個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 当時行われていた支那及び日本の呪術についてもう少し見ておこう。

投簡

 唐代、というより則天武后時代の周代に流行った技法で、道教の聖地である洞天に願い事などを書いた金属製の簡を投げ込むもの。日本には洞天が無かったのと、時期的に新しいことから流行らなかったようである。
 似た技法に、金龍を投げ込む投龍というものがある。

斎串(いぐし)

 元々日本の呪術で実は道教系ではないのだが、白鳳から天平に一般的な呪法で出土も多い。短冊状の木の板で上部は飾型に削り下部は尖らせる。これを地面に刺して結界を作るのである。
 初期は無文字なのだが、道教系統の呪符木簡と習合していったようで徐々に文字や呪的な図が書かれているものが増えてくる。こうなってくると日本独自の魔術ではなく支那系との習合魔術、つまり陰陽道と呼べるだろう。

厄払い

 人形に穢れを受け渡して払う、厄払いの儀式があった。
 支那においても人形を身代わりとする呪術は存在し、実例が六朝期に成立した『赤松子章暦』に見える。
 『赤松子章暦』では銀人を水の中に投げ入れるとあるが、これは正に日本の流し雛感覚だ。なお、銀が無ければ錫人や銭九十九でも良いとある。この当時ですら貧乏人向けの代替措置があって泣けてくる。
 こういった身代わりの技術を「替身法」という。「替代」や「替形」という言葉も使われるようだ。
 現代でも茅山派では「偶人」「木偶」とも呼ばれる木彫りの人形を使って川や海に投げ込んでいる。人形を焼く儀式もあるというが、流石にこちらは紙製であろう。土製の人形であれば「俑(よう)」と言う。「兵馬俑」の「俑」である。
 日本では人形木簡といって人型をした木簡、というより木の板でできた人形が発掘されており、朝鮮でも百済のあたりでそのような人型木簡が徐々に発掘されている。隋唐代でも同じような木製の人形も使っているが、桃の木の板に人の顔を描いたようなものであり、日本のように切り込みを入れて人型にまではしていないようだ。
 新益京跡からは御贖(みあがもの)という銅製の金属製人形が出ている。
 ただ道教の技法上では金属製の人形は金製、銀製、錫製で銅製という記述はない。素材という面において日本と支那でこのような対比が産まれているのが非常に面白い(実は見た目で銅製と判断していて、ちゃんと素材分析してみると錫製だったというオチかもしれないが)。
 その後、道教関連の文書が大量に流れ込んでくると日本でも金製、銀製の人形を作り始めるのだが、これはもっと後代の話である。
 金属製の人形に対し木製の人形は紙製に移り変わっていき、撫物(なでもの)や形代(かたしろ)と呼ばれ流し雛に変化していくのである。
 人型の紙を使った支那の呪術としては紙人を本当の兵隊に変えてしまうという剪紙成兵術があるが、これは少し講談じみていて咒禁からは外れてしまう。

 さて、こういった人形を用いる時の主要な技術が人形に目を入れる「開光」である。意味は違うが、達磨に目を入れるのを思い浮かべていただくとよい。
 現在の台湾では道教系の神像や身代わりの人形に対して開光を行っている。このような入神、入魂の儀式もまた立派な呪術といえるだろう。
 日本では東大寺にある大仏の開眼が有名であるが、そもそもこの開眼とは「開光点眼」の略である。
 道教の神像は仏教の仏像を真似て造られたのだが、開光を始めたのが仏教か、それとも道教が先かは判然としない。
 則天武后の時に盧遮那仏に対する開眼供養があったことは知られているのだが、それ以前の例えば北魏などで開眼式があったのかどうかが分からないのである。

まとめ

 これまでまとまって取り上げられてこなかった唐六典に記された五つの咒禁行法を取り上げた。特に存思や禹歩、手印のような世に知られた技法ではなく、掌訣と營目について『千金翼方』の「禁経」を元に詳しく説明した。
 なお、五つの技法だけでは足りなかったので、呪符を含め当時用いられていたと考えられるいくつかの技法を取り上げた。

 実は、『千金翼方』の「禁経」には禁に関する別の列挙方法がある。『仙経』と呼ばれる書物から引いたもので、禁を用いるのに六法あるとされている。牙歯禁、營目禁、意想禁、捻目禁、気道禁、存神禁がその六法である。
 ただ、
・『千金翼方』では「咒禁」ではなく「禁」であるとされていること。
・『大唐六典』に「咒禁」の五法と明記されていたことと。
・『千金翼方』の「禁経」に関しては既に坂出氏による論が存在すること。
・坂出氏の論の中で掌訣と營目が詳述されていなかったこと。
 から、本稿では『大唐六典』の五法に基づいて考察を行った。
 なお、この『仙経』は『医心方』でも引かれているものの、『日本国見在書目録』には掲載されていない。『医心方』では房中術が引かれていることから小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』では隋代の房術書医方とされているが、『千金翼方』から見る限り房中術のみの書物とは言えないだろう。
 また、浄土教に帰依した曇鸞の焼いた書物が陶弘景から得た『仙経』十巻だという話が伝わっているが、この曇鸞の焼いた『仙経』が『千金翼方』などで引かれる『仙経』かどうかは定かではない。





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