冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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Fallout City


1953年、ユタ州セントジョージに、ネバダ核実験の核爆発による放射性降下物が降り注いだ。そして、数年後には、セントジョージはフォールアウトシティと呼ばれるようになった。
The subject of radioactive fallout was absent from the local literature during the fifities, which is not suprising for a region that saw itself as being on the way up. U.S. News & World Report dubbed St. George "Fallout City" a few years after the 1953 tests, but locals referred to the region as "Dixie", the "Land of Color", or "Color Country". Arthur F. Bruhn, a science instructor at Dixie Junior College in St George, wrote a photographic guide to the region. Such a guide was necessary, he saied, because of "the inadequacy of words to portray the beauties of Southern Utah's Land of Color".

1950年代の間、放射性降下物の問題が地元で報じられることはなく、自分たちの地域は人気が高まりつつあると見ていたことは驚くことではない。1953年の核実験から数年後、US News & World Reportはセントジョージをフォールアウトシティと呼んだ。しかし、地元は自らを「ディクシー」「ランドオブカラー」「カラーカウンティ」と呼んだ。セントジョージのディクシー短大の科学講師Arthur F. Bruhnは、地域の写真ガイドを書いた。そのようなガイドブックが必要だったのは、ユタ南部のランドオブカラーの美しさを描写するのに不適切な言葉が使われていたからだと、彼は言う。

[ Philip L. Fradkin: "Fallout: An American Nuclear Tragedy", 2004, P.11 ]
当時、原子力委員会はそのような被害を否定していた。

しかし、1957年頃には、US News & World Reportは、よりバランスのとれた記事を載せるようになった。
By 1957, public sentiment had begun to shift. In 1955, the conservative U.S. News & World Report had carried an article stoutly proclaiming the fallout to be harmless. In 1957, it wasn't so sure. In its June 14, 1957, issue, the magazine carried an article by AEC commissioner Willard F. Libby, "Why Nuclear Tests Go On— AEC Gives Officials Reasons."

1957年までに、人々のセンチメントは変わり始めた。1955年には、保守的なUS News & World Reportは、放射性降下物は無害であると明確に宣言した記事を掲載した。1957には、それほどの確信はなくなっていた。1957年6月14日号には、原子力委員会Willard F libby委員の記事「何故、核実験を続けるのか。その公式理由を原子力委員会は語る」を掲載した。

The next week an uncredited report, "If you're Still Wondering About Fall-Out Danger," cited the views of several "Top Authorities." The tone was far more balanced than in 1955 and was laced with such phrases as "all such radiations are potentially dangerous, their use should be the subject of constant and close scrutiny," and "every endeavor should be made to keep the level of exposure as low as possible." Under the heading "What X-Rays Can Do," the article flatly stated that "Radiologists die five years earlier on the average than physicians having no known contact with radiation." Also quoted was the British Medical Research Council: "It is unlikely that the inhalation of radioactive particles present in the air as a result of fallout would constitute a problem in ordinary civil life. ... Account must be taken, however of the internal radiation from the radioactive strontium which is beginning to accumulate in bone ..."

翌週には、「トップクラスの権威」数人の見方を参照した無署名記事「まだ、放射降下物の心配をしているのなら」という記事を掲載した。1955年よりも、はるかにバランスの取れた記事で、「そのような放射線はすべて潜在的に危険であり、その利用は常に、細心の注意を払う必要がある」とか「被曝量をできる限り小さくするように、あらゆる努力をすべきである」といった表現が見られるようになった。「X線の影響で起きること」という表題で、記事は「放射線を扱わない医師より、放射線科医は5年以上早く死亡する」と明確に書いていた。さらに、英国医学研究審議会の「放射性降下物により、空気中に漂う放射背の粒子を吸い込んで身体に悪影響が出るというのは、普通の市民生活では考えにくい。しかしながら、次第に骨格に蓄積した放射性ストロンチウムからの内部被曝は...」という記述を引用した。

For those concerned with fallout, it was not a particularly encouraging article.

放射性降下物を心配する人々にとって、この記事は特に勇気づけらるものではなかた。

A week later, the magazine offered reassurances from, of all people, "Folks" from "Fallout City": St. Geroge, Utah.

