訳
『正しい単語』について知ったかぶりをして、想起による右脳の能力のおかげで要素結合体系がどれほど見事に機能しているのかを知らなければ、役に立たない広大なお荷物をつかって言語は重くなってしまいます。
訳
「klarigi」(説明する)という単語の例を考えてみましょう。ロシア語の「объяснить(ob"yasnit')」(「ob」は接頭辞、「-it」は不定詞の語尾、「jasn-」は「明確な」という意味の語根)や、中国語の「说明(shuoming)」(「说(shuo)」は「言う」、「明(ming)」は「明確な」という意味)や、スワヒリ語の「kueleza」(「ku」は動詞の接頭辞、語根「elea」は「明確である」という意味)は、「明確な」という語根から形成される単語を用いて表現することは世界の広範囲での自然な傾向であるように、『隠された外観を展開したり、それについての詳細を述べたりしながら、それが生成し、出現し、機能を果たしているように掲示しながら、物事を理解させようと試みること』という概念を示しているのです。しかし、造語法とは想起という手段を用いた手順であるということを受け入れずに、もし、人々は定義を要求してしまうならば、「説明する」とは「明確にする」という意味にすべきであると結論を下してしまったり、『彼はあまり明確に説明しないので、全く理解できない』『彼の説明は明確ではない』といった文章の中で動詞をもはや使用できなくなるのです。
訳
それだから、人間は言語の中の単語が不足してると感じて、説明を導入するのです。その間違いは、単語というものはその意味の領域以上に表現できるものであることに対する無知の中に、内在しています。文脈や、もっと単純に文章構造が、それが何を表現できないのかを知らせてくれます。もし、私が「彼は上手く伝えてくれない。私は何も理解できない」という時、その正確な事例の中で、彼の先人が不明確に説明したよりも、その当事者が伝達できないにもかかわらず、それぞれが受け入れ可能な文章を見つけ出します。この両方の事例では、「試みる」とか「意図する」のような単語が推察されるのです。すなわち、「彼は説明したが上手くいかない。彼は伝達しようとしたが伝達できない」というように。
訳
さらに、「x-igi」は「igi x」と同等ではない、と私は思っています。前者はその行為を認めるのであり、後者はその結果を認めるのです。「Li tute klarigis」とは、彼の理解させる努力(すなわち、人が理解するように彼がしたすべて)に対する関係であり、「Li igis tute klara」とは、その努力が上手くいって、私たちは理解したという事実を表現しているものです。
訳
フランス語の教育的伝統に由来する他の要素もまた、おそらく、このことが原因で作用するでしょう。フランス語はできるだけ同じ単語の繰り返しを避けています。学校では、類似の音素の単語を何度も使用せずに、美しい文体にするように、子どもたちに教えています。そのため、おそらく、エスペラントを美しくしたいと思うフランス人もいて、彼らは少し不明確な説明でも、文章の中の「klar」の繰り返しを避けるために、「klarrigi」に対する類義語を探したのです。
訳
しかし、エスペラントはフランス語ではありません。また、ある言語の美しさの基準であるものが、他の言語の中でも必ずあるとはかぎりません。英語では、優れた作家たちでさえ、同じ単語の回避は、それほど留意されてはいません。美しい文体は、その言語の構成法や、その特性によっているものです。ある言語から別の言語へ無批判に文体原則を置き換えることは、間違いです。「li klarigas ne tre klare」という文の中では、もし民族的の偏見から自由になって、触れてみれば、頭韻法の美しさが感じられます。実際に、その言語の中で考え感じるほどの段階で、深く入り込んでいたならば、別の人であれば耳につく多くの特徴に気づかないものです。他の言語と同じように、外で誰も聞いたことがないので、その言語がどのように聴こえるか、誰も分かりません。私はエスペラントの文集の中で「mal」を使い過ぎると不満を言っているフランス人の家で、フランス語で音節「de」がどれほど繰り返されるかを彼らが気づいていないことを、確かめてみました。「la plupart des détenus ont décidé de se débarrasser des ...」(ほとんどの受刑者は〜を失うことを決めた)という文章は、10の単語の中で、高い割合で、6回も「de」という音素を含んでいますが、それを聞いているフランス人は、気づきもしないのです。
訳
しばしば、それぞれの民族語の単語に対して、一つのエスペラントの単語を対応すべきだという考えは、その概念の複数の単語を捜すことで、その言語の踏査を防ぐことができるので、問題を避けることができます。このテーマで話し合ったフランス人のエスペランティストは、幾度か、私に次のように言いました。「もし(エスペラントの単語の)『klarigi』が(フランス語の単語の)『expliquer』を意味するのなら、フランス語の「clarifier」をどのように翻訳するのか? もし、(エスペラントの)『senkulpigi』が(フランス語の)『excuser』を意味するのなら、フランス語の『disculper』をどのように訳すのか?」と。
訳
それぞれの一つの単語概念に対して、一つの単語の翻訳言語を必要とする人間の典型的な反応です。もし、根拠のない規則から自由になりたいならば、答えは簡単です。「clarifier」は、その行為にではなく、その結果に注意を向けさせるるものです。したがって、それは「igi klara」あるいは「igi tute klara」を用いてエスペラントに翻訳できます。また「disculper」は、「pruvi senkulpa」(無実を証明する)あるいは「deklari senkulpa」(無実を宣言する)という意味です。言葉で表される考えに従って、この表現や、別の表現を、なぜ直接、使わないのでしょうか?
訳
「ところで、あなたはこのような形は長すぎると思わないのか?」と、話し相手は、全く信用せずに、聞いてきました。答えは簡単です。「はい、思っていないません」。これらはフランス語の単語よりも長いのです。しかし、これを個別の単語ではなく、文章、あるいはテキストだと見なせばいいのです。エスペラントは、たとえ、複数単語による表現を使わなければならなかったとしても、同じ概念を言い表すために、フランス語よりも、用いる紙や時間を必要としていません。別の場所で縮めれば、他のところが長くなります。エスペラントには、ロマンス諸語がもっていない多くの簡潔な表現事例があります。もし音節を数えれば、「frate(親しく)」という(エスペラントの)単語は、(フランス語の)「fraternellement」の半分にしかなりません。また、エスペラントの「hispanigo(スペイン語訳)」という単語は、フランス語の「traduction en espagnol」よりも、気持ちが良いほど、軽いのです。文章のレベルでは、エスペラントはしばしば、フランス語よりも短いのです。「la landaj asocioj decidis kunlabore agi」(各国の協会は共同して行動することを決めた)という文章(16音節)は、フランス語の「les associations nationales ont décidé d'agir en collaboration」(21音節)よりも、少ない音節ですみます。