ロシア右翼
Istorii Rusov (イストーリア・ルーソフ, Исторія Русовъ)
イストーリア・ルーソフ(ルーシ民族の歴史)。18世紀末から19世紀初頭にかけてのウクライナ政治思想に関する重要な文書で、著者は不明。遠い昔から1769年までのウクライナ、その民族、国家の発展を生き生きと描写しており、主にコサック、ボフダン・フメリニツキー、ヘトマン国家の時代に焦点を当てている。この作品に体現されている歴史観は、伝統的なコサックの歴史学のものである。イストーリア・ルソフの根底にある原則は、それぞれの民族が独立した政治的発展に対する自然的、道徳的、歴史的権利を持っているということであり、その主なテーマは、外国(ロシアまたはポーランド)の支配に対するウクライナ民族の闘争である。著者は、当時の歴史資料を豊富に利用し、さまざまな伝説、個人的な回想、18世紀のアーカイブ資料で補っている。しかし、著者の意図はウクライナの客観的な歴史を提示することではなく、むしろ彼がそうあるべきだと信じた歴史を提示した。エリ・ボルシャックによると、イストーリア・ルーソフは歴史伝説であり、歴史形式での政治的解説である。当時のロシア文学言語で書かれており、ウクライナ語の単語がかなり混じっている。検閲のため、著者はしばしば自分の本当の考えを隠したり、架空のスピーチや書簡を引用して歴史上の人物に帰したりした。
この本の著者は特定されていない。最初はヘオルヒー・コニスキー大司教が著者であると考えられていたが、この仮説は後に否定された。ウラジミール・イコニコフ、オレクサンドル・ラザレフスキー、ミコラ・ヴァシレンコ、ドミトロ・ドロシェンコを含む多くの歴史家は、著者はフリゴリイ・A・ポレティカであると主張した。ワシル・ホルレンコ、アナトリー・イェルショフ、エリー・ボルシャクらは、フリホリイの息子であるワシル・ポレティカであると主張した。ミハイロ・フルシェフスキーは、この作品は父と息子の共著であると示唆した。ミハイロ・スラブチェンコ、パブロ・クレパツキー、アンドリー・ヤコヴリフ、ミハイロ・ヴォズニャクといった何人かの専門家は、著者はオレクサンダー・ベズボロドコ王子であると主張した。他の名前としては、ニコライ・レプニン(ミハイロ・ドラホマノフ作)、ワシル・ルカシェヴィチ(ミコラ・ペトロフスキー作)、オパナス・ロビセヴィチなどが挙げられている。この作品は 1760年代から 1770年代に書かれたと主張する学者もいる (ラザレフスキー、ドロシェンコ、スラブチェンコ、ヴォズニャク)。 1790年代としている説(ヤコヴリフ、ボリス・クルプニツキー)もあるが、1815年から1825年という遅い時期に書かれたとする説(ホルレンコ、エルショフ、ボルシャク)もある。この本はおそらくノヴホロド=シヴェルスキー地方で出版され、何度も写本され、1815年から1822年の間に再編集された。『イストーリア・ルーソフ』の著者はノヴホロド=シヴェルスキー愛国者サークルに属し、オレクサンドル・ベズボロツコと公的、私的、イデオロギー的、政治的な利害関係でつながっていた。
『イストーリア・ルーソフ』は1825年に初めて言及された。長い間、この作品は原稿で流通していた。非常に人気があり、19世紀のウクライナの歴史学の発展に大きな影響を与えた。ミコラ・マルケヴィチ、エフヘン・フレビンカ、イズマイル・スレズネフスキー、ニコライ・ゴーゴリ、アムヴロシー・メトリンスキー、ミコラ・コストマロフ、パンテレイモン・クリシュ、そしてとりわけタラス・シェフチェンコの歴史文学作品は、イストーリア・ルーソフに基づいている。
この作品は、最初に Osyp Bodiansky によって『Chteniia v Imperatorskom obshchestve istorii i drevnosrei rossiiskikh』 (1846 年) と別版として出版されました。 V. ダヴィデンコによるウクライナ語の翻訳は、オレクサンダー・オーロブリンによって編集および紹介され、1956 年にニューヨークで出版されました。より最近のウクライナ語訳はイヴァン・ドラッハ著で、1991年にキエフで出版された。同年、1846年初版の再版がキエフで出版された。