翌週、人々を安心させようとする「フォールアウトシティ、ユタ州セントジョージの人々」という記事を掲載した。

Jeter C. Snow, mayor of St. George: "I've not noticed any real concern, [though] people here wish it could be some other way."
セントジョージ市長:「私は全く心配していないが、ここの市民たちは違っているようだ」
Dr. M. K. McGregor, physician: "There's a lot of spotty baldness, but it's all due to anxiety — not to any fallout I know of. . . ." (McGregor concluded, however, that it was "important to know more about fallout.")
医師「まだらはげが多くいるが、それは不安によるもので、私が知る限り、放射性降下物によるものではない」(医師は、しかし、「放射性降下物について、もっと知ることが重要だ」と結論している)
Wayne Whitehead, of Whitehead's Dairy: "The tests don't worry me. I think that the guys who are doing it are competent. If they weren't they wouldn't be doing it."
ホワイトヘッド乳業:「核実験のことは心配していない。心配しているのは有能な人々だけだろう。有能でないなら、心配などしないだろう」
Rex Frei, cattleman: "I don't see how that little flash down at Vegas could affect us. I had my wife operated on for cancer and they gave her tremendous doses [of radiation] over two months. She's still alive, so this can't be too bad."
牧畜業者:「ヴェガスでの小さな閃光の影響がどれくらいなのか知らない。妻は癌の手術を受けたが、その前の2か月間、医師たちは妻に大量の放射線を照射した。それでも妻は生きている。放射線はそれほど悪いものではないのだろう」 ~^
[ Richard L. Miller: "Under the Cloud: The Decades of Nuclear Testing", 1986, p.301 ]

それから20年の時が流れても、軍は、核実験場での放射線被曝による被害を認めなかった。


ポール・クーパーは白血病で死にかけている。彼の主治医は「20年前にネバダ砂漠で、核実験の爆発を2.7kmの距離で防護なしに経験したことによるものだ」と述べた。

しかし、復員軍人援護局は、主治医が死に至ると述べている彼の病気は、核爆発の放射線によるものではないと述べた。復員軍人援護局は、クーパーの障害者給付金(月820ドル)の請求を却下した。クーパーは自分の死後に、妻子に教育費を確保するために、障害者給付金がほしいと述べた。

クーパー(43歳)は、ネバダ州ユッカ平原で1957年8月31日に行われた核実験に参加した部隊員1104名の一人だった。軍の報告書によるれば、スモーキーと命名された演習の目的は、核爆発に対する兵士たちの反応を実験する者だった。この爆発はTNT44kt相当で、第2次世界大戦末期に広島と長崎を破壊した核デバイスの2倍の威力がある。

さらに軍の報告書によれば、爆心から13km以内に近づいた兵士はいないことになっている。しかし、実験前の原子力委員会のニュースリリースでは、爆心から4.1kmの防護トレンチに待機することになっていた。

アイダホ州エメトの20年来の退役軍人クーパーは、1976年早くに病気になったと告げられ、ここの復員軍人援護病院で急性白血病の治療を受けてきた。復員軍人援護局は「彼の放射線被曝はごくわずかである。もし白血病を起こすほど被曝していたなら、もっと早く発症していたはずだ」と述べた。

ノースカロライナ州フォートブラッグの第82空挺師団の軍曹だったクーパーは火曜のインタビューで、「核デバイスが設置された、高さ213mの塔から、原子力委員会のモニターが言ったところによれば、2.7kmの地点のトレンチを目指して、200名の男たちが行進した」と述べた。

しかし、風向が変わり、モニターあいは白色の防護服とマスクをせざるをえなくなり、クーパーの中隊は、塔の西側2.7kmの丘陵の側に動かざるをえなくなった。「そこには、防護トレンチはなかった」とクーパーは述べた。

「疲れ果て、防護マスクもないまま、顔を塔と反対側に向け、手で眼をふさぐよう命じられた。核デバイスが爆発すると、眼を閉じていたのに、X線のように、自分の手の骨が見えた。熱はとても強く、10〜20秒は耐え難いほどだった。そして、塔の方を向くように命じられた。我々が振り向くと、火球が空へ上昇していた」とクーパーは述べた。

