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下からの非武装抵抗という「市民的防衛」が、上からの「民間防衛」に容易に転換されうることを、政治学者 宮田光雄(1928-)は危惧する。
これを引用する形で、1972年に、哲学者 竹内芳郎(1924-2016)は、スイス民兵を左翼の理想のように見えつつも、そうではない点に触れ...
産経新聞(2017/10/13)によれば、1970年に原書房から出版された「スイス民間防衛」の翻訳者は「官僚有志」だという。
その「スイス民間防衛」の訳者あとがきには、スイスが政治・経済・心理・民間・軍事という全面的防衛が必要だと考えている」と記されている。
この「スイス民間防衛」に言及した吉原公一郎の記事が、1978年の「月刊社会党」に掲載されている。特にスイスの現代史を確認したわけではなく、原書房の訳本(1970)だけを見て書かれた記事だが、そこで「防衛白書」の記載との共通性を指摘している。
吉原公一郎(1978)が引用したのは、1978年版防衛白書で、そこには確かに以下の記述がある。
吉原公一郎(1978)は、「スイス民間防衛」訳者と「防衛白書」(1978)の執筆者の関連性を疑っていた。そして、39年後の産経新聞の記事(2017)は期せずして、その疑いを裏付けたようである。
ところが、2年後に、日本社会党の松前達郎参議院議員(在職 1977〜2001)が、「スイス民間防衛」を肯定的にとらえたような質問をしている。
ちなみに、これに対する防衛庁防衛局長と防衛庁長官の回答は...
このやりとりは、1978年の自由民主党の中山太郎参議院議員(在職 1968〜1986)とあまり違わない。
下からの非武装抵抗という「市民的防衛」が、上からの「民間防衛」に容易に転換されうることを、政治学者 宮田光雄(1928-)は危惧する。
たしかに、非武装平和の原理を政府が基本的国策として採用し、非暴力抵抗を具体化するために必要な国内的諸条件を整備することは当然である。しかし、問題は、現在の支配関係や権力構造を根底的に変えることなしに、非武装防衛の構想を現実化しうるか否かにある。たとえばA・ロバーツにおいては、一般に防衛組織と社会体制とは直接的には何ら関りがなく、軍事的防衛から『市民的防衛』への組織的転換は、さしたる重要な社会改革をともなうことなしに行われうるものとみられている。しかし、『市民的防衛』の民衆教育が保守的政権の手によって着手される場合、それは、必然的に、心理的戦争ないしイデオロギー的精神武装に変質する恐れがあるのではなかろうか。民主的プロパガンダと官憲的指導とは『混合』することによって、いわば『市民的ゲッベルス』(W・D・ナル)のもとに一種の『隣保監督(ブロック)』制(自警団!)が敷かれ、トータルな市民的動員が計られる可能性は少なくないだろう。その例として、まさしく「スイス民間防衛」を挙げている。
じっさい、『市民的防衛』は容易に『民間防衛』 (郷土防衛隊や自主防衛論! )計画に改铸される。たとえば、最近スイスの法務警察省によって〈民間防衛〉のための手引書が公刊され、全戸に配布された。それは核武装に反対する平和主義者を敗北主義者として非難するかたわら、軍事的レジスタンスについて多くの頁を割いている。しかし、占領下における非暴力抵抗については、実際的な指示をほとんど含んでいない。(A・バッハマン、G・グロスジャン共編『民間防衛』1969年、参照)。これは、スイスのような自由の伝統をもつ国家においてすら、『上からの』民間防衛の構想が、ナイーヴな愛国心の鼓吹による『編成社会』化に仕え、実際に抵抗力のある『参加するデモクラシー』の組織化に役立たぬことを示すものであろう。
[ 宮田光雄: "非武装国民抵抗の思想" (岩波新書, 1971), pp.118-119]
これを引用する形で、1972年に、哲学者 竹内芳郎(1924-2016)は、スイス民兵を左翼の理想のように見えつつも、そうではない点に触れ...