BIBLIOGRAPHY
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うそからでたまこと ウクライナの偽書『イストーリア・ルーソフ』
中井和夫
内容
『イストーリア・ルーソフ』(モスクワ, 1846年刊)、すなわち『ルーシ人の歴史』と題された一冊の本は、ウクライナの思想家ドラホマノフによれば、シェフチェンコ以前にウクライナについて書かれたものの中で最重要で最も興味深いものである。
『イストーリア・ルーソフ」の著者はそれを書くにあたっての動機を次のように語っている。著者の生まれ育った国の過去の真実を描写したい。それはウクライナ国家の理念の基礎を見出すためだ。過去のウクライナ国家の持っていた特質を描写し、その後も維持されてきた特徴ある形態を保護し、将来のウクライナ国家の基礎とするためである。
著者はウクライナがこれまでいくたびも不幸な運命に襲われてきたこと、外国の敵のたび重なる侵入、それに伴う破壊を挙げ、ウクライナ史の資料もそれによって多くが失われたことを指摘している。そのことがこれまで真のウクライナ史の叙述を困難にしてきたのである、と。
ウクライナについて書いている外国の歴史家たちは、ことごとく片寄っており、敵意と歪曲に満ち満ちている、と『イストーリア・ルーソフ』の著者は批判する。そもそもポーランドやリトアニアの歴史家たちはルーシの人々の歴史を自分たちの歴史に含まれるものとして叙述している、と著者は批判するのである。
『イストーリア・ルーソフ』の叙述の中心部分はウクライナのコサックの歴史であり、それに続くヘトマン国家についてであるが、キエフ・ルーシの時代から書きはじめられており著者がキエフ・ルーシをウクライナ史のはじめに置いていることがはっきりとしている。キエフ・ルーシの建国についてはアンチ・ノルニスト(ノルマン人がキエフ・ルーシの建国者であるとする説に反対する人々)の立場がとられている。
16世紀半ばまでの叙述は短い。その時期までのポーランドとウクライナとの関係は牧歌的であったと述べられている。しかしイエズス会を中心とする反宗教改革がポーランドで成功し、宗教的非寛容の雰囲気の中でおこなわれた教会の合同(1596年プレストのカトリックと正教の教会合同)によってその牧歌的な関係は終った。一部の正教の聖職者は利己的な利害からカトリックに移り、また一部は反対した。合同は理念的には平等であったが実際には平等は実現されなかったためにポーランド人とウクライナ人の対立がこの合同によって顕在化するという結果となった、と書かれている。著者によれば、この教会合同とその後も続けられたウクライナのポーランド化(カトリック化)の努力がウクライナとポーランドの対立を厳しくした。
『イストーリア・ルーソフ』にはウクライナ・コサックのヒーローたちがつぎつぎに登場する。コシンスキー、ナリヴァイコ、タラス・トリャシロ、フンニヤ、オストリャニン、サハイターチヌイ、フメリニツキー、マゼッパ、ホルポトクなどである。著者は彼らの発言を通して自分の意見を語っているのである。フメリニツキー以前で著者が特に好感を寄せているのは、ザポロージェのコサックを、正教信仰を核とした自覚的民族集団へとまとめあげ、キエフを再び東欧の一大文化センターへと再建したサハイダーチヌイ(?-1622)である。s
『イストーリア・ルーソフ』の最大のヒーローはポーランドに対する勝利のリーダー、ポフダン・フメリニツキー(1595-1657)である。政治家、軍人、教養人としてフメリニツキーは高い評価が与えられ、名誉ある人物として描かれている。奴隷からの解放の戦士としてのコサックのイメージがフメリニツキーによって生き生きと語られている。これはモスクワからの使節団に対するフメリニツキーの発言という形をとっている。それによれば、コサックは自由そのものを体現したものたちであり、自由のためであれば最後の一人にいたるまでその生命をさしだす用意が常にある。これはコサックの生まれながらの特徴であり、何よりも人間の奴隷化を心から憎んでいる。
