古代核戦争
そしてそのキーテジはなぜか地下の都と化す...
ポキドシュという壮大であまり知られていない街は、通常、伝説的で神秘的な街キーテジ(Kitezh, Китеж)と結び付けられている。キーテジは神話上の街で、伝説によると、かつてはスヴェトロヤル湖の岸にあった。バトゥ・ハンの軍隊の侵略中、住民の祈りにより、衝撃を受けた侵略者の目の前で街は湖の底に沈み、目に見えないキーテジの街に変わったと考えられている。
キーテジは、ロシアの住民とその王子が侵略者(必ずしもモンゴル人ではない)から身を隠すことができる街になった。ロシアの栄光の象徴であるペレヤスラヴリの街、バトゥ・ハンや皇帝ダヴィドなどの凶暴な侵略者から身を隠す街であるキーテジのように、他にもいくつかあったかもしれない。ペレヤスラヴリは、それぞれの状況に応じて異なる時期に出現したため、キーテジも外部からの攻撃のさまざまなケースで出現した可能性がある。
現在、キーテジは、ヴォルガ川とオカ川の左岸にある2つの場所に関連付けられている。
最初のキーテジは、ニジニ・ノヴゴロドの北東130kmのトランスヴォルガ地域にあるスヴェトロヤル湖の近くにあった可能性がある。ニジニ・ノヴゴロドのキーテジが主なものである。その出現は、バトゥ軍のモンゴル侵攻に関連付けられているからだ。しかし、伝説によると、バトゥの時代にキーテジは湖の底に沈み、見えなくなった。都市は一夜にして建設されるものではない。つまり、この「都市」は、バトゥ (13 世紀) の時代にすでに存在していたとすれば、それ以前に、異なる条件と侵略者の下で建設されたことになる。
このキーテジは、侵略者からの信頼できる避難所として、皇帝ダヴィド・エフセーヴィチの部下によって建設された可能性が高い。そして、侵略者によって征服され、「バビロニア秩序」を確立したルーシから人々は逃げ、このために川のルートを使用した。そのルーシからの「難民」にとって最も適したルートは、スーラ川沿いのルートだった。
ご存知のように、スーラ川はニジニ・ノヴゴロド、またはオカ川とヴォルガ川の合流点から150km下流でヴォルガ川に流れ込む。スーラ川の河口からキーテジに行くには、ヴェトルガ川に沿った川のルートを使用する必要があった。スーラ川の河口からヴェトルガ川の河口までは、ヴォルガ川に沿ってわずか35km下流まで航行し、左岸からヴォルガ川に流れ込むヴェトルガ川に入る必要があった。ヴェトルガ川の河口からスヴェトロヤル湖とキーテジに行くには、川を遡って約90kmの川ルートを進み、さらに川から湖まで20km進む必要があった。合計すると、スーラ川の河口とキーテジはわずか150kmしか離れていない。
別の都市キーテジまたは壮大なポキドシュはオカ川の左岸にあり、「旧スーズダリ」地域またはスロシュ (セリョージャ) 川の岸から避難してきた「難民」に適している。現在、これはウラジミール地域にあるキデクシャ (ポキドシュ) 村である。
スロシュ川の岸からキデクシャに行くには、川をずっと行く必要がある。セリョージャ川の河口からテシャ川に沿って40km下流に進み、オカ川に流れ込むテシャ川の河口に着く。その後、オカ川に沿って110km下流に進み、左岸からオカ川に流れ込むクリャジマ川の河口に着く。曲がりくねったクリャジマ川に沿って、ネルリ川の河口に着くまで約250km上流に進む必要がある。ネルリ川の曲がりくねった川床に沿って、さらに約60km上流に進むと、ポキドシュ (キデクシャ) の街に着く。
川のルートは複雑で曲がりくねっているが、侵略者から身を隠したい人にとってはより安全である。川沿いの長さは約460kmである。同時に、英雄スロヴェツ・スズダレツが行ったように、馬で直接行くと、このルートは160kmに短縮される。ポキドシュの街としてキデクシャを支持する重要な状況は、キデクシャ村から5kmのところにスズダリ (現代) の街があるという事実である。
[ Сказание о Русской земле: "Богатырь Суровец Суздалец и Китеж-град" (2023/08/09) ]
そしてそのキーテジはなぜか地下の都と化す...
今から七百年ほど昔、ロシアの大地は戦乱の渦にまきこまれていた。1227年、モンゴル帝国の建設者ジンギスカンは死んだ。2代目皇帝オゴタイとなっても、モンゴル軍の遠征はやむことがなかった。
ジンギスカンの長子ジュチの子で一族の長老たるバツは、ヨーロッパ遠征軍の司令官として、1236年、大軍をひきいて西へ向った。彼はロシア、ポーランド、ドイツ、ハンガリーと荒らしまわり、やがてポルガ河下流地帯にキプチャクカン国をうちたてる。
そのころ、ロシアでは各王侯が群雄割拠して協力を欠き、モンゴルの騎兵集団の前に各個撃破されていった。ポルガ流域は、モンゴル軍に平定され、モスクワは落ち、キエフも攻略された。
しかし、ウラジミール・スズダリ公国のユーリ・プセポロドビッチ公は、敢然とモンゴル軍を迎え撃った。大激戦が展開されたが、潮のようなモンゴルの大軍には敵せす、後退してポルガ河畔のマールイ・キテジの町にたてこもった。
モンゴル軍は町を包囲した。夜の闇にまぎれ、公は町をひそかに脱出し、ポルガの岸の深い森にかくれて、モンゴル軍の追跡の目をくらました。
マールイ・キテジは落ちた。バツ将軍は捕えた町の住民たちを拷問にかけ、王子のゆくえを追及した。責苦に耐えられず、グリーシカ・クテルマという者がついに白状した。
「王様は大キテジの町へ行かれたに相違ありません」
「大キテジだと?それはどこにあるのだ?」
クテルマは、ふるえながら答えた。
「ケルゼネッ川の向う岸の、スベトロヤーリ湖の岸でございます」
モンゴル軍は、大挙して大キテジの町へ向った。プセポロドビッチ公は奮戦したが、ついに斃れた。町は敵の手に落ちようとした。町の人々は祈った。
「神よ、われらの町を叔いたまえ」。するとふしぎにも、町は地中へと沈みはじめた。やがて、教会堂も僧院も、宮殿も民家も、町の人々も、すべては地の底に消えて見えなくなってしまった。
しかし、キテジの町は決して滅び去ったのではない。神の恵みにより、今も地の底で栄えている。
[ レフ・クレイン: "地の底にある都" in 小泉源太郎 訳: "世紀の秘密", 大陸書房, 1970, pp.122-124 ]


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