忘却からの帰還〜Atomic Age - 飯田幸郷「原子爆彈」(1948)
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飯田幸郷「原子爆彈」(1948)


1948年6月に、原爆概説な本が出版されている。


目次からすると、デモクリトスの原子論から始まり、科学史を概観しつつ、原子・原子核へと話を進め、原子爆弾まで概説するという、中学生向けくらいのテクニカルな原爆概説書である。
一、デモクリトスと原子 / 7
二、鍊金術 / 11
三、火素說と酸素 / 16
四、原子說[と分子] / 20
五、電氣の發見 / 25
六、電磁波 / 38
七、ラヂウムの發見 / 42
八、原子の構造 / 48
九、原子核 / 58
一〇、メンデレーフ / 61
一一、陽子 / 68
一二、二倍の重さを持つた水素原子 / 71
一三、氣體か液體か固體か? / 73
一四、X線と固體の構造 / 77
一五、ガリレオとニユートン / 82
一六、力と仕事 / 89
一七、エネルギー / 93
一八、眼に見えない光 / 97
一九、量子論 / 100
〇、アインシユタイン / 105
二一、宇宙線 / 111
二二、原子爆彈 / 119
二三、原子核分裂研究の歷史 / 123
二四、原子爆彈の威力 / 126
二五、原子力の管理 / 130
二六、原子力時代 / 133
一冊丸ごと、原爆だけという、しかも子供向けの本がこの時点で出版されているのは、興味深い。

24章では最初の5発の原爆について、その威力を記述している。
二四 原子爆彈の威力

世界ではじめての「原子爆彈」はニューメキシコのアルモゴードの沙漠で、一九四五年七月十 六日、ものすごい雨の降つている中で試験されたのでした。

七月+四日、この原子爆彈の試験という重大な任務を帯びた一行は、アルモゴードめ試験場に 建てられた、原子爆彈を試験する鐵の塔の頂上に登つて、準備のために大わらわでありました。爆發させるために必要な装置や、爆彈が破裂して後のあらゆる数果や作用を測定する装置など が、この鐵の塔に取付けられたのでした。そして原子爆彈の試験場に一番近い親測所は、鐵塔の南方、およそ一萬米の地點に木材と土で造られ、そこにいろいろな試験に必要な調繋装置が備 えられました。

塔からおよそ 一萬六千米の観測に最も便利な地點には、原子爆彈計劃の主要な人たちが、爆發の状況いかにとひかえていました。時限信號は「マイナス二十分、マイナス十五分」と進んで行き、試験員たちの顔はますます緊張して行きました。「マイナス四十四秒もに達した時、ロボット装置が操作を開始し、そしてその時から、あらゆる試験装置は人手をわずらわさずに、自動的に動き出しました。「マイナス十秒、五秒、三秒、二秒」、そして次の瞬間に目もくらむような物すごい光のひらめきが發せられまレた。観測所から約五粁離れた山が、はげしい雨にもかかわらずくつきりと浮び上つて見えました。その時、大きな連続的なうなり聲が聞えて、重くるしい壓力を感じた波が押しよせて來ました。このために鐵塔から一萬米ほどの距離にある一番近い観測所 の外にいた二人の男は、地上に打倒されてしまいました。

それから後、むくむくと巨大な雲が立ち昇つて、一萬米以上もの上空にまで達して消えまし た。試験は成功したのであります。

[ 飯田幸郷: "原子爆彈 科学物語" (少年名著文庫5), 昌平社, 1948, pp.126-127 ]
豪雨の中で実験されたように書かれているが、これは違う。実際には、現地時刻04:00に予定されていた爆発が、降雨と雷により延期された。その後、04:45に爆発に適した予報が得られ、05:10に最後の20分のカウントダウンが開始され、05:30までには降雨が止まっている。

米軍占領下でもあり、広島と長崎についてはあっさりした記述。
原子爆彈第二號、それは同じ年、すなわち昭和二十年の八月六日午前八時二十分に、折から飛 来して来たB二九かち落下傘につけられて投下されました。落下傘は風に流されながら廣島市上空、約六百米のところで爆發し、稲妻のような光を發した次の瞬聞、広島全市はもうもうたる密雲に閉されてしまいました。

