最終更新:ID:siKjTSQZwA 2020年07月30日(木) 05:03:30履歴
からんころん。
氷がグラスに当たって砕けて美しい液体の中で踊る音。
りんりん。
この店のドアが開けられたことを教えてくれる鐘の音。
こつこつ。
手入れされた革の、床を叩くせっかちで素直じゃない靴の音。
この店のマスターであるリルは磨いていたグラスから目の前のカウンター席に腰かけた彼に視線を移す。最近急に冬らしく冷えてきているのに彼は基本、車での外出のせいか防寒具を着けないコート姿。今日も同じだった、朝見送った姿と一致する。
『まだこっちの冬には慣れないね、真冬なのに青空なんてさ』
コートを椅子の背にかけ、ジャケットのボタンを開いてカウンターに肘をついた。その口から滑り出たのは母国の響き。
彼の目が一瞬、テーブル席の方に流れて、すぐに戻る。今日は珍しく開店早々に若い子たちが団体で入ってきて大騒ぎ、私の店では珍しい反響ぶり。それが少し気になったのだろう。私は壁にかけられた時計を見て溜息を吐く。針はまだfourのところにいる。
『まだ四時じゃない、お仕事はどうしたのかしら。またノアに面倒かけてるの?』
『いやいや、まさか。今日の分は終わらせてきたよ。というか元々早めに手をつけてるからノアにも別に面倒かからないと思うんだけど、どういうことなんだ』
『早め早めにして仕事が終わったら余裕があると思っても仕方ないわ』
『ああ……今度手を抜いておこう。ノアも半分面白がってるだろう、肝が据わってるよ。ああ、いつもので』
『少々お待ちを』
彼の黒い手袋が外されるのを横目に専用の冷蔵庫からロックグラスを手に取って丸い透明な純氷をその中に零す。最近気に行っているのはローランドの穏やかな味。並べた様々な銘柄の中、彼の顔色をたくさんの瓶たちの反射で伺う。
騒がしいのがやはり彼の耳にはかなり来ているらしく、時折眉間に皺が寄る。こんなに生きづらそうなのに余程の人たちよりも高いところにいる人だなんて、誰が予想するのだろう。この東京という狭い平野に高く積もる人々の中で一日の大半を過ごす、その大半にどれほど神経が突き刺さるように冴えるのか、リルにはわからない。知っているのは休みの日の大半の時間を、睡眠や読書といったもので消費している彼の姿だけ。広い庭、茂る森のような敷地を横目にして、四阿―――ガゼボの屋根の下に吊るされたソファーブランコに腰かけて本を捲っていく横顔。
そんな穏やかな時間でないと彼の心は持たないと分かっているし、時折その風景に氷の目の子が飛び込んでくるのが愛おしい。箱舟の子がやってきて何事かを真面目に話しているのもいい。ただ、暖かい日には日差しに負けて眠ってしまう彼の光に透けた蜂蜜のような髪の色が、開きっぱなしの本が風に負けてぱらぱらと進んで行く、戻っていくそんな、光景が一番。
手の中のグラスにはとうに目的の液体が注がれている。マドラーでくるくると氷を掬い上げるように回せば、からんからんと軽やかな音を零した。
『どうぞ』
『ありがとう』
一言に気をこちらに持ち直した彼はグラスを受け取る。白い手で。どことなく面倒くさげにグラスを持ち上げる癖はいつでもどこでも直らないのね。
『あの子たちさ』
『ん?』
そんなに騒がしかったかしらと思いながら顔を上げる。
『婚約のお祝いなんだってさ』
『あら……』
耳のいい彼が日本語を聞き取って訳すのにそうは時間はかからない。なら騒いでいる青年たちの輪の中心にいる男と女が今日の主役というわけなのだろう。そういえば手元に光るものがある。周りも止めずに好きなようにさせているように思えて彼の言葉に納得を覚える。
『子供は二人ほしいって』
『そう。少ないわね』
『そう思う?僕もそう思う』
