冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

×
ロシア右翼

日露戦争についてのロシア・ソビエトでの記述、120年の推移


Oye (2008)によれば...
日露戦争敗戦後は、帝政批判のコンテキストで日露戦争は取り上げられていたが、1930年代からはナショナリズムの高まりで、帝政批判から日本警戒へ。そして、日ソ対決の予感から客観的記述に、そして旧世紀末からは多様な記述となっている。
  • 戦争直後の公式戦史編纂(陸軍): 1905年終戦直後、参謀本部はヴァシーリー・グルコ少将を責任者に据え、4年以内に全16分冊の公式戦史を完成させた。改革派「若手トルコ派」の中心人物であるグルコは、虚飾を排した客観的叙述を目指したが、結果は緻密な通史・年代記的記述が中心で、分析的考察は乏しかった。
  • 海軍の戦史編纂と参謀本部アカデミーの批判的検討: 海軍の公式海戦史は1908年に着手されたが、1917年革命で中断され7巻しか刊行できなかった。ニコライ参謀本部アカデミーは1906年以降、公開講演などで敗因を批判的に検討したが、参加者はしばしば自己の持論を補強する恣意的な教訓抽出に終始した(マルティノフ、ネズナーモフらの著作など)。
  • 劣悪な指導力への集中批判と回想録の自己弁護傾向: 総司令官クロパトキンの優柔不断が最大の批判対象となり、スコベレフの有名な警句が頻繁に引用された。クロパトキン自身を含む多くの将兵・政治家(ウィッテなど)の回想録は、客観叙述より自己弁護・責任転嫁に終始するものが大半だったが、中将グルレフのような思慮深い例外も存在した。
  • ソ連期以後の評価の変遷: 1930年代以降、ソ連史学はナショナリズムの高まりとともに皇帝軍批判を抑制し、日本・列強の侵略性を強調する傾向に転じた。1930年代末の対日戦懸念は比較的客観的な再評価(レヴィツキー、スヴェーチン)を生み、2004-05年の百周年以降は英雄的愛国叙述から学術研究まで多様な新刊が登場している。
  • 極秘報告書の最近の公開: グルコ委員会のためにシマンスキー少将が執筆した3巻本極秘報告書(原本は10部のみ秘密印刷)は、公式戦史刊行時に大幅削除されたが、近年『二十世紀初頭の露日』として完全復刻公開され、帝政期の一次資料へのアクセスが飛躍的に向上した。

オルタナティブ・ヒストリーとして考えれば、日露戦争でロシアが勝利できていた場合
  • ロシア革命が実現しない
  • 20世紀初頭の、ロシア・フランス・ドイツ・英国の勢力情勢の大きな変化(欧州方面でも、アジア太平洋方面でも)
が考えられる。このため、日露戦争オルタナティブ・ヒストリーを書く人々がいるとともに、ロシアンなろうと言うべき「タイムトラベル歴史改変作品」(ポパダンツェフ)のテーマのひとつ)ともなっている。
大祖国戦争におけるタイムトラベラーに次いで、日露戦争におけるタイムトラベラーをテーマにした書籍はおそらく最も多く出版されている。日露戦争における帝政ロシア軍の敗北は、愛国心に深く影響を与え、だからこそ人々はどんな犠牲を払ってでもそれを再現したがるのだ。このテーマについて書かないのは怠け者だけだろう。そして、書かれた本の数は桁外れに多い。書き始めても未完のものも、おそらくもっとたくさんあるだろう。済物浦港での海戦で巡洋艦ヴァリャーグを勝利に導こうとした試みから、マカロフ提督が死を免れた幸運まで。

日露戦争におけるタイムトラベラーは、その数も構成も様々だった(個人、タイムトラベラーの集団、戦車、さらには軍艦の集団など)。誰もがその場にいて、それぞれの足跡を残し、戦争の勝利に貢献した。こうして、国内でストライキ運動が勃発し、歴史が変わるのを阻止した。原則的には、このアイデアは悪くない。日露戦争という分岐点によって、当時のロシア革命政党の指導者たちを排除しようとしなくても、その後の歴史に大きな変化をもたらす可能性があるからだ。

[ antisemit_ru: "Попаданцы в РЯВ. Что читать?" (2016/9/19) ]


