個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

(妄想度:3/5)
存在しないと分かっている都市を存在したものとして再構築するのは心躍る作業である。
少なくともアッリアノスの書にアレクサンドリア・カルマニアに関する話はない。他の地域の場合、病気や怪我で動けなくなったものや従軍したくない老人などのためにアレクサンドリアを建築したという話が入っているのだが、カルマニアにはない。アレクサンドロスがカルマニアのどこかにとどまって、海路を渡ってきたネアルコスと出会ったことが書かれているのみである。その止まっていた場所もゴラシュカードとカヌージの二説がある。

実在するいくつかのアレクサンドリアをベースに、カルマニアに建設された(ものとして)アレクサンドリア・カルマニアを再構築する。

実在するアレクサンドリア

 アッリアノスの書をベースに実在するアレクサンドリアを割り出していくのはつらいなあ、と思っていたらちょうど良い本があった。森谷公俊氏の『アレクサンドロス大王 「世界征服者」の虚像と実像』である。これによるとアレクサンドロスが自分で建ててアレクサンドリアの名前を付けたのは10程度らしい。

アッリアノスの書などから、ほぼ確実に存在したアレクサンドリア系諸都市であろうと私が目を付けていたは以下の9つ。
  • (1)エジプトのアレクサンドリア
  • (2)アレクサンドリア・アレイア(アリアナとも:現ヘラート)
  • (4)アレクサンドリア・アラコシア(アラコシオルムとも:現カンダハル近郊の旧市シャル・イ・コナ)
  • アレクサンドリア・マルギアナ(現メルブ)
  • (7)最果て(エスカテ)のアレクサンドリア(現タジキスタンのホジェント:レニナバード)
  • (6)アレクサンドリア・オクシアナ(オクソスとも:現アイ・ハヌム)
  • (5)アレクサンドリア・カピサ(コーカサスとも:現ベグラム)
  • 合流地点のアレクサンドリア(現ウッチ)
  • (10)スサ南部のアレクサンドリア

 前に付けてある数字は森谷公俊氏のアレクサンドリア番号。
 合流地点のアレクサンドリアは森谷公俊氏の(8)アケシネス河畔のアレクサンドリアより下流、南の方なので外れている。アレクサンドリア・マルギアナが実在のアレクサンドリアではなかったのは驚きだ。足りてないのは(3)アレクサンドリア・ドランギアナ(フラダ:現ファラー)と(9)アレクサンドリア・オレイタイ(旧ランバキア:現ソンミアニ)である。結構合ってたな。

このうち、アレクサンドリア・カルマニアのベースとして参考にしようとしていたアレクサンドリアは、
  • アレクサンドリア・アリアナ(ヘラート)
  • アレクサンドリア・アラコシア(カンダハル)
  • 最果て(エスカテ)のアレクサンドリア(ホジェント)
  • アレクサンドリア・オクシアナ(アイ・ハヌム)
だったのだが、アレクサンドリア・オレイタイの存在を知ったためこれを付け加えたい。
一番有名なエジプトのアレクサンドリアはギリシアとエジプトの折衷様式であり、ギリシアとペルシアの折衷様式であるアレクサンドリア・カルマニアの参考にはならないであろうから外すものとする。

 この中で最も参考になるのはアレクサンドリア・オクシアナことアイ・ハヌムであろう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/アイ・ハヌム 

 ゼウスの座像がゾロアスター教風になっているところなどヘレニズムの結晶と呼ぶにふさわしい存在である。
 ちなみにアイ・ハヌムとは現地の言葉で「月姫」らしい。
 TYPE-MOONのファンはこのころからいたようである。

 グレコ・バクトリアは一人のサトラップの反乱から始まったが、それはまだ良い方であった。アレクサンドロス大王の後継者たちは西方にばかり目を向け、東方の事を顧みなかったため、東方のアレクサンドリアは常に心細い思いをしていなくてはならなかった。ようは、いつなんどき地元民に攻めてこられるか分からなかったのである。
 アレクサンドリア・カルマニアは破壊されたペルセポリスにも近く、地元のペルシア人にも恨まれかなり不安定な都市となるに違いない。

 なお、森谷公俊氏の本に載せられた地図によればカルマニアには街の印が一つもない。やはり辺境、といった感じである。

位置

 アレクサンドリア・カルマニアの位置であるが、現在のゴラシュカードという町に比定されている資料がある。
 ただ、発掘調査などが行われているわけではない。どうやら現在のゴラシュカードというのは相当危険な街のようである。

 アレクサンドロスがカルマニアでとどまった地点には二説あり、スタインはホルムズ海峡北東ルドバル地方のカーヌジ説、トマシェックはグラシュキルド(ゴラシュカード)説を唱えている。
 車もまともになかった時代、身一つでアレクサンドロスの行程を追ったスタインの言葉には重みがある。

 もっと細かい位置にこだわれば、なるべく川などの水源の近くであっただろう。

城壁と要塞

 国際巨大都市と化したエジプトの(正確に言えば「エジプトのそばの」)アレクサンドリアと異なり、各地に作られた退役軍人向けのアレキサンドリアは周囲6から10キロメートルほどの日干し煉瓦でできた城壁で囲まれていたらしい。
 当時の建築様式からいって、恐らく円形ではなく方形。それも長方形であろう。
 この中に更に要塞があり、最後の手段としてここに立てこもるわけである。
 アイ・ハヌムは劇場やギムナジウムまで完備されていたらしいが、現在のところそこまで大きなものは想定していない。

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