悪戯っ子みたいな何か思いついたときのような笑顔を見せながらウイスキーで喉を焼く対照的な何かに私はいつも心が動く。不安になったり、楽しくなったり、そのときそのとき。
『そう思うわ、二人どころか名義だけなら子供なんて幾らでもいるもの、ね』
どきりとわざとらしく肩を跳ねさせて繕った顔で首をかしげる貴方。もちろん、血の繋がった子供を作った話なんて聞いてないし、ないのだろうけれど。互いに互い、貴族の端くれなのだからその椅子に座り続ける為に課されたことを成し遂げることは当然のことなのだけれど。どうして貴方がそれをやっているのかが甚だ疑問。
だって一度家出しているものね。
『あー……そう、そうだね、でも僕が養父なんて知ってる子の方が珍しいから……』
『こないだPotteryの家の子に匿名で肩入れしたらしいじゃない』
『あ。あー……したね、うん、ほらAliceと仲良くなれるかなって……』
『いくつの子に肩入れしたの?』
『十三だったかな』
『仲良くも何もないんじゃないかしら』
『いや、Aliceの品を見せたら知ってるっていうから……その』
『珍しいわね、だって結構田舎の子でしょう。Aliceの品が何処へでも行くとしてもイングランドの端っ子にもいくとは思えないけれど』
Aliceblue。雪の模様をこっそり入れて自作とする子お手製のピッチャーボトルを見る。中身はだいぶ減っていた。籠の中の見た目が綺麗なレモンを手に取って軽く洗い、スライスして冷やしておいた水と一緒にボトルに入れる。
『一度だけロンドンに来たことがあるそうでね。その時たぶん、うちの何かで見たんじゃないか。あんまり覚えてない』
『本当、貴方ったら人の話を聞かないんだから』
『全部聞いてたら脳神経壊れそう』
『元々容量大きいじゃない……』
暖房に少しずつ身を削る氷を見て指先で突きながらでもなあとぼやくのを後目にいい匂いを零し始めたホットサンドメーカーに目をやる。あまり肉が好きじゃないという彼だがハムとチーズではなく、野菜とチキンを挟んだものだと結構喜んで食べるのだから人間の味覚とは不思議なものだ。
両開きの鉄板をそっと開いて口を閉じたパンをまな板の上に零す。包丁がさくりと香ばしいハーブの香りを増幅させていく。
『悪酔いはしないで頂戴ね』
差し出された皿に肩を竦めた。酔いの自覚が少しはあるのだろう。二日酔いなんて一介の店の者には関係ないけれどそれとこれとでは話が違う。
大人しく皿の上に乗ったホットサンドに噛り付くのを見守った後、また、グラスを磨く作業へ戻る。ざくざくと何の感情もないように食べてしまうのをバックに手元のグラスの曇りを消していく。
『旨い』
『そう』
僅かに笑みを唇に寄せた。
からん、ころん。
店の鐘が鳴る。
『おや』
伏せた目を少し持ち上げて、客の姿を確認する。ジャケットを羽織った上品な男だった。手には大きなケースと杖が収まっていて、杖が彼が来た時と同じような硬質な音を鳴らしている。
『バロネットがこんな時間からいるとは珍しい』
カウンターまでやってきた杖で歩く老紳士は彼を見てそう笑った。彼が此処へ紛れ込むよりも前から店によく顔を出してくれる客だ。今日の店の様相にも当然気づいていながらもそっと彼の隣の席を陣取る。
『そういう貴方もね、Sir』
『全くです。同じものをくださるかな』
普段は日本語での注文なのだけれど、彼がいると気を使ってか、老紳士は滑らかな英語を使いだす。世界広しとはいえ、まさか極東まで来てこのような風景を見るとは思ってもみなかった。……来て、店を開くまでは。案外、この東の島国も言語が出来る人は出来るし、出来なければ出来ない、何処に行っても同じ。
『今日はローランドをお飲みですか』
『うん、最近気に行っていて』
『私もローランドは好みですな。口当たりがよろしい』
