最終更新:ID:2LoNhq0oWg 2025年05月02日(金) 21:41:18履歴
【元ネタ】三国志 三国志演義 晋書など
【CLASS】ランサー
【真名】司馬炎
【異名・別名・表記揺れ】安世(字) 武帝(諡号) 世祖(廟号)
【性別】男性
【身長・体重】170cm・68kg
【外見・容姿】羊の角を持つ男。髪が地面に届くほど、腕が膝にかかるほど長い。皇帝の象徴である冕冠と袞服(玄衣纁裳とも。黒色の上衣に赤色の裳が特徴)を着用。
【地域】中国
【年代】三国時代〜西晋
【属性】中立・中庸
【天地人属性】人
【ステータス】筋力C 耐久C 敏捷B 魔力C 幸運A 宝具B
【CLASS】ランサー
【真名】司馬炎
【異名・別名・表記揺れ】安世(字) 武帝(諡号) 世祖(廟号)
【性別】男性
【身長・体重】170cm・68kg
【外見・容姿】羊の角を持つ男。髪が地面に届くほど、腕が膝にかかるほど長い。皇帝の象徴である冕冠と袞服(玄衣纁裳とも。黒色の上衣に赤色の裳が特徴)を着用。
【地域】中国
【年代】三国時代〜西晋
【属性】中立・中庸
【天地人属性】人
【ステータス】筋力C 耐久C 敏捷B 魔力C 幸運A 宝具B
如何なる状況にあっても混乱せず、己の感情を殺して冷静に周囲を観察し、最適の戦術を導いてみせる。
精神系の効果への抵抗に対してプラス補正が与えられる。特に混乱や焦燥といった状態に対しては高い効果を発揮する。
司馬一族の権力が背景にあったとはいえ「寛恵にして仁厚、沈深にして度量あり」と高く評価された。
精神系の効果への抵抗に対してプラス補正が与えられる。特に混乱や焦燥といった状態に対しては高い効果を発揮する。
司馬一族の権力が背景にあったとはいえ「寛恵にして仁厚、沈深にして度量あり」と高く評価された。
前王朝の支配者から禅譲を受ける形で新たな王朝を築き上げた者が得るスキル。
禅譲させた王朝に属していた相手に対処する際、自分に有利な補正が与えられる。
司馬炎の場合は三国時代の魏(曹魏)に属した事がある相手に対して優位に立つ事が出来る。
禅譲させた王朝に属していた相手に対処する際、自分に有利な補正が与えられる。
司馬炎の場合は三国時代の魏(曹魏)に属した事がある相手に対して優位に立つ事が出来る。
司馬炎が生きた時代よりも未来の年代の法則・概念を泰始律令に劣る規範と位置づけ、その影響力を削減するスキル。
中国の律令制度の始まりとされる律令の始祖を制定させた逸話から。
漢代の令は律の補足に過ぎなかったが、泰始律令以降は令が律より独立。
刑罰規定を律とし行政的規定を令とする形式となり、儒教道徳に基づく体系的な統一法典として編まれるようになったという。
儒教道徳の根底は尚古思想。律令とは尚古と現実(現在)のすり合わせによって作られるルールとも言える。
そのルールは逆説的に新しいもの、新たなものの価値を減殺する事に繋がるのだ。
中国の律令制度の始まりとされる律令の始祖を制定させた逸話から。
漢代の令は律の補足に過ぎなかったが、泰始律令以降は令が律より独立。
刑罰規定を律とし行政的規定を令とする形式となり、儒教道徳に基づく体系的な統一法典として編まれるようになったという。
儒教道徳の根底は尚古思想。律令とは尚古と現実(現在)のすり合わせによって作られるルールとも言える。
そのルールは逆説的に新しいもの、新たなものの価値を減殺する事に繋がるのだ。
ランク:B 種別:対軍宝具 レンジ:1〜99 最大捕捉:1000人
晋王朝で最も重んじられたとされる信幡(幡旗)。皇帝の分身のように扱われ、詔勅を凌ぐ権威を有していたという。
危機的状況に陥るとこれを用いて皇帝の旨を伝え、あるいは用いて戦闘をやめさせた。
