個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

この項目のタイトルはどうすべきかかなり悩みました。もしかすると変更するかもしれません……と書いてから既に三年ほど経過していますが。

在昌よりはるかに有名な天正十年の改暦に関する問題です。ここにも第二の「あきまさ」が出てくるからややこしいことになっています。

この件についてはWikipediaの「改暦」という項目にざっとした記述があり、詳細な検討を加えたホームページもみられることからリンクだけにしようかとも思ったのですが、在昌研究のベースとなる論文『暦道賀茂家断絶の事』でもさほど詳しく触れられていなかったので、何が問題であったのかだけ少し記述しておきます。

事の発端


 かつて暦は賀茂家が作成し、賀茂家と関係する業者が頒布していました。だが、戦国の世になるとそれがうまく働かなくなります。対して時代が下ると庶民の間でも暦に対する需要が発生しました。そこで賀茂家の作っていた暦を元に各地で独自の暦が作られたのです。
 そのうちの一つが三島暦でした。伊豆国にある三嶋大社から発行されており、主に伊豆国や相模国で流通していましたが、この当時は濃尾にも流通しています。
 問題は、その三島暦が京都で作成した暦と違ってしまったことです。太陽と月の動きを一致させるために挟み込まれる閏月を、京暦は翌天正十一年の閏一月、三島暦は天正十年の閏十二月としたのです。
 分かりやすくするため、次に京暦と三島暦における天正十年十二月からの三ヶ月間の並びを示しましょう。
京暦三島暦
 十二月 十二月
 正月 閏十二月
 閏正月 正月
     
 見ての通り、正月が丸一ヶ月ずれるという大惨事です。正月には各地で様々な行事が行われるため、他の月ならともかく日本全土における影響は甚だ大きかったわけです。
 たとえば京暦施行地域に奉公している人間が「正月なので国に帰ります」と三島暦施行地域に帰ったとすると、「まだ閏十二月だ大うつけが」と馬鹿にされることになりました。

(追記)天正十年改暦問題と日蝕、月蝕について

 ときどき「京暦に日蝕、月蝕に関する不備があって信長に呼ばれた」という記述を見かけるのですが、史料を見る限りそのような事実はありません。このとき呼ばれたのはあくまで「京暦と三島暦で正月がずれる」ためによるものです。

(追記)陰陽寮からの追放とキリスト教への入信という誤りについて

 加えて、「この改暦問題によって在昌は陰陽寮から追放され、キリスト教へ入信した」というトンデモ説がまかり通っていますが、今まで丁寧に追いかけてきたとおり在昌のキリスト教への入信は遥か以前でこの時点では既に棄教しています。さらに、武家側に重用されるなど陰陽師として脂がのってくるのはこれ以降のことです。

差が生じた理由

 京暦と三島暦で差が生じた理由を説明しようとすると「進朔」の説明をしなければなりません。そして「進朔」を説明しようとすると「宣明暦」や「二十四節気」の話をしなければならないのです。
 この点に関しては既に詳しく説明しているサイトがいくつかあるので、そちらを参考にしてください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/改暦#天正10年の例

 まずは基本のWikipedia。ただちょっと理由の所が怪しく、「どちらでも正解だった」という点が鵜呑みにできません。

進朔と天正十年・十一年の暦日相違

 がっつり小余まで計算してくれているページ。京暦が正しいとしています。ただし、差が生じたのは「計算間違いによるもの」とされています。

 実は昔もっと細部まで検討してくれているサイトがあったのですが今見つけられませんでした。もしかすると無くなってしまったのでしょうか?
 仕方がないのでそのサイトや天文学の書籍を読みながら取りまとめた文章を掲載します。流れとしては「二十四節気」の説明をしてから「進朔」の説明をし、最後になぜ差が生じたかの説明をしています。元のサイトは特に「閏月」や「二十四節気」の決定法についてもっと細部まで記載されていました。この文章はその部分についてかなり端折っているので若干不正確な所があるはずです。元サイトでは「破章法」や「朔旦冬至」のことまで書いてあったような気もするのですが……。

