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セリカ帝国
大漢国
国旗
国章
基本情報
(ここに領土の地図を貼り付け)
時代
近代
国の標語
天朝不易
特色
政治的イデオロギー
絶対君主制
経済的イデオロギー
朝貢貿易
公用語
官話
首都
盛京
最大の都市
盛京
人口
約355,700,000人(光和10年)
国教
あれば書く
通貨
両
詳細情報
国の国力
大国
国の工業化レベル
前近代
国の技術レベル
前近代
国の教育レベル
低い識字率
種族の権利
平和的共存
軍の強さ
前近代
政府首脳
大漢皇帝
李玄��
内閣首相
無し



概要

東大陸の中東部に位置し、広大な面積と世界最大級の人口を有する複合多種族帝国。その多様性は「七人万種」と形容され、七つの大種族と、その中で無数に分かれる諸部族が一人の皇帝を戴く同君連合を形成している。
支配種族は獣人。国姓は李氏。
かつては圧倒的な国力によって諸国を支配した世界帝国であったが、ノルドニアの急速な発展と内部の腐敗により没落。現在は領土の各地に外国の租借地や利権施設が作られ、侵蝕されつつある。

国名

国号は大漢国(人間語)。西側の大陸からはセリカ(絹の国)と呼ばれている。

歴史

前史

セリカ帝国の位置する地域は、古来より肥沃な地域であり、大河の流域に多くの都市国家が栄えていた。その後、これらの都市国家は連合と離反を繰り返した後、紀元前1200年頃には10ヵ国程度の領土国家に収斂されていった。
紀元前1000年頃に形成された商王朝は、そうした群雄割拠の時代を終わらせ、セリカを統一に導いた。
以降、この地域は統一国家が治める地域となり、その統一国家の別名(西洋側の呼称)として『セリカ』と言う名称が生まれた。
近代において『セリカ』の名称が示すのは、『大漢』の国号を掲げる国家である為、本稿では大漢、または漢朝の歴史について記述する。

建国

初代皇帝李興恭の先祖は節度使として北方の獣人族と戦っていた軍事貴族である。彼ら北方の軍事貴族のほとんどは人間文化に染まり生活様式を改めた獣人か、ないしは人間と獣人の混血であったことから、中央からは蛮夷の一族と蔑まれてきた。(後に大漢李氏を称した皇室は、自らをして「白銀の猛虎」の一族であると称した)
天命元年、当時人間を統治してきた隋朝が暴政によってその人心を失い、混乱に陥ると彼は従属させた獣人族と共に反乱を起こし、自身を『大漢天子・獣人達の大可汗』と称して南へと進軍した。
天命3年、朝安を陥落させた李興恭は正式に皇帝として天下に号令し、隋朝に代わる中華・セリカの支配者であることを宣言した。
天命29年、高祖は自身の皇太子文帝李福臨に譲位し、大上皇となるまで、彼は中華統一と国家制度の整備に身を捧げ、譲位三年後に死去した。

文帝と大漢の黄金時代

(文帝御真影)
即位した文帝は即座に元号を再始と改元し、高祖の成しえなかった大業を継ぐことを宣言した。
まず第一の目標として、南部に未だ割拠していた諸群雄の討伐を掲げた文帝は、電光石火の進軍によってわずか四年にしてこれを達成。旧隋朝の領域を得ることに成功した。
続いて彼は西に目を向け、各地に居住していた異種族を武力討伐するか、朝貢によって自身の傘下へと組み入れて行き、再始10年の時点で大陸東部に大漢の最大版図を現出したのである。
再思15年、文帝は元号を貞観に改め、『天下泰平の詔』を発布。以降軍事行動を取りやめ、内政に専念し、人々の安楽な暮らしを守る事を宣言した。この後の文帝による統治は『貞観の治』と称され、後世の天子達の模範、清新な古き良き時代として理想化されることになる。

貞観の治

貞観の治は文字通り大漢帝国の、及びセリカという地域時代の黄金時代であった。この時代、大漢の国力は大いに増強され、善政によってその覇権は確実な物となった。
内政面では楊応隆、曹至道、夏侯永子らの名臣が活躍し、八旗・緑営などの軍事制度、税制や司法、管理登用制度などの内政を整え、現在に至るまでの大漢の政治制度を作り上げた。
また、外部に対しては、張原、王僧弁、陳白雲、ウェンシャン、チュワンキン、ツェワンラブタンら(貞観の六将)の優れた軍人が異民族の侵入をよく防ぎ、西方のウラルやアルタイに対して幾度か大きな勝利を収め、境域を安定させた。
この頃のセリカ帝国は経済・軍事・領土そのいずれをとっても世界一の超大国であり、その勢威は遠くアルセチアやマウサナまで及んだ。(漢朝セリカ帝国のGDPは世界の約3割を占めており、また世界人口の3分の1が居住していたと推定されている)のちに帝国を侵略するノルドニア諸国も、文帝の時代は格下の国家として振る舞わざるを得ず、貿易改善交渉に向かったポッカートニー使節団がセリカ式の拝礼(三跪九叩頭の礼)を強制されても抗議することさえ出来なかった。
(貞観23年に文帝に謁見したポッカートニー使節団。この時彼らは皇帝に対して臣下の礼を取ることを求められ、拒否できなかった)
こうして築かれた安定期においてセリカ全土の人口は大幅に増加し、3億人に達したと考えられている。