『イストーリア・ルーソフ』の著者はさらに歴史的人物に語らしめる。人々は外国人による専制支配に反対すると同時に、自分たち自身のリーダーによる抑圧からも身を守らなくてはならない。だから人々は、なによりも「自分自身の真実」の上に立たなくてはならないのだ、と。
『イストーリア・ルーソフ』の著者はモスクワとウクライナの比較を行なっている。彼によれば道徳的・文化的に見てウクライナはモスクワより優位にたっている。ウクライナ人の特徴は寛大さと着実さと勇気であるのに対し、モスクワ人の特徴は野蛮と残酷である。ちなみにポーランド人は変節と移り気を特徴とする、と述べられている。モスクワに対する批判はクリミア汗国の汗がフメリニッキーに語った言葉として語られている。タタールの汗は言う。モスクワの人間は教養なく文盲である。残酷かっ傲慢である。特にタタールの汗はモスクワの農奴制を批判する。そこでは農民の状態は悲惨を極めており、物のように売り買いされる、と。さらにモスクワの兵士がいかに野蛮で、粗野で、他民族に対する蔑視に満ちているか、をタタールの汗はフメリニッキーに強調する。
フメリニッキー以後のヘトマンたち、すなわちへトマン国家のリーダーたちに対する評価は一様ではない。まずヴィホフスキー、ドロシェンコに対して『イストーリア・ルーソフ』の著者は否定的評価を下している。マゼッパ(1644-1709)については複雑な両面的な評価となっている。1705年にマゼッパが部下のコサックにおこなったとして紹介されている演説は次のようなものである。われわれコサックはポーランド人、スウェーデン人、ロシア人いずれとも共に闘うべきではない。祖国を守るのは自分自身のカのみである。ウクライナは自由な国家として、かって持っていたすべての権利を有するべきである。今、モスクワがもっているもの、例えば国家組織とか貴族とか言うものは、もともとわれわれが最初にもっていたものである。ルーシという名称すらわれわれのところから彼らのものになってしまった。
ピョートル大帝は良く描かれているとは言えないが、名ざしでその反感が明示されているわけではない。もっばらその首席補佐官メンシコフがかわりに批判されている。
へトマン=イヴァン・スコロバッキー(1646-1722)のところからは叙述がまるで実見したかのように細かくなってきている。そこではウクライナ人たちがどれだけ多く運河のための強制労働に徴用され悲惨な目にあったか、モスクワ軍のウクライナ駐留がどれだけ大きな負担となり荒廃をもたらしたか、モスクワの行政当局がウクライナ人にどのように暴力行為を働いたかが描写されている。
へトマン=ポルポトク(1660-1723)はウクライナ自治の擁護者として好意的に描かれており、モスクワはウクライナを併合することにより多大の利益を得たのだ、というポルポトクの発言を紹介してへトマン国家最後のヘトマン=ロズモフスキー(1728-1802)に対しては当然ながら低い評価が与えられている。彼は副官テルポフと共に〈トマン国家の廃止を許した、と批判されている。『イストーリア・ルーソフ』の著者の批判はコサックの上層部スタルシナにもむけられている。彼らはロシア帝国の地主に横すべりするという、裏切られることのわかっている期待をもって、ヘトマン国家廃止を傍観していたのである、と。
『イストーリア・ルーソフ』の記述は1769年に露土戦争がはじまった、という文章で終っている。スラヴ学の碩学ドミトロ・チジ=フスキーはウクライナ文学史の中で、『イストーリア・ルーソフ』の文章、文体に触れ、これがロシア語で書かれているとは言え、当時のウクライナ人貴族のロ語に近く、極めて多量のウクライナ的要素に満ちている、と説明している。
影響