当サイト版天正十年改暦問題の解説


 太陰太陽暦、すなわち太陽の動きと月の動きを合わせる暦法は太陽暦に比べて大変計算が難しい。これは太陽暦が年と日を整数で表せばよいのに対し、太陰太陽暦は年と月、月と日の関係を整数で表さなければならないからです。
 具体的に言うと、太陽暦の場合一年は三六五日か三六六日です。対して太陰太陽暦の場合一年は十二月もしくは十三月であり、かつ一月は二九日か三十日だという年と月、月と日の関係が発生しました。こうして太陽暦と異なり太陰太陽暦における一年の日数は大幅に変動します。当然ながら必要な計算量は太陽暦に比べて激増しました。
 一年を十二月にするか十三月にするかは十九年周期で変化します。これはたまたま太陽が地球を十九周する周期と月が地球を二三五周する周期が一致するからであり、この十九年の周期を東洋では章法、西洋ではメトン周期と呼びました。
 二三五割る十二は十九余り七となり、十九年につき七回閏月を差し込めばよいわけです。
 この七月分をどこかにまとめて突っ込むと年と季節が大幅にずれるため、やはり均等に割り振る方が良い。十九割る七は約二.七となり、三年に一回程度閏月がやって来る計算になります。
 では次に、この閏月をどこに置くかが問題となりました。
 これを決定するのが現代日本でも良く見られる立春、啓蟄などの「二十四節気」です。
 二十四節季とは、一年で日が最も短い冬至をスタートとして一太陽年を均等に二十四分割したものです。
 それぞれの節季は次の通りです。
 冬至、小寒、大寒、立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪。
 このうちの奇数番目の気を中気と言います。冬至、大寒、雨水、春分、穀雨、小満、夏至、大暑、処暑、秋分、霜降、小雪の十二気が該当します。
 これは単なる約束事なのですが、冬至が入る月を十一月とします。そこから順に十二個の中気を各月に配当していくと閏月がある場合月の数が十三となり必ず中気を含まない月が発生しました。この月を閏月とするのです。
 これが古代支那で行われてきた暦作成法の基本であり、太陽と月の動き、そして地球の自転を整数で扱おうと苦心惨憺したことが分かります。
 この後、支那において章法に存在する微妙な余りを補正するための理論「破章法」などが付け足されていくのですが、今回の天正十年問題に関わってくるのが宣明暦にも用いられている「進朔」と呼ばれる理論なのです。

 この「進朔」は、月に関するある種の問題から発生しました。
 三日月は、陰暦三日目に現れるから三日月といいます。一般的には前月が大月(三〇日)であれば陰暦二日目、小月(二九日)であれば陰暦三日目に見られるとされています。
 ところが先程の単純な暦では三日目に月が見えず四日目になってやっと三日月が見える時があります。また陰暦の一日目は朔日と呼ばれ、この日と一日前の晦日(前月の最終日)には月が見えないものとされていますが、晦日の夜になっても若干月が残っていることがありました。
 このような事態が発生すると暦制作者が何らかの計算間違いを犯したものとして世間の嘲笑を浴びます。これを回避するための対抗措置として月と太陽の視黄経が一致する「朔」の時刻が一日の四分の三、すなわち午後六時を越えた場合に朔日を次の日にしてしまうのです。こうすることによって晦日のはずなのに月が残っているとか、四日目になって初めて三日月が見えるなどという無様な状況を回避することができました。
 現在の暦では一日は六〇分×二四時間の一四四〇分ですが、宣明暦では一日の分数を八四〇〇分としています(一時間が三五〇宣明暦分)。八四〇〇の四分の三は六三〇〇分となり、朔の時刻が六三〇〇分以上になれば朔日を一日延ばします。
 このように「朔」の日を一日「進」めるから「進朔」と言うのです。

 今回問題となったのは、天正十年十二月の二つ先の月です。
 この月は朔の時刻が六三五二分となり、六三〇〇以上なので進朔が生じます。
 たまたまその日が雨水に該当しました。進朔が生じるとこの日は前の月に取り込まれます。すると雨水を取り込んだ前月が一月になるのです!
 雨水を奪われた天正十年十二月の二つ先の月はこうして宣明暦によれば中気無しの月、すなわち閏月となり、閏一月となったのです。
 三島暦の制作者たちは朔の計算を間違えたのではありません。彼らはかつて朝廷から頒布された暦を逆解析して新たな暦を作っていただけであり、単に進朔という宣明暦の理論を知らなかったのです。だから雨水の入った月をそのままにしてこれを正月と見なし、中気のない前月を閏十二月としたのです。