郭氏政権

貞観28年の文帝の死後、位を継いだ長男の景帝は父親の素質を受け継いだ果断な政策を取り、貞観末期の政治弛緩を引き締め直したが、在位僅か5年で崩御し、位を幼少の桓帝へと受け継ぐことになる。
桓帝は即位した際僅か2歳の幼帝であり、無論政務を取る能力などなかった。当時侍御史を務めていた詩人、白文道は、
「玉座さえも広すぎるのだから、国など海の様なもの」
と日記に残し、この初の幼帝の即位を憂いた。
幼帝に代わって政務を担当したのは、景帝の代に見出された新興官僚勢力の筆頭である郭天祥率いる郭一族であり、彼らは自らをして丞相の地位につけた天祥以下国家の重職を務め、政治を壟断した。
郭天祥自身は優れた政治能力と、帝室への忠誠心を持つ有能な人物で、彼が生きている間政治は貞観時代のそれを維持し続けた。
しかし、元文6年に彼が亡くなると、空席となった権力の座を巡って激しい一族の内紛が始まる事となる。
元文8年、郭天祥の長男で丞相の位を引き継いだ郭恵文に対し、安南都護を務めていた郭玄籍が現地のゴブリンなどをまとめ上げて反乱を起こした。(元文南夷の乱)
郭恵文は50万人を号する大軍を送る事でこれを鎮めたが、それを契機として各地の郭一族が中央に対して反旗を翻したのである。
長寛14年には、傀儡であった筈の桓帝が郭恵文を廃して親政を敷こうと画策する長寛の変が発生。これに対して彼は桓帝を廃立し、新たに生後3ヶ月の乳児である廃帝喬林王を立てるが、皇帝廃立は反乱軍に対して大義名分を与える事となり、2ヶ月後に郭守仁率いる反乱軍によって首都盛京が陥落。郭恵文は自殺し、喬林王は廃位され、その位は質帝に引き継がれた。(廃帝喬林王は後に殤帝と諡された)
しかし、新たに政権を担った郭守仁もまた、国内を安定させる事は難しく、3年後の天安2年には暗殺されてしまう。
結果、郭天祥死後わずか20年余りで郭氏による政権は崩壊し、国は混乱の中で新たな世代に引き継がれる事となった。

武帝即位

郭氏政権崩壊後、半ば戦国時代の様相を呈した大漢帝国だったが、その混乱を収拾したのは、またしても北からの嵐だった。
その嵐の目である李大成は、先先代皇帝景帝の第3皇子として秦王に封じられ、国土西北部の守護を担っていた。
元文南夷の乱やそれに続く諸戦乱の中、彼は重鎮の皇族ながら静観し、戦闘を避けて任務を全うしていた。
しかし、中央で郭恵文が自殺し、郭氏政権が事実上崩壊したと見るや、即座に兵を起こして盛京に進撃。そのまま主人無きままに混沌を極めた都を制圧したのである。
この時丞相の地位にあったのは郭蠡(郭守仁の長男)であったが、当然有効な対策を取ることもできず、質帝を擁して国土の南へ逃げる他に取れる策はなかった。
李大成はこれを追撃して追い散らし、郭蠡を捕らえて処刑すると、質帝を都へ還御させ、公的には重病を装って禁城内部の殿舎の一つに監禁した。
その翌年、質帝は在位8年にして『崩御』し、李大成は新たな天子として即位する事となる。大漢の武帝の誕生である。
天祐元年、武帝は即位するや、割拠していた諸皇族を擁する群雄達(張謇、ルイウェイ、ツグツェン・ギャルポ、パクモドゥパ派など)を征伐して国土を取り戻し、戦乱に乗じて国土への侵攻を企む諸外国を牽制することに成功した。
しかし、疲弊した国内の立て直しの為に、武帝は国土南方への遠征を中止し、西方諸国による租借地・植民地形成を黙認することとなった。
現在大漢南方に広がる諸国の租借地はこの頃形成されたものである。

天祐の治

外交と軍事を収めた武帝は、その後積極的な人材登用と婚姻政策を進めることで国力の増強に努めた。特に、諸外国で迫害されていた亜人達の保護政策を進めた事は、衰えつつあった帝国の命運を再び上回かせ、経済的な植民地獲得を狙う諸外国をはねのける大きな原動力となった。
この頃活躍した名宰相として、エルフ出身のツォンカパや、ガル・ティンリン・ツェンジュなどが著名である。
彼らの活躍により荒廃した国土と激減した人口は再び回復傾向に向かい、貞観期の水準近くまで回復しつつあった。

盤庚の変

在位50年に及び、老境に達した武帝は、後継として、早世した自身の長子である李帽の息子、李慈敬を皇太孫と考えるが、それに時の宰相ガル・ツェンニャ・ドムプ(ガル・ティンリンの息子)が異を唱え、呉王李翛の冊立を主張した。
李翛は才覚に優れ、数度発生した国境紛争において勝利を収め、同時に外交交渉によって有利な結果を確定させてきた。
その為武帝も彼の冊立を一時は考慮したものの、当時生存していた李帽を立て、長幼の序を重んじる群臣らの反対によって擁立を断念していた。
ガル・ツェンニャの進言は武帝の心をもう一度李翛に傾かせる事となり、俄に朝廷は二つの勢力に分割された。
そんな状況下、延徳9年3月。李翛派の有力者であった范禄が、自身の所領である盤庚城で李慈敬の暗殺未遂事件を起こす。
これに激怒した武帝は、范禄に対する討伐勅令を発布し、李翛を呼び戻す様に厳命した。彼は30万人の禁軍を集め、范禄の討伐と場合によっては李翛の支持者を殺し尽くすつもりであった。
が、一月後に武帝はそれを叶えぬまま在位53年にして崩御。その結果、李翛と范禄への処罰は宙に浮き、結果としていち早く中央政府と軍隊を掌握したガル・ツェンニャが李翛を皇帝に立てることで勝利を収めた。
その後李翛とガル・ツェンニャは李慈敬一派の苛烈な粛清を断行し、100人を超える重臣と、その家族1000人余りが処刑ないし獄死の憂き目にあった。
特に李慈敬の支持基盤であったドワーフ系諸侯に対する弾圧は苛烈を極め、俗に『鉄小人悉く鋳つぶされ』と謳われるほど、彼らは凄惨な仕打ちを受けた。
李慈敬本人も無論捕縛の対象になったが、彼は逃げ延び、思わぬ場所から支援を引き出すことになる。それは、マウサナからであった。
咸興14年、李慈敬はマウサナ人傭兵部隊五千人を率いて越境し、国土南方に割拠していたゴブリンの諸侯を味方につけて挙兵した。
李翛は無論鎮圧に動いたが、ガル・ツェンニャによる粛清の怨嗟は各地へ広がっており、反乱は燎原の火の如く広がりを見せ、李慈敬が盛京に迫る頃には既に軍隊は崩壊していた。
その後李翛は逃亡し、北方の平城を経て燕京で再起を期そうとするも、麾下の兵士によって刺殺される。後に彼は、明帝の時代に一応天子としては認められ、幽帝と諡された。(それまでは廃帝高貴公)

