個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 百済、新羅、高句麗ともに仏教はそこそこ早いうちから入っているものの、高句麗を除き道教の形跡はほとんどない。その後高麗では道教が一定の影響力を持つも、少なくともこの朝鮮三国時代は高句麗末を除き日本と同じく道観は存在しなかったようである。
 残念なことに朝鮮関係の史料は『三国史記』『三国遺事』が最古の部類であり、十世紀以前の記述に関しては支那の古典や日本の史料に比べ軽く扱われがちである。
 特に『三国遺事』は十三世紀に作られており、十二世紀に作られた『三国史記』に比べてさえいささか信憑性に問題がある。
 こういった状況であるので朝鮮の考古学には大きな期待が寄せられている。韓国は発掘のための研究機関が激増しているようで、これはこれでありがたいのだがやはり質的な問題も出ているようだ。
 また、高句麗は大部分が現在の北朝鮮の範囲内である。彼の国の考古学も一定の成果を上げているようだが韓国のようにブームにはなっておらず、また外国人がその成果を手に入れることも難しいだろう。

高句麗

 朝鮮三国時代の記述で道教のことにまともに触れているのは高句麗末期しかない。
 高句麗の宰相、淵蓋蘇文の言葉に、
「いま儒と釈とは並び興れるも道教は未だ盛んならず……」
 というものがあり、高句麗最後の王である宝蔵王が初めて道教を崇拝したことから高句麗はほぼ末期まで道教を崇拝していなかったことが分かっている。
 『三国遺事』によれば、唐の高祖が624年に高句麗へ道士を送ったのが最初らしい。
 宝蔵王の在位は642年から668年なので、在位以前に送られ、篤く信奉したということであろう。
 仏教寺院を道観に転用したようで、これが朝鮮三国時代に確認されている唯一の道観の記録である。
 高句麗ではより以前の古墳壁画から仙人や天女の絵が見つかっているため宝蔵王以前に神仙思想が流入していたことは確実であるが、淵蓋蘇文の言葉もありそれは道教と呼べるレベルのものではなかったのだろう。
 一例をあげると、ほとんど唯一年代が分かっている徳興里(トクフンリ)壁画古墳がある。この古墳からは奇跡的に墓誌が発見されたため、409年の築造だと判明したのだ。墓主は鎮(ちん)。広開土王の大臣であった。
 ここに描かれているのは天の川と牽牛、織姫。そしてほとんどドラゴンにも似た火の鳥と、虎か何かを騎射している馬に乗った武人などである。
 七夕の物語は紀元前の漢代には記載されているので五世紀の壁画に残っていてもおかしくはない。日本では万葉集に七夕の歌が掲載されている。
 この壁画を見る限り、道教神と呼べるような存在は何一つ描かれていない。
 この後、六世紀前半の壁画には星座を印したものがある。四神や二八宿は描かれているものの、やはり道教神は描かれていない。

新羅

 新羅では末期において崔致遠という儒者が仏教、道教共に詳しかったとされるが、彼は九世紀半ばの生まれであるので本稿の求める時代とは大きくずれる。
 むしろ新羅から日本への影響は十二支像である。七世紀末から新羅では獣面人身の十二支像が発掘されており、日本の古墳で描かれる獣面人身像の形成に大きな影響があったと思われる。

百済

 朝鮮三国最後にして日本と最も関係の深い百済に視点を移すと、1993年に百済金銅大香炉が発掘され大きな話題となった。燃えさかる金色の山の頂上に鳳凰を乗せ、台座の流麗なフォルムは高い芸術性を示しており仏教・道教・神仙思想の融合を表すものとして見る者を圧倒する。
 百済金銅大香炉(扶餘博物館前に飾られたモニュメント)
 こういった博山(蓬莱山の異名)の形をした炉は博山炉(はくさんろ)と呼ばれ支那では漢代以降の遺跡で発掘されており、百済にもこうした神仙思想が流入していたことが確認できる。
 また、百済では太極を描いた木簡も発掘された。
 道観こそ発見されてはいないものの、神仙思想として支那の原始宗教の影響があったことは確認できる。こういった思想が先端的な文化として古代日本に流れ込んでいったのである。
 
 このような神仙思想の日本での展開は、第四章「官制としての咒禁師」の渡来人の項で述べていきたい。




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