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コンゴ動乱◆.好織鵐譟璽咼詛鮨与夕岨件と白人虐殺(第2次コンゴ動乱)


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コンゴ動乱 .汽戰聞匐ベルギー人客室乗務員暴行事件

カタンガの分離・独立紛争の終焉でおさまったかにみえたコンゴ動乱だが、
1964年4月、国連軍が撤退するとルムンバ派の残党が、中国等共産主義国の支援を受けゲリラ戦を始める。
第2次コンゴ動乱の始まりである。
 反乱軍はシンバ(スワヒリ語でライオンの意)と呼ばれ、少年や若者が多く参加していた。
ベルギー領時代にはキリスト教の布教も進んだコンゴだったが、独立後は以前の呪術信仰が復活していた。
シンバはその呪術信仰を利用し、兵士たち(大部分は知識のない子供兵)に「ダウ」と呼ぶ薬を飲ませ、
これを飲めば弾丸は水に変わるか、体を通過すると信じ込ませた。
また、「ムレレの水」(ムレレは反乱軍幹部の1人)という呪術師が兵士にふりかける水も、
弾丸を水に変える力があるとされ、頭部や腹部に刻む十字の弾除けと合わせて、シンバの兵士はその呪術の力を信じた。
呪術の力で無敵と思い込み、恐怖心を無くしたシンバの兵士は、
「マイムレレ、マイムレレ」と叫びながら鉈や槍、弓や棍棒を持ってコンゴ国軍(ANC)へ突撃していった。
その迫力に国軍の兵士は恐怖に陥り、元々士気が低かったこともあり、戦わずして次々に逃げ出してしまう有様で、
なかには反乱軍へ寝返る者も多かったもという。逃げ出した国軍から武器を奪い、シンバの兵力は増強されていった。
 破竹の勢いで進軍していくシンバに政府はなすすべがなく、6月ごろには国土の2/3あまりが反乱軍の支配下に置かれてしまう。
支配下に置かれた街ではコンゴ人に対する略奪・虐殺が発生し、数千ともいわれるコンゴ人が命を落とした。
シンバたちは役人や教師、黒人宣教師・尼僧といった知識人・宗教人たちを数多く殺害していった。
彼らの殺害方法は舌を切り、耳・手・足と切っていき、最後に竹を肛門に刺して殺害するという残忍なものである。
(シンバには一時期キューバのチェ・ゲバラがゲリラ指導のために参加していたが、
戦闘に参加せず、隣国ウガンダで享楽に耽るシンバ幹部の腐敗の酷さに呆れて、早々に帰国している)

 この危機を打開しようと、コンゴ政府はコンゴの共産化を恐れたアメリカの後押しもあり、
昨年スペインに亡命したチョンベ(元カタンガ州知事)を呼び寄せ、首相に据えた。
チョンベはカタンガ時代に雇った白人傭兵を使って反乱軍へ対抗させるべく、
アイルランド生まれの傭兵マイク・ホアー大佐を隊長とした傭兵部隊を設立し、反撃の準備に取りかかった。
 そうしている間も反乱軍は進撃を続け、7月にはキブ州の要衝キンドウが陥落。
8月にはついにコンゴ第2の都市、東部州のスタンレービル(現キサンガニ)が反乱軍の手に落ちた。
当時1500人以上いたスタンレービル在住のベルギー人やアメリカ人を中心にした白人たちは、反乱軍の支配下に置かれた。
当初は危害を加えられることもなく比較的平穏であったが、アメリカやベルギーのコンゴ政府に対する支援が表面化すると、
白人の取り扱いは悪化し、ホテルに幽閉されたり、刑務所に入れられたりして人質となってしまった。
人質にはアメリカ領事も含まれていた。アメリカ領事館の職員と共に刑務所に入れられ、
アメリカ国旗を食べることを強要されたという。
反乱軍は政府への支援を撤回しないと、人質を殺害していくとアメリカ等を脅迫しはじめた。
こうして「スタンレービル恐怖の百十一日間」が幕を開けたのである。
 9月、反乱軍は占領地域に「コンゴ人民共和国」の樹立を宣言した。