藍田の獄

李慈敬は、即位した後、ガル・ツェンニャと彼らの一党を粛清して自派の権勢を固めると、続いて王朝を蝕んでいた外国勢力の排除にかかった。
その一環として、彼は建安2年に勅令を発布し、租界内外における不平等な貿易の是正と、外国商人と関係を持つ官僚の罷免に乗り出した。
この時活躍したのがドワーフ出身の宰相トゥメド・ヤグラカルと、平民出身の吏部尚書藍烈、刑部尚書田不忌の三人であった。(建安の三傑)。
この三者は、第一に租界外で行われていた外国商人との違法取引摘発と、贈収賄によって腐敗の度を深めていた礼部の外交部門へメスを入れ、勅令発布から二年間で五百人以上の汚職官吏を放逐し、その数倍の商人を厳罰に処した。
これによって朝廷内の綱紀粛正を果たした彼らは、続いて租界内部にも手を入れ、不当な安値で買い叩かれていた輸出品の価格改定、国外から流入する麻薬などの禁制品の排除を推し進めると共に、外国商人と結託して合法的な暴利を貪る豪商の締め出しを図った。
特に田不忌主導による司法捜査は凄まじく、外国商人から果ては皇族に至るまで一切の聖域なく法に違反した者や、暴利を貪り民衆を苦しめた者達が捕らえられた。
この改革は建安の治として、十数年の短い間であったが貿易赤字の改善と、腐敗の一掃に成功し、大漢の国勢復興に成功した。
だが、この改革は当然外国勢力の不興と介入を呼び、それらは建安16年のトゥメド暗殺と、宮廷クーデターによる李慈敬幽閉と藍烈、田不忌両者の処刑という最悪の形で現れた。
クーデターを主導したのは、秦王として八旗軍の一つを統率していた皇族の李崇英と、礼部尚書として外交を取り仕切っていた狼人のジルガラン(正黄旗人。イェヘナラ氏)であり、二人は武力と外国勢力の支援を背景に改革派を排除し、三傑の成果を無に帰させた。
その後、失意の内に病死した李慈敬は霊帝(後に憲帝と改名)と諡され、彼の甥で当時二歳だった李翼が第10代皇帝に即位させられた。(平帝)

虎狼の枢軸

明安元年に平帝を即位させた後、李崇英は武力を、ジルガランは内閣を掌握してそれぞれ文武の両権を手中に収め、過酷な恐怖政治を敷いた。
この時代において特に後世の批判の的となっているのは、二人が行った「売国政策」と呼ばれる極端な外国優遇政策である。
武帝以降伸張しつつあった外国勢力は、当代に至って完全に国家の内に浸透し、幾つもの重大な主権が二束三文で売り渡された。
特に「明安の八カ国条約」と呼ばれる数々の不平等条約により、大漢の急速な分割と経済的な隷属が行われ、外国人は事実上の支配者として帝国内部に大いに幅を利かせた。
これにより総督クラスの重職までもが金銭と外国の意向次第で任免されるなど、中央の政治の腐敗はますます進行したが、これを打破しようとする官僚達は粛清され、辺境で起きた反乱などは外国からの武器支援を受けた支配者の私兵によって徹底的に弾圧された。
軍隊による略奪と貪官汚吏による収奪で地方は荒廃し、仕事を失った人々は流民として都市に流れ込むか、匪賊となって各地を徘徊することとなり、治安と人々の生活はほぼ完全に破綻をきたしていた。
他方中央の上流階級はそうした国家の腐敗を憂うばかりか、むしろそれによって弛緩した綱紀から漏れ出る国費を濫費し、贅沢な暮らしを謳歌していた。
この頃活躍した画家の一人である㽲不治(おそらくは偽名)は、その代表作「都城清明図」において、そうした世情を克明に描写した。
屏風一枚の大きな絵の中に描かれた、豪華絢爛で繁栄を極める貴族の豪邸の軒下で餓死する乞食や、宮城が見下ろす貧民街の有様、城壁の外に打ち捨てられ鳥の餌食となる親子の遺骸などは、当時の人々を分かった恐ろしい不平等の実態や、華やかな都にまで国を蝕む病の症状が現れてしまったことをよく表している。(都城清明図は燕王家に買い上げられ現存している)
俗に「平帝30年の間に国家100年の害を被る」と呼ばれる程に政治は乱脈を極め、李崇英が在位20年の年に、ジルガランが28年の頃に亡くなるまでの間、王朝は立て直し難い大損害を被った。また、皇帝本人も乱行の末に32歳の若さで皇子無くして崩御。再び政治は混迷へと落ち込んだ。

光華の治

(章帝)
平帝の死後、議政王大臣会議は世襲皇族である燕親王の家系から新帝を選出することと決め、燕親王第一王子だった当時14歳の李譚を第11代皇帝に擁立した。後の章帝である。
光華元年に彼は即位し、以降11年間に渡って精力的に政治に取り組み、国家の立て直しに尽力することとなる。
当初幼少だった章帝に代わり、政治を見たのは母后である馬皇后(皇后号追贈)であり、彼女の垂簾聴政という形で時代は幕を開けた。光華3年に馬皇后は、ジルガラン党与の残党と看做された官僚の多くを処断し、宮廷の綱紀粛正を行なった。
馬皇后は以前の多くの王朝に見られた外戚支配の悪弊とは無縁の烈女であり、彼女の薫陶が後に「粛正帝」、と呼ばれることとなる章帝に大きな影響を与えたのは間違い無い。
天下の権を母から返還された章帝は、その後も引き続いて改革と宮廷内の粛正に努め、特に乱脈を極めた国家財政の立て直しに尽力した。当時大漢の歳入は銀にして6000万両余りであったが、逆に借金は3億両余り存在した。彼は治世の間、歳入の増額と借金の返済、何より官吏の役得や横領収奪により闇に消えていた資金の回収に奔走し、光華8年には歳入額を7000万両まで上乗せし、また10年には国家の借金を完済することに成功した。20年分の食糧と凡そ1000万両の資金が国庫に積み上げられたという。
この頃中央地方を問わず官僚達は、複雑かつ非効率的な官職制度に寄生して役得や不当な利益を貪り、数万両の資金を国庫から収奪した挙句、それを当然の権利と開き直って憚らない状態であった。
特に外国との貿易を担当する官吏たちの腐敗は著しく、商人たちと結びついた彼らは膨大な利益を溜め込む一方で、薬物や武器の密輸、古来からの文物を盗み出して販売した他、甚だしきは貧民達を人身売買により隠田などで働かせ、挙句海外に売り飛ばすなどの悪行に手を染めていた。
章帝はその治世においてそうした官僚達の徹底的な粛清に取り組み、不当に溜め込んだ資産を没収し、隠田と密輸の摘発に力を注いだ。これによって国庫に収められた財産は、国家予算3年分にも匹敵すると言われ、その資金は民衆の生活改善に役立てられた。
しかし、光華11年。章帝は俄に病に倒れ、ー恐らくは過労のためにーそのまま崩御した。まだ26歳の若さであった。
その崩御に際して議政王大臣会議が改めて招集され、後継者の選定が行われた。その結果、年長の皇族として先帝を補佐し、政治改革を進めた功臣の一人でもある、楚親王李玄��が選出され帝位に着いた。後の諡に曰く明帝である。