以下は、Oye (2008)の関連記述...
対馬海戦の余波にて

 シャトロフのワルツと同様、日露戦争に対する評価もまた過去一世紀のあいだに大きく変容してきた。多くのロシア人にとって、当初の衝撃的な敗北ののち、この戦争はロマノフ朝専制体制の欠陥を象徴する出来事として受け止められるようになった。戦後、この軍事行動について論じた者の中には、極東における誤りから教訓を引き出し帝国軍の改革につなげようとする建設的研究者がいた一方で、己の関与を正当化したり政治的得点を稼ぐために責任転嫁を図る者も少なくなかった。[6]
 前者の代表的成果は、帝政期陸海軍が編纂した公式戦史である。戦争終結から数か月のうちに、ロシア陸軍参謀本部総局長はヴァシーリー・グルコ少将に対し、最近の作戦行動に関する大規模研究を組織するよう命じた。グルコは三十五名の参謀将校および助手らとともに、満洲軍が作成した約四万点の資料、ならびに回想録、外国語文献、日本軍付武官の報告書などを渉猟した。[7]
 グルコ将軍は帝政軍内部の改革派「若手トルコ派」の中心人物であり、彼を動機づけたのは、将校教育および必要な軍改革に資する、虚飾なき歴史叙述を提示するとの信念であった。その成果である全十六分冊の刊行物は、参謀本部が編纂した八十七巻に及ぶ露土戦争(1877–78)史に比べれば規模こそ劣るが、陸上作戦をきわめて緻密に記録した通史であった。しかし百科事典的網羅性を備えていた一方で、軍の戦闘行動に対する分析は乏しかった。[8]
 戦後改革への影響力を確保しようとの意図から、グルコ委員会はきわめて迅速に作業を進め、委嘱から四年以内に全巻を完成させた。これに対し、帝国海軍による海戦史の編纂は効率的とはいえなかった。1908年に着手されたが、海軍参謀本部が革命(1917)に阻まれるまでに刊行できたのは、当初構想の一部に相当する七巻のみであった。[9] グルコの大事業と同様、この海戦史も年代記的記述が主であり、分析的考察は限られていた。
 帝国陸軍の教範形成において最重要の機関であったニコライ参謀本部アカデミーは、より批判的姿勢からこの敗北を検討した。[10] 1906年以降、同アカデミーは公開講演や学会を組織し、戦争に関する議論を促進した。[11] しかし、ある研究者が指摘するように、参加者はしばしば既成の持論を補強するために、望ましい教訓を恣意的に読み取る傾向があった。[12] アカデミー出身の将校の中には、独自研究を急ぎ刊行する者もいた。現代戦略の重要研究で知られるエヴゲニー・マルティノフは、軍の官僚化を痛烈に批判し、『日露戦争の悲しき経験より』において指揮官個々の主動性と柔軟性の重要性を強調した。[13] 同様の見解は、アカデミー教授ネズナーモフ中佐によるもう一つの影響力ある戦後分析『日露戦争の経験より』にも共有されていた。[14]
 戦争について筆を執った者の論調のうち、より顕著であった主題は劣悪な指導力であった。満洲におけるロシア軍総司令官であり元陸相のクロー パトキン将軍は、特に幾つかの要衝戦において優柔不断であったため、格好の批判対象となった。二十年前のトルキスタン作戦における彼の上官スコベレフ将軍が述べたとされる警句、すなわち「君は部下としては有能だが、総司令官になるのは神が禁じたもうた。決断力も意志力も欠いているからだ」という言葉を想起した者も少なくなかった。
 クロー パトキン自身を皮切りに、多くのロシア軍将兵がこの敗戦について回想録を残した。多くの場合、将軍自身を含め、彼らは厳密な客観叙述よりも自己弁護に心を砕いていた。[15] 東アジア政策に関与した政治家にも同様の傾向が見られ、たとえば元蔵相セルゲイ・ウィッテはその典型である。彼の回想録は死後に刊行されたが、歴史家グリンスキーには資料を広く公開し、前戦争外交について詳細な記述を執筆させた。この著作は、ロシアが不運な戦争に巻き込まれた責任についてウィッテを完全に免責する内容であった。[16] とはいえ、戦争回想録の中には、敗因を究明し教訓を見いだす真摯な姿勢を持つものも存在し、中将グルレフの『極東における司令部および前線にて』は、その範例として特に思慮深い作品であった。[17] こうした現場の一次記録は当然ながら軍事的側面を中心に叙述しているが、アメリカにおけるベトナム戦争研究同様、国内世論の支持欠如が戦争遂行に及ぼした影響についても一定の留意が払われていた。
 1930年代に入り、ソ連史学がよりナショナリズム的方向へ傾くにつれ、皇帝軍への批判は抑制され、日本および列国の植民地主義的侵略性が強調されるようになった。[18] しかし、十年末に迫った対日戦の可能性は、レヴィツキー『日露戦争』やスヴェーチン『二十世紀戦略の第一段階』など、先の戦争をより客観的に検討する研究を生み出した。[19] 近年では、戦争百周年を契機として、学術的研究からロシア兵の英雄性を称揚する愛国的著作に至るまで、多様な新刊が登場している。[20]
 近年の再刊書の中で特筆すべきは『二十世紀初頭の露日』である。[21] 本書は旧作を「基礎とした」分析的概説を標榜しているが、実際には、シマンスキー少将がグルコ委員会のために執筆した三巻本極秘報告書の完全な復刻版である。帝政期の関連公文書に全面的にアクセスして執筆された原著は、参謀本部による後年の通史に収録された際、多くの機密資料が大幅に削除された。しかし、原版十部は秘密裏に印刷され、1990年代に至るまで研究者の閲覧を禁じられていた。[22]