これを見た者はひれ伏して動かないというのが晋朝の法令であった、と『廿二史箚記』は記す。
司馬炎の没後、内憂外患によって晋王朝が混迷に向かう中、この幡旗によって状況を打開した事例は多々あった。
しかし、乱用されるにつれてその権威も薄れていき、効力も薄れていった。
宝具としての騶虞幡の効果は、晋朝皇帝の権威を象徴する分身としての機能を昇華させたものとなっている。
すなわち、真名を解放した状態の騶虞幡を見た者に、中華帝国の国威に等しい重圧を与え、ひれ伏した状態で動けなくさせるのである。
しかし、乱用された事で権威を薄れさせた史実をなぞるように、使用すれば使用するだけ宝具としてのランクが低下し、与える重圧も軽くなっていく。
また、重圧を跳ね除けられるだけの王気(王属性)を有する者にも効果が薄れる。
良くも悪くも西晋の権威と没落とを象徴する宝具とも言える。
この宝具を運用する場合、過去の二の轍を踏まぬように乱用を控え、ここぞという時のみ用いる戦略が必要となるだろう。
ちなみに騶虞とは仁徳をもった君主が現れたときに姿を見せる瑞獣であり、仁獣とも称される。
晋王朝で最も重んじられたとされる信幡(幡旗)。皇帝の分身のように扱われ、詔勅を凌ぐ権威を有していたという。
危機的状況に陥るとこれを用いて皇帝の旨を伝え、あるいは用いて戦闘をやめさせた。
これを見た者はひれ伏して動かないというのが晋朝の法令であった、と『廿二史箚記』は記す。
司馬炎の没後、内憂外患によって晋王朝が混迷に向かう中、この幡旗によって状況を打開した事例は多々あった。
しかし、乱用されるにつれてその権威も薄れていき、効力も薄れていった。
宝具としての騶虞幡の効果は、晋朝皇帝の権威を象徴する分身としての機能を昇華させたものとなっている。
すなわち、真名を解放した状態の騶虞幡を見た者に、中華帝国の国威に等しい重圧を与え、ひれ伏した状態で動けなくさせるのである。
しかし、乱用された事で権威を薄れさせた史実をなぞるように、使用すれば使用するだけ宝具としてのランクが低下し、与える重圧も軽くなっていく。
また、重圧を跳ね除けられるだけの王気(王属性)を有する者にも効果が薄れる。
良くも悪くも西晋の権威と没落とを象徴する宝具とも言える。
この宝具を運用する場合、過去の二の轍を踏まぬように乱用を控え、ここぞという時のみ用いる戦略が必要となるだろう。
ちなみに騶虞とは仁徳をもった君主が現れたときに姿を見せる瑞獣であり、仁獣とも称される。
三国時代を終わらせ、中華を統一した晋(西晋)の初代皇帝。晋の武帝。
司馬懿、司馬師、司馬昭らの築いた司馬一族の権力基盤を受け継ぎ、曹魏より禅譲を受けて皇帝となった。
孫呉を滅ぼして三国時代を終わらせたが、八王の乱や西晋の滅亡、五胡十六国時代の到来は本を正せば司馬炎の失政が原因だと評価される。
†
司馬昭の子として生まれ、司馬家の貴公子として重職を歴任。
司馬昭が帝位を伺い、着々と地盤を固めていくと、その子である司馬炎はその後継者と目されるようになった。
一説によれば、司馬昭は兄の子であり評判もいい司馬攸を後継者にと考えていたが、重臣たちの反対により司馬炎が後継者にされたという。
司馬昭の没後、曹魏の皇帝である曹奐に帝位を禅譲させ、晋王朝(西晋)の初代皇帝となる。
かつて三国鼎立の一角を占めていた蜀漢は魏によって滅ぼされた後であり、残る孫呉も暴君・孫晧の乱政によって弱体化しており、
司馬炎が杜預らを用いて孫呉を滅ぼした事で三国の統一が成し遂げられた。
統一後の晋王朝では、以前の王朝である曹魏に対する反動や、司馬一族が諸生の家である事を鑑みて
儒教の教え――礼教に基づく政治体制が志向された。
しかし、西晋の統治は順風満帆ではなく、曹魏の時代からの問題が根深いものとなって司馬炎を苦しめた。