天聡の大獄

(明帝)
明帝は憲帝以来の成人皇帝として玉座につき、即位の日から親政を執り行った。天聡元年、彼は先帝以来政務を輔翼していた諸大臣を留任させると共に、身分種族に囚われない人材の登用を進めた。
特にその醜悪な容姿から中央政界から遠ざけられがちなゴブリンやドワーフなどからも高位の官僚を取り立て、また彼らの優れた技術を利用した都市改造も行われた。
これにより、再び政界の腐敗は一掃されると共に、極めて劣悪だった諸大都市の衛生状態は大きく改善し、疫病の被害が大幅に減少した。
他方これらの施策は外国勢力と、その利益のおこぼれを狙う貪官汚吏や、旧来の秩序にしがみつく人々の怒りと不満を掻き立て、彼らは外国の武器商人と結託して盛んに蠢動し、地方の治安を悪化させた。
天聡8年、国土西方を治めるイリ総督のガルダンツェリン(ゴブリン出身)が暗殺されたことを機に、これらの地下勢力は一挙に火を噴き、各地で蜂起した。「天聡匪賊の乱」である。彼らは海外から密輸した武器で武装し、当初旧式の武器しか持たない各地の緑営軍を圧倒した。
しかし明帝の対応は素早く、帝都に駐留する八旗の最精鋭を地方に派遣して蜂起を迅速に鎮圧するや、返す刀で朝廷内部の腐敗撲滅に乗り出した。この粛清はかつて行われたどの粛清よりも激しく徹底的に行われ、数年間かけて国土全域、及び上下の区別無く腐敗官僚の処罰と追放が進められた。
章帝による健全化にもめげずに王朝の闇を根城としていた残党達は、ここに至ってほぼ完全に根絶されることとなった。
天聡14年までの6年間、凡そ1,000人の官僚が罷免ないしは追放の刑に処され、特に不正甚だしきは皇帝の勅命によって処断された。また、この穴は新たに取り立てられた新進気鋭の官僚によって埋められ、政治は再び清新なものに生まれ変わった。
ところが、この粛清は別の弊害も生んだ。即ち、一時的に地方や末端の行政に空白が生じた結果、一部の上級官僚や中央の政治家に権力が集中し、地方行政の硬直化やポストに付随する権限の増大に伴う猟官の活発化、そして皇帝権力の縮小を招いたのである。

七夷擾乱

これら明帝の改革は政治に活力を生み出し、大漢復興の大きな弾みとなった。しかし、その一方で外政、つまり軍事分野での近代化は遅々として進まなかった。
何故ならば、明帝は賢君ではあったものの、過去の皇帝達が苦しめられた軍閥を憎んでおり、その温床となりかねない軍隊を抑圧したのである。彼は絶えず将軍の配置換えを行い、1人の指揮官が大軍を指揮できない様に複雑な指揮系統を作り、互いに牽制し合う体制をとった。
しかし、これによって軍は弱体化し、また旧式化した武器の更新は行われないまま放置された。
結果、泰安16年ごろから始まった八洲皇国との戦争に惨敗を喫し、海軍の中核であった北洋水師が壊滅するなどの大損害を被った。また、王朝の故郷である豊州155万平方キロメートルの北半分を、皇国をはじめとした諸外国に対し植民地として割譲するという屈辱的な和平を余儀なくされた。
しかし、歴代の皇帝とは違い明帝はへこたれることがなかった。彼は戦争の反省を生かして今度は軍事改革に着手。28人の功臣の約半分を占める優秀な将帥を次々と登用し、八旗軍を中核とした軍隊を再編し、兵器の国産化にも取り組んだ。
これらの改革の努力は、やがて「公主将軍」と呼ばれるセリカ史上最大の英雄李紫雲の出現という形で実を結び、後に世界を震撼させることとなる。
泰安18年、明帝は八旗軍の編成改定と新たな軍事教典の編纂を命令。後にこれは顕帝の時代に完成を見ることになる。
泰安20年中葉、北方の租借地において、利権をめぐるセリカ商人とアルビオン商人の対立が引き金となり、7カ国の連合軍と大漢との間で大規模な軍事衝突が起きる。世に言う「七夷擾乱」(北の衝突に限れば北漢事変)である。
七夷擾乱に対し、中央の朝廷は当初及び腰であり、賠償金の支払いによる講和が模索されたが、遂に外国軍が国境を侵犯するに及んで交渉は途絶し、戦争の火蓋が切って落とされた。
この戦いは開始時点では全世界が連合軍の圧倒的勝利と予測していたが、結果は真逆のものとなり、北側の侵略軍は明帝が果断に用いた李紫雲率いる漢軍に完敗を喫し、南側においても激しいゲリラ戦が功を奏し、連合軍は犠牲に耐えかねて退却した。
この勝利はこれまで軍事的劣位を背景に強引に進められてきた海外の植民地化、および利権分割を食い留め、また落ち目であった大漢帝国の国威を大いに発揚させた。
この後セリカは「眠れる獅子」として列強に恐れられる様になり、またその強さを見込んだアルタイとの友好を通じて、外国への対抗姿勢を強めていくこととなる。