[6] The most comprehensive list of relevant works is in V. S. Grivnin, et al., Bibliografiia Iaponii: Literatura izdanaia v Rossii s 1734 po 1917 g. (Moscow, 1965), 174–222.
[7] Voenno-istoricheskaia komissiia po opisaniiu Russko-iaponskoi voiny, Russko-iaponskaia voina 1904–1905 gg., 9 vols. [in 16 books] (St. Petersburg, 1910–13).
[8] V. A. Avdeev, “‘Sekrety russko-iaponskoi voiny (Organizatsiia izucheniia istorii russko-iaponskoi voiny 1904–1905 General'nym shtabom Rossii),” Voenno-istoricheskii zhurnal 9 (September, 1993): 83–89; P. A. Zhilin, ed., Russkaia voennaia mysl' konets XIX–nachalo XX v (Moscow, 1982), 40–43; Bruce W. Menning,Bayonets before Bullets: The Russian Imperial Army, 1861–1914 (Bloomington, IN, 1992), 201.
[9] Istoricheskaia Komissiia pri Morskom Generalnom Shtabe, Russko-Iaponskaia voina 1904–1905 gg.: Deistviia flota, ed. A.F. Heiden et al., 19 vols. (Petrograd, 1907–18).
[10] Details about the postwar debates within the General Staff Academy are in Menning, Bayonets before Bullets, 200–37; Carl van Dyke, Russian Imperial Military Doctrine and Education, 1832–1914 (New York, 1990), 131–54; and John Steinberg, The Quest to Reform: The Education, Training, and Performance of the Imperial Russian General Staff, 1898–1914 (forthcoming, Woodrow Wilson Center Press), chap. 5.
[11] The former were published in Russko-Iaponskaia voina v soobshcheniiakh v Nikolaevskom akademii general'nogo shtaba, 2 vols. (St. Petersburg, 1906–7).
[12] Van Dyke, Russian Imperial Military Doctrine, 139.
[13] E. I. Martynov, Iz pechal'nogo opyta russko-iaponskoi voiny (St. Petersburg, 1906).
[14] A. A. Neznamov, Iz opyta Russko-Iaponskoi voiny (Zametki ofitsera general'nogo shtaba) (St. Petersburg, 1906).
[15] Aleksei Nikolaevich Kuropatkin, Zapiski generala Kuropatkina o russko-iaponskoi voine: Itogi voiny (Berlin, ca. 1909).
[16] Boris B. Glinskii, ed., Prolog russko-iaponskoi voiny: Materialy iz arkhiva Grafa S. Iu. Vitte (Petrograd, 1916). See also Witte’s own energetic riposte to the former war minister, S. I. Witte, Vynuzhdennye raz''iasneniia po povodu otcheta gen.-ad. Kuropatkina o voine s Iaponiei (Moscow, 1911).
[17] Mikhail Vladimirovich Grulev, Na shtabakh i v poliakh Dalniago Vostoka: Vospominaniia komandira polka i ofitsera General'nogo shtaba o minuvshei voine s Iaponiei, 2 vols. (St. Petersburg, 1908–9).
[18] Published sources up to 1939 are listed in V. Luchinin, Russko-Iaponskaia voina 1904–1905 gg.: Bibliograficheskii ukazatel' knizhnoi literatury na russkom i inostrannnykh iazykakh (Moscow, 1939).
[19] N. A. Levitskii, Russko-Iaponskaia voina 1904–1905 gg. (Moscow, 1936); A. A. Svechin, Strategiia XX veka na pervom etape: Planirovanie voiny i operatsii na sushe i na more v 1904–1905 gg. (Moscow, 1937). Svechin’s earlier work, Takticheskie uroki russko-iaponski voiny (St. Petersburg, 1912), is also particularly valuable
[20] See, for example, V. A. Zolotar'ev and Iu. F. Sokolov, Tragediia na Dal'nem Vostoke: Russko-iaponskaia voina 1904–1905 gg. , 2 vols. (Moscow, 2004), 2 vols. (according to the title page, they are published “po blagosloveniiu Patriarkha Moskovskogo i Vseia Rusi Alekseia II”); and Aleksandr Borisovich Shirokorad, Padenie Port-Artura (Moscow, 2003). Among the more academic treatments is the multinational collection of essays edited by the Moscow State University historian Oleg Rudol'fevich Airapetov, Russko-Iaponskaia voina: Vzgliad cherez stoletie (Moscow, 2004).
[21] V.A. Zolotar'ev, ed., Rossiia i Iaponiia na zare XX stoletiia (Moscow, 1994).
[22] General-Maior Panteleimon Nikolaevich Simanskii, Sobytiia na Dal'nem Vostoke, 3 vols. (St. Petersburg, 1910). Two copies of the original are held by the Russian State Library and at the Russian State Military Historical Archive, f. VUA, op. 6, d. 1. The story of the volumes’ travails is told in Avdeev, “‘Sekrety,’” 89 n.39.

[ David Schimmelpenninck van der Oye: "Rewriting the Russo-Japanese War: A Centenary Retrospective", The Russian Review 67 (January 2008): 78–87 ]






コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます

広告募集中