個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 レギオモンタヌスについては以前府内教会のところでさらりと触れていただけだったのですが、西洋天文学の重要人物であるにも関わらず教科書上、というか日本の天文学系の書物にもあまり詳しい話がないようなのである程度書いてみることにしました。

 ルネッサンスの天文学者として日本でよく描かれるのはコペルニクス、ティコ・ブラーエ、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラーの四人です。しかし、コペルニクスの地ならしをした人物としてレギオモンタヌスを忘れてはなりません。
 業績の割にレギオモンタヌスが今一つメジャーではないのは教会側の人物で、最期にはレーゲンスブルク大僧正として扱われたことによるものでしょうか。ガリレオ・ガリレイのようなドラマ性がないのです。また、占星術に片足を突っ込んでいたというのも科学者扱いされていない理由かもしれません。ただ、ティコ・ブラーエも十分そんな感じなのでこれは原因ではないと思われます。あと、最期までプトレマイオスの天動説支持者だったということもあります。

 とりあえずレギオモンタヌスの概略についてはWikipediaにも載っているのでここでは主にそれ以外の話、特にプトレマイオス及び『アルマゲスト』関係の話をしていきます。

 レギオ-モンタヌスとはラテン語で「王の山」を意味します。本名は「ケーニヒスブルグのヨハネス・ミュラー」。今でいうところのドイツ人です。
 1436年生まれ。ライプツィヒ大学への入学が1447年なので僅か11歳での入学です。3年後の1450年にウィーンの大学に行くのですが、この理由がライプツィヒの全ての資料を調べ尽くしたためというのだから恐れ入ります。
 ゲオルク・プールバッハ(ポイエルバッハ)が師匠という話があるのですが、プールバッハがウィーンで天文学の講義を始めたのはウィーン大学に戻った1450年説と修士の学位を得た1454年説があります。1454年説の場合師匠と言うより13歳年の離れた先輩といった関係だったでしょう。このため書籍によっては「プールバッハの同僚であったレギオモンタヌス」という表現もあります。
 1460年、ローマのヨハネス・ベッサリオン枢機卿が大量のギリシア系写本を持ってウィーンにやってきました。その中にはプトレマイオスの『アルマゲスト』もあったのです。ベッサリオンは『アルマゲスト』のラテン語への要約(単なる翻訳ではない)を当代きっての天文学者であるプールバッハとレギオモンタヌスに依頼するのですが、プールバッハは1461年4月8日に病没してしまいます。
 後を託されたレギオモンタヌスはベッサリオンと共にローマに旅立ち、『アルマゲスト』の要約を完成させました。これが『アルマゲスト概要(Epytoma in almagesti Ptolemei)』です。
 実は『アルマゲスト』自体は「クレモナのゲラルド」により12世紀にラテン語へ翻訳されています。問題はその『アルマゲスト』自体が難しすぎたために要約版が必要とされていたのです。
 『概要』もしくは『抜粋』と呼ばれるこの書ですが、事実上そのような単純なものではありませんでした。なぜならこの『概要』にはアラビア語版で追加された資料と共に、幾何学定理の証明や観測の器具の使い方まで懇切丁寧に記されていたからです。
 このため、極めて厳密かつ有用性の高いこの『概要』は『アルマゲスト』の入門編、というよりもそれに留まらず『アルマゲスト』の代替物として17世紀までヨーロッパ中の大学で使用されていくこととなりました。

 私が本文で「ベルショール・ヌーネス・バレトの持ってきた『プトレマイオスの書』とはレギオモンタヌスの『アルマゲスト概要』である」と唱えた理由は、上述のとおりそれが当時200年に渡って一般的な天文学の教科書だったからです。

 その後のレギオモンタヌスの代表的な活動を、彼の著作をベースにして行います。
 まずは『三角法の全て(De Triangulis omnimodus)』です。これは平面三角法と球面三角法に関する五巻本ですが、この書物よりもこの書物に関連する二つの正弦表のほうが重要です。
 半径6,000,000と10,000,000という単位の弧度1分ごと7桁のこの表は当時としては驚異的な精度を誇っていました。理系の人間にしか分からないかもしれませんが、高度に正確な計算というものは三角法なしに達成できるものでは無く、この正弦表は近代科学の発展に大きな影響を与えたのです。

 同様に一世紀半ほど影響を与え続けたのが『方向表(Tabulae directionum)』と『原動表(Tabulae primi mobilis)』ですが、これらが出版されたのは管見ではレギオモンタヌスの没後、例えば『方向表』自体は1467年以降に完成していたようですが、出版されたのは1490年です。

 他に重要な出版物としては『暦(Kalendarium)』と『位置推算暦(Ephemeris)』があります。
 『暦』は1474年頃に出版され、1475年から1531年までの教会暦と1530年までの日月食の図が含まれています。対して『位置推算暦』では1475年から1506年までの太陽、月、惑星の位置が900ページに渡って描かれています。
 本文でも何度も述べていますが、当時の天文学は結局日食と月食を当てた者が勝者です。50年先の日月食の図まで記載するというのは、相当の自信が無ければ不可能なのです。
 『位置推算暦』は『エフェメリス』という直訳のほうが知られているかもしれません。「エフェメリス」という単語は現在、GPS衛星の位置を求めるために必要な衛星からの距離を意味しています。

 数学において神童から天才へと駆け上がった者たちの例に漏れずレギオモンタヌスもまた四十の若さで死亡しています。原因は1475年に時の教皇スィクトゥス4世から改暦の協力を求められてローマに赴いたためです。当時ローマはペストが流行していたため、これが死因だと考えられています。
 ちなみに彼が『抜粋』を上梓したのは二十六の頃であるといいますから、どれだけ早熟だったかは推して知るべしでしょう。

参考文献:
クリストファー・ウォーカー編『望遠鏡以前の天文学−古代からケプラーまで』恒星社厚生閣
トーマス・デ・パドヴァ『ケプラーとガリレイ: 書簡が明かす天才たちの素顔』白水社



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