黄天戦争

建和7年4月19日、足掛け40年余りにわたって漢王朝を支えてきた明帝が崩御。孫である李青雲(李紫雲の長男)の誕生を祝って燕京に行幸したばかりであった。帰京してから病に倒れ、一時は回復したものの4月初頭に危篤となり、遂に崩御したのである。その後帝位は議政王大臣会議の結果、第3皇子である李旻寧が継承した(顕帝)。
顕帝は父帝と同じく政務の能力に優れ、歴代の皇帝の中でも相応に優秀な人物ではあったが、一方で種族主義的な猜疑心の強い人物であり、亜人の門地出身の臣下や皇族に強い疑いをかけていた。特に女の身でありながら比肩する者のない軍事的功績を立てた妹の紫雲は、彼にとって正しく恐るべき潜在の敵であり、口実さえあれば軍権を剥奪して遮断する思惑を抱いていた。
しかし、一方で彼女を超える有能な指揮官が存在しないことから公然たる粛清は見送られ、処分は実権を持たない軍職への左遷にとどめられた。彼女は南方の僻地の軍指揮官となり、しばしの間不遇を囲うことになる。
そんな中、光和5年末。江東の杏家村において、宗教家張大義が率いる「黄天道」なる宗教団体が「漢朝打倒」と「黄天泰平国」の建国を呼号して武装蜂起を決行。反乱は忽ち50万人の民衆が加わる大規模なものとなり、遂には副都の一つである金稜を攻め落とすに至った。世に言う、「黄天戦争」である。
この古今未曾有の危機に対し、顕帝はやむを得ず李紫雲に南方の軍権を与えて鎮圧に当たらせると共に、北の戦力を南へ集結させ、黄天軍の撃退を命じた。
しかし、長年の平和によって弱体化していた正規軍は士気において遥かに勝る黄天軍に連敗し、陳玉成らに率いられた叛乱軍に江南大営を攻略されるなど危機的な状況に陥っていた。また、李紫雲の鎮圧軍も現地の復興や治安維持の観点から進撃が遅れており、盛京近郊まで敵軍が迫りつつあった。
止むを得ず朝廷は各地に存在していた私兵団、「郷勇」の存在を公認し、積極的にこれを用いることを決定。彼らは後にセリカに割拠する軍閥の源流となり、この戦争の活躍によってその勢力を大きく伸長させた。
光和8年、東海事変などの事件がありつつも、官軍は金陵を奪還し、張大義とその親族を敗死させて事実上叛乱を完全に鎮圧。国土は無事に平穏を取り戻した。
翌年の光和9年、顕帝が崩御。死の間際、彼は枕頭に妹紫雲を呼び出して長年の確執を詫び、彼女を旧職に復帰させたほか、彼女の長男を初代当主として、新たな鉄帽子王けである蘭陵郡王家の創設を勅許した。後継者にはその皇子で、9歳の李載湉が就いたが、この時異例にも改元は行われなかった。

万氏の獄

即位した際、皇帝の李載湉(後に第14代皇帝和帝)はまだ9歳と幼く、政務を取る能力に乏しかった。故に父顕帝の遺詔に従って政治と軍事の長が折衝の上で国の大事を決めることとなっていた。
政治の長は内閣大学士に任じられた皇室の長老、蔡親王李奕譞(明帝の弟)、軍事の長は燕雲大都督たる蘭陵公主李紫雲である。しかし、李紫雲の方は自身がまだ31歳と言う若年であること、また女であることを理由に政務からは一歩退いて、軍歴の長い袁崇煥将軍などを表に立てた。
この頃朝廷は黄天戦争に支出した軍費や、荒廃した国土の復興、被害を受けた海外租界への弔慰金支払いなどで財政危機に陥っており、一刻も早い立て直しが求められていた。(この頃の漢朝の歳入は経済成長や新税の賦課によって1億両を超えていたが、その一方で民衆は地方政府と中央政府の二重課税と銀価高騰に苦しみ、各地で暴動が発生していた)
また、反乱の影響で地方の治安は著しく悪化し、物資不足に起因する食物や生活用品の価格高騰も手伝って、匪賊が跋扈した。軍事面の長である紫雲は各地に駐留する将軍達を指揮して鎮圧に当たったが、それでも匪賊の根絶には至らなかった。
しかし、そんな危機的状況の中で、中央の官僚達は派閥主義に染まり、激しい政争を繰り返していた。
李紫雲ら優れた将軍が着任し、国防面でのリスクが減少したことから、後方の朝廷に務める文官たちの風紀は弛緩し、明帝統治下で根絶されたと思われた悪弊が再び顔を出したのである。
蔡親王の下で団結した文官たちは、文官優位の伝統を立てて政治に参与する武官の排除を強硬に進めた。前代に比べて著しく劣化した彼らにとって、中央の政治を武官に開くことは許し難い冒涜であると共に、自身の生命の危機でもあった。
文官たちは軍閥化の危険を言い立ててことあるごとに武官派閥を誹謗中傷し、それに対して武官達も反感を募らせ国政は混乱を極めた。しかし、武官の長である李紫雲将軍が積極的に政治権力の奪取を目指さなかったことや将軍達はもとより政争が不得手であったことから、中央の宮廷陰謀は文官優勢のうちに進んだ。しかし、そんな中再び宮廷を揺るがす事件が起きる。
光和11年、文官派閥の実力者の一人であった将作大匠の万及至を始めとした万氏一族が謀反の疑いをかけられ、武官派閥によって強引に逮捕される事件が起きた。後に明らかになったところでは、これらの逮捕はかつて双子の妹であった哀献公主李赤雲を事故に見せかけて殺害された紫雲将軍の引いた糸であり、彼女は逮捕の矛先を万氏一族の権力の源泉である明帝の貴妃であった万太后にも向けた。その後の調べにより、当時寵愛を受けていた紫雲・赤雲の姉妹の母である賢貴妃イルゲンギョロ氏への嫉妬に狂った太后が、宦官の張譲らを用いて赤雲を殺害した事が明るみに出、一族は大逆罪に問われることとなった。
同年4月、文官達は士大夫に対する刑の免除、また太后を罰する法はないとして免罪を求めたが、万事に控えめな紫雲が強硬に重罰を求め、武力を背景とした恫喝まで行った為不発に終わり、4月29日に万氏一族のうち官職についていた者は絞首刑、女子供は流刑、そして大逆犯である万太后は当初四つ裂きを宣告されたが、減刑され庶人降格の上で自刎を許された。
この大粛清は朝政壟断を企む文官達への強力な掣肘となったが、両派の溝はより深いものとなり、漢末の混乱をさらに深める要因ともなった。