第三番目の原子壌彈はそれから三日後の八月九日に長崎市へと投下されました。そしてその原 子爆彈の威力がどんなものであつたかは、皆さんが既によく御存知のことだと思います。

[ 飯田幸郷: "原子爆彈 科学物語" (少年名著文庫5), 昌平社, 1948, p.127 ]
ただし、原爆についてテクニカルに概説するという本の内容からすれば、惨禍を長々記載する意味はない。検閲とは無関係に、あっさりした記述にしたのかもしれない。

そして、1946年のOperation CrossroadsのAbleとBaker爆発については、絵入りで概説をしている。
第四番目と第五番目との原子爆彈、それはそれぞれ一九四六年の七月一日と二十五日とに、太平洋上のマーシヤル群島にあるビキ=環礁で實験されました。

ビキニ環礁というのは、ハワイの西南、およそ五千粁の海上にある、南北十八粁、東西約三十五粁の二十有徐の珊瑚礁から出来ております。ビキニはその珊瑚礁中の主要な島で、環礁の東側にあります。

ビキニにおける第一回の試験は、航空母艦、戦艦、巡洋艦、潜水艦、輸送船、上陸用舟艇など各種のものを合せて七十三隻の艦船を洋上に配置し、それらに白ネズミやモルモツト、山羊、豚、などを乗せて、水面上数百米の高度で原子爆彈を爆發させて行われました。爆發すると、廣島や長崎で投下された時と同じように、太陽のような火の玉が現われて、それがぐるぐると回轉する雲の塊につつまれて昇つて行き、下からは白煙の柱が立ち上つて、ちようどキノコのような形に なり、それが始めは毎分五百米ぐらいの速度で昇って行き、約一時問の後には十粁におよんで、傘の形をしてただよつていたということであります。その間、紅色にぬつた人の乗つていないロボット飛行機がこの雲の中を縦横に飛んで、それに備えてある放射線探知機によつて、その雲の放射能を直に基地に放送したりして、いろいろな親測が行われました。

第二回目のビキニの原子爆弾の試験は八十七隻の戦艦や航空母艦、その他の艦船の中央に配置 された船から吊り下げられて、水中で爆發されたのであります。このときは第一回目の場合とは異なつて、海面が直径八百米ぐらいもり上つて、その中央から直径六百米ぐらいの水柱が、二分半の間に千六百米ほどの高さにまで噴き上げられたのです。そしてそれから矢張りキノコのような形をした煙がさらに千二百米も昇つて、その煙は横に廣がつて行つて、海面上の全艦船をおおつてしまいました。そこから十數粁もの遠くに離れて観ていた人たちは 、その爆風が上つてから 四十秒の後に物すごい音を聞いたとのことであります。

試験に使われた軍艦の損害は第一回の場合よりも第二回の方がはるかに大きく、また放射性物 質が水の中に散布されましたので環礁内の海水は試験後十日たつても、まだ危険で近よることが出来なかつたほどでありました。


[ 飯田幸郷: "原子爆彈 科学物語" (少年名著文庫5), 昌平社, 1948, pp.127-130 ]
「ロボット飛行機」は、実際にはB-17爆撃機を改造した無人機で、安全距離にいる母機からパイロットが遠隔操作したものである。

著書としては
  • 原子力宇宙船: 少年少女科学小説, 東光出版社, 1948
  • 原子力の研究 (中等科学叢書20), 株式会社自由書院, 1949
雑誌記事としては、子供向けと思われる「東光少年」に以下の記事がある。
  • 飛行機の國アメリカ, 東光少年(2), 東光出版社, 1949-02
  • 電波の眼レーダー, 東光少年(6), 東光出版社, 1949-07
  • 地球をくりぬく話, 東光少年. 2(1)新年号, 東光出版社, 1950-01
経歴等の記載はない。