軍の報告者では13kmの位置となっているが、クーパーは「それはありえない。熱や衝撃波を感じたことがないのだろうか。我々がいたところでは、電柱の配線工事でやってみればいい」

[ AP: "Army denies former soldier7s claim that nuclear test caused leukemia" (1977/04/07) on TheBulletin ]
一方、米国CDCは、核実験場での被曝と白血病の関連の調査を実行していた。


放射性降下物と癌の関連の有無を調べるために、20年前に原爆実験で被曝した兵士たちの調査を実行中だと、月曜にCDCが述べた。

CDCの癌の専門家であるDr. Glyn G Caldwellは「ネバダ州ユッカ平原での44ktの核実験で低線量被曝した2名の退役軍人が白血病を患っている。科学者たちの問いは、これらの白血病症例が、低線量被曝によるものか否かである」と述べた。

2名の退役軍人は、1957年8月31日に核実験場にいた1100名の兵士のうち、ソルトレイクシティのポール・クーパー(43歳)と、ケンタッキー州TomkinsvilleのDonald Coe(44)だと特定された。

「我々は放射線被曝した全員を見つける必要がある。それにより、低線量被曝が悪性腫瘍の原因であるか特定可能となる。1100名のうち2名が白血病になったのであれば、それは普通のできごとである可能性がある。人口10万人あたり、10名が偶発的に白血病になる。」とDr.Caldwellは述べた。

[ UPI:"Soldiers exposed to fallout being sought by scientists" (1977/04/19) on TimesDaily ]

翌年、少しづつ状況は変わり始めていた。Deseret Newsは次のような記事を掲載した。


開いたら、二度と閉じることができない箱を開いたパンドラの気分だ。Irma Thomasは、1950年代と1960年代の核実験に関連しそうな出版物の古い文献調査に多くの時間を捧げている。

彼女の探求は既に、「ネバダの地上核実験とユタ州南部の高率の癌発症に明確な関係がある」という彼女の長年の信念を裏付ける幾つかの報告へと結実している。

Newsweekの1956年6月25日号には「低線量放射線被曝であっても、白血病やその他の癌、白内障、不妊、短寿命、将来の世代の突然変異などの重大な影響を起こす可能性があると、科学者たちは警告していた。放射線による遺伝子損傷は累積する」という記述があった。

かつての米国原子力委員会が出版した「放射性降下物」というブックレットには、「身体的及び遺伝的影響」という表題で、「自然放射線及び放射性降下物による低線量の長期被曝の効果を示す直接的証拠はない。必要な情報を得る雨の研究は特に実行不可能である。数百万匹の実験動物と数十年の実験期間と微妙な損傷基準が必要である。」との記述があった。そのブックレトは1963年に出版され、1966年に改訂されている。

「放射線の生物学的効果」という政府のパンフレットには「放射性降下物からの放射線の推定効果」という表題で「1962年の最初の健康影響報告書で、連邦放射線審議会は、自然背景放射線と1961年に実施された核実験の放射性降下物による、今後70年で米国で起きる白血病と骨癌について、推定した。1963年5月に発行された第2報告書で、従来、見出されていた放射性降下物による放射線被曝が過大評価であることが明らかになった。1962年に実施された核実験による追加被曝で、1961年に実施された核実験による今後70年間の白血病及び骨癌の発症推定数に変化はない。」との記述があった。

Dr. Ronald Garnerは「セントジョージは米国フォールアウトシティと呼ばれていた。そこで我々は生きていた。」と述べた。Garner夫妻の第4子であるMicheleという名の娘は、1959年11月3日に生まれた。今日、Micheleの両親は、Micheleが家族のピースメイカーだったと記憶している。神経芽細胞腫という稀な癌で、1966年11月29日にMicheleが死亡したことの心の痛みは癒えていない。Garner夫妻は「放射性降下物が、小さな娘の病気と死の原因であるという考えが浮かんだが、当局は我々に、それは無害だと保証した」と述べた。「米国の最近の雰囲気は、ここで起きたことに耳を傾ける手助けになると考えている」とDr.Garnerは述べた。