『あー……でも、ロックの気分じゃないな、水割りにするよ』
『これはまた珍しい』
『さっき悪酔いするなって釘を刺されたばかりで』
ロックグラスを老紳士の手元に滑らせた後、先ほどよりも背の高いグラスに氷を満たす。氷の間にするすると染み渡る琥珀の流動も美しいが、マドラーを取り出しながら水を注ぐ。濃い琥珀の色と香りが少しずつ水に溶けて柔らかくなっていく。
『何処へ行ってもそういうものですね、私も妻に早く帰ってこいと言われましたが、いやぁここが開いているのを見るとつい足が』
『分かる』
『貴方は開いてなくとも足を運ぶのでは、バロネット』
『そうですね』
ロックグラスに口をつけた紳士は笑い声の代わりのように氷をからんころんと液体を揺らしながら打ち付ける。
老紳士の言うバロネットとは愛称であって本来の彼を差しているわけではないのだけれど耳にくすぐったい。
若人の騒ぎ声とは裏腹にカウンターの二人は静かにグラスを傾ける。
『そういえばバロネットはヴァイオリンを嗜んでおられたとか』
『藪から棒になんです、子供のころの話ですよ?嗜むどころか噛り付いたぐらいですね』
『ほうほう。実は孫娘がヴァイオリンを始めるというので、爺はついついクリスマスプレゼントにでもと』
『ナイト、まさかとは思うけれどもそのケース』
ナイトという愛称―――彼の老紳士の名前が「岸」だから、とかいう微妙なダブルネーミングで始まったこの愛称の呼び合いを続けながらも、老紳士の手が連れ添ったケースを開く。
まっさらという言葉が似合いそうな、僅かなライトに晒された曲線に艶が走る。真っ直ぐ張られたその弦も恐らくは寸分の狂いもなくかくあるべきと身を張り詰め、一つのものを形成している。
『買ってしまいました』
『はぁ〜……いや、まあ、さぞ喜ばれるでしょうね。随分と上等なものを、何処で?』
『知人の紹介で』
『貴方の知人は何をしてらっしゃるんだ』
『はは、何分長生きするとあれやこれやと出来るようにもなるし出来なくもなるものです。で、買ったはいいが私に楽器の良し悪しなぞ分かりませんで。何かの縁、一寸弾いてもらえないか』
彼の水割りはすでに半分が喉に流し込まれている。
さあ、さあと言わんばかりのナイトの珍しい高揚もさることながら、酒を飲み始めた彼にこんな気安く絡むことができる年の功のようなものを羨ましくも思う。
『弾いてと言われましても。あ、水割りお代わり。……』
押されて気弱に眉を下げながら、綺麗でまっさらなヴァイオリンを受け取る辺り、誰かにこうして期待されるのが好きなんだろう。壮年の彼には少し小さいようにも思えるその楽器の弓を受け取り、左手が軽く弦を弾く。
新品だ、音の狂いはないだろう。だが念には念をと言わんばかりに彼はGの音階をロングトーンで鳴らすことを選んだ。自分の耳が正しければそれは確かにG、ソの音である。
『流石に新品は感覚が違いますね』
そうぼやき、恐らく自身の部屋の隅に置かれた自身のヴァイオリンの姿を思い浮かべているのだろう。どことなく彼の緑の目は上付きながらも、覚悟を決めたように息を止めるような瞬間のあとに、右手が加速し始める。
思いつかなかったのだろう彼の曲選に少しだけ笑ってしまったのは仕方がないと思う。
日本ではあまりにポピュラーすぎて、原作が英国の小説だなんて思ってもみないだろう。天空に浮かぶ城塞、夢物語のようなその世界を遍く表現するその楽曲を弾き始めた彼自身も少し笑いをこらえるように唇を歪めて、弓を弾き続ける。
老紳士もまさか、こんな身近な曲を弾かれるとは思っていなかったのだろうが、それでもにこやかにグラスを傾けながら寄って正解だったと言わんばかりに頷いている。誰にむけてでもなく。
