「栄えある大いなる島国」日本の記述にあて、この国ではキリスト教が盛んで、イエズス会の宣教師がいないような町は一つもないと述べているのである[23]。日本のキリシタン迫害のもようは、1734年にペテルプルグであらわれたロシア最初の日本関係のモノグラフ『日本誌』[24]で紹介された。もっとものちに述べるように、一般に書物の知識はロシア農民にとって無縁であった可能性のほうがつよいが。

その資料源が何であるにせよ、ベロヴォージエではロシア人のための「四十の教会」のほかに、「シリア派の179の教会」があることが注目される。しかもシリア派はアンチオキアで叙任された総主教をもつのに対し、ロシア教会の主教たちは、このシリア総主教によって聖職を授任される関係になっているのである。これはかつてロシアの高僧たちがコンスタンチノープルで叙任されていたことを思い出させる。元米東ローマ帝国は、コンスタンチノープル、アレクサンドリア、アンチオキア、エルサレムの四総主教区に分かれていた。ロシアに総主教がおかれたのは、ようやくイワン雷帝没後の1589年であった。ベロヴォージエでの事態から察すれば、ロシアの旧教徒たちは、かならすしも独立したautocephalous国家教会を望んでいなかったことがわかる。「シリア派」もロシア旧教徒も異端の迫害に抗して「古き信仰」を固守するという連帯意識が、このような民族混住を容易に受け容れさせたのであろう。

犯罪が存在しないので世俗権力による支配がない(したがって納税も不必要である)こと、また他国と戦争を行なわない(したがって軍隊がないので徴兵制度は存在しない)ことは、無政府主義的なロシア農民の夢をそのまま反映しているように思われる。

信仰の保証、抑圧なき社会体制とならんで、自然の恵みもまたユートビアの重要な条件である。ところが冬季の異常な寒さと轟音をともなう地震は、ベロヴォージエに奇妙なリアリティを与えている。これは千島までしばしば足をのばしたコサックたちからの伝聞であろうとチストフは考えている。ロシア人がシベリアを横切ってカムチャトカ半島に達するのは17世紀末のことであるが、18世紀全体を通じてロシアの探検家や毛皮獲りたちは徐々に千島列島を南下して、1870年代の安永年間にはすでに蝦夷本島の東端に足を踏み入れ、日本人と接触していた[25]。文書による当局への報告とは別に、千島の気候風土についての風評は、民衆のあいだに伝わったにちがいないのである。

農産物のレバートリイは貧弱で、米(サラセンの麦はいいとしても、ぶどうが挙げられているのは不可解である。

金銀に関して言えば、ヨーロッパではマルコ・ポーロ以前、すでに古典時代から東方に黄金郷が存在すると信じられてきた。マルコ・ポーロはチバングとこの黄金島伝説を結びつけ、この国では宮殿の屋根はもとより床ですら指2本分の厚さの純金を敷きつめていると述べ、さらにこの国は多量の真珠を産し、死者を葬るさいに一顆を口に含ませる習わしがあると書いたのだった[26]。18世紀のフランスの探検家ラベルーズすら金銀島が実在すると信じて疑わなかったこと、19世紀初頭に長崎に来航したクルーゼンシテルンがロシア政府から金銀島探索の訓令を受けていたことなどの事実が証するように、この伝説は近代まで強靱な生命力を保ちつづけたのだった。

チストフは無視しているけれども、黄金島の伝承をはしめ「旅案内」にみられる日本に関する説明の一部が、たとえばプフタルマのチンギスタイのような中露国境の各地に駐屯していた中国軍の将兵、あるいは両国間の交易にたずさわった商人から直接間接にロシアの農民に伝わったとは考えられないであろうか。17世紀以後、西はアルタイから東は黒竜江にいたるまでの各地で2つの帝国の接触が活発となり、1689年にはネルチンスク条約が結ばれて国境が一応画定され、さらに1727年にはキャフタ条約が締結された結果両国の通商関係がおおむね発展の途をたどったからである。

ロシアの知識階級のあいだでは、19世紀の半ばまでに日本についての知識がかなり蓄積されていた。初期にはスパファリイのように中国経由の伝聞かあるいは前述の『日本誌』のようにオランダ人の旅行記をロシア語に翻訳したものがその供給源であったが、18世紀初頭以来、北太平洋水域で漂流民が幾組かロシア人に救助されて、日本について直接の情報が得られるようになった。1736年から1754年まではペテルプルグに、それ以後1816年まではイルクーックに、漂流日本人を教師に日本語学校が開かれていた。漂流民の一人などはロシア語で日本紹介を書き、それは1817年に首都で刊行された)。1792年に伊勢の光太夫を送り届けたラクスマンは、帰国後その日記を発表したし、1811年から1813年まで蝦夷の地で虜囚の生活を送った海軍士官ゴロヴニーンは、『日本幽囚記』の題名で知られる大著を1816六年に公刊した。ゴロヴニーンのこの著作は、彼自身の体験を詳細に記述しているのみならず、巻末に「日本国および日本人論」を付して、日本の気候、産業、日本人の信仰、習慣、国家統治などを綿密かつ適確に紹介したものである。これは出版後たちまち英・独・仏・蘭などの諸語に翻沢され、西ヨーロッパで広く読まれた。ロシアでも1851年に第2版が出、1864年には子供用の読み物として縮冊版がつくられた。1854年にはプウチャーチン提督が下田で日露和親条約を結ぶことに成功し、彼の秘書をつとめた作家のゴンチャローフが『フレガート・パラルダ』を書いた。その一部『日本におけるロシア人』(おもにこの部分が『日本渡航記』として邦訳されている)が単行本としてあらわれたのは1855年のことである。『フレガート・パラルダ』は1891年に作者が没するまでに5回も版を重ねたという。

右に挙げたいかなる書物も、旧教徒はもとより、一般にロシア人が日本に住んでいるかのごとき叙述を含んでいないことは断わるまでもない。「日本への旅案内」に直接資料を提供した文献を突きとめようとしても、おそらくそれは徒労に終るであろう。理想郷にあこがれる農民もまた印刷された文字による保証を必要としなかったにちがいないのである。

ロシア農民特有の移住・植民本能と、信仰の自由を肴求する旧教徒のユートビア願望の土壤の上に咲いた徒花 --- それが日本白水境伝説であったといえないであろうか。

[ 中村喜和「日本国白水境探求 -- ロシア農民の一ユートピアについて」『ロシアの思想と文学』、恒文社、1977 ]






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