退廃的文明開化 - 『月の彼方で逢いましょう』うぐいす先輩ルート感想





1.はじめに


今回感想を書く『月の彼方で逢いましょう』うぐいす先輩ルートは、久しぶりに受け入れがたいなぁと感じたシナリオだった。
これまでも、納得できないけれど理解はできるシナリオや、理解はできないけど納得できるシナリオは多々あったものの、
納得も出来ないし理解も出来ないシナリオは、なんなら初めてではないかと思えるくらい衝撃的な個別ルートだった。
プレイ後、物語を咀嚼して反芻していくうちに、ジワジワと「いやこれどう考えても許せないなぁ」と怒りが込み上げてきたので、ある意味貴重なシナリオだと言える。
”心を動かすこと”をその方向性に関わらず感動と呼ぶのなら、感動したゲームだと声を大にして叫べる作品である。
今回の記事はネタバレ云々をおいといても、閲覧注意と言うか、私はここが嫌だったということを前面に出しているし怒りをどこかにぶつけようと躍起になっている。
そういうのが不愉快な方はブラウザバックを推奨する。

じゃあなんでそんなものをあえて書くのかというと、一言でいえば自分のためである。どうあれ、感情が大きく動いたことは確かで、この感性をいつまで保っているのかも不明で、いつかどうしてこんなことで怒っていたのかと笑える日が来るのかもしれない。また、私の解釈を見て、解釈を改めてくれる存在がコメントしてくれるかもしれない。
ようは、今の私はうぐいす先輩ルートのこういうところが嫌でしたが、未来の私や皆さんはどうでしょうかという問いかけがこの記事である。

私は物覚えが悪いほうなので感情や感動には楔を打っておきたいのだ。
そうすることで物語がまた別の物語と響き合い解釈の助けになるということを、ようやく気づいたのである。本当に遅すぎる気づきではあるが、今までのように無意識下で行うのと、意識的に文章に残したうえで行うのでは雲泥の差があることに気づけたのは、こうしてブログやエロゲ批評空間に感想を残すようになって良かったと思えることの一つかもしれない。
というわけで、うぐいす先輩ルートをこき下ろしているように見えるかもしれないが、いつか別の物語を解釈する助けになるかもしれないし、人生経験や別の物語の助けによって、この解釈を一新する日が来るかもしれないのだから、この批評はとても大事で、少なくとも私にとっては必要なことなのである。

これだけどうでもいい脱線話を書けば、真面目に批評を読みたい方しか残っていないだろうという僅かな邪心を言い訳にしながら、そろそろ本題に入ろうと思う。
その前に、下記批評は多少手直しを加えているものの大筋はプレイ直後に書き殴ったものであるため、今の私とは精神状態が乖離していることだけ、ご容赦いただきたい。



以下はネタバレを多分に含むため、未プレイの方は注意ください。










2.怒りの批評






死は不幸だろうか。生は幸福だろうか。
本来ならば決してイコールで語れない二つを強引に結び付けてしまったのが全ての間違いではないかと思う。
主人公がうぐいす先輩の生んだ物語を全て台無しにして、独善的でご都合主義的な”設定”を押し通したことを、どうでしょうか、これが感動的なエピソードですよ。余韻もたっぷりでこの後の人生は幸福が詰まっています。とでも言わんばかりにドヤ顔でさらけ出した魁氏の心は終盤の黒野君のように壊れてしまっていたのだろうか。
それともこれは商業主義が見せた悪辣なのだろうか。

何故、運命に翻弄された少女の死に際の美を描いたAIRはよくてうぐいす先輩ルートではだめだったのか。
時代だろうか?ブランドイメージだろうか?魁氏だろうか?馬場社長だろうか?

彼女が感じた幸福を否定して、残された人間のエゴで全てをやり直そうとする傲慢さはどうマイルドに表現してもイカれているとしか思えないのだが、そういうところを楽しめればよかったのだろうか。
あぁ主人公は愛する対象をこの世から失い、おかしくなってしまったのだろう。狂った主人公が月に魅入られ、最後は彼女を取り戻すという妄想の世界に生きたのだろう。と。
そんな歪んだ世界と解釈をプレイヤーに見せたかったのだろうか?