第1次世界大戦

光和13年、ノルドニア諸国とアルタイ帝国を中心とした陣営の対立は先鋭化の一途を辿り、各地で小競り合いや紛争が頻発していた。曲がりなりにも大国であるセリカはそれらの対立にも中立を維持して関わらないことができたが、諸外国の有形無形の圧力によって政治はさらに混乱し、貿易利権を巡る官僚達の争いが各地で起こっていた。
そんな中、武官の筆頭たる大都督李紫雲は、この機に乗じて奪われた帝国の領土を奪還し、その権利を他国に認めさせようと目論んだ。
彼女の狙いは八洲皇国に奪われた豊州全域の奪還であり、それを以て悲願である漢朝再興の第一歩としようとしていたのである。
光和14年6月、大漢政府はノルドニア諸国との戦端を開いたアルタイ帝国との間に援助協定を締結し、同国の義勇軍と武器支援の下豊州奪還に動くこととなった。また、文官グループの栄録らは各地の租界を巡って諸外国に中立を説いて回り、皇国そのものの存続と引き換えに、半ば強引に中立を呑ませることに成功した。
そして、翌年の光和15年9月、欽差大臣李紫雲率いる凡そ30万の大軍が燕京に集結し、豊州に向けて進軍を開始。後に「北伐(李紫雲)」と呼ばれる大遠征であった。
北伐は文字通り弱体化の一途を辿る大漢の命運をかけた一大軍事行動であり、王朝の故郷と威信を取り戻す貴重なチャンスであった。故に遠征軍の派遣に関しては予算が惜しげもなく投じられ、兵の質・装備・物資などが十分に用意された。
結果、半年間の遠征は成功に終わり、獣人が人口の多数派を占める地域を中心に豊州の三分の二がセリカの下に奪還され、皇国の勢力は大きく後退することとなった。しかし、その過程で長きに渡り軍を率いてきた李紫雲が陣没(光和16年)。帝国は領土と引き換えに不世出の名将を永遠に失うこととなった。
その後、セリカの奪還した豊州地域については正式に領有権の返還が認められ、第1次世界大戦は終結を迎える。北伐の他に漢朝が目立った軍事行動を起こす事はなく、以降はアルタイ帝国に対して武器や資金の支援を行うことに終始した。
そして、大戦の終結と共に王朝の崩壊が遂に始まるのである。

保慶新政とセリカ大革命

大都督李紫雲の陣没は、揺れ動く大漢帝国に致命的な一撃を与えた。これまで朝廷は、皇帝とそれを囲む廷臣達による絶対君主制を堅持して来たが、その権威の裏付けは彼女の常勝将軍としての名声と、掌握する武力に負うところが大きく、それがあるからこそ辛うじて列強らの外圧を跳ね除け、主権を維持できたと言っても過言ではなかった。
しかし、その死に伴って朝廷を支える名声と武力が崩れると、各地で民国派・連邦派らの革命勢力が活動を始め、各地でテロや反乱が横行し、その間隙を突いて匪賊らが跋扈したことで治安は極度に悪化した。
ここに至って朝廷は、抜本的な国家体制の変革を遂に余儀なくされたのである。
早くも光和17年、雲南省巡撫であった劉坤一ら3名の地方官らが憲法制定、議会開設、軍制改革を盛り込んだ素案「南部三省私案」を提出し、その内容が世に知れ渡ると各地で改革を求める上位の民衆(主に商人や知識人層)の運動が活発化した。彼らは絶対君主制を廃止して議会君主制へシフトさせること、身分制による搾取と重税を撤廃することなどを主な要求として掲げ、後に東風派と呼ばれる進歩系官僚派閥の輩出元、並びに支持基盤となった。
光和18年、蔡親王は大戦の終結を見越して「帝国国策改革要綱」を軍機処において策定。まずは大漢憲法を制定し、しかる後に議会開設と貴族社会の解体を目指す長期的改革を実施することを決定した。しかし、宮中に巣食う保守派達はこれに激しく反発し、犬猿の仲であった武官達と手を結んで対抗した。
その様な情勢下で光和19年、和帝が崩御。後任の皇帝をめぐる対立も重なって、政争はより苛烈なものとなった。


地理・気候

温暖湿潤気候を基調としながらも、各地に山岳や砂漠などの多様性に富んだ気候が見られる。
国土の北には李氏の故郷たる東北平原、国土の西には険阻なウーツァン山脈が広がり、南北それぞれに『河水』、『江水』という大河を擁する。

行政区分

人間の領域は流動的な十八の省と、三百の府県に分割され、朝廷から派遣された総督や巡撫によって治められる。
他方、その他の種族が住む土地は理藩院によって管轄され、文化の交雑は厳しく規制されている。

政治

大漢の皇帝は国内に住む六つの種族の帝王、並びに外藩として服属する夢境〈イノセント・カオス〉の統治者を兼ね、巨大な同君連合国家の君主として君臨している。即ち、
・人間の皇帝
・全獣人の大ハーン
・全エルフと森林の守護者
・ゴブリンの大首領
・ドワーフの護法帝王
・鬼のブグ・カガン(巫術大王)
・夢境の宣帝
であり、対外的には世界を統治する最も偉大なる中華皇帝として振る舞った。

行政

皇帝を頂点に内閣・軍機処といった中央機関が置かれ、その下に各領域を担当する部(当初六つ。長官は尚書と称される)が配置されている。
地方行政では、内地においては省の下に道、道の下に府が置かれ、臨時に増員または減員される長官によって政務が統括されている。