[ Dorothy E. See:"Stories found on fallout" (1978/11/24) on Deseret News ]

そして、1978年に、Stewart Udall率いる弁護士チームが、米国政府に対する戦いを始めた。
Then in the fall of 1978 Stewart Udall and a team of lawyers reported that downwinders' cancer rates had reached epidemic levels. According to Philip L. Fradkin, in "Fallout: An American Nuclear Tragedy,"

そして、1978年の秋に、Stewart Udall率いる弁護士チームが、Downwinderたちの癌発症率の高さが、伝染病レベルだと報告した。Philip L Fradkinの"Fallout: An American Nuclear Tragedy"によれば...

Udall was quoted often in local newspapers that fall. After interviewing 125 people during a four-day period in October 1978, the Washington lawyer said the enormity of the situation was shocking, cancer rates were three or four times greater than normal

その秋、Udallの報告は地方紙で多く引用された。1978年10月の4日間、125人のインタビュー後、ワシントンの弁護士は、極悪な事態は衝撃的で、癌発症率は通常の3〜4倍だった。


At a press conference held to announce plans for a class-action lawsuit against the United States, Udall was quoted as saying that he was stunned by the abnormally high number of suspected fallout cancer victims. Udall would later write: "The sturdy Mormon families [are] struggling with tragedies inflicted by a cancer epidemic foisted on them by the Atomic Energy Commission."

記者会見が開かれ、米国政府に対する集団訴訟の計画が発表された。伝えられるところによれば、Udall弁護士は「放射性降下物によると思われる癌患者の数が異常に多い」と述べた。Udallは後に「不屈のモルモン教徒の家族たちが、原子力委員会に押し付けられた癌の流行による苦痛の悲劇と戦っている」と書いた。

Udall and Associates eventually composed a list of 1,192 plaintiffs consisting of heirs of deceased cancer victims or individuals still surviving with cancer. The list of cancer victims totaled 262 actual cases drawn from many counties in Utah (and some outside Utah), including 144 deceased cancer victims and 118 surviving cancer victims. Two dozen of these plaintiffs were picked for the Allen et al. v United States trial beginning on September 20, 1982, in the Federal District Court in Salt Lake City.

Udallと仲間たちは最終的に、癌による死者の遺族及び生存する癌患者をあわせて1192名の原告名簿を作り上げた。実際の癌患者は、ユタ州の各郡(や、一部はユタ州外)の262名で、うち144名は既に死亡しており、118名が生存していた。これらの原告のうち24名が、1982年9月20日に、ソルトレークシティの連邦地裁で始まったAllen et al. v. Uniter States裁判に参加した。

[ Daniel W. Miles: "Radioactive Clouds of Death Over Utah: Downwinders' Fallout Cancer Epidemic Updated" (2013) ]

また、被曝の実情を人々が語ったドキュメンタリー"Paul Jacobs and The Nuclear Gang"が放送された。


そして、翌年1979年遅く、New Scientist誌がこの件を記事にした。
The US Department of Energy claims that the AEC did take all reasonable precautions and tested only when the wind was away from the big cities in the south. This meant the bulk of the fallout landed on only a handful of sparsely populated Mormon towns in the northeast. But clouds of fallout did not always cooperate with the AEC's pattern. The debris from a 1953 bomb called "Dixie" remained airborne until it reached New England exposing Bostonians to 1900 millirems in two days. After a 1958 test, a radioactive cloud drifted south-east and became smog-bound over Los Angeles for four days.

