個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

大陸側

 当時の支那は1911年に起きた辛亥革命以降、各地の軍閥が血で血を争う内戦を繰り広げていたことを忘れてはならない。言ってみれば、戦国時代そのものである。その中で最終的に国民党と共産党が生き残っていくのだ。
 ここでは1937年7月、盧溝橋事件当時の支那の状況を北は満州から南は南支までのブロックに分けて解説していく。

満州

 1931年より始まる満州事変により、日本は満州を手にしていた。1932年に満州国を建国、1934年帝政に移行した。
 日本からは1936年に小規模な移民が始まっているが、大規模な移民が始まるのは1938年以降である。
 関東軍が駐留し、愛新覚羅溥儀を傀儡とする政権であった。

北支

 盧溝橋事件が発生した場所である。北京には国民革命軍第二十九軍が居座っているが、日本軍北支那駐屯軍が天津に主力を置いており、そこに山西省へ共産党の軍勢が入り込むという、極めて混沌とした情勢にあった。
 盧溝橋事件後、北京は日本軍に占領されることとなる。

関中

 西安を含む地方。1936年当時、共産党はほぼこの地に抑え込まれていた。
 1936年12月12日、共産党に最後の一撃を与えに来た蒋介石がこの地で拉致される。西安事件であるが、この事件の顛末は不明なことが多い。共産党と国民党、双方にとって不名誉なことだったからであろう。蒋介石は生きて解放されたが、結果として国共合作と抗日が進むこととなる。
 西安事件が起こる前、共産党は壊滅寸前だった。この事件もまた大きな歴史の潮目である。

中支

 大都市上海及び当時の中華民国首都南京が位置する重要なエリアである。
 1932年に発生した第1次上海事変により、日本と租界を共有していた他の列強との関係が悪化した。その後日本水兵の射殺事件が起き、きな臭い状況が続いていた。

四川

 三国志でいうところの蜀のあたり。
 南京が征服される直前に遷都した重慶が存在する。蒋介石はなんの勝機もなく重慶に遷都したのではなく、内陸でありながら肥沃な四川の地を知っていてここに移ったのである。

南支

 香港に近い広東省と広西省を含む地域。地域的には香港もこちらにあたる。
 1936年に両広事変と呼ばれる反蒋介石運動が起こるも鎮圧される。もともと広東には広東政府、広西には新広西派と呼ばれる南方軍閥が存在しており、反蒋介石の機運が高かった。
 重要な都市は広東省の広州市。孫文が設立し蒋介石が初代校長となった黄埔軍官学校が1928年まで存在していたが、後に南京へと移った。

日本側

 1937年以前の国内の状況を示す。
 1930年代前半は凶作の時代である。歴史上日本における最後の飢饉と見なされている。現在はこの飢饉に対する研究が進んでおり、米価統制の失敗による人災という側面も提議されている。ただ、冷害による影響はなかったとまではいえず、やはり天候不良が大きな原因であったのだろう。
 ともあれ、このような凶作が不満をもたらし、政治不信から二・二六事件が勃発するのである。

1936年

 1936年2月26日、皇道派の影響を受けた青年将校らによる二・二六事件が勃発。青年将校側から見ればこれは「昭和維新」で、要するにこのようなことが起きるほど日本国内には問題が山積していたということである。
 歴史的にはこれで皇道派が壊滅、統制派が軍部を牛耳るようになっていった。
 上海南京戦争とのからみで言うと、統制派は中国進出と南進論を基礎としていたため、彼らの台頭が中国、特に南部進出への足掛かりとなっていく。
 この後、支那では日本人の記者や商人が殺されていった。

1937年

 1月、宇垣一成の内閣が流れる。この事件に大きく関わったのが上海南京戦争にも登場する凶将・中島今朝吾である。中島に関してはいろいろと言われているが、松井石根と違って十分な資料が集まっていないので現時点で断定はしないでおく。
 日本の軍事史上大きなターニングポイントがこの宇垣流産内閣で、軍人でありながら軍縮に辣腕をふるった宇垣がこの時点で組閣に成功していれば支那への侵攻はなかったと考えられており、ひいては日米開戦もなかったという意見もある。
 そして7月、盧溝橋事件が勃発するのである。

下剋上の時代

 「下剋上」という言葉は戦国時代を代表する言葉のように思えるが、この昭和の日本陸軍もまた「下剋上」という言葉に彩られている。
 軍中央の意向に逆らい満州事変を引き起こした石原莞爾は処刑されるどころか参謀本部でのし上がり、盧溝橋事件当時は参謀本部の第一部長になっていた。
 このような「やったもの勝ち」という結果主義は当然のことながら膨大な軍紀の乱れを引き起こし、のし上がったはずの石原莞爾は二匹目のドジョウを狙うプチ石原莞爾の下剋上によってどんどん苦しめられていくのである。




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