もっとも長い伝統をもち、もっとも理想的な民兵とされるのはスイスのそれであるが、コーリーによれば、スイスでは兵隊の心中に市民の感覚を生かしつづけているだけでなく、将校団をすら完全に民主化しているという。すべてのスイス国民は29年間の兵役の義務をもつが、この期間のうち、通常彼らが軍務に服するのはわずか171日であり、しかもそのうち65日から92日が新兵としての訓練に費やされる。彼らは、新兵としての訓練を終えると、武器と装備をたずさえて家に帰り、それらを国民の義務をはたした名誉ある印しとして保存する。スイスでは、兵士としての訓練を完了した者でなければ将校になることはできず、将校に推挙された者はさらに80日間の訓練を受けるのであるが、それが終ると、彼らもまた市民生活に帰るのだという。これだけを読めば、コーリーならずとも、スイスの民兵制度のすばらしさに感嘆せずにはいられないであろうが、それにもかかわらず、一方では、たとえばレ—ニン— —周知のように、彼はながらくスイスに亡命していた— —が、「スイスの民兵がますますプロシア化され、労働者のストライキ抑圧に出動させられて冒瀆されているのが見られる」と慨嘆したのはなぜであろうか?いや、レーニンだけではない、たいていのマルクス主義者がスイスの民兵を〈まやかしの民兵〉 と断じているのはなぜか? いや、マルクス主義者だけではない、たとえば宮田光雄前掲書のなかにも、つぎのような一節がある— —「じっさい、〈市民的防衛〉は容易に〈民間防衛〉 (郷土防衛隊や自主防衛論! )計画に改铸される。たとえば、最近スイスの法務警察省によって〈民間防衛〉のための手引書が公刊され、全戸に配布された。それは核武装に反対する平和主義者を敗北主義者として非難するかたわら、軍事的レジスタンスについて多くの頁を割いている。...その理由として...
[ 小西反軍裁判支援委員会編: "自衛隊: その銃口は誰に" (1972) p.85 . 竹內芳郎: "国家と民主主義" (1975) p.95 ]
なぜそのようなことになるのか。スイスの民兵制度の詳細はわからないが、一つ言えることは、民兵制度が整備されただけでは、そこに比較的忠実に社会的階級関係が反映されるだけで、支配−被支配の階級関係そのものがなくなるわけではない、ということだろう。と書いている。
産経新聞(2017/10/13)によれば、1970年に原書房から出版された「スイス民間防衛」の翻訳者は「官僚有志」だという。
『民間防衛』の巻末には「訳者あとがき」が添えられている。だが、そこに訳者の名前はない。実は日本語版は匿名での出版を条件に、翻訳者が原書房に原稿を持ち込んだものなのだという。出版当時の日本では、日米安全保障条約の自動延長をめぐる激しい反対運動の嵐が全国で吹き荒れていた(70年安保)。世の中に「安全保障」や「防衛」といった言葉へのアレルギーがあったことは想像に難くなく、訳者が匿名を望んだのは理解できる。その匿名の翻訳者の素性は、これまで一切公にされてこなかった。しかし、原書房の成瀬社長は今回、取材に対し「官僚有志のグループ」だと初めて明かした。
[ 原川貴郎: "外国による世論工作警戒も…核攻撃想定、スイスの危機管理本が日本で再び売れている! 気になるその中身" (2017/10/13) on 産経新聞 ]
その「スイス民間防衛」の訳者あとがきには、スイスが政治・経済・心理・民間・軍事という全面的防衛が必要だと考えている」と記されている。
訳者あとがき: 本書は、スイス政府により、全国の各家庭に配られたものである。本書を一読された方はすでに気づかれたように、内容は相当ショッキングである。まず、真に平和を望む者は、平和を守るための努力を惜しんではならないということである。単なるスローガンで平和を守ることは不可能である。とかくわれわれ日本人は、防衛というと軍事問題を中心に考えがちであるが、スイスの場合、近代戦は全面戦争であり、これに対しては全面防衛が必要だとしている。全面防衛とは、政治、経済、心理面での防衛に民間防衛と軍事防衛を加えたものである。英国の民間防衛研究所は、本書の評価で「第三次世界大戦が勃発しても生き残るのはスイス人だけであろうし、彼らはそれに値する」と述べている。そして、「各家庭に配られた」と事実を書いていが。大きな批判を招き、スイス国民に受け入れられなかったことには言及していない。
[ 原書房編集部 (翻訳): "民間防衛ーあらゆる危険から身をまもる" (1970, 1995, 2003) ]
