個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

勘解由小路在信


 『おゆどののにっき』を見ていくと、「あきまさ」と入れ替わるようにして「あきのふ」という陰陽師が現れます。
 木場明志先生の『暦道賀茂家断絶の事』によると、慶長三年三月から記事がみられるそうです。慶長五年の十一月五日に記述が復活した久脩と共に奉仕していたが、慶長九年を最後に「あきのふ」の記述もなくなってしまったといいます。

 『暦道賀茂家断絶の事』では、この「あきのふ」について、「御湯殿上の日記研究会によって『在信』の字を充てているが、典拠が分からない」としています。
 で、この人物の記述をいろいろと探してみたのですが、『慶長日件録』にありました。
 とりあえず『慶長日件録』の説明についてはいつもどおりWikipediaにリンクを貼っておきます。
 『慶長日件録』

 慶長十年八月十五日ですが、
「(前略)次妙法院宮・三宝院問跡御見舞也、今夜月蝕云々、暦所注、辰時告虧初午加持未復未申云々、月有他方時也、以何故註之乎、大樹尤御不審也、満座尤之由申畢、誠以蝕一分も不可見、注之事不堪之至也、重而賀茂在信ニ(この字、小さいカタカナのニ)可尋之、」
とあり、また、同年九月二十八日では、
「廿八日、晴、斎了、匂当局ヘ参、去八月十五日月蝕刻限午未申云々、就此義賀茂在信被召御不審也、予也在信申分可聞置之由勘定也、及晩円光寺ヘ在信令同心行」
となっています。(相変わらず漢字は適当なので注意してください。例を挙げると円光寺の「円」は正確には「くにがまえに員」です。)
 最後に重要なのが同年十月十一日のくだりで、
「十一日、晴、存庵令同心入安所ヘ行、次天王寺ヘ行令見物、次堺ヘ行、勘解由小路修理大夫在信杉原十帖令音信請入之間、即向彼亭、数刻打談、帰路(後略)」
 となっています。
 暦の件について聞かれる勘解由小路在信という人物が「修理大夫」で、「堺」に住んでいるというのです!
 再び『歴名土代』を紐解いてみると、賀茂在信という人物が慶長五年三月二日に正五位上になっています。ただ、「修理大夫」は従四位下の官職なので、『歴名土代』に載っていないだけでレベルアップしているのかもしれません。

 管見では在信が在昌の息子であるという系図はありません(というより、在昌まで載っている系図がほとんどありません)。ただ、『おゆどののにっき』に「あきのふ」という陰陽師が「あきまさ」に代わって現れること、慶長十年時点で修理大夫になっている勘解由小路在信というという人物が暦について尋ねられていること、この二つを組み合わせて賀茂在信が賀茂在昌の息子ではないかと考えられるのです。

 時期的に見て、この在信こそが伊予で生まれた息子ではないかと考えられます。つまり、伊予滞留中に11歳だった息子がメルショル、伊予で生まれた息子が在信でしょう。ただ、ほかにも息子がいた可能性も捨てきれないので断定はできません。

 最後の謎は、「堺」です。戦国時代「修理大夫」の職は九州の大名に売り飛ばされていたものの、賀茂在信は公家です。勘解由小路家は堺に知行を持っていた様子もなく、本来なら京都にいるはずです。
 なぜ勘解由小路在信は堺に住んでいたのか?
 あと、いくつかの史料で勘解由小路家の子孫が備前に落ち延びた、と書かれているものがあります。堺にいた在信が落ち延びて行ったのか、それとも別の勘解由小路家系の存在がいたのか。
 これらは今後の研究を待つとしましょう。

小説のネタ(妄想編)

 上の真面目な話と違ってここからは非学術的な妄想編になりますのでご容赦ください。

 実は堺には勘解由小路家の末裔が住んでいるのです!
 「プリンセス・トヨトミ」ばりに「オンミョウジ・カデノコウジ」が堺市を支配している……そんな馬鹿な話を思いついてしまいました。





Menu

備忘録本編

「獲加多支鹵」の読み方について
銅鐸時代

【メニュー編集】

管理人/副管理人のみ編集できます