官庁

行政官庁としては、内閣・軍機処・理藩院の三つの官庁が頂点に立ち、その下に各行政範囲を担当する六部が置かれている。
その他、官僚を監察する都察院、詔勅起草を担当する通政使司、宮廷諸事を担当する内務府、皇族の管理を担当する宗人府、最高裁判所の役割を果たす大理寺等がある。
議政王大臣会議
初期に政治万般を決していた会議。皇帝を含めた各八旗で旗王の称号を持つ有力皇族と、各種族の代表者達で構成されている。
中央集権化が進むにつれて権力を奪われ、最終的には臨時に召集される形式的な機関となる。

内閣
内閣大学士を頂点とし、行政方針、詔勅発令を司る行政の最高機関。軍機処の設置により骨抜きとなるが、その後も官制上は行政最高機関として残る。

六部
内閣・軍機処に従って実務を担当する役所。以下の六つで構成される。各部の長は尚書を称する。時代が降ると、臨時に増設されることも増える。

初期六部
・吏部…官吏の任免を担当する
・工部…土木工事、公共事業を担当する
・戸部…戸籍、財政を担当する
・刑部…司法、警察業務を担当する
・兵部…軍政、兵器調達、武官の任免を担当する
・礼部…儀礼、教育、外交を担当する
新設四部
明帝の改革で新設された新しい部。
・民部…民生、社会保障を担当する
・教部…礼部に代わり、国民教育を担当する
・交部…外国との貿易を専門に担当する
・路部…港湾、街道の管理を担当する
理藩院
人間の住む領域(通称内地十八省)を除く他種族の領域の統治を担当する組織。その職掌は多岐に渡り、また重要度も高い為、皇族が長官に命じられる事も多い。
外藩部
夢境〈イノセント・カオス〉のセリカ帝国における呼称。夢境の諸種族は内地から離れ、かつ自立性も強いことから、現地の慣習を尊重する形で独特の自治制度が敷かれている。
夢境の人々は各都市を中心とした「盟」とその下に敷かれる「旗」に編成され、其々の盟の指導者が「扎薩克(ジャサク)」の称号を受けて自治権を行使した。
盟は豊州に近い3種族(彼らは内藩として八旗に編入された)を除く9種族で組織され、総称して夢境九盟九十八旗と呼ばれた。

立法

軍機処・内閣が立法を掌り、法案を作成して皇帝の裁可により公布する形式を取る。

司法

原則として各地の地方長官が管掌し、時と場合によって中央の大理寺が法的解釈を提供する。
一方、官僚・貴族などの特権階級の司法は大理寺の専権事項であり、都察院の弾劾によって審理判決を下し、皇帝の勅命の下刑部が執行した。

治安維持

公的な治安維持組織として兵備司が各都市に置かれ、地方長官の指揮の下治安維持を担当する。
また、他にも皇帝直属の秘密警察として錦衣衛が置かれ、貴族及び官僚の逮捕検束を担当している。

外交

中華思想に基づく朝貢外交を基調としているが、近年の情勢変化に伴い、対等外交を志向している。礼部の傘下に総理各国事務衙門を設置するなど、外交改革が進められている。

経済

経済規模は非常に大きく、特に七都城と呼ばれる大都市では、盛んに交易が行われている。
特に東の海に面した金陵は、国内外最大級の貿易都市であり、新海の租界から入り込む外国製品の取引市場となっている。
通貨としては銀と銅銭が流通している。

軍事

軍事制度は、初代皇帝高祖が創設した獣人族のそれを踏襲した八旗制度と、文帝時代に創設された緑営制度、そして各地に結成された郷勇・団練等の制度が併存している。

八旗

かつて獣人種で採用されていた政治・軍事制度。複数の異なる種族を抱える獣人種において、政治と軍事の効率化を図る為に構築されたもので、民族全体を8つのグサ(旗)に編成するものである。
当初の八旗は300人の兵士を拠出しうる集団をニル、5ニル(1500人)を1ジャラン、さらに5ジャラン(7500人)を1グサ(旗)に編成するもので、8つのグサで民族全体を包括するものであった。(以降数や規模は時代、またはそれぞれの旗によって相違するものの、5-10前後のニル=1ジャラン、5ジャラン=1グサの編成構造は変わらなかった)
高祖は大漢建国の際、これらの八旗を編成し直し、八つの獣人種族からなる獣人八旗制度を確立した。
この八旗制度は、各獣人の能力を活かした軍事編成を実現する、現代で言い換えれば師団の様な戦闘部隊を編成すると共に、これらの八旗を通じて、それぞれの種族・部族を共通の「獣人種」と見做して統治する為の社会制度でもあった。
獣人における八旗は、当初金猫・灰狼・虎・鷹・牛・馬・猿・熊の八種によって編成され、黄・紅・白・藍の四色の旗をシンボルとして掲げた。(正四旗)その後、八種族以外の獣人や、北方で支配に服していなかった部族を八旗に編入したことで規模が拡大し、今度は四つの旗に縁取りをつけた四旗(鑲四旗)を新設した。
これらは獣人八旗と総称され、他の種族による混成八旗編成後、人々はその他の部族と合わせて、本人自身も含めて彼らを単一の「獣人」と見做す様になる。
その後、これらの八旗は征服完了後に、人間以下その他五つの種族においても創設され、人間、エルフ、ドワーフ、ゴブリン、鬼の八旗がさらに編成された。(後期になると隣国である夢境の諸種族も軍事力強化の為、八旗に編入された)彼らは精強な軍隊として大漢の覇権を支えたが、基本的に混成部隊であることから各種族間の争いが絶えず、時に統率は困難だった。
また、これらの八旗には6種族(夢境八旗を含めると7)の戦闘を担うニルに加えて、旗王に直属してその家政や行政事務を担当するボーイ(獣人語。人間語では包衣)が所属しており、彼らも同じ形態でボーイニルを編成していた。
ボーイニルは八旗軍を養う為の農耕や牧畜も担っており、その存在は軍の存立に欠かせなかった。
(つまり、各八旗軍は戦闘を担う6-7種族のニルと、その下で農耕及び牧畜を担い、暮らしを支えるボーイニルで構成されており、これはかつての獣人とその他の種族の封建構造を踏まえたものになっている)