この「スイス民間防衛」に言及した吉原公一郎の記事が、1978年の「月刊社会党」に掲載されている。特にスイスの現代史を確認したわけではなく、原書房の訳本(1970)だけを見て書かれた記事だが、そこで「防衛白書」の記載との共通性を指摘している。
『民間防衛』という新書判型の本がある。本文は横組みで三一九頁、九〇〇円の単行本である。初版発行は一九七〇年一〇月だから、発行してからかなり歳月がたっていることになる。発行は軍事物出版で知られる原書房で、ことしの八月で第四刷を重ねている。原編著者はスイス連邦法務警察省、訳は原書房編集部となっている。
「この本は、わが国が将来脅威を受けるものと仮定して書かれたものである。われわれが永久に平和を保障されるものとしたら、軍事的防衛や民間防衛の必要があるだろうか。すべての人々は平和を望んでいるにもかかわらず、戦争に備える義務からされていると感じている人は、だれもいない」
という言葉ではじまるこの本は、平和、戦争の危険、戦争、レジスタンス、知識のしおりについてのべている。
この本は、「スイス政府により、全国の各家庭に一冊ずつ配られたもの」(訳者あとがき)だというが、スイスの防衛政策は、日本の再軍備論者たちのかならずひきあいにだすよりどころであり、この出版社の意図や、これを出版するにいたったプロセスをぬきにしても、この冒頭の言葉からだけでも、なにを読者に語りかけようとしているのか推察することはさして難しいことではない。 (p.47)
...
中道革新をうたう政党の右傾化をテコの一つとして、防衛力の強化、有事立法、民間防衛の整備を考えていることに注目する必要がある。しかもその内容は、原書房刊『民間防衛』の「訳者あとがき」で書いていることと同じであるということはなにを意味するのか。
たとえば『防衛白書』では、さきにも引用したように、「民間防衛体制の整備は、防衛力の整備と並んで国を守る強い国民の意志と国家の姿勢を示すものであり、極めて重要な意義」というが、原書房の『民間防衛』はつぎのようにいう。
「潜在的な脅威は常に存在する。潜在的な脅威が顕在化したときは実はもう遅いのであり、脅威を現実のものとしないためには、いざという場合にいかなる危険にも対処しうる体制をとっておくことが、最も効果的であるという判断であろう。第二次大戦中、ヒットラーをしてついにスイス攻撃を断念せしめた実績が、何よりも雄弁にこの思想の正しさを証明しているといえよう」(p.49)
[ 吉原公一郎: "政府・独占の世論操作--国防意識形成への策謀 ", 月刊社会党, Issues 264(1978), pp.47-55 ]
吉原公一郎(1978)が引用したのは、1978年版防衛白書で、そこには確かに以下の記述がある。
このような面における体制の整備について,諸外国の状況をみると,例えば,中立国たるスイスにおいては,最悪の事態を予測し,政府・市町村などの地方自治体が公共の退避所を設置するとともに,各自治体に民間防災組織の設置を義務づけ,また,私有の退避所の設置要領,退避要領,食糧,医薬品などの備蓄要領,応急手当の要領など非常事態における対処行動について詳細に記述した指導書を政府自ら作成し,国民各人に配布し,国民の保護についての徹底を図っている。スイスのみならず,同様の中立国たるスウェーデンにおいても,また,米ソ英仏初め多くの国々がそれぞれいわゆる民間防衛体制の整備として努力を払っているところであり,中国においても「備戦備荒深堀穴備食糧」政策が進められている。そして、「スイス民間防衛」の訳者あとがきと同じく、「指導書を政府自ら作成し,国民各人に配布し,国民の保護についての徹底を図っている」と、配布後の混乱には触れていない。
このような体制の整備は,防衛力の整備と並んで,国を守る強い国民の意思と国家の姿勢を示すものであり,平和外交の努力や民生の安定とともに,国の安全を確保するため極めて重要な意義を有する。また,このような体制は侵略に対してのみならず,天災地変その他の災害に対しても有効に機能するものである。
[ 第3部 防衛の現状と問題, 防衛白書 (1978) ]
吉原公一郎(1978)は、「スイス民間防衛」訳者と「防衛白書」(1978)の執筆者の関連性を疑っていた。そして、39年後の産経新聞の記事(2017)は期せずして、その疑いを裏付けたようである。
ところが、2年後に、日本社会党の松前達郎参議院議員(在職 1977〜2001)が、「スイス民間防衛」を肯定的にとらえたような質問をしている。
