福岡県の郷土のものがたりです。

  • 豊津町

戦国時代といえば、日本の各地で武士集団が争いをくり返し、勇ましい武将がもてはやされる一方、

数々の悲劇を生んでいます。そして、歴史の表面には出てこないこれらの悲劇は、しばしば“伝説”として、

人々の間にひっそりと語り伝えられてきました。この「もちがゆ」もそんなお話のひとつです。

豊津町の南部に築城町(ついきまち)と接して節丸(せつまる)というところがあります。ある夕暮れ時、

節丸の高野家の戸をこっそりとたたいた武士たちがありました。家の者が外に出てみると、一人のお姫さまを守って、

数人の傷ついた武士たちが立っています。

いつのまに降り出したのか、あたりは一面の雪。

「水をいただけませんか」

一人の武士がそう言いました。聞けば、追っ手から逃れて、築城の深野から輪鳴(わなる)峠をこえてきたのだと

いいます。今でこそ輪鳴峠は道が整備されていますが、そのころは山深い踏みわけ道。寒さと空腹で、お姫さまの

一行はいまにもくたくたとくずれそうです。ちょうどその日、高野家ではもちがゆを作っていました。

「これも何かのご縁です。もちがゆを召しあがれば疲れもいえましょう。どうぞ食べていってください」

熱心に高野家がすすめてくれるので一行はもちがゆをごちそうになることにしました。追っ手のことは気になりますが、

もちがゆが熱いので一気に食べることはできません。フウフウと吹きながらようやく食べ終え、お礼もそこそこに

馬ケ岳城(行橋市)めざして出発していきました。

それから数日後、高野家では悲しいうわさを耳にしました。もちがゆをふるまったお姫さまや武士たちが、馬ケ岳の

ふもとで追っ手につかまり、きられてしまったというのです。高野家の人々は、あの時、熱いかゆなどすすめなかったら、

お城まで逃げのびることができたのにとくやみ、嘆きました。それ以後、高野家では、二度ともちがゆを食べないように

申しあわせたということです。

もちがゆをふるまった高野家は、節丸の旧道沿いにあったと伝えられています。また、もちがゆをふるまったのは

高野家ではなく、同じく節丸の千原家という説もあります。

馬ケ岳城は、行橋市大谷馬ケ岳にありました。いまでも山頂に城跡や、山ろくに武家屋敷跡を見ることができます。

城主も転々と八人を数えており、戦国時代は大友氏、次いで長野氏の持城となっています。

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