デカプリストのルイレーフ(1751-1826)はウクライナをテーマにした詩をいくつか書いている。1825年に彼が書いた「ヴォイナロフスキー」が直接『イストーリア・ルーソフ』に依拠したものかどうかは研究者の間に意見の相異があるが、同じ頃書かれた「ドウームイ」および「ナリヴァイコの告白」、「ナリヴァイ「の祈リ」は『イストーリア・ルーソフ』に描かれた物語を詩でうたったものである。
1832年にイ・ゴロタは小説『ナリヴァイコ、あるいは小口シアの悲劇の時期』を発表し、フレビン力は、ナリヴァイコの戦闘場面を歌うコブザーリを描いた『ウクライナの吟遊詩人』を発表した。このどちらもルイレーエフの影響か、あるいは『イストーリア・ルーソフ』の直接の影響か、どちらかである。
ハリコフ・ロマン主義グループの一人で後のべテルプルク大学教授、スレジネフスキーは当時大変熱心なウクライナ・フォークロアの採集家であった。彼は1833年に『ザポロージェの遣産』に自ら採集したウクライナ・フォークロアを発表した。熱心なフォークロア採集家が時にやるように彼は自ら創作したフォークロアを採集したものとして掲載した。例えば『チヒリンの戦闘』、「ナリヴァイコの処刑」、「セルビャーハのドゥーマ」、「スヴィルホフスキーの死の歌」、『サハイダーチヌイの戦闘』などがそれである。そしてそれらの創作のドゥーマはすべて『イストーリア・ルーソフ』を読んで触発されたものであり、それに依拠している。
プーシキンの作品『ポルタヴァ』に登場するマゼッパの像には『イストーリア・ルーソフ』の影響がはっきりとあらわれている。プーシキンは『イストーリア・ルーソフ』の存在をルイレーエフかマクシモヴィチの仲介で知った。『ポルタヴァ』のためのノートで、プーシキンはピョートル大帝とマゼッパに関するシーンを詳しく書いているが、そのシーンは『イストーリア・ルーソフ』に依拠している。
プーシキンは1836年自ら主宰した雑誌『サヴレメンニク』の創刊号に『イストーリア・ルーソフ』に対する熱狂的論文を書いた。彼は『イストーリア・ルーソフ』の多くのシーンが偉大な芸術家の絵筆によって描かれている、と称えた。プーシキンは同じ号に、『イストーリア・ルーソフ』の中の二つの章をそのまま掲載した。それは「教会合同ウニヤの導人」と「オストラニツアの拷問」である。
ウクライナ出身のロシア作家ゴーゴリもまた、刊行前に『イストーリア・ルーソフ』を手にし、その影響を受けた人物である。1834年3月にゴーゴリはスレジネフスキーに手紙を書き、『イストーリア・ルーソフ』の著者コニスキーを卓越したクロニクル作家と称えている。1831年にゴーゴリが書いた『タラス・・フーリバ』の主な資料は『イストーリア・ルーソフ』であった。『タラス・プーリバ』の中のいくつかのエビソード、例えば「オスメプの拷間」、などは『イストーリア・ルーソフ』に描かれているものとまったく同じである。ゴーゴリが『イストーリア・ルーソフ』から借りたのはエビソードや歴史的事実描写だけではない。『タラス・プーリバ」に満ちているアンチ・カトリック、アンチ・ポーランド的傾向をも借りているのである。ゴーゴリはこの他、1831年に『へトマン』と題する歴史小説を書いているが、その一章のヒーロー、オストラニツアの描写ももっぱら『イストーリア・ルーソフ』に依拠している。
ウクライナ史家ミコラ・マルケヴィチ(1804-60)は1842-43年にかけてその代表作『小ロシアシア史』全五巻を刊行したが、これに対する主要な影響も『イストーリア・ルーソフ』が与えている。むしろマルケヴィチの『小口シア史』は『イストーリア・ルーソフ』をパラフレイズしたものとさえ言えるのであった。
のちにキエフ大学の初代学長となったマクシモヴィチ(1804-73)もまた『イストーリア・ルーソフ』の愛読者であった。彼は『イストーリア・ルーソフ』がそれまでのコサック・クロニクルをまとめあげたものであり、その作業が画期的な人物コニスキーによってなされた前提にはコサックたちの流された血があるのだ、と書いた。マクシモヴィチもまたウクライナ・フォークロア・ドゥーマの採集をしていたが、1834年に『ウクライナ民謡』を出版した。それには解説として「歴史的ノート」が付されているが、それもまた『イストーリア・ルーソフ」によってつけられたものである。