特に大きな問題は二つ。一つは司馬懿の時代から尾を引いていた臣下たちの権力の強さ。もう一つは異民族の問題である。
司馬一族の帝位簒奪への道は司馬懿がクーデターを起こして曹魏の皇族である曹爽一派を誅殺した事から始まるが、
曹爽一派は中央集権を志した一派であり、それをクーデターによって排斥した事は、臣下である名士たち(豪族たち)の力を強める事となった。
司馬懿自身も名士の一角であった事から、積極的に名士たちの権力拡充(裏を返せば皇帝権力の弱体化)を図り、その子である司馬師、司馬昭も名士たちを懐柔する必要性から司馬懿のやり方を踏襲した。
結果、司馬炎が帝位についた後も、名士たちは各々が強い権力を有したままであり、しかもその多くは私利ばかりを追求する門閥貴族となりつつあった。
皇帝とは言いながら、その実態は同輩たちの第一人者という立場に毛が生えた程度のものだったのである。
司馬炎が孫呉の討伐を志しても、彼らの多くは自らの利益とならない事から慎重論を唱えて反対した為、ごく僅かの忠臣と内々の密議を行って作戦を練らなければならなかった(そしてそれ故にますます反発を受けた)という逸話もある。
司馬炎は寛大な人物であったとされるが、寛大に振る舞わざるを得なかったという側面もあるだろう。
蜀や呉の旧臣達の登用についても、有為の人材の確保や人心の収攬という目的だけではなく、魏の時代からの臣下に対抗するためという側面もあったと思しい。
また、異民族の問題は蜀、呉がもたらす害より甚だしいものであった。
曹魏の時代より匈奴・鮮卑といった北方異民族は中華に移住してきており、曹魏王朝は兵力・労働力としてこれを用いた。
しかし、これらの政策は異民族の勢力の伸長や治安の悪化、民心の荒廃と表裏一体でもあり、中華の文化や価値観でこれを統御する事は難しくなりつつあった。
自派閥の権益ばかりを追求して本音では皇帝を軽んじている名士=貴族層と、制御しきれない異民族の流入。
晋王朝はその始まりからして暗礁に乗り上げていたのである。
これに対し、司馬炎は軍縮によって財政と民心の健全化を図りつつ、皇帝と縁が深い皇族達を各地の王に封じて軍権を与えて藩屏とした。
この政策は、上述の問題に対処しつつ、皇帝権力を子々孫々に至るまで盤石なものとするためのものであったが、結果的には裏目に出て中華を滅ぼす爆弾となった。
軍縮は異民族の横暴や離反、軍事面での異民族への依存を招き、ますます民心を荒廃させた。
また皇族を各地の王に封じた事は皇族間の争いを誘発し、名士=貴族層や異民族もこの争いに乗じて権勢を拡大するべく皇族たちを煽るという結果を招いた。
司馬炎の没後、八王の乱と五胡十六国時代という三国時代よりも悲惨な戦乱の時代がやってくるが、その端緒は司馬炎の政策にあったと言って良い。
司馬炎自身も有能とは言い難い皇帝であった。
特に皇族であり輿望の高かった司馬攸を支持者もろとも徹底的に粛清した事と、愚昧な司馬衷を後継者に据えた事は、西晋の滅亡を決定づけるものであった。
司馬炎からすれば司馬衷の今後を危ぶんでのものであり、また皇帝権力を固める狙いもあったが、
そもそも司馬攸が(司馬炎の立場からすれば危険なまでに)輿望を集めたのは、
後継者である司馬衷の暗愚ぶりに朝野が未来を不安視した結果であり、元はと言えば司馬炎の撒いた種であった。
一説には司馬衷を後継者にした理由は、司馬衷の子であり英邁だった司馬遹に西晋を託したいという考えた為であったとも言うが、
司馬炎の没後、司馬遹は司馬衷の后である賈南風によって弑された為、その願いが果たされる事はなかった。
尤も、司馬遹も長じた後は遊び呆ける俗物となっていたとも言われており、司馬遹が生き延びたとしても西晋の未来は暗かったと思われる。
