冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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ロシア右翼

ウヴァロフが語るロシアにおけるスターリン復活への流れ (2025)


Uvarov (2025)によれば
  1. ロシア連邦共産党がフルシチョフの「秘密報告」を誤りと決議し、スターリングラードの名称復活を求めるなど、スターリン像のホワイトウォッシュと顕彰が進む。
  2. 1950年代、 フルシチョフはスターリン期の弾圧を認め、体制の正統性維持を図ったが、むしろ党のイデオロギー的統一を揺るがし、国内外に大きな動揺を引き起こした。
  3. 1961年に記念碑や都市名が大規模に変更されたが、政治環境は悪化しており、党内にはスターリン肯定派も多く、社会の認識には乖離が残った。
  4. ブレジネフ期にも、 個人崇拝批判は維持されたが、弾圧批判は抑制され、戦勝強調と沈黙によりテロルへの社会的議論は地下化。部分的再スターリン化の兆しも見られた。
  5. ゴルバチョフ期には、グラスノスチで弾圧記録や文学作品が公開され、記念碑建設・名誉回復が進み、スターリン期の犯罪が公式に批判される流れが強まった。
  6. 1990年代は明確なスターリン批判が続いたが、プーチン政権下では帝政・ソ連を折衷し責任を曖昧化。記憶政策は象徴的で実効性が乏しく、後退が進んだ。
  7. 2014年のクリミア併合後、スターリン像の設置が各地で増加。治安機関や政府高官がスターリンを相対化・擁護する発言を強める一方、メモリアルなど市民社会は弾圧され後退。
  8. ロシア連邦共産党が復権運動を推進する一方、地方での拒否や撤去要求など抵抗も存在。国家は公式に反スターリン化否定をしていないが、集合記憶の深層ではスターリン再評価がじわじわ進んでいる。
スターリン像の再生

歴史家アレクセイ・ウヴァーロフが語る、ロシアにおけるソ連指導者の人格崇拝の再帰

戦時下ロシアにおけるスターリンの「復活」

ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンは、今日の戦時下ロシアにおいて復活の兆しを見せている。2025年7月初旬、ロシア連邦共産党(KPRF)は、ニキータ・フルシチョフの「秘密報告」を「誤り」と断じる決議を採択した。同報告は、スターリンに対する人格崇拝を批判し、大規模な政治的弾圧の責任をスターリン本人に帰したことで知られる。またKPRFは同じ決議において、ヴォルゴグラード市の旧名「スターリングラード」の復活をウラジーミル・プーチン大統領に求める方針を示した。
 このKPRFの宣言は、スターリン像の漂白化を試みる一連の動きの延長線上にある。たとえばプーチン大統領によるヴォルゴグラード空港の「スターリングラード」への正式改名、モスクワ地下鉄におけるスターリン等身大レリーフの復元などが挙げられる。近年、ロシア各地でスターリンの記念碑が急増し、中にはその犠牲者を追悼する慰霊碑の近隣に設置される例すらある。本稿で歴史家アレクセイ・ウヴァーロフは、ソ連におけるスターリン個人崇拝の崩壊と、現代ロシアで進行するその再生の過程を論じる。

政治的必要性からの「反スターリン化」――予期されなかった帰結

 1953年のスターリン死去後、ソ連指導部はグラグ体制を徐々に解体し、数十万規模の囚人・流刑者の釈放と事件の再審査を開始した。釈放された収容者が拷問や処刑の実態を家族へ語り始めると、恐怖と不安の入り混じった手紙が官僚の机上に積み上がっていった。当時の指導者ニキータ・フルシチョフは、スターリン期の暴虐を党が認めなければ、いずれ他者によって暴露され、その責任が現指導部に降りかかると悟った。
 1956年2月、ソ連共産党(CPSU)第20回党大会で、フルシチョフは「秘密報告」として知られる閉会後の秘密会合を設定した。外国人や報道機関の目を避け、フルシチョフはスターリンを中心とする人格崇拝を糾弾し、特別委員会の資料を基に1937–1938年の大規模処刑(「大テロル」)の責任をスターリンに帰した。彼はまたスターリンが党指導部を破壊し、自身の独裁を築いたと主張した。同報告は感情的で不正確な点もあったが、スターリンの名と政治的テロルを公的に結びつけた初の文書であった。
 報告の衝撃は大きく、その本文は党員およびコムソモール構成員数百万に秘密配布された。全国各地で朗読され、涙が流され、議論が巻き起こった。グルジア(現ジョージア)ではスターリンの名誉擁護の集会が発生した。国外で公開されると、各国の共産党の権威は大きく損なわれ、東欧諸国には動揺が広がった。中国の毛沢東はフルシチョフに根深い不信感を抱くようになった。他方、ソ連プロパガンダ機構は、なぜ「社会主義の最初の国」でこれほど大規模な弾圧が可能であったのか説明できなかった。
 フルシチョフは、スターリン批判が「真のレーニン主義」を再生し、テロルなき社会主義への信頼を強化すると期待した。しかし疑念の精神を解き放ったことで、彼はソ連のイデオロギー的統一を弱体化させ、体制批判の波を引き起こし、国際共産主義運動を分裂させた。結果として党はこの混乱を回復させることができなかった。