ウクライナの思想家、小説家、歴史家、詩人そして聖書のウクライナ語訳者バンテレイモン・クリシ(1819-79)が1843年に刊行した『ウクライナのはじまりからフメリニッキーまで』にもはっきりと『イストーリア・ルーソフ』の影響、というより『イストーリア・ルーソフ』そのものを見出すことができる。この著作はウクライナの歴史をフォークロア・ドゥーマで綴っているものであるが、適当なドゥーマが途切れなく歴史全体をおおっていないので、クリシは躊躇することなく欠けているところを、それに対応する『イストーリア・ルーソフ』の章の詩的なパラフレイズでおぎなっている。また同じく43年にキエフで出たクリシのロシア語の小説『ミハイロ・チャルメイシェンコ』に登場するヒーロー、ハヂャーチのクルイジャノフスキーは『イストーリア・ルーソフ』からとられている。
19世紀後半のロシア史の大家コストマーロフ(1817-1885, 父親がロシア人で母親がウクライナ人)も若い頃『イストーリア・ルーソフ』の熱烈なファンであった。コストマーロフが若い頃に書いた小説『ペレャスラノの夜』、『サヴァ・チャーリー』、『コスインスキー』はいずれも『イストーリア・ルーソフ』に刺激を受けて書かれたものである。彼は歴史家としても絶えず『イストーリア・ルーソフ」を参照している。当然ながら権威ある歴史書として参照していたのである。コストマーロフは修士論文を事情があって二度提出したが、第一回目の修士論文(1841)は教会合同に関するもので、『イストーリア・ルーソフ』の決定的影響がその解釈に見られる。二度目の修士論文『ロシア民衆の詩の歴史的意味について』(1843)でも『イストーリア・ルーソフ』の影響は色濃い。コストマーロフが後に恥じることになる一つの例を挙げよう。彼はその二度目の修士論文の中で、ヘトマン=スヴィルホフスキーについての採集されたドウーマ(フォークロア)とセルビャーハについての採集されたドゥーマが、コニスキーの物語、すなわち『イストーリア・ルーソフ』の叙述ときわめて正確に対応しているということを強調している。つまりコストマーロフは、ここで採集されたドゥーマと『イストーリア・ルーソフ』の両者を比較してテクスト・クリティークをおこなっているのである。すでに述べたようにコストマーロフが挙げている二つのドゥーマは、実際に採集されたものではなくスレジネフスキーが『イストーリア・ルーソフ』から題材をとって自ら創作したドゥーマなのである。したがってコストマーロフがテクスト・クリティークとして比校している二つのものはもともとひとつである。歴史家コストマーロフとしては痛恨の一事となる。
コストマーロフ一人の筆になるものか明らかでないが、キリル=メトデイウス団の綱領的文書『ウクライナ民族の創世記』、「キリルにメトデイウス団規約』の両文書に見られるウクライナ史についての考えも『イストーリア・ルーンフ』の影響が考えられるし、後にコストマーロフが雑誌『オスノーヴァ』に掲載した論文「二つのルーシの民族」--- そこではロシア人とウクライナ人の歴史的発展のちがい、それによって形成された性格のちがいを叙述しているのだが --- も『イストーリア・ルーソフ』のモスクワとウクライナの比校にそのもとがあるように思われる。
19世紀後半以降今日に至るまでのウクライナ史における最も重要な象徴的人物であるシェフチェンコ(1914-61)もまた『イストーリア・ルーソフ』に魅せられた一人であった。他の人々と同じようにシェフチェンコも『イストーリア・ルーソフ』を手稿の写本の段階で読んでいた。1842年に書いた長編叙事詩「ハイダマキ」に自ら付した参照文献に『イストーリア・ルーソフ』が挙げられている。中央アジアに兵卒として無期流刑となったシェフチェンコが『イストーリア・ルーソフ』を刊行したポジャンスャーに宛てた1850年1月の手紙には次のように書かれている。「どうか私に『コニスキー』(イストーリア・ルーソフ)を送って下さい。そうすればあなたは私に親切を施したことになる。それによって私は少くとも私たちの不幸なウクライナの歴史を読むことができるのですから。」