余談ながら司馬炎は好色漢であり、広大な後宮に万余の子女を集めていたという。
そして夜毎に羊に車を引かせて後宮を回り、羊が止まった部屋の宮女と一夜をともにしたという。
宮女達は皇帝を来訪させる為に、部屋の前に竹の葉を挿し、塩を盛る事で、羊の足を止めさせようとしたという。(これが盛り塩の起源だとも)
そうした逸話が概念として霊基に混交されたのか、英霊としての司馬炎は羊の角を持ち、好色で、盛り塩に惹かれるという特性を持つ。
尤も、司馬炎の漁色は単なる情欲の故ではなく、有力な一門と司馬氏とを結びつけるという政治的な側面もあった点は考慮すべきだろう。
司馬懿、司馬師、司馬昭らの築いた司馬一族の権力基盤を受け継ぎ、曹魏より禅譲を受けて皇帝となった。
孫呉を滅ぼして三国時代を終わらせたが、八王の乱や西晋の滅亡、五胡十六国時代の到来は本を正せば司馬炎の失政が原因だと評価される。
†
司馬昭の子として生まれ、司馬家の貴公子として重職を歴任。
司馬昭が帝位を伺い、着々と地盤を固めていくと、その子である司馬炎はその後継者と目されるようになった。
一説によれば、司馬昭は兄の子であり評判もいい司馬攸を後継者にと考えていたが、重臣たちの反対により司馬炎が後継者にされたという。
司馬昭の没後、曹魏の皇帝である曹奐に帝位を禅譲させ、晋王朝(西晋)の初代皇帝となる。
かつて三国鼎立の一角を占めていた蜀漢は魏によって滅ぼされた後であり、残る孫呉も暴君・孫晧の乱政によって弱体化しており、
司馬炎が杜預らを用いて孫呉を滅ぼした事で三国の統一が成し遂げられた。
統一後の晋王朝では、以前の王朝である曹魏に対する反動や、司馬一族が諸生の家である事を鑑みて
儒教の教え――礼教に基づく政治体制が志向された。
しかし、西晋の統治は順風満帆ではなく、曹魏の時代からの問題が根深いものとなって司馬炎を苦しめた。
特に大きな問題は二つ。一つは司馬懿の時代から尾を引いていた臣下たちの権力の強さ。もう一つは異民族の問題である。
司馬一族の帝位簒奪への道は司馬懿がクーデターを起こして曹魏の皇族である曹爽一派を誅殺した事から始まるが、
曹爽一派は中央集権を志した一派であり、それをクーデターによって排斥した事は、臣下である名士たち(豪族たち)の力を強める事となった。
司馬懿自身も名士の一角であった事から、積極的に名士たちの権力拡充(裏を返せば皇帝権力の弱体化)を図り、その子である司馬師、司馬昭も名士たちを懐柔する必要性から司馬懿のやり方を踏襲した。
結果、司馬炎が帝位についた後も、名士たちは各々が強い権力を有したままであり、しかもその多くは私利ばかりを追求する門閥貴族となりつつあった。
皇帝とは言いながら、その実態は同輩たちの第一人者という立場に毛が生えた程度のものだったのである。
司馬炎が孫呉の討伐を志しても、彼らの多くは自らの利益とならない事から慎重論を唱えて反対した為、ごく僅かの忠臣と内々の密議を行って作戦を練らなければならなかった(そしてそれ故にますます反発を受けた)という逸話もある。
司馬炎は寛大な人物であったとされるが、寛大に振る舞わざるを得なかったという側面もあるだろう。
蜀や呉の旧臣達の登用についても、有為の人材の確保や人心の収攬という目的だけではなく、魏の時代からの臣下に対抗するためという側面もあったと思しい。
また、異民族の問題は蜀、呉がもたらす害より甚だしいものであった。
曹魏の時代より匈奴・鮮卑といった北方異民族は中華に移住してきており、曹魏王朝は兵力・労働力としてこれを用いた。
しかし、これらの政策は異民族の勢力の伸長や治安の悪化、民心の荒廃と表裏一体でもあり、中華の文化や価値観でこれを統御する事は難しくなりつつあった。