 一刻も早い人質の救出を迫られた旧宗主国ベルギーとアメリカだが、
反乱軍との交渉は遅々として進まず、また救出作戦も実行に移されることなく時間だけが過ぎていった。
 一方、ホアー率いる白人傭兵部隊(第5コマンド)とコンゴ国軍部隊は、いくつかの戦闘の後、
11月になってスタンレービルを目指し、陸上から本格的に進軍を開始した。
呪術で怖いもの知らずとなったシンバたちも、白人傭兵の近代的・組織的な攻撃にはかなわず、
激しい抵抗はそれほど見られず、逃げ出す場合が多かったため大きな被害もなく進軍していった。
1961年にイタリア空軍兵士がバラバラにされ、市場で売られた事件があった都市キンドウでは、
反乱軍に多くのコンゴ人が虐殺されていたが、200人あまりの白人たちは処刑寸前に救出されている。
 スタンレービルに囚われた人質たちの状況が日に日に悪化していく中、
(この頃アメリカ人医師ホール・カールソンに対してスパイ容疑で死刑宣告がなされている)
ついにベルギーは空挺部隊(レッドベレー)の投入を決定。アメリカもC-130輸送機の提供を決めた。
スタンレービル人質救出作戦「ドラゴン・ルージュ」の発動である。
だが、人質が何処に何人囚われているかも不明の中での強行作戦であった。。

 1964年11月24日早朝。スタンレービル空港近くのゴルフ場に降下した320人の空挺隊員は、
空港を占拠して滑走路を解放。後続の輸送機が着陸して武器弾薬や車両を降ろした。
人質が中心部のホテルにいるとの情報を得た空挺部隊は、ホテルへ急行する。
街にはラジオ・スタンレービルから流れる「殺せ!殺せ!白人を殺せ!」と叫び声が響いていた。
その頃、輸送機の飛来で恐慌をきたした反乱軍は、ホテルにいた250人あまりの人質を外へ連れ出し、
人質に向けて無差別に発砲していた。現場はパニックに陥り、人質は次々と倒れこの銃撃で27人が死亡する。
この虐殺は空挺部隊が救出に駆け付けるわずか数十分前の出来事だったという…
その後は散発的な抵抗があったものの、大多数の反乱軍は逃げ出しておりスタンレービルの奪回は容易に終了した。
救出された1500人以上の人質は、輸送機で次々に首都レオポルドビル(現キンシャサ)へ運ばれていった。
しかし、スタンレービルでは白人が30人あまり、黒人は1000人以上が反乱軍に虐殺されていた。
空挺部隊の死者はわずか1名で済んだ。
白人傭兵部隊は、スタンレービル一番乗りをベルギー軍に譲らされたため、昼になって到着した。
こうしてスタンレービル人質救出作戦「ドラゴン・ルージュ」は終了し、恐怖の百十一日は幕を閉じたのである。

