個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 朝鮮への仏教の伝来であるが、高句麗が最も早く372年に前秦から、続いて枕流王元年(384)に百済が東晋から仏教を受け入れている。
 年代が明らかではないが、新羅へは五世紀半ばに高句麗から流入したことが分かっている。このため高句麗と新羅は北朝由来、百済が南朝由来の仏教である。

百済仏教


 百済では聖王4年(526)、謙益(キョムイク)が律の研究で有名な中インドのサンガーナで学び、サンスクリット語の阿毘曇蔵、五部律文を持って帰国し翻訳したとされている。これが百済律宗である。
 謙益の百済律宗は中国経由ではなくインド直送だということで朝鮮関係の文献ではかなり重要視されている。このあたり日本での遣唐使による知識の伝達が朝鮮を経由したものではないとして重視されているのと似通っており面白い。
 その後も百済では武寧王が自身を「三宝の奴」と自称し、子の聖王(在位523〜554)も仏教の導入に熱心だった。
 百済仏教関係の史料は近年次々と発見・発掘されており、以前から知られていた百済律宗や法華宗だけではなくさまざまな宗派が栄えていたことが分かりつつある。
 新羅、百済の弥勒、観音信仰の話などもあるのだが、咒禁と関係なくなるのでこの程度に留めておく。

 高句麗や新羅から僧が来ることもあったのだが、日本の仏教は基本的に百済から流入したものである。仏教公伝は552年説と538年説があるが、まず確定することはないので六世紀前半と捉えておけばよい。

 百済王が咒禁師たちを送ってきた敏達六年は西暦で言うと577年であり、百済では威徳王の時代にあたる。
 威徳王の即位は557年。威徳王が北斉に使節を送ったのが570年であり、それまでは父の聖明王や祖父の武寧王が朝貢していた中国南朝の梁の影響が強かったものと思われる。
 特にこの聖明王は日本の『日本書記』、朝鮮の『三国史記』、中国の『梁書』を貫いて登場する重要な人物である。
 梁の武帝は明らかに仏教派であった。仏教の注釈書を著し、「皇帝菩薩」と呼ばれているぐらいである。南朝、というより六朝で最も仏教を信仰した支配者だったと言えるだろう。
 この梁の影響を大きく受けている百済が日本に仏教を伝えるのは当然である。

観勒


 百済からやってきた僧は数多く存在するのだが、特に一人挙げるとすれば推古期の602年にやってきた観勒(クァンルク)である。
 観勒は三論宗の大家であり、日本最初の僧正になった。
 飛鳥池遺跡からも「観勒」と書かれた木簡が発見されており、推古期の人物ながらほぼ実在が確認されている。
 観勒に関する日本書紀の記述を見てみよう。

冬十月百済僧観勒来之仍貢暦本及天文地理書并遁甲方術之書也是時選書生三四人以俾学習於観勒矣陽胡史祖玉陳習暦法大友村主高聡学天文遁甲山背臣日並立学方術皆学以成業

 ここに遁甲方術と書かれてあるのが問題で、遁甲という言葉は中国でも『隋書』經籍志が初出である。
 『隋書』では「遯甲」と表記されているが、『唐書』では同一の書名が「遁甲」表記となっているので同じものであろう。遁甲が三国志の時代や春秋時代まで遡れるという説もあるのだが、それはどうやら宋代の捏造のようである。
 遁甲とは占術の一種であり、日本では明代の「奇門遁甲」という名前の方が広く知られていた。
 少なくとも日本書紀が記述された時代には遁甲が伝わっていたことが分かる。残念ながら隋代の遁甲史料は逸失しており、唐代までしか遡れないようである。

 そしてまた、日本書紀で遁甲といえば天武天皇を忘れてはならない。
 天武天皇は日本の咒禁師に直接関わってくる人物であり、次章「官制としての咒禁師」で詳しく解説する。
 面白いことに百済が滅んだ時期の天皇である天武天皇の時代には僧尼の統制を強化するなど日本の仏教は一時衰退している。
 天武天皇は八色の姓に真人、道師といった道教系の用語を用いたり、伊勢神宮を重視するなど道教や神道を重視していた。同時期に薬師寺の建立を命じているが、これは熱心な仏教徒である妻、後の持統天皇のためであり自分が信仰していたわけではない。仏教を奉っていた百済が滅亡し、白村江の戦いに敗北したことで仏教に対する信仰が薄れてしまったのかもしれない。
 なお、この仏教に対する若干の冷遇は持統天皇の時代には雲散霧消し、仏教推進の気運は大仏殿を建立する聖武天皇の時代に最高潮に達するのである。




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