個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

新大仏殿地鎮自記(2014/10/10追記)

 その存在は既に分かっていたのですが、在昌と秀吉のつながりを示す資料、『新大仏殿地鎮自記』が見つかったので取り上げます。
 見つかったといっても新しく発見されたわけではありません。どこかの大学図書館でコピーしたはずなのに無くしてしまったと思い込み一年ぐらい探し続けたものの、実は東京大学史料編纂所の「所蔵史料目録データベース」にイメージが載っていただけという情けないオチでした。

 とりあえず、『新大仏殿地鎮自記』とは何かを知るためには「方広寺」の話をしなければならないのですが、これはWikipediaに任せます「方広寺」
 書名の一部である「新大仏殿」とはつまり焼失した東大寺大仏殿に代わる大仏殿として秀吉が発願した「方広寺」のことです。
 この方広寺を建てるときに地鎮祭が行われました。その記録が『新大仏殿地鎮自記』です。
 地鎮祭は天正十九年(1590年)四月二十一日に行われました。『言経卿記』では五月に立柱式が行われたというからその直前となります。
 『新大仏殿地鎮自記』ではどのように地鎮式が執り行われたのかを詳しく書いているのですが、そこに在昌の名前が載っています。
 この資料では「賀茂在昌」と明記されていました。やはりここでも「勘解由小路」とは書かれていません。

 重要なことは、「在昌がこの地鎮祭に出席したただ一人の陰陽師だ」ということです。土御門家の姿は影も形もありません。
 天正十年の改暦について信長に説明をしに行くときは土御門家と賀茂家の双方の陰陽師が揃っていましたが、今回は違います。しかも方広寺の建立は秀吉にとって大きな意味を持つものですから、これは見逃せません。

 今まで在昌と秀吉のつながりを示す資料といえば下記にある『駒井日記』の「太閤様為陰陽師有昌御暦上民法被申上」だったのですが、それを遡ること三年前から既につながりはあったのです。
 ちなみに、先述のとおり天正十八年には御湯殿上日記にも「あきまさ」の名があり、この頃は朝廷にも秀吉にも使われていたことが分かります。

前田玄以

『駒井日記』文禄二年十二月十五日に、
「太閤様為陰陽師有昌御暦上民法被申上」
と書かれています。今度は「有昌」と書かれているが、まだ「昌」の字が合っているだけマシです。

ここでいう「民法」とは秀吉の部下前田玄以のことです。官位が「民部卿法印」なので「民法」と略されていたようです。
前田玄以は織田信雄から京都所司代に命じられ、秀吉時代もその職を続けています。京都所司代は朝廷と交渉をすることも多く、暦はやっぱり賀茂家ということで秀吉は公家に顔の利く前田玄以に命じて暦を献じさせたのでしょう。

土御門久脩ですが、ちょうどこの頃秀吉から流刑を喰らっています。文禄四年のことですが、豊臣秀次側に加担したため流刑にあったものと思われるだけで、元和五年の時の出仕停止のように理由ははっきりとしていません。また、流刑先も尾張ではないか?というだけでこちらも確定していません。
この時期、不良陰陽師たちを豊後にかき集めて開墾させる計画があったのですが、なぜか最終的に尾張へ変更になっています。これもまた文禄二年のことで時期が重なっているため、久脩の流刑先も尾張ではないかとされているのです。もしかすると今頃は別に資料が出てきて流刑先は確定しているかもしれません。
なお、『公卿補任』では「出奔違武命」ということで、流刑ではなく出奔であるといいます(三鬼清一郎「普請と作事−大地と人間−」『陰陽道叢書』3近世より)。「武命に違える」というのは秀吉の命令に違反したということでしょうか。それこそ今でいうとロシアでプーチンの命令に従わなかったクラスの出来事なので命が危ないと思うのですが。そうか、だから逃げたのか。

不良陰陽師の件をまかされていた秀吉の部下三人のうちの一人が前田玄以でした。公家である久脩をとっつかまえたのも彼でしょうし、在昌に暦を督促したのも彼です。
ただ、在昌が平然と暦を提出しているところを見ると在昌は玄以に別格扱いされて尾張に拉致されなかったものと思われます。
なお、尾張は秀次の所領なのでそれに関連して不良陰陽師の開墾計画が変わったとの推測がありますが、確定はしていません。
『駒井日記』には京都、堺、奈良の陰陽師百三十一人が尾張の開墾に回されたとあります。一部の識者は「これら陰陽師を使って秀次の動向を監視させた」と考えていますが、無理やりかき集められた連中がそのようなことに手を貸すとは到底考えられません。うらみつらみを抱えながら荒地の開墾をしていたのだと思います。

先述のとおり、在昌は文禄四年の時点で知行を取り返しています。木場先生はこれを久脩なき後の宮廷陰陽師の地位を在昌が塞いだものと解されています。

(2014/10/10追記)
しかし、在昌と秀吉が関係している資料が徐々に見つかってきたことから、私はどちらかというと秀吉との繋がりが強まってきたことで(直接秀吉の命があったとまでは断定しませんが)秀吉側の力を使って知行を取り戻したのではないかと考えはじめています。

その後の久脩

久脩は関ヶ原の戦いの後徳川家康に助けられたようで、京都の公家界に復帰しています。ところが今度は元和五年に後水尾天皇と二代目将軍徳川秀忠に挟まれて出仕停止を喰らいました。危うく二度目の流刑は避けられたようですが、どうやら立ち回りの点において在昌に一歩も二歩も劣っていたようです。

家康によって助けられたものの、久脩が京都に帰ったときには既に管理不行届きで土御門家の資料一式はなくなってしまっていたといいます。ただ、土御門家は元々戦乱を避けて所領である若狭の名田庄に資料を一部移していました。中には勘解由小路在富の書いたものまであるので、全部を亡失したというのは言い過ぎでしょう。

全てを失った(とされる)土御門一門は徳川家康からそれほど重きを置かれず、徳川の都である江戸の陰陽道的構築は土御門家ではなく主に謎の僧南光坊天海の手によってなされました。この先土御門家が本格的に復興するのは久脩から三代後の泰福を待つことになります。
土御門泰福の時代、土御門家は幕府から全国の陰陽師に対する任免権を手に入れることができました。ただ、これは江戸幕府と組んで霊元天皇から受けたもので、任免権そのものはもっと以前、室町時代からあった可能性があります。泰福は陰陽道を一気に神道化し、天社土御門神道を創始しました。さらには暦の改定にもかかわっていくのですが、これに関しては別項の補遺で述べているのでそちらを参考にしてください。
土御門家が大きな存在になっていくこの1680年代の資料は数多く残っており、研究もしやすいのですがあまり在昌と関わらなくなってくるのでこの程度にしておきます。

しかし、さまざまな歴史小説に出てくる「若くして陰陽頭になった切れ者の戦国陰陽師」という虚像の久脩と比較すると、調べれば調べるほど出てくるそのヘタレっぷりには失笑を禁じ得ないのです。




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