最終更新:ID:UdfyKoRKAg 2023年09月02日(土) 18:30:59履歴
【元ネタ】史実
【CLASS】セイバー
【真名】アンジェロ・ドメニコ・マレヴォッティ・トレマンド
【性別】男性
【身長・体重】180cm・75kg
【地域】イタリア→フランス→イギリス
【年代】18世紀
【属性】中立・善
【ステータス】筋力C 耐久C 敏捷B 魔力E 幸運A 宝具C
【CLASS】セイバー
【真名】アンジェロ・ドメニコ・マレヴォッティ・トレマンド
【性別】男性
【身長・体重】180cm・75kg
【地域】イタリア→フランス→イギリス
【年代】18世紀
【属性】中立・善
【ステータス】筋力C 耐久C 敏捷B 魔力E 幸運A 宝具C
18世紀を代表する剣士。イタリアのリヴォルノで、富裕な商人の父と侯爵令嬢の母の間に生まれる。はじめに剣士アンドレア・ジャン=ファルドーニに師事し、20代はイタリア中を旅した。その頃のヴェネチアではジョヴァンニ・アントーニオ・カナール(カナレット)という画家と知り合う。ドメニコは芸術についても関心を持っており、カナレットと仲良くなれる程度には絵の心得もあったようだ。
27歳の時に貿易の勉強のためにパリに行ったが、ドメニコは王立騎兵学校のグエニエールとフランス王立武術アカデミーのテラゴリーに師事して励んだ。そしてこの時に馬術と剣術の師が同じだったシュヴァリエ・デオンと意気投合して友人となった。また、オペラ座で最高のダンサーであり、舞踊の神と称されたガエタノ・ヴェストリスにも師事した。
(勉強もせずに)そんなやりたい放題のドメニコにも転機が訪れた。ニヴェルネー公爵の勧めから出場した公開剣術試合の場で、パリに訪れていた大女優マーガレット・ウォフィントンに一目ぼれ。マーガレットから受け取った薔薇の飾りを胸に付けて試合に出て、かすることもなく無事に勝利を収めると、彼女とともにイギリスは王都ロンドンを目指してパリを後にした。当然、激怒した父に家を勘当される形になったが、優れた才覚の持ち主だったドメニコはほどなくしてアイルランドの剣豪キースを破り一躍名声を得ると、イギリス王太子の馬術と剣術の師となり、ロンドンの上流階級社会の仲間入りを果たし、パトロンを得て学校を作った。また、私生活においてはマーガレット・ウォフィントンと別れたものの円満な形で終わりを迎えたらしい。そしてマーガレットはエリザベス・ジョンソンという16歳の美少女をドメニコに紹介した。エリザベスの正確な素性は不明だが、亡くなった海軍士官の娘であり、トリントン子爵家の海軍大将ジョン・ビング卿に縁があるとされている。なお、ジョン・ビング大将はとある戦いでの敗北の責任を背負わされる形で敵前逃亡の罪により処刑された人物だった。結婚以降、色男ドメニコは妻一筋に生きた。
さて、イギリス王太子の師範となったことでドメニコは剣術界で輝かしい存在となっていた。その頃に大使の任務を帯びてロンドンに赴任してきたシュヴァリエ・デオンの協力を得て、著書「剣術の学校」を製作した。その際に数百人の貴族から寄付金を募ることができたのである。そしてドメニコの存在はフランス剣術界で大きな騒動を巻き起こすことになった。当時の人々が大きな関心を持っていた「百科事典」において剣術の項目で当世一級の剣士として大きくドメニコの著作が取り上げられたのである。しかしフランス王立武術アカデミーのトップであるギヨーム・ダネットはこれに激怒して、ドメニコの剣術理論を強く非難した。確かに、ドメニコの剣術は革新的ではなく、むしろ古風ですらあった。しかしドメニコは剣術の指導に際し、その精神をスポーツとして昇華すると同時に、常に実戦を意識した指導を行っていたのである。逆にダネットは洗練された剣術の理論を披露したが、あまり支持されなかったばかりか王立武術アカデミーのデラボエシエールから批判を受け評判を落とした。
ドメニコの剣術は古風であり、かつ防御を強く意識したものだった。これは命のやり取りが現実にありえる時代で身を護ることを思えば当然だった。当時の流行から外れていた左手による防御、マントやランタンの使用といった実戦的なものから、相手の剣を一瞬で奪う高度な武装解除術まで様々だった。また、左手で剣を扱うことも指導していた。左利きの剣士に相対した時、経験がない場合には苦戦は免れないためであり、また身体操作の精度を上げることにも効果的だったからである。剣豪キースとの決闘ではドメニコはキースの剣を優れた技法で打ち払い、最小限の動きで避けて防御だけで圧倒的な実力差を示し、疲れたキースを続けざまに数十回突いたとされている。
