福岡県の郷土のものがたりです。

  • 嘉穂町

戦国時代の国盗り物語は数多くありますが、後年豪雄後藤又兵衛基次や黒田節で知られる

母里太兵衛が城主となった大隈城(秋月城支城の一つで益富城ともいう)にまつわるお話です。

九州征伐のため西へ向かった豊臣秀吉は、天正十五年(一五八七)四月、豊前の岩石城を

一日で攻め落とし、その勢いで大隈城に迫りました。時の大隈城主秋月宗全は、攻め入ろうとする

秀吉の軍勢に恐れをなし、戦うことなく秋月城本城に逃れました。

夜がやってきました。宗全は秀吉の軍勢がいつ秋月城に攻め込んでくるのか、気になって

しかたありません。ふと、大隈の方に目を向けた宗全は驚きの声をあげました。大隈盆地一帯は

ものすごい大軍が押し寄せたのでしょうか、かがり火の海と化していたのです。

まんじりともせず夜を明かした宗全の目に、さらに肝をつぶすような光景が飛び込んできました。

昨日までは、ただの砦でしかなかった大隈城が一夜にして、強固で立派な城になっているでは

ありませんか。

これは、明石城と大隈城をいとも簡単に攻め落とした知恵者の秀吉が、秋月城も戦わずして

手に入れようとした策略だったのです。秀吉は村人たちにかがり火をたかせながら、

一方ではありとあらゆる戸、障子、ふすまなどを山上に運ばせ、一夜で張り子の城を作り上げたのです。

そうとは知らない宗全は、聞きしに勝る秀吉の勢力におそれをなして、一戦も交えずに頭を丸め、

黒染めの衣に身を包み秀吉に許しをこいました。

今でもこの場所(嘉穂町字陣畑)は降参畑と呼ばれ、このあたりのつくしは、宗全のハカマを脱いだ

姿に似て、ハカマの数が少ないということです。

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