○松前達郎君 たとえば、スイスあたりですと「民間防衛」という本がありますね。これは各世帯に一つずつ配ったと言われている。これを見ましても、やはり核について相当個人個人の防衛体制というのが出ているんです。「核兵器で攻撃をしかけてくる敵を阻止することはできない。大国は、原爆や水爆を、数千個も貯蔵している。」、こういうことに始まって、「外国で起こる核爆発の被害をこうむることがあり得る。」、これはもうスイスの場合近いですから、外国は。こういうふうなことから、常日ごろ核攻撃をされた場合に対処すべき心構えというのがこういう本にちゃんと出ている。それから、さらにもう一つ最近では非常に問題になっている細菌兵器ですね、これについても出ているわけです。それから、化学兵器についても出ているわけですね。これは民間防衛ですから、ちょっと防衛庁そのものがやる仕事じゃないかもしれませんが、しかし防衛庁はただ戦争して――戦争しておって、敵の攻めてきたのを守って、それで、もしかそれが上陸されたりなんかしてそれで終わったんだというんじゃ、これは国民が大変な迷惑なんで、こういうふうなことについて今後やはり可能性があることですから、そういうことについての何らかの対処というものを考えておられるかどうか。これはさっきの吉田委員との関連もございます。
[ 第091回国会 参議院予算委員会第二分科会 第3号 (1980/04/01) ]
ちなみに、これに対する防衛庁防衛局長と防衛庁長官の回答は...
○政府委員(原徹君) 石油がなくなるのですぐ核ということの点、まあございますけれども、現在私どもは核攻撃につきましてはアメリカの核抑止力に依存すると、そういう体制をとっているわけでございます。しかし、いまおっしゃいますように、民間防衛という見地から考えますれば、やはりそういうものに対する対処というものをすべきではないかという考え方もございまして、私も多くはそうであろうと思っております。ただ、これいまも御指摘ございましたように、防衛庁でやるべき筋合いがあろうかということになりますと、私どもは民間防衛一般につきまして外国の事情等調査をいたしておりますが、それ以上に音頭をとってやる立場にはないと思っておりますものですから、大変貴重な御意見でございますが、やはり政府全体としては取り組まなければならない問題ではないかと、そういうふうに考えております。
○国務大臣(細田吉藏君) ちょっと、私からつけ加えてお答え申し上げたいと思います。ただいまおっしゃったようないろんな事態に対して、日本の場合は準備がなされていないと、特にスイスなどの状況も私見てまいりましたが、大変おくれておるということは全く御指摘のとおりでございます。そういう点について、防衛庁が何か先に立ってどうこうということになりますと、すぐ防衛庁で何か核云々というような話、誤解を招くような点もありまして私ども大変迷惑するわけでございますが、そういう立場でなくて、政府としてまた国民的な立場において、そういう点についてはいろいろ考えていかなきゃならぬと、かように存じておる次第でございます。つけ加えて御答弁申し上げておきます。
[ 第091回国会 参議院予算委員会第二分科会 第3号 (1980/04/01) ]
このやりとりは、1978年の自由民主党の中山太郎参議院議員(在職 1968〜1986)とあまり違わない。
○中山太郎君 われわれは戦争を好まない。平和でなければ資源のないわが国は生きていけない。しかし、よその国の人たちはそんなことは考えていないんです。永世中立を叫んでいるスイスでも全国民に「民間防衛」という本を配って、そして他国からの侵略、放射能汚染に対していかに備えるべきかということをスイス五百万の国民に全部知らしているわけです。スイス国家警察庁発行ですよ。これ一体政府はどういうふうにお考えですか、日本国民の生命を守るために。こういう科学技術戦争の時代になってくると、自分だけが平和だ、平和憲法があるからよそは攻めてこないと思っておっても、空気に乗ってやってくるやつにはかなわぬのですから。こういう考え方を、ひとつこれから慎重に政府としては一億国民のために考えることが私は必要なんじゃないか。いかがでしょうか、政府の見解は。
[ 参議院会議情報第5号 (1978/03/08) ]


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