反スターリン化の第二波と冷戦期の葛藤

 1961年10月のCPSU第22回党大会で、フルシチョフは再びスターリン批判を行い、弾圧の責任を側近のモロトフ、カガノヴィチ、マレンコフにまで及ぼした。党大会中にスターリンの遺体はレーニン廟から移され、クレムリン壁墓地に埋葬された。また、ソ連全土でスターリンの名を冠した都市名・記念碑の改称・撤去が本格化し、スターリングラードはヴォルゴグラードへ、スターリナバードはドゥシャンベへ、スターリノはドネツクへと変わった。
 しかし、この第二の反スターリン化は不利な政治環境の中で進行した。中ソ対立の深刻化、食糧不足や軍縮による国内不満、そしてフルシチョフ自身の権威の低下である。改革派の一部はフルシチョフを支持したが、党・コムソモール官僚の多数派はスターリンを強国の象徴として評価しており、若手官僚の中にはKGB長官シェレーピンのようにスターリン的手法を公然と称賛する者もいた。
 1956年の「秘密報告」とは異なり、今回の反スターリン化は大規模な社会的動揺を引き起こさなかったが、改革派とスターリニストの亀裂を明確化した。こうして、公式には個人崇拝が否定され記念碑は撤去されたものの、膨大な国民が依然としてスターリンを「勝利の指導者」とみなすという脆い均衡が生じた。

ブレジネフ期の停滞と「強い手」への郷愁

1964年のフルシチョフ解任後、レオニード・ブレジネフ政権はスターリン主義論争を慎重に封じ込めた。公式の個人崇拝批判は維持されたものの、スターリンに過度に批判的な作品は検閲を通らなくなった。1960年代末には、ソルジェニーツィン『癌病棟』、リバコフ『アルバートの子供たち』など、1930年代の弾圧に関わる小説は国内出版が不可能となった。
 この政策転換により、大テロルに関する社会的省察は断ち切られた。国家はスターリン時代の誤りや犠牲については沈黙し、工業化の成果や戦勝を強調した。そのため、グラグや弾圧をめぐる議論は地下へと移行した。サミズダートやタミズダートを通じて、ソルジェニーツィン『収容所群島』やヴィソツキーの楽曲などが密かに流通し、1970年代半ばには地下文化がテロル記憶の主要な担い手となった。
 政治的迫害は規模こそ減少したものの続き、シニャフスキー=ダニエル裁判や精神医療を利用した弾圧が、体制が越えてはならぬ一線を示した。
 アンドロポフ政権期には、いわゆる「社会的寄生者」に対する取り締まりや、教科書からの弾圧関連記述の削除など、部分的な再スターリン化の兆候すら見られた。チェルネンコ期にはヴォルゴグラードをスターリングラードへ戻す案まで浮上したが、これらは停滞期特有の新たな象徴創出能力の欠如を露呈した。

ゴルバチョフ期のグラスノスチと犠牲者の顕彰

 ゴルバチョフ政権下で、スターリン期弾圧への議論は一躍公共領域へと浮上した。グラスノスチ政策により、サミズダートとして流通していた文学作品が公式出版され、1987〜1988年にはパステルナーク『ドクトル・ジバゴ』、ソルジェニーツィン『収容所群島』、シャラーモフ『コリマ物語』、グロスマン『人生と運命』、アフマートワ『レクイエム』などが次々に刊行された。
 1988年には『オゴニョーク』誌に弾圧犠牲者の追悼記念碑設置を求める手紙が数百通届き、1990年10月には、ルビャンカ広場に初の追悼記念碑「ソロヴェツキーの石」が人権団体「メモリアル」の尽力で建立された。
 1989年には最高会議がスターリン期の大量追放を「違法な抑圧行為」と宣言し、1990年までに80万人以上が公式に名誉回復された。
 ソ連崩壊後も、ロシアは「抑圧された民族」および「政治的抑圧の犠牲者」の名誉回復法を制定し、その前文では「恐怖と大量迫害の歳月」を明確に非難した。これらの法は現在も効力を持つ。