自派閥の権益ばかりを追求して本音では皇帝を軽んじている名士=貴族層と、制御しきれない異民族の流入。
晋王朝はその始まりからして暗礁に乗り上げていたのである。
これに対し、司馬炎は軍縮によって財政と民心の健全化を図りつつ、皇帝と縁が深い皇族達を各地の王に封じて軍権を与えて藩屏とした。
この政策は、上述の問題に対処しつつ、皇帝権力を子々孫々に至るまで盤石なものとするためのものであったが、結果的には裏目に出て中華を滅ぼす爆弾となった。
軍縮は異民族の横暴や離反、軍事面での異民族への依存を招き、ますます民心を荒廃させた。
また皇族を各地の王に封じた事は皇族間の争いを誘発し、名士=貴族層や異民族もこの争いに乗じて権勢を拡大するべく皇族たちを煽るという結果を招いた。
司馬炎の没後、八王の乱と五胡十六国時代という三国時代よりも悲惨な戦乱の時代がやってくるが、その端緒は司馬炎の政策にあったと言って良い。
司馬炎自身も有能とは言い難い皇帝であった。
特に皇族であり輿望の高かった司馬攸を支持者もろとも徹底的に粛清した事と、愚昧な司馬衷を後継者に据えた事は、西晋の滅亡を決定づけるものであった。
司馬炎からすれば司馬衷の今後を危ぶんでのものであり、また皇帝権力を固める狙いもあったが、
そもそも司馬攸が(司馬炎の立場からすれば危険なまでに)輿望を集めたのは、
後継者である司馬衷の暗愚ぶりに朝野が未来を不安視した結果であり、元はと言えば司馬炎の撒いた種であった。
一説には司馬衷を後継者にした理由は、司馬衷の子であり英邁だった司馬遹に西晋を託したいという考えた為であったとも言うが、
司馬炎の没後、司馬遹は司馬衷の后である賈南風によって弑された為、その願いが果たされる事はなかった。
尤も、司馬遹も長じた後は遊び呆ける俗物となっていたとも言われており、司馬遹が生き延びたとしても西晋の未来は暗かったと思われる。
余談ながら司馬炎は好色漢であり、広大な後宮に万余の子女を集めていたという。
そして夜毎に羊に車を引かせて後宮を回り、羊が止まった部屋の宮女と一夜をともにしたという。
宮女達は皇帝を来訪させる為に、部屋の前に竹の葉を挿し、塩を盛る事で、羊の足を止めさせようとしたという。(これが盛り塩の起源だとも)
そうした逸話が概念として霊基に混交されたのか、英霊としての司馬炎は羊の角を持ち、好色で、盛り塩に惹かれるという特性を持つ。
尤も、司馬炎の漁色は単なる情欲の故ではなく、有力な一門と司馬氏とを結びつけるという政治的な側面もあった点は考慮すべきだろう。
司馬炎が蜀の旧臣に諸葛亮の治政について聞いた時「立派だ。わしがこの人(諸葛亮)を手に入れて自分の補佐役にしていたならば、今日の苦労はなかったであろう」と述べたという。
晋王朝の臣下が建前では儒教道徳を唱えながら、実態においては非違・貪婪な者ばかりだった事を考えると、この言葉は本心であろう。
晋王朝の臣下が建前では儒教道徳を唱えながら、実態においては非違・貪婪な者ばかりだった事を考えると、この言葉は本心であろう。
祖父。司馬一族が帝位に就くまでの道筋を立てた人物であり、晋の宣帝と追号した相手。
司馬炎からすると尊敬と恩義と恨みが入り交じる相手。あなたが権力を分散させた所為で帝位に就いた後は散々苦労したんだ、と言いたいが、儒教道徳を重視するために言えない司馬炎であった。
司馬炎からすると尊敬と恩義と恨みが入り交じる相手。あなたが権力を分散させた所為で帝位に就いた後は散々苦労したんだ、と言いたいが、儒教道徳を重視するために言えない司馬炎であった。
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