個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

勘解由小路在綱(あきつな)

 二代連続して後継ぎを残さず死亡したためもはや養子とも呼べないような状況なのですが、泣く泣く勘解由小路家の養子になったのが土御門久脩(ひさなが)です。先述のとおり、彼は勘解由小路在綱を名乗るようになりました。
 当然のことながら嬉々として受け継いだわけもありません。
 久脩にしてみれば在高は叔父ですがたった六歳しか違いません。宮中で同時に叙位されることも多く、当然在高の不遇な扱いは目にしていたでしょう。
 なんといっても勘解由小路家は地下(じげ)、土御門家は堂上家の半家です。待遇が全く異なるのです。

 これ以前、勘解由小路在綱こと土御門久脩は陰陽頭となっています。「僅か十三歳程度で陰陽頭とはさぞかし優秀であったに違いない」と後世において誤解されることになるのですが、父親である有脩(ありなが)が病みがちであることから息子久脩にこの職を「押しつけた」だけだったのです。
 実は有脩も同じ目に会っています。久脩の祖父、有春もまた陰陽頭の職から逃げ回っており、息子である有脩に押し付けたり、有春が所領である若狭からどうしても出てこないときは朝廷が勘解由小路在富に頼み込んで陰陽頭を再任してもらったりしていたのです。 
 『葵 徳川三代』というドラマがありましたが、さしづめ『ヘタレ 土御門三代』といった感じです。久脩自身のヘタレっぷりはもっと後半で紹介していくことになります。

 ここで注意して欲しいのですが、陰陽頭というのはそれほど高位の職ではありません。陰陽師といういってみればただの技術者のとりまとめ、課長クラスです。そもそも陰陽師の任免権は土御門家が握っており、陰陽頭になったところで何の実入りもありません。
 たとえば在昌の父である勘解由小路在富は宮内卿になっています。宮内卿とは現代で言うところの宮内庁長官です。在富は陰陽頭が終わったあとで宮内卿になっており、そんな人間にもう一度陰陽頭を頼むということは宮内庁長官をやった人物にもう一度課長職をお願いするようなものなのです。

浮かび上がる男

 さて、こうして勘解由小路問題は終わったかに見えたのですが、今度は別の問題が生じてきました。
 在綱の父、有脩にいよいよ死期が迫っていたのです。
 土御門家にはもうタマがない。しかし、朝廷の安賀体制に対する執念はなみなみならぬものがある。在綱=久脩が勘解由小路を放り出すわけにもいかない。
 どうすればよいのかと、一同途方にくれたはずです。

 で、ここからは妄想なのですが……。

 この時に、
「そういえば……」
 と思い出した人がいたのではないでしょうか。

「勘解由小路在富の息子、在昌が九州にいる」
 と。




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