米国エネルギー省は「原子力委員会は合理的にとりうる予防措置をすべてとっており、南部の大都市に向かって風が吹いていないときのみ実験を実施した」と主張する。これは、北東にある人口希薄なモルモン教徒の街に、放射性降下物が降り積もったことを意味する。しかし、放射性降下物の雲は、いつも原子力委員会のパターンにしたがったわけではない。Dixieと名付けられた1953年の爆弾によるデブリは、空中を漂ってニューイングランドに到達し、ボストン市民は2日間にわたり1900ミリレムの放射線に晒された。1958年の核実験後、放射性の雲は南東に進み、4日間にわたってロスアンゼルスはスモッグに覆われた。

It was the small Mormon towns, however, that were hit hardest by the fallout and which today are reporting the staggering cancer mortality rates. The town of St George, Utah, which lies about 242 km east of Yucca Flat, has become known locally as Fallout City. On 19 May, 1953, an unspecified accident with the detonation of a bomb called "Harry" exposed St George to more fallout than was ever to be measured in any other populated area.

しかし、放射性降下物に最も襲われた小さなモルモン教徒の街では、圧倒的な数の癌死亡率が報告されている。ユタ州セントジョージの街は、ユッカ平原から東に242kmのところにあり、フォールアウトシティとして知られるようになった。1953年5月19日、Harryと呼ばれる爆弾の爆発による、不詳の事故により、セントジョージは、人が住む地域でどこよりも多くの放射性降下物に晒された。

According to the testimony of General Mahlon Gates, the current manager of the Yucca Flat site, Harry delivered a total dose of 6000 mrems to St George's population in one day. The residents were not informed of the dosage figures which are just being released this year, but were told that their exposure was far below dangerous levels. In fact, the AEC's own maximum permissible level for exposures to radiation at that time was 1900 millirems.

ユッカ平原実験場の現在の責任者であるMahlon Gates将軍の証言によれば、Harryは一日で、セントジョージに6000ミリレムの被曝をもたらした。住民にはこの数字は知らされず、今年になって公表された。それまで住民には、危険水準をはるか下回る被曝だと告げられていた。実際、原子力委員会の当時の最大許容被曝量は1900ミリレムだった。

The nation's first 50 kilotonne bomb, known as "Simon", detonated in April 1953, turned out to be among the dirtiest. Nine hours after the explosion, monitors reached record levels and roads leading into the danger zone were blocked for hundreds of miles. Of the 250 vehicles examined coming out of the fallout zone, 40 needed total decontaminations. A bus bound for Los Angeles with 30 passengers on board gave a reading of 250 milliroentgens/hour on the outside of the bus and 160 milliroentgens/h inside.

Simonとして知られる、米国で初の50kt爆弾は1953年4月に爆発し、最もダーティな爆発であることが明らかになった。爆発の9時間後、モニター数値は記録を更新し、数百マイルにわたり危険地域に向かう道路は封鎖された。放射性降下物領域から帰ってきた車250台が検査され、40台が除染が必要であることがわかった。乗客30人を乗せたロサンゼルス行のバスは、バス外部で250ミリレントゲン/時、バス内部は160ミリレントゲン/時だった。

Still the residents remained unconcerned. The AEC, anxious to quell any anxiety, sent a public relations squad into the area to make a film, casting local people from St George watching the explosions and talking about how the tests did not affect them at all. Indeed, according to recently declassified documents, the AEC seemed more concerned with the continuation of the tests than with the welfare of the population. One AEC memo written in 1953 said that ". . . in the present frame of mind of the public, it would take only a single illogical and unforeseeable incident to preclude holding any future test in the United States".

それでも住民には通告はなかった。原子力委員会は不安を静めようとして、この地域に広報チームを送り、映画を作り、爆発を見て、核実験が何の影響も及ぼさないと話すセントジョージ地元民を登場させた。実際、最近に機密解除された文書によれば、原子力委員会は人々の幸福よりも、実験の継続を憂慮していたようである。1953年に書かれた原子力委員会のメモによれば「現状の大衆の心情からすれば、たった一つの非論理的かつ予測不可能な事象でも、米国における将来の核実験が実施できなくなるだろう」

[ Lee Torrey: "Disease legacy from Nevada atomic tests", New Scientist (1979/11/01) P.336 ]
そのようにして制作された映画がこれである。


結果的に、米国政府が、風下住民の被害認定と補償に至るまで、は数十年の時を要した。





なお、関連するUpshot-Knotholeの実験は以下の3つ:
Dixie1953/04/0611kt
Simon1953/04/2543kt
Harry1953/05/1932kt






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