ウクライナの思想家ドラホマノフは、シェフチェンコに『イストーリア・ルーソフ』ほどの影響を与えていたものは聖書をのそけば何もないだろう、と語っている。シェフチェンコの詩の数々、「イヴァン・・ヒドコヴァ」、「タラスの夜」、「ハイダマキ」、「ナリヴァイコの選出」といった歴史的作品のすべてに『イストーリア・ルーソフ』に強いインスピレレーションを受け、詩のかたちで文学的な高みにまでさらにひきあげて歌いあげたのである。
『イストーリア・ルーソフ』のはっきりとした影響が見られる。『イストーリア・ルーソフ』は厳密な意味での歴史書というよりはフィクションである。ウクライナの過去の栄光のロマンをアビールし、ウクライナの読者のそれに対する情感をよびおこすことを大きな目的としている。歴史的事実においては正確な記述ではない、というより正確であるかどうかをまったく気にしていない。きわめて良く考えぬかれた政治的パンフレットとする見方もある。しかし、『イストーリア・ルーソフ』の叙述にはプーシキンも述べている通り、詩的な力があり、精神を鼓舞する点において高い価値をもっており、ゴーゴリ、プーシキンさえまきこんでウクライナの作家、知識人たちに広く深い影響を与えたのである。ウクライナ人たちは『イストーリア・ルーソフ』の叙述に栄光ある祖国の歴史、まさに彼らのもとめていた歴史を見出したのであり、ロシアの作家にとっては魅力ある、いわばエキゾティックなストーリーの材料がそこにあったのである。影響はクリシ、コストマーロフ等を除けば、おもに文学作品に反映したが、彼らにとっては『イストーリア・ルーンフ』は権威ある歴史書だったのである。
著者
歴史家ラザレフスキー(1834-1891)によると『イストーリア・ルーソフ』の手稿は以下のようにして発見された。1828年頃、ウクライナのスタロドウブ地方のフリネフにある図書館の整理中に手稿が発見された。その図書は元来べズボロジコ、ライケヴィチ、(マリヤといった貴族の図書を集めたロバノフーロストフスキー公の所有になるもので、それをゴリーツイン公が受けついだものであった。発見された手稿はチェルニゴフの貴族団長ステパン・シライに送られ、シライは複数の写本をつくりその一部がバンティシ=カメンスキーに送られ、バンティシ=カメンスキーは1830年に出版した彼の『小口シア史』の第2版にその手稿を早くも利用した。
マクシモヴィチによれば彼はその手稿の存在を1829年に知っており、1830年には多くの写本が回覧されていた、と書いている。その頃には写本がウクライナたけでなく口シアやべロルシアにも伝わっていた
その後1818年にすでに手稿が発見されていることが明らかとなったので今では『イストーリア・ルーソフ』は1810年代、それも1815年から1818年の問に書かれたか少くとも現在のかたちにまとめられた、と考えられている。そして1820年代から30年代に手稿の写本の形で流布し読まれ、1846年にはじめて刊行されたことになる。1846年に創刊された『モスクワ大学付属帝国ロシア歴史学会雑誌』の創刊号にその編集者ジャンスキーによって掲載されたのである。
『イストーリア・ルーソフ』の書かれた場所はノヴゴロド=セーヴェルスキーの近隣であるということが歴史家たちの間での共通の理解となっているが、問題はその著者である。
今なお、『イストーリア・ルーソフ』の著者は確定されていない。一世紀以上にわたって歴史家たちは少くとも20人以上の候補者を挙げてきた。しかし明確な証拠がない。そもそも著者が意図的にその名を隠しているのである。