 スタンレービルは解放されたが、まだ反乱軍支配下のコンゴ東部・北東部には、
少なくとも500人以上の白人が救出を待っており、生命の危機が迫っていた。
特にスタンレービルが奪還されたことで、反乱軍たちの報復が懸念された。
すでに東部州パウリスではアメリカ人司祭が椅子に縛られ、割れたビンで目をくり抜かれ、
銃の台尻や棍棒で殴られ、45分も拷問されて殺害される事件が起きている。
ニュージーランド人宣教師一家は、父親は殺害、母親はマシェット(山刀)で切断されて死亡していた。
また、ある女性宣教師は、石油を飲まされ身体を切り刻まれた上で、火をつけられ殺害されている。
一刻も早い救出が望まれていた。
ベルギー空挺部隊はこのパウリスに降下し、近郊も含め白人375人あまりを救出。
(パウリスでの白人犠牲者は22人。黒人は4000人あまり)
この2作戦でベルギー軍空挺部隊の軍事行動は終了した。
 一方の白人傭兵部隊も各地へ出撃し、白人人質を救出していったが、
次第に人質たちが迎えた悲惨な結果を目の当たりにすることになる。
スタンレービルのコンゴ川を挟んだ対岸(左岸)では、28人のベルギー人聖職者が殺害されていた。
西方の町イサンギの修道院にいた、50人あまりの白人カトリック司祭と尼僧たちは痩せおとろえ、
殴られ歯が折られ、銃の台尻で殴られて腕が折られ、ボロボロ法衣をまとった姿で救出された。
尼僧たちは路上で裸にされムチで打たれたり、老若を問わずシンバに何度も強姦された。
性病をうつされ、カトリックの教義で中絶ができないのに、妊娠させられてしまった尼僧も複数いた。
若く美しい尼僧は反乱軍隊長の妾になることを強要され、拒むと殺害され川に棄てられた。
また別の日には、路上に寝かされたアメリカ人尼僧が鉈で上下に切り裂かれ、司祭は大便を食わされた。
この地では6名のイタリア人が反乱軍兵士に喰われたりもしている。
(人肉食は各地で行われた。殺害され肝臓を抜き取られた者も多かった)
アルバート湖湖畔のブニアでも、多数の黒人尼僧と70人のベルギー人司祭と尼僧を救出したが、
やはり尼僧はスタンレービル陥落後、報復のため反乱兵に暴行されていた。
北方のバナリアでは人質は全滅し、バフワセンデでは40人以上いると思われた聖職者の内、
14名だけが救出された。またワンバでは約100人の白人が救出された。
ただ、ある12歳の少女は救出されるまでの3か月の間、夜ごと暴行され続けていたという。。
鉱山の街ワトサでは38人いたベルギー人のうち、鉱山技師と医師と司祭の5人だけが生存し、
他は殺害されるか、反乱軍に連れ去られるかして行方不明だった。
あるフランス人女性は、ベルギー人ではないことを証明して命は助けられたが、かわりに強姦されたという。
北部のボンドでは30人の人質のうち2人を残して反乱兵に連れ去られていた。
リカティではポルトガル人とギリシャ人一家が殺害された。
ギリシャ人の少年は背中を槍で刺されて瀕死の所を発見されたが、傭兵に涙を流し敬礼しながら息絶えたという。
ブタの街では38人の聖職者が、傭兵部隊が着く前の晩に殺害されてしまっていた。
 
 このように傭兵部隊による反乱軍支配地の解放が進む一方、
各地で行われた白人や黒人住民に対する虐殺・暴行・略奪行為はすさまじいものがあった。
最終的に1600人以上の白人が救出されたが、分かっているだけで死者の数は150人を超え、
数百人の白人が反乱軍に連れ去られたまま行方不明となり、コンゴの森に消えていった…
黒人住民は数千人あまりが犠牲になったという。

 1965年3月にコンゴ政府は鎮圧を宣言したが、各地で抵抗は続いた。
その抵抗も小さくなった10月、動乱に対応すべく呼び戻されたチョンベは、不要になったとばかり首相を解任される。
チョンベは再びスペインへ亡命し、以降コンゴに戻ることは2度となかった。
11月になるとモブツ将軍が無血クーデターを起こし政権を掌握。後に国名をザイールと変更。
以後、1997年にコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) によって政権が崩壊させられるまで、モブツの独裁が続くことになる。



◎参考文献
『コンゴ傭兵作戦』片山正人 朝日ソノラマ文庫

『黒い国の白い傭兵-コンゴ残虐戦記』ハンス・ゲルマニ 早川書房


◎参考映像作品
『ヤコペッティのさらばアフリカ』 グァルティエロ・ヤコペッティ
※スタンレービル陥落・人質救出、傭兵の戦闘シーンあり


◎コンゴ関連図書
『コンゴ』石坂欣二 二見書房

『コンゴ独立史』C.ホスキンズ みすず書房

『闇の奥』J.コンラッド 光文社古典新訳新書

『「闇の奥」の奥』藤永茂 三交社

『モブツ・セセ・セコ物語』井上信一 新風舎

『世界最悪の紛争「コンゴ」』米川正子 創成社新書

『ジェノサイド』高野和明 角川書店


◎アフリカ史図書
『現代アフリカ・クーデター全史』片山正人 叢文社

『新書アフリカ史』宮本正興・松田素二 講談社現代新書

『アフリカ史』川田順造 山川出版


◎映画
『ワイルド・ギース』…ホアー大佐と傭兵部隊をモデルにしたイギリス映画


◎参照サイト
コンゴ動乱 wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3...
元老院議員私設資料展示館 
 ・コンゴ動乱 http://www.kaho.biz/congo.html
 ※他コンゴに関するページ有
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