ドメニコは指導者としても優れており、フェンシングのスポーツとしての可能性を拓いたことはフェンシングの歴史における一つの転換点でもあった。同時にアンジェロ家の剣術は軍隊剣術としてもスタンダートになりアンジェロ家は百年以上にわたってヨーロッパ剣術界に君臨した。ドメニコがこれほどまでに成功した理由の一つとして、深い教養と正しい礼儀、そして人柄があっただろう。突如として女装を始めた友人、シュヴァリエ・デオンに対しても偏見を持つことなくただ女性に接するのと同じように接した。前述のギヨーム・ダネットとの剣術論争においては、他者を強く批判して自らの評判を貶めるに至ったダネットとは対照的に、ドメニコは誰を批判することもなく、フランス剣術界の技量や思想の素晴らしさを褒めたたえていた。思えばフランス剣術界を騒がせた天才剣士ジャン=ファルドーニは確かに強かったが、行く先々でトラブルを起こして、ついには悲劇に至った。剣術界をリードし、見事天寿を全うしたドメニコの生き方は剣の天使と賞賛するにふさわしい。
27歳の時に貿易の勉強のためにパリに行ったが、ドメニコは王立騎兵学校のグエニエールとフランス王立武術アカデミーのテラゴリーに師事して励んだ。そしてこの時に馬術と剣術の師が同じだったシュヴァリエ・デオンと意気投合して友人となった。また、オペラ座で最高のダンサーであり、舞踊の神と称されたガエタノ・ヴェストリスにも師事した。
(勉強もせずに)そんなやりたい放題のドメニコにも転機が訪れた。ニヴェルネー公爵の勧めから出場した公開剣術試合の場で、パリに訪れていた大女優マーガレット・ウォフィントンに一目ぼれ。マーガレットから受け取った薔薇の飾りを胸に付けて試合に出て、かすることもなく無事に勝利を収めると、彼女とともにイギリスは王都ロンドンを目指してパリを後にした。当然、激怒した父に家を勘当される形になったが、優れた才覚の持ち主だったドメニコはほどなくしてアイルランドの剣豪キースを破り一躍名声を得ると、イギリス王太子の馬術と剣術の師となり、ロンドンの上流階級社会の仲間入りを果たし、パトロンを得て学校を作った。また、私生活においてはマーガレット・ウォフィントンと別れたものの円満な形で終わりを迎えたらしい。そしてマーガレットはエリザベス・ジョンソンという16歳の美少女をドメニコに紹介した。エリザベスの正確な素性は不明だが、亡くなった海軍士官の娘であり、トリントン子爵家の海軍大将ジョン・ビング卿に縁があるとされている。なお、ジョン・ビング大将はとある戦いでの敗北の責任を背負わされる形で敵前逃亡の罪により処刑された人物だった。結婚以降、色男ドメニコは妻一筋に生きた。
さて、イギリス王太子の師範となったことでドメニコは剣術界で輝かしい存在となっていた。その頃に大使の任務を帯びてロンドンに赴任してきたシュヴァリエ・デオンの協力を得て、著書「剣術の学校」を製作した。その際に数百人の貴族から寄付金を募ることができたのである。そしてドメニコの存在はフランス剣術界で大きな騒動を巻き起こすことになった。当時の人々が大きな関心を持っていた「百科事典」において剣術の項目で当世一級の剣士として大きくドメニコの著作が取り上げられたのである。しかしフランス王立武術アカデミーのトップであるギヨーム・ダネットはこれに激怒して、ドメニコの剣術理論を強く非難した。確かに、ドメニコの剣術は革新的ではなく、むしろ古風ですらあった。しかしドメニコは剣術の指導に際し、その精神をスポーツとして昇華すると同時に、常に実戦を意識した指導を行っていたのである。逆にダネットは洗練された剣術の理論を披露したが、あまり支持されなかったばかりか王立武術アカデミーのデラボエシエールから批判を受け評判を落とした。
ドメニコの剣術は古風であり、かつ防御を強く意識したものだった。これは命のやり取りが現実にありえる時代で身を護ることを思えば当然だった。当時の流行から外れていた左手による防御、マントやランタンの使用といった実戦的なものから、相手の剣を一瞬で奪う高度な武装解除術まで様々だった。また、左手で剣を扱うことも指導していた。左利きの剣士に相対した時、経験がない場合には苦戦は免れないためであり、また身体操作の精度を上げることにも効果的だったからである。剣豪キースとの決闘ではドメニコはキースの剣を優れた技法で打ち払い、最小限の動きで避けて防御だけで圧倒的な実力差を示し、疲れたキースを続けざまに数十回突いたとされている。
ドメニコは指導者としても優れており、フェンシングのスポーツとしての可能性を拓いたことはフェンシングの歴史における一つの転換点でもあった。同時にアンジェロ家の剣術は軍隊剣術としてもスタンダートになりアンジェロ家は百年以上にわたってヨーロッパ剣術界に君臨した。ドメニコがこれほどまでに成功した理由の一つとして、深い教養と正しい礼儀、そして人柄があっただろう。突如として女装を始めた友人、シュヴァリエ・デオンに対しても偏見を持つことなくただ女性に接するのと同じように接した。前述のギヨーム・ダネットとの剣術論争においては、他者を強く批判して自らの評判を貶めるに至ったダネットとは対照的に、ドメニコは誰を批判することもなく、フランス剣術界の技量や思想の素晴らしさを褒めたたえていた。思えばフランス剣術界を騒がせた天才剣士ジャン=ファルドーニは確かに強かったが、行く先々でトラブルを起こして、ついには悲劇に至った。剣術界をリードし、見事天寿を全うしたドメニコの生き方は剣の天使と賞賛するにふさわしい。
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