ポストソ連期ロシアにおける記憶の曖昧化

 1990年代、ロシア政府はスターリン期のテロルを明確に批判し、マガダンの「悲しみの面」、サンクトペテルブルクのレヴァショヴォ墓地など、全国に追悼施設が建設された。エリツィン大統領はスターリン批判を利用してポストソ連政権の正統性強化を図り、1996年の国会演説で共産主義を「歴史的袋小路」と断じた。
 しかしプーチン時代に入ると、帝政の紋章、三色旗、ソ連国歌といった象徴を併置することで、歴史の断絶を回避し、責任や罪をめぐる痛みを伴う議論を避ける姿勢が強まった。
 プーチンは2007年のブトヴォ射撃場訪問で「悲劇の再発を許してはならない」と述べたものの、スターリン時代を肯定する動きが出ると学術界・市民社会の反発により後退せざるを得なかった。メドヴェージェフ大統領(当時)はより批判的で、2009年に「国家の目的がいかなる抑圧も正当化しない」と発言し、『収容所群島』を学校カリキュラムに組み入れた。しかし制度的改革は限定的で、プーチンの復帰後は再び後退が進んだ。
 2015年の政治抑圧犠牲者追悼政策法は、博物館・教育計画を掲げつつも予算措置に欠け、実質的な宣言にとどまった。唯一顕著な成果は2017年の「悲しみの壁」記念碑の建設である。

クリミア併合とスターリン像の本格的復活

 ロシアの記憶政策におけるスターリンの復活は、2014年のクリミア併合と密接に関連している。2015年2月、ヤルタ会談70周年を記念し、クリミアにスターリン・チャーチル・ルーズベルトの三者像が設置された。この像は2005年に制作されたものの、ウクライナ当局はホロドモールやクリミア・タタール人追放を理由に設置を拒否していた。
 2015年以降、北オセチア、サハ共和国、バシコルトスタン、さらにはウラジーミル州、タンボフ州、トヴェリ州、リペツク州、ヤロスラヴリ州など、ロシア各地でスターリン胸像が建立された。多くはKPRFや退役軍人団体、市民の主導によるもので、戦勝記念日の5月9日に合わせて除幕される。
 2017年12月、FSB長官ボルトニコフはチェーカーの弾圧を「外部脅威と国内不安がもたらした歴史的文脈」で理解すべきと述べ、「逸脱」はあったものの、多くの事件は証拠に基づき処理されたと主張した。同年、プーチンもオリバー・ストーンとの対話で、スターリンの「過度な悪魔化」はソ連・ロシア攻撃の手段であり、スターリンは「複雑な人物」であると述べた。
 市民社会の記憶活動――メモリアルや「最後の住所」プロジェクト――は長らく再スターリン化を抑制してきたが、2010年代半ば以降、国家による圧力が強まり、2021年にはメモリアル国際歴史学会と人権センターが閉鎖された。
 それでも地域社会による抵抗は残る。2025年2月、カリーニングラード市長ジャトロワは、KPRFのスターリン像設置要請を「社会的合意の欠如」を理由に拒否した。ヴォルゴグラードでも、知事フィリモノフの支援で建てられたスターリン像が検察の撤去請求を受けている。
 KPRFが「秘密報告」を「誤り」とする最近の決議は、ロシア記憶政策における「徐々に進む再スターリン化」を体現する。しかしこれは依然として周縁的な動きであり、プーチン政権は反スターリン化を公式に否定する発言を行っていない。
 他方、KPRFは単なる政党ではなく、ソ連共産党の思想的後継主体である。その象徴操作や歴史叙述は、依然としてロシア社会の歴史認識に影響力を持つ。したがって、今回の決議が国家政策を直ちに左右しないとしても、ソ連期の弾圧をめぐる集合記憶の深層に生じている変化を示唆している。

[ Alexey Uvarov (Translation by Eilish Hart): "Rehabbing Stalin Historian Alexey Uvarov explains Russia’s creeping resurrection of the personality cult around the Soviet Union’s most notorious leader" (2025/07/16) on Meduza ]







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