個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 いよいよ本稿のメインテーマである、日本の官制咒禁師についての話に入っていこう。

天武天皇

 天武天皇は唐の律令を参考にしながら日本独自の制度「陰陽寮」を定め、

 能天文遁甲

 とまで書かれた、最も異質な天皇である。
 そもそも『日本書紀』の編纂を命じたのが天武天皇であった。恐らく中国の史書を参考にしたのであろうが、こういうものを作ろうと考える時点で今までの天皇とは発想が異なる。
 『日本書紀』は天武天皇によって発案されたため、天武天皇及びその臣下、後継者の政治的意図によって史実が大きく歪められているというのが通説であるが、逆に天武天皇のことを研究する場合はそちらの方がありがたい。『日本書紀』から天武天皇の思想が透けて見えてくるからである。
 一言で言うとこの天皇、「支那かぶれ」という言葉が実に相応しい。
 不思議なのは白村江の戦いで唐及び新羅の連合軍に大敗したにも関わらず、敵国である唐の律令を導入しようと躍起になっていたことである。
 ただ、これは第二次世界大戦後の日本とアメリカの関係や明治維新のことを考えれば当たり前なのかも知れない。外敵に滅ぼされそうになった時、あっという間に相手の文化を取り入れてしまうのがいかにも日本的と言えよう。
 白村江の戦いについて『旧唐書』と『日本書紀』ではかなり話が異なるのだが、残念ながら『旧唐書』は945年完成であり、661年の白村江の戦いからするとほぼ三百年後の話である。この話ばかりは三百年後に書かれた『旧唐書』より60年後に書かれた『日本書紀』を信じた方がマシである。
 天武天皇は『日本書紀』と同じく飛鳥浄御原令の制定を命じたが完成を見ず686年に死去。その後701年に大宝律令が制定され、令だけではなく律も揃った。
 残念ながら大宝律令も現存せず、757年の養老律令が現存する最古の律令である。
 そして、日本の咒禁師が姿を現すのがこの養老律令なのである。

 養老律令の施行は757年。大宝律令は養老律令とほとんど条文が同じであると言われているが、現存しないので大宝律令に咒禁師がいたかどうかは確定できない。
 だが、第五章「渡来人と『咒禁』」で詳しく述べるが、持統天皇5年(691年)条に咒禁博士のことが記載されているので、大宝律令にも掲載されていたことがほぼ確定できる。それどころか飛鳥浄御原令の制定が689年なので、飛鳥浄御原令で既に咒禁博士の記載があった可能性が高い。
 『日本書紀』が出来たのが720年であり、政治的意図による改竄のある事項は別として三十年ほど前にしかすぎない持統天皇期の年代はほぼ間違いないのがありがたい。
 大宝律令が唐の永徽律令を参考にしたことは分かっているが、飛鳥浄御原令は現存しないので何の令を参考にしたかは分かっていない。ただ、時代的にはやはり永徽律令を参考にした可能性が高い。
 ここで、養老律令の職員令から典薬寮の職員を一覧に並べてみよう。

職員令 44 典薬寮条
典薬寮
 頭一人。
 助一人。
 允一人。
 大属一人。
 少属一人。
 医師十人。医博士一人。医生四十人。
 針師五人。針博士一人。針生廿人。
 案摩師二人。案摩博士一人。案摩生十人。
 呪禁師二人。呪禁博士一人。呪禁生六人。
 薬園師二人。薬園生六人。
 使部廿人。直丁二人。薬戸。乳戸。

医、針、按摩、咒禁

 続日本紀や養老律令を見ていくと、明らかに医と針が優遇されている。
 まず続日本紀に数多く載せられている褒賞の時に医や針は算、暦、天文と同列に扱われているのに対し按摩や咒禁は現れてこない。
 養老律令ではまず医、そして針を十三条に渡ってほぼ同格に詳しく扱い、遅れて按摩、咒禁を合わせて一条だけ載せている。
 現代的な発想でいくと医、針は内科や外科の医者、按摩、咒禁はマッサージ師レベルといった感じであろうか。

 ところが日本での制定当時の位を見てみると、咒禁博士はかなり優遇されている。
 これは以前から指摘されているのだが、医博士が正七位下、咒禁博士が従七位上、針博士が従七位下、按摩博士が正八位下と続いている。
 後世には咒禁より遙かに優遇される針博士が制定当時には咒禁博士より格が下だったのである。
 唐制を見てみると、医博士が正八品上、針博士が従八品上、咒禁博士は按摩博士と同列の従九品下となっている。
 日本では全体的に医療官僚が唐令より上になっているのだが、咒禁博士の更なる優遇ぶりが目立つ。
 典薬寮の前身は陰陽寮とほぼ同じ頃に作られた外薬寮(とのくすりのつかさ、げやくりょう)で、身分はそこから引いているものと思われる。

 その後、医疾令が制定された時には咒禁師は針師より一段低いものとされている。この格下げに関する時期の確定が少し難しくて、唐令の医疾令を引き継いだため当初は先進的だと見なされた咒禁が軽く扱われるようになったのかもしれない。

唐令について

 唐代の律令に関しては面白い話があって、唐令を復元したのは日本人なのである。
 唐令といっても唐の時代は長く、624年の武徳律令から始まって737年の開元律令まで七つの律令が存在した。先述のとおり日本の律令に最も大きな影響を与えたのは651年に制定された永徽律令である。
 唐令は既に中国でも早期に散逸してしまったのだが、古代日本の律令を研究するにあたり唐の律令の復元が不可欠だった。
 このため、1933年に『唐令拾遺』と呼ばれる基礎的な文献が支那法制史学者である仁井田陞によって編纂される。
 『唐令拾遺』は非常にレベルが高く、逆に中国へ輸出され翻訳されたぐらいである。日本ではその後1937年に『唐宋法律文書の研究』、1999年に『唐令拾遺補』と研究が引き継がれていくことになる。
 だが、残念なことにこの中で医疾令はほとんど復元されていなかった。
 咒禁に関する情報は大半が医疾令に掲載されているのだが、その部分は逆に日本の養老律令から復元されていたのだ。
 これでは唐での実情が分からない。

 だが、1999年、唐令に関して華々しい発見があった。
 寧波の天一閣博物館所蔵で保存されていた北宋の天聖令に、唐令が附則としてくっついていたのである。
 これを発見したのは上海師範大学の戴建国氏であった。もともと明令だと思われていたものを戴氏が天聖令だと確認したのである。
 この天聖令附則唐令には医疾令が一部掲載されていたのだ!
 ここでは、丸山裕美子氏によって復元された唐代の令(「北宋天聖令による唐日医疾令の復原試案」より)を見ていきたい。

唐令
 咒禁生学咒禁、解忤・持禁之法、限二年成

養老律令
 咒禁生学咒禁・解忤・持禁之法、限三年成

 咒禁生に関して、養老律令がほぼ唐令をそのまま引いていることが確認された。唯一違う点は唐令が二年育成であるのに対し養老律令では三年育成となっていることである。これは本場支那と日本では咒禁に関する教育環境が異なるのでしかたのない措置であろう。
 その後の研究で天聖令附則唐令は複数ある唐令の中でも開元律令であることが分かっている。残念ながら養老律令の元となった永徽律令ではないが、医疾令に関してそれほど大きな変更は無かったものと思われる。
 なお、天聖令附則唐令や近年の他の様々な発見により、『新唐令拾遺』の編纂が予定されているようである。





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