手稿には著者のサインはない。しかし序文には以下の記述がある。小口シアの貴族ポレティカはウクライナ史に関心を持ち学びはじめた。ポレティカは小口シア生まれのべロルシアの主教ゲォルギー・コニスキーを訪れた。コニスキーはポレティカの先生であり、キエフ・アカデミーの校長でもあった。コニスキーはポレティカに一冊の手稿を示し、それが、ユーリー・フメリニツキーが父フダンから受けついだ多くの資料や小口シアの多くの修道院にある資料をもとにして書かれたものだと説明した。ポレティカはこれを他の本と比べ最上のものであると理解した。このように序文に書かれている。つまり『イストーリア・ルーソフ』自身の序文ではコニスキー(1718-1795)が著者と説明されているように見える。1846年にはじめて公刊された時もコニスキー著とされている。しかしそのリべラルな見解、時に反教会的立場といった『イストーリア・ルーソフ』の内容は、かなり早い時期から著者としてのコニスキーに疑問を生じさせている。コニスキーは18世紀後半知らぬ人とてないような高名な聖職者であり学者であった。『イストーリア・ルーソフ』という本の権威づけのためにコニスキーの名が使用されたのである。序文には資料としてフメリニツキー文書が示されているが、これも同様であり実際には存在しない。
プーシキンは著者コニスキーに疑問を投げかけた最初の一人である。プーシキンはすでに述べたとおり1836年(つまりまだ『イストーリア・ルーソフ』が公刊される前)に雑誌『サヴレメンニク』に『イストーリア・ルーソフ』についての論文を書いた。プーシキンはコニスキーの本がまだ手稿のままであることを紹介したあと、コニスキーの本には歴史家に欠くべからざる批判精神と詩的な新鮮さが並存している、と称賛した。プーシキンは著者を「小口シアのリヴィウス」、「偉大な芸術家」と呼んだ。そしてプーシキンはコニスキーが真の著者であることに疑念を呈し、著者はその高貴な心の高まりを修道士の法衣で隠そうとしたのではないか、と述べた。
マクシモヴィチは1870年に編集者ポジャンスキーに次のような手紙を書いた。バンティシ=カメンスキーがステパン・シライから受けとった手稿の写本がどこにあるのか探すべきである。私は事実に不正確な点があるが高い芸術性をそなえたこの小口シア史の才能ある著者の名を知りたい。私はこの本の著者がコニスキーではなくて、一九世紀のはしめの四半世紀に生きていた誰か別の人物であることを確信している、と。
この後、多くの歴史家が『イストーリア・ルーソフ』の真の著者探しをおこなった。
1891年にラザレフスキーは『イストーリア・ルーソフ』の著者はフリホリイ・ポレティカであるという結論を発表した。1920年代にスラブチェンコ、クレバッキー、アンドレイ・ヤコヴレフ、ヴォズニャクらは、アレクサンドル・べズボロジコ公が著者であることを証明しようとした。ベトロフスキーはヴァシル・ルカシエヴィチ、オフロプリンはオパナス・ロゼセヴィチを著者であるとした。ポルシャクはヴァシル・ポレティカを挙げた。ドロシェンコなどのように著者を複数と見る歴史家も多いが、その際の最も有力な候補はフリホリイ・ポレティカとヴァシル・ポレティカの父と子両人である。
結局いまたに著者は確定できていないのだが、最も有力な候補者の一人であるフリホリイ・ポレティカ(1725-84)について述べておこう。彼はポルタヴァの古いコサックの家に生まれ、キエフ・アカデミーで教育を受けた。卒業後1746年からペテルプルクの帝国アカデミーの翻訳官に採用され、48年には宗務院の翻訳官に移り61年まで勤務した。64年からは海軍アカデミーの監督官をつとめた。1767年にエカチェリーナ二世の新法典編纂委員会のメンバーとなった。ウクライナの貴族の代表の一人として彼はへトマン国家の自治の熱心な擁護者であった。彼は委員の一人として多くの報告を書き、そのすべてでヘトマン国家が独立した民族的統合体であり、国際条約により自発的にロシアに結合したものである、と主張し、その自治の制限に反対した。彼は73年に職を辞し、著作に専念した。息子のヴァシルによればフリホリイ・ポレティカは歴史を書いていた。1784年にペテルプルクでフリホリイ・ポレティカは死んだ。
『イストーリア・ルーソフ』について批判的書評を書いた最初の人物はマクシモヴィチである。彼は事実に誤りのあることを指摘した。しかし同時にこの書を歴史的ドゥーマ(フォークロア)であると呼び、ウクライナの過去を高度に芸術的に描写したと賞した。
