個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

 隋代の道教は半国教という感じである。隋の開祖である文帝は疲弊した民のため宗教を保護した。文帝は仏教を厚く保護したことで知られているが別に道教を弾圧するということもなかった。むしろ道観を建てるなど道教も保護している。
 唐代の道先仏後に比べ仏前道後という感じであるが、より差は無かった。
 これに対し跡を継いだ煬帝の記録は多少混乱している。道教に関しては同様に優遇したという記述からたいして振るわなかったという記述まで様々な評価が残されているのだ。
 ただ、煬帝の時代も道教は別に弾圧されていない。
 隋はたった二代で滅んだため、宗教に関しては多くの要素がそのまま唐に流れ込んだ。

 唐も隋を引き継ぎ最初は仏教を優遇していたのだが、老子と同じ李氏であることから道教を優遇しだすようになっていく。
 唐で道教が優勢になるのは貞観十一年(637)正月十五日のこと。太宗が自分の本系が李氏であると詔を発してからである。
 この老子と同じ李氏であるというのはフィクションのようで、道教優遇を押さえようと論破した仏教僧によると李氏は李氏でも老子の李氏とは地域が違って別だということである。
 氏の発生した地域のことを本貫(ほんかん)と呼ぶ。本貫の概念は支那で発生したが、最も影響を受けたのは朝鮮であり今でも重要な意味を持っている。この仏教僧は唐王朝の李氏と老子の李氏は「本貫違い」だということを指摘したのだ。
 だが、そもそも老子と同じ李氏であるというのは国家を安定させるための方便である。事実がどうあれその方向に向かって次々と実績が重ねられていった。件の仏教僧は命を奪われることは無かったが都から放逐され僻地の寺院へと飛ばされている。
 道教への風向きが一時的に変わるのは則天武后の時であった。則天武后の周代は明らかに仏教優遇になったが、この時代でも則天武后が道教系の儀式を行っていたことが確認されており、弾圧されていたわけではない。
 そして玄宗皇帝の時に唐の道教は最盛期を迎える。この時代科挙に似た道教の試験、道挙が制定されたほどである。
 だが、安史の乱などで道教は失速していく。安史の乱以後存在感を増していくのは中期密教なのだが、これについては後述の仏教編で述べる。

 さて、道教側の話のみをすると言っておきながらかなり仏教の話が交じってしまった。この時代の道教に一歩踏み込むとどうしても仏教に絡んでしまうのだ。
 支那の仏教の話は後述するので、先に朝鮮の道教について触れておく。




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