そのまま物悲しい気もするメロディラインを奏でるのかと思えば、劇中の爽やかで快活なメロディを模してみたりして、結局一番楽しげなのは本人。
ああそういえば、最近休みの日に強請られてBlu-rayを再生していたと日常の端が霞める。どれか一曲を全部思い出せるわけもなく、譜面の宛てがない音の旅路は彷徨うように彼の記憶の中に浮かんだメロディを次々と再生する。それだけだけれど、音を間違えずに不穏を気取られずに流していく彼の記憶の引き出しがどれだけ良いものなのかを実感させられた。
性格なのかどこか切なかったり、悲しさを味わうメロディばかりを選んでいた彼が少しだけ、瞼を持ち上げてその細い瞳孔も私を映す。緑は酒のせいか随分と柔らかくなっていて回り道の多い彼の言葉の数々より多くのものを教えてくれる気がした。
聞き覚えがあるけれど、それが何だったか思い出せない。そんな曲。
けれど彼の目が何処か私の記憶の引き出しの鍵すら開けてくれたようだ。
未来の前にすくむ心が、いつか名前を思い出す。
多くを知っているわけではないけれど、彼の何かを表現するに値すると思える。あいまいな線引きと遠い羨望のような後ろ髪を引かれてしまうような、後悔の痕。
叫びたいほどだなんて、歌詞によくある誇張だと思う?いいや、いいや、実際のところ、叫んで逃げ出したりしたい、きっとある。
自分のいない未来を考えて、怖くなって、何も出来なくなる彼の背を繰り返し見たこの心に誇張も何もない。
日本語って便利だと思う。でも儚すぎやしないかとも。放っておかれた水割りの中で、氷が崩れてゆく。
結局、その曲だけしっかりと最後まで弾ききった彼は、満足気にヴァイオリンを手放した。
『……一等いいものを手に入れられましたね。でも、弦は消耗品とだけお孫さんにお伝えください、子供はよく、弦が切れるものだと知らなくて壊したと泣いてしまうもので』
実体験だろうか。
少しだけ、唇を歪めた彼は元の鞘に戻すようにそっとケースにヴァイオリンを置いた。
『良い演奏をありがとう、バロネット。君にそう言ってもらえて安心した』
Knightがケースの鍵を閉めた。老紳士のグラスは早くも三つ目だ。短くも長い演奏であったと証左できる。
『噛り付いた程度の演奏者の言葉を信じちゃいけませんよ』
『いやいや、信じられるとも』
グラスを開けた彼は、珍しくそのままコートを着込んだ。
『では、これで今日は失礼します』
いつもなら閉店までずっと居座り続ける癖に。ごまかすように支払いを済ませて、ひらひらと黒い手袋を振って扉を開けて暗い夜空の下へ出て行った。
たぶん、寂しくなったんだろう。移ろいゆく空気を思って、独りよがりに辛くなって。
お酒だけでは彼の本当の心のうちを聞くことはそうそうできない。
溶けて穴の開いた氷を覗きながら、この氷を埋める術はないものかと一呼吸を置く。そんなことはできないのだから。
すぐにでも帰って、あのまま彼は本の山に埋もれて、意識を飛ばすように眠るんだろう。
夢物語の中でしか、もう救えないのなら。
そう想って、悲しくなるのは私。事実に近いけれど正しいとは言い切れない考え。夢だって時に苦しめるのだから、全てを夢物語の中へ投げてはいけない。
妖精の囁きのように、夜は更ける。
隠れた太陽の輝きに煌めく星たちの下、夜中になっても眩い摩天楼の城塞を抜けて行き、我が家に帰り立つ。
案の定、彼はもはや「図書館」と化している書庫の中で落ちていた。
どうしてこう、行動だけはわかりやすいのかしら。言葉を分かりやすくするのは下手くそな癖に。
傍らにガリヴァーの本がある、遠い空を見ている。
もう少し、近くに行けないものかと思案して、リルはそっと毛布をかけた。
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