本サイトでの結論

 三島暦の作者たちは計算を間違えたのでもなければ正しかったわけでもありません。宣明暦による「進朔」の技法を知らなかったため、京暦と齟齬をきたしたのです。
 三島暦の作者たちは現代風に言うと京暦をリバースエンジニアリングして作っているだけであり、Wikipediaにもあるが約80年に一度しか起きない今回のようなイレギュラーは逆解析できなかったのです。
 当時の正式な暦は宣命暦なので当然京暦の方が正しいのですが、賀茂家としてはその理由を言えませんでした。なぜなら宣明暦による「進朔」は言ってみれば賀茂家の「秘技」であり、濃尾の暦者をはじめとする三島暦の作者たちへ馬鹿正直に伝えるわけにはいかなかったのです。

在昌について

 余談が長くなってしまいました。在昌の話に戻ります。

『兼見卿記』によれば
(二月 小)
「四日、癸巳、 下御所御番、早〃之請取也、祇候了、参近衛殿、昨夜自安土御御上洛之仰也、御雑談云、当年閏月之義有無、濃尾之暦者、是者唱門師也、京都有富末孫歟、有政、久脩罷下於安土有糺決、双方不治定、然間於京都暦仕者、近衛殿へ被召寄可有糺明之由、信長近衛殿へ被申也、来七日可有其沙汰之由仰也、」

(だいたいの訳はこちらのサイトを参照)
 織田信長考

 文字はかなり原文から変更しています(例:「歟」は原文では「与」+「欠」)。
 史料纂集版の『兼見卿記』では、「有富」「有政」の「有」の字の横に〔在〕と書かれ、「有富」についてはその後ろに(賀茂)と書かれています。何らかの資料を参考にして「在富」「在政」が正しいとしているのでしょう。この文章でものすごく嫌なのは「京都有富末孫歟、有政」で有(在)政が有(在)富の末孫か?となっている点です。孫は嫌だなあ。話が合わなくなってくるなあ。

 これに対し、『晴豊記』にはこう描かれています。
「こゆミのさんたんはかりなり、両家共主なきとおり也、近衛殿参、又それより村井所参、道三けんさく在政久脩申分、十二月閏なき分也」
(読み方は木場明志氏「暦道賀茂家断絶の事」より)
 ここでもまた「在政」と表記されています。こうなってくると「政」の字の信頼性が高まってきます。

 いちおう『歴名土代』を確認する限りでは「在政」という公家は存在しないのですが、相当嫌な感じです。もしかして従五位下にもなれなかった在富孫の「在政」なる陰陽師がいたのでしょうか?
 ただ、『おゆどのの日記』に書かれた「あきまさ」は少なくとも半昇殿、つまり公家なので、従五位下にもなれなかった人物ではありえません。「おゆどの」に書かれた「あきまさ」は『歴名土代』に掲載された「在昌」である可能性が高いのですが、この天正十年問題の時の「有(在)政」と同一人物かはやや怪しいのです。ただ、それでも「有(在)富の末孫か?」となっているので、在昌と縁続きであることは確かでしょう。

 なお、勘解由小路の「在」をどう読むかという資料は、海老沢有道先生の論文「マノエル・アキマサと賀茂在昌」に明記されています。
 菊亭家文書の『永禄元年記』の中に、
「賀茂氏ハ在ノ字。これは在アキ、如此訓也。」
 とあり、「在まさ」と書かれる以上「あきまさ」と呼ばれるのです。ただ、それが在理なのか在昌なのか在政なのかはまだ判然としません。

オチ

 オチをつけるのを忘れていました。
 結局京暦が正しいという話になったのですが、信長は納得しませんでした。濃尾の暦者に漏れぬよう信長にも説明しなかったためと思われます。
 このため、信長は六月一日に公家衆へ「十二月に閏月を入れろ」と言ったのですが、
 次の日に本能寺の変が勃発して沙汰止みになりました。
 しかも結局両方施行されてこちらは今月正月、あちらは来月正月という素敵な事態に発展したのです。




×

この広告は60日間更新がないwikiに表示されております。

Menu

備忘録本編

「獲加多支鹵」の読み方について
銅鐸時代

【メニュー編集】

管理人/副管理人のみ編集できます