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ここはでもにっしょんch ぼくの考えたサーヴァントスレに投稿されたサーヴァントを纏めるwikiです。

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基本情報

【元ネタ】史実
【CLASS】ランサー
【真名】奥平忠昌
【性別】男性
【身長・体重】145cm・37kg
【地域】日本
【年代】慶長13年(1608年)〜寛文8年(1668年)
【属性】秩序・中庸
【天地人属性】人
【ステータス】筋力:D 耐久:D 敏捷:B+ 魔力:D 幸運:C 宝具:C+

【クラス別スキル】

対魔力:B

【固有スキル】

陣地作成:B+

 生前の居城、あるいは宝具『白鳥鞘の鑓』が記憶する奥平氏ゆかりの城の地形を再現出来る。
 古河城や中津城など水辺に面した城も多々あり、『白鳥鞘の鑓』と相乗効果を発揮する

技術継承:C

 宝具『白鳥鞘の鑓』に蓄積された経験を引き継ぐスキル。
 ランサーが実際に一兵卒として槍働きを挙げたという記録は存在しないものの、このスキルにより戦闘を可能とする。

神君の系譜:C+

 神君 徳川家康と花実兼備 本多忠勝の血脈に連なるランサーの出自に伴う可能性がスキルとなったもの。
 泰平の世にて出陣こそなかった故に武力に対する逸話こそ有さないものの、サーヴァント化に伴い家康と忠勝の双方の血を引く存在として潜在能力を覚醒させる。

【宝具】

出陳・白鳥鞘しゅっちん・はくちょうざや

ランク:C+ 種別:対人宝具 レンジ:2〜4 最大捕捉:1人
 源為朝・織田信長・徳川家康を経由してランサーの手に渡った奥平家家宝の短槍。
 穂先には為朝伝説、柄と特徴的な白鳥毛の鞘には徳川・奥平家の歴史を内包している。
 主な効果としては自身の出自を明らかにすることを代償として神君家康の威光を借り受け、
 徳川・奥平と縁あるモノに対してはカリスマなどのバフ、敵対するものに対しては威圧として機能する。
 また為朝の鏃であったため、為朝が有する一矢で敵方の船を沈めた逸話の影響を受けて、
 水上において神秘が増すという効果を獲得しており、ランサーに縁深き水辺の陣地においては、
 常にその恩恵を得ることが出来、ランサー自身の能力を大きく超えた攻撃力を発揮する。

追腹一件おいばらいっけん

ランク:D 種別:結界宝具 レンジ:1〜30 最大捕捉:7騎
 ランサーの病死後に発生した殉死事件に端を発する宝具。
 ランサーの望む望まざるを問わず発動し、「一生二君に仕えず」とした武家社会のモラルを下敷きとした結界を展開される。
 結界内でマスターが死亡した場合、そのマスターと契約したサーヴァントには令呪2画に匹敵する強制力で自害を強要する。
 マスターを失ったサーヴァントに再契約の余地を与えないダメ押しの宝具。
 また、この効果はランサー自身にも適用される。

【Weapon】

『白鳥鞘の鑓』

 奥平家家宝の短槍。
 もとは源為朝の矢を名工 三条宗近が鍛え上げ、織田信長から徳川家康の手に渡り、最終的にランサーの手元に収まった。
 その来歴から強烈な神秘を内包しており、この槍がランサーを英霊に押し上げている要因でもある。
 一説には為朝と同様にその矢もまた希臘の古き神の欠片であるとも。

【解説】

 宇都宮藩主・奥平家昌と本多忠勝の次女もり姫(法明院)との子にして東照神君・家康の曾孫にあたる。
 大坂の陣の際、父・家昌は江戸城の本丸留守居役を申し付けられていたが、病のために急死した。
 嫡男である忠昌は本来であればこの役を引き継ぐべきだったが、余りにも幼かった為に免除された。
 ただし、忠昌は徳川家康の曾孫、徳川秀忠の甥、本多忠勝の孫に当たる人物の為、
 翌月には家督を継ぐことを認められ、わずか7歳で宇都宮藩10万石の藩主に就任する。
 藩主に就任してから暫く経った後、家老・桑名勝成と共に駿府まで出向き、病床の曽祖父・家康を見舞う。
 その際にかつて家康が織田信長から拝領し徳川家の家宝としたとされる白鳥鞘の鑓を所望し、これを授かった。
 徳川家ゆかりのこの槍の威光は大名行列でも特に重視され、また江戸城登城の際にもこの槍は持ち込むことが出来たとされる。
 また、槍の穂先は平安末期の作とされ、元は源氏の弓の名手・鎮西八郎為朝が使用した鏃であると伝えられている。
 日光東照宮参拝のため将軍秀忠が宇都宮に立ち寄った際には拝謁を賜ると共に1万石の加増を受けるが、
 同時に宇都宮から下総古河へ11万石での転封を言い渡される。
 その後、宇都宮藩には家康の懐刀でもあった老中・本多正純が入封したが、この交代劇は
 徳川家康の娘で忠昌の祖母である加納御前をはじめとした奥平家と縁の深い人物からも反感を買い、
 そう言った要因から宇都宮城に吊り天井を仕掛けて将軍秀忠の暗殺を謀ったなどの嫌疑をかけられて失脚。
 この「宇都宮城釣天井事件」の影響によって忠昌は宇都宮藩へ11万石で再封された。
 忠昌は江戸汐留の藩邸にて61歳で病死し、家督は長男の奥平昌能が継いだが、昌能は粗暴な性格であり、
 忠昌の死後、父の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対し「いまだ生きているのか」と詰問したという。
 これを受けて杉浦は忠昌を追う形で直ちに切腹したが、それが幕府が発令した殉死禁制に対する挑戦的行為と看做され、
 幕府から奥平家に対して減封・転封という厳しい処罰が下される結果となってしまった。
 この忠昌の死をきっかけに起こった一連の殉死にまつわる事件は「追腹一件」と称された。

 サーヴァントとしての彼は可能性の具現化として幼少期、家康から鑓を授かった年代を全盛期として定義しているため少年の姿で召喚される。

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