いや、それにしては表現の仕方がおかしい。挿入歌にEDに龍恋の鐘と月を見上げる美しいCG。全てがさもここで感動してくださいと言わんばかりだ。とにかく歪で気味の悪い物語だった。気味の悪さを絢爛な装飾品で隠そうとする様は滑稽で、異様だ。そもそもこの気味の悪さすら自覚していないのかもしれない。そう思わせるところもまた気味が悪かった。

生きられるなら生きたかった。そりゃそうだろう。
過去が変えられるなら変えたい。そりゃそうだろう。
今までの人生の全てが不幸に思える。そりゃそう思うことだってある。きっと、誰にだってある。

これがうぐいす先輩の残した物語を読んでいなければ、不思議じゃない流れだったかもしれない。ある日突然うぐいす先輩が倒れて、そのまま帰らない人となる。そんな折、新薬の話をテレビで知り、エンデュミオンを見つけて藁にも縋る思いでメッセージを送る。そんな流れだったらまだわかる。彼女も物語を終えられていないし、終えていたとしても主人公には伝わっていないからだ。

彼女が終わらせた物語を。その終わらせ方もそこに込めた思いも、全て知りながら。
その全てを無視して裏切った挙句、そうすることで幸せになれましたというエンディングをどうして許容できるのだろうか?

彼女は「変わらずにいる貴方のそばで、変わることができた私は幸せだ」と。
「私は、本当に幸せでした。本当の最後まで、あなたを愛していました。」とそう綴っていたのに。


うぐいす先輩ルートが好きだという人には是非一度聞いてみたい。
うぐいす先輩の物語を否定して、一人で後悔して全てを台無しにした結果、なぜか物語を綴れて、なぜか再会できて、なぜかいい雰囲気になったあの最後をどうして許容できるのだろうか?
そもそも、していいのだろうか?幸せだった彼女の物語を否定して、太陽のようだと語られた心を真っ黒に塗りつぶして、思い出もすべて消そうとしたのに?

確かにプロポーズするシーンは主人公が素敵だったし、結婚指輪を渡すCGはとても美しかったし、彼女が書き上げた小説にも、彼女の心を語った日記にも、また二人の物語を書こうと思ったシーンにも胸が熱くなった。
だからこそ、あの終わり方は理解できないし、決して納得できないだろう。

例えヒロインの心を裏切ってでも、貫き通したい想いがあるという、その気持ち自体は否定しない。
事実2008年に発売したアレ(ぼかしてます)はそうした展開のおかげで、あらゆる矛盾も無視できると思えた。

でもこれは違う。明確に違う。
うぐいす先輩の想いに唾を吐きかけて全てを否定したらご都合主義がハッピーエンドを運んできただけ。
そこにヒロインの強さも、主人公の意地や矜持も存在しない。ゆえに結果論で語ることに意味などない。
うぐいす先輩の物語を存在したかもしれないIFに貶めることを良しとしたのは主人公である。

何が言いたいかって、人が死んで生き返れば、それだけで良い話だと思える人にはオススメです。あとは主人公の狂気とそれを粉飾する制作陣の歪さという構造がその作品で感じたあらゆることを超えるくらい楽しいと感じられる人にはオススメです。
万人にはオススメできませんが、人を限ればオススメできる仕上がりではないでしょうか。

なんだかんだ、私には分らないよさがあるのかもしれない。解釈違いがあるのかもしれない。
むしろそうであってくれ。世界には可能性だけあって結果は観測してから決定されるものらしいし、
私が間違っている、あるいは私の読解力不足であるという可能性を否定はしたくない。頼んだぞ有識者。


3.さいごに






と、いくつか修正やセンテンスの追加をしたものの、大層な怒り具合である。振り返るとなんだか出来損ないのクラナドみたいな話だったなと適当なことを思った。
ふと感じた疑問として、未来と過去を繋げるためには宇宙原意識に存在する中継役が必要だという設定があったと思う。何言ってんのか正直良く分からなかったし、明確にはされていないが、順当に考えれば本ルートでの中継役はうぐいす先輩だろう。
もしそうならば、小説や日記で残した心を拒絶されたときの悲しみは如何ばかりか。想像することしか出来ないが、うぐいす先輩も自分の選択を悔いたのだろうか。主人公への申し訳なさを感じたのだろうか。

繰り返しになるが、うぐいす先輩ルートが好きな人はこの受け入れがたさをどのように消化したのだろう。それとも普通の人は受け入れがたさなど感じないのだろうか。主人公もうぐいす先輩も別の存在になり、そこでは幸せになるのだからそれでいいのではないか、なんて思ったりするのだろうか。
本当に謎なのでぜひとも教えてほしい。

私にとっては結婚指輪を受け取って涙を流し、最後まで愛を綴って物語を終わらせたうぐいす先輩が好きだっただけに、とても悲しくなり、怒りがこみ上げてくるシナリオだった。