しかし、自らも歴史家として成長し、年をとったコストマーロフとクリシの二人は、若い頃に欺かれた「偽書」、それに強烈なインスビレーションを受け、多くの作品までつくりあげた「偽書」に対してマクシモヴィチほどに寛容にはなれなかった。コストマーロフは1880年に、自分が「べレャスラフの夜」などを書いていた若い頃、偽コニスキーの悪しき影響下にあり、誤りを犯した、と述べている。彼は大著『グダン・フメリニッキー』の文献リストから『イストーリア・ルーソフ』を第三版以降削除している。
クリシはウクライナ・インテリゲンツィアのまちがったイデオロギーは偽コニスキーの『イストーリア・ルーソフ』と『ザポロージェの遺産』にある、と後に手厳しく『イストーリア・ルーソフ』を批判した。ウクライナの、私たちの歴史を歪め、まるで青鋼の牛のようなっくりばなしにしてしまったのが『イストーリア・ルーソフ』である、というのである。
神話はそれをつくるものとそれを運ぶものとがいる。『イストーリア・ルーソフ』はひとつの神話である。しかしこれがかくも大きな影響力をもっことになったのは天才詩人シェフチェンコがその運び役をつとめたからである。格調高い力強いウクライナ語でシェフチェンコはこの神話をウクライナ社会に広く深く運び込んだのである。
[ 中井和夫: "うそからでたまこと ウクライナの偽書『イストーリア・ルーソフ』" in 和田春樹(編) :"ロシア史の新しい世界 : 書物と史料の読み方", 山川出版社, 1986.10, pp.19-35]
1805年にウクライナにおける最初の西欧型大学が設立された都市ハリコフに、ウクライナの貴族によるハリコフ・ロマン主義グループと呼ばれる集団が登場した。彼らはウクライナのフォークロアを収集し、民族の過去を探索し、ウクライナ民族の力を発掘しようとした。このグループに属していたのは、1818年にウクライナ語の最初の文法書である『小口シア語文法』を刊行したハヴロフスキー、一八一九年に最初のウクライナ・フォークロアの収集書を刊行したツェルテレフ、このハリコフ・サークルの指導的人物で言語学者のスレジネフスキー、1827年に127のウクライナ・フォークロアの集大成を発表したマクシモヴィチ、歴史家ボジャンスキー、作家のクヴィトカ・オスノヴャネンコ、フレビンカ、それに歴史家コストマーロフなどであった。
こうしたウクライナのロマン主義者たちの最大の産物は『イストーリア・ルーソフ』であった。複数のウクライナ・インテリゲンツィヤの手になると思われる本書は歴史書という形をとって、ウクライナの過去の栄光を描き出し、誇りに訴え、ウクライナ民族の覚醒、ウクライナ国家再建をアピールした著作だった。『イストーリア・ルーソフ』はウクライナやロシアの作家、歴史家に大きな影響を与えたが、とくにウクライナの民族詩人シェフチェンコに影響を与えた。
農奴出身のシェフチェンコは一八四〇年に処女詩集『コブザーリ』を発表し、一躍ウクライナを代表する詩人となった。その後、次々に美しい詩を力強いウクライナ語で書いたが、その中には激しい反ロシア的な内容のものもあった。1846年キエフで、シェフチェンコ、コストマーロフ、それに作家で歴史家にして聖書のウクライナ語訳者となるクリシ、作家のフラクなど、当時のウクライナを代表する若い知識人12人が集まって、近代ウクライナ史上、最初の政治的秘密結社キリロ・メトディー団が結成された。この結社は農奴制廃止、スラブ連邦形成などを掲げたが、本格的な活動を開始する前に官憲の知るところとなり、四七年にメンバー全員が逮捕され、とくにシェフチェンコはその詩の反ロシア的な内容のため中央アジアへ10年間の流刑となった。シェフチェンコはその詩と生涯によりウクライナの国民詩人として今もウクライナで最も好まれ、愛誦されている。
[ 山内昌之ほか: "分裂するソ連 : なぜ民族の反乱が起こったか", NHKブックス;601, 日本放送出版協会,1990.9, pp.83-84 ]


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