個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 歴史読本の『最新 日本古代史の論争51』という本で、「道教の『伝播・普及』論争について」という文章を読みました。

 ちょっと驚いたのは、支那での教団道教の成立が仏教教団に影響されてできたもの、という根本的な話が抜け落ちていることです。教団がキチンと整った仏教が支那に流入して来なければ、道教の教団化は起きなかったわけです。
 そういった基本的な視点が抜け落ちたなかで日本における道教の伝播について語ろうとしても、なかなか難しいものがあります。

 「日本に道教が伝播したか」というのは論争があるように見えて論争になっていません。なぜなら、その論争をしている人たちの「道教」の捕らえ方が全く異なるからです。

 これは、「道教」を「教団道教」と「神仙思想」に分けて考えるとスッキリしやすい。
 ある論者は「神仙思想」だけで「もうこれは道教だ」と言い、ある論者は「教団として整備された道教でなければ道教とは認めない」というスタンスを取っています。
 そうすると、同じ証拠を見ても「日本に道教は伝播していた」「いや、していない」という噛み合わない空中戦になってしまうわけです。これではいけません。

 私は呪禁の研究から、「日本には教団道教はなかった」という結論に達しています。「神仙思想」は十分に広がっていたけれど、「教団道教」は無かった。

 ここで「教団道教」の定義についてももう少しハッキリさせておきましょう。

 教団道教に必要なのは以下の3つです。
・道観
・道士
・礼拝儀式

 仏教と対比すると分かりやすいでしょう。
・寺院
・僧侶
・礼拝儀式

 教団の建物があって、教団の司祭がいて、教団の建物で司祭が礼拝奉仕をしている。これが最低限の「教団」です。
 本当はここに「入信者」を付け加えたいのですが、「入信者」というものはこの3つが揃った後で出てくるものですから抜いておきました。

 さて、日本に道観はあったか。
 このあたりの話は下出積與先生の『道教−その行動と思想−』が詳しいです。
 黒板勝美氏が多武峰に建てられた両槻宮を「道観」と見做した話が出てきます。また、日本書紀に出てくる「観」という言葉を「道観」に比定する意見も載せられています。
 下出先生は「教団道教」ではなく「成立道教」という言葉を使われておりますが、日本に流伝したのは「成立道教」ではないと考えられており、日本書紀に出てくる「観」という言葉は「道観」を意味しないとされておられます。

 私も呪禁の日本への定着のしなささと、鑑真招聘の時のように道士の派遣を断っていることから、日本に道観はなく、「教団道教」は存在していなかったと考えています。

 対して、いわゆる「神仙思想」、下出先生がおっしゃるところの「民衆道教」は日本の文化に大きく取り込まれています。

 「神仙思想」はかなり日本の文化に影響を与えています。天武朝に始まった「天皇」号もその一つですし、下出先生の『道教』では「常世国」「庚申信仰」などが例として取り上げられています。
 しかしながら、私の研究している「呪禁」は「神仙思想」よりもむしろ「教団道教」と密接な関連があります。日本に「教団道教」が流入しなかったことから、「呪禁」は衰退してしまいました。

 ということで、「道教『伝播・普及』論争」というものは決着しています。論争が存在するように見せかける必要はありません。

「道教の『神仙思想』は日本の文化に大きな影響を与えたが、『教団道教』は流入しなかった」

 理解しにくければギリシャ神話とその礼拝奉仕を考えていただければよいかと思います。
 ギリシャ神話はその後のヨーロッパ文化に大きな影響を与えましたが、パルテノンなどの神殿で行われていたであろう礼拝儀式はヨーロッパに伝わりませんでしたし、教団も流入しませんでした。
 道教も同じで、『神仙思想』は日本文化に大きな影響を与えたのですが、『教団道教』は入ってこなかったわけです。

 この結論をひっくりかえすには……考古学者による「教団道教で使用される特徴的な遺物を含んだ遺跡の発見」が必要でしょう。

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