個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 持統天皇5年(691年)条に、

十二月戊戌朔己亥賜医博士務大参徳自珍呪禁博士木素丁武沙宅万首銀人二十両乙巳詔曰賜右大臣宅地四町直広弐以上二町大参以下一町勤以下至無位随其戸口其上戸一町中戸半町下戸四分之一王等亦准此

 とある。
 「呪禁博士木素丁武沙宅万首」がここの主題で、伝統的に「呪禁博士、木素丁武、沙宅万首」と分けられている。
 前の方も少しだけ解説しておくと、「医博士務大参徳自珍」は「医博士、務大参、徳自珍」と読む。「務大参」とは天武天皇が定めた冠位四十八階の一種であり、上から二十九番目の位階である。「徳自珍」がこの医博士の名前だとされている。
 なお、この当時用いられていた飛鳥浄御原令では国家の医療機関は典薬寮ではなく外薬寮(とのくすりのつかさ)と呼ばれていたらしい。だから彼ら医博士と呪禁博士は外薬寮の職員ということになる。
 木素や沙宅は百済系の渡来人であり、それぞれ百済八貴族の一つである木氏、沙氏の出身であることを示す。
 木素丁武は白村江の戦い(663年)以降に日本へ亡命した木素貴子(もくすきし)、沙宅万首は同じく沙宅紹明(さたくじょうみょう)の子孫と思われる。
 異説もいくつかあるようなのだが、『隋書』に寄れば百済の八大姓は沙氏、燕氏、賛氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苗氏となっている。

 彼ら二人が日本で初めて記述された医療系の咒禁師、咒禁博士である。





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備忘録本編

「獲加多支鹵」の読み方について
銅鐸時代

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