禁旅八旗・駐防八旗

武帝の時代、八旗の各部隊は盛京に駐留し、皇帝の近衛部隊を構成する禁旅八旗と要地に駐留して国土を防衛する駐防八旗に分けられた。禁旅八旗は漢朝の軍事力の中核をなし、1915年の時点で士官6,700人、兵員約12万人を擁していた。彼らは漢朝末期から中華内戦の時期にかけて最後まで皇帝に忠誠を誓い、残党勢力の中心としてその消滅まで戦い続けた。中には夢境に渡り、親子二代にわたって八旗旗人として戦った者もいる。
駐防八旗は各八旗からその土地にあった種族の者たちが選抜されて任務に当たったことから、それぞれの種族の名前を冠して呼ばれる様にもなった。駐防八旗は「駐防将軍」と呼ばれる高位の軍司令官の指示を受け、将軍府が開かれた20の大都市を中心に全国の要地を警備した。
革命の後彼らは様々な道を辿ったが、概ねその地を支配した勢力の軍人として戦い、現在も子孫が土着していると言われる。

旗人

八旗に属する人々は「旗人」と称され、有事の兵役と引き換えに一般の労役や租税を免除・又は減じられていた。
彼らはそれぞれ旗地と呼ばれる耕作地・牧草地を国家より供与され、それによって生活を立ててその身分を世襲したことから、事実上の貴族階級として国政の重職を担った。特に上級の旗人は大臣職などを担い、大いに権勢を誇った。
しかし、彼らは時代を経るにつれて単なる特権階級として堕落し、初期の遠征の中核を担った獣人達も多くが人間の文化に染まり、アイデンティティと戦闘能力を失っていった。

夢境八旗

豊州周辺に居住していた夢境三種族から構成される八旗。彼等は文化も言葉も性質も全く違う異種族であったが、大漢皇帝の名の下に単一の「夢境人」として八旗に編成された。八旗の中でも歴史は浅い方で、元々獣人八旗として編成されていた人々が、武帝の時代に独立した八旗(夢境出旗)として戸籍を認められたことに始まる。
彼等はそれぞれの特異な能力を活かして斜陽の漢朝を支えたが、一方で種族の違いから内紛も絶えず、反乱の危険性を常に孕む部隊でもあった。
夢境八旗は多くが外豊州に駐防八旗として派遣され、白龍江将軍などの指揮下に置かれた。セリカ大革命によって帝国が崩壊してからは、その多くが北漢に帰順した。

各八旗

正黄旗(獣人語でグル・スワヤン・グサ)
【管轄兵力】:約5万8000人
※佐領は獣人語でニルイ・シャンギンと言い、ニルの司令官を務める。この上にジャラン司令官の参領(ジャラニ・シャンギン)、そして各グサを統括する都統(グサイ・エジェン)と二名の副都統(メイレン・シャンギン)が置かれている。
また、その上には各旗全体の総司令官たる旗王(グサイ・ベイレ)がおり、皇帝本人と、皇帝に認められた有力な皇族が務めた。(その為、黄旗以外の六旗では、複数人の旗王が並立することも珍しくなく、その場合は最も格の高い旗王が旗全体を代表していた。以下に示す旗王とは、そうした旗全体の代表を務めた立場を指す)
【旗王】:大漢帝国皇帝
最大の規模を誇る八旗軍。皇帝自らが旗王を務めることから、大漢の親衛軍としての役割を果たす。

鑲黄旗 (クブヘ・スワヤン・グサ)
【管轄兵力】:5万4000人
【旗王】:大漢帝国皇帝
皇帝が旗王を務める二つ目の八旗軍。禁旅八旗の主力を成す。正黄旗と合わせて、「上二旗」と呼ばれる。

正白旗 (グル・シャンギャン・グサ)
【管轄兵力】:5万5000人
【筆頭旗王】:秦親王
世襲皇族の筆頭である秦親王が旗王を務める八旗軍。秦王は王号の世襲を許された特別な家柄で、武帝が即位して以来世襲皇族の筆頭と見做されている。

鑲白旗(クブヘ・シャンギャン・グサ)
【管轄兵力】:5万6000人
【筆頭旗王】:燕親王 蘭陵郡王
世襲皇族の一つ、燕親王が率いていた八旗軍。
1894年の七夷擾乱の後、蘭陵公主李紫雲が女性として初めて旗王を務めたことで著名。後に燕京に移った帝国残党軍の中核を成した。

正紅旗 (グル・フルギャン・グサ)
【管轄兵力】:5万3000人
【筆頭旗王】:越親王 江夏郡王
世襲皇族の一つ、越親王が率いていた八旗軍。元は国土西方の防衛を担当していたが、越親王家が争いにより絶家となる。
以降は江夏郡王家が筆頭旗王を務める。

鑲紅旗(クブヘ・フルギャン・グサ)
【管轄兵力】:5万8000人
【筆頭旗王】:楚親王 隴西郡王
世襲皇族の一つ、楚親王が率いていた八旗軍。明帝が旗王を務めていたことで有名であり、彼が即位した後は隴西郡王が勅命により旗王を務めている。

正藍旗(グル・ラムン・グサ)
【管轄兵力】:5万4000人
【筆頭旗王】:睿親王 呉親王
当初世襲皇族の睿親王が、その断絶後は皇子が旗王の任につけられる様になった八旗軍。

鑲藍旗(クブヘ・ラムン・グサ)
【管轄兵力】:5万6000人
【筆頭旗王】:鄭親王 豫親王
世襲皇族ではなく、歴代皇帝の親王が旗王を務めた八旗軍。後に巫術や道術を得意とする者で構成されており、他国における魔導部隊の様相を呈する。

緑営

第2代文帝の時代に本格的に創設されたもので、獣人と並ぶ支配種族である人間によって担われる軍事制度。八旗の約2倍の兵員を誇った。
各省毎に緑営本部を置き、これらの下に各種の戦闘部隊を配置した。
八旗とは違う単一種族の軍隊の為、民族主義の巣窟ともなった。

団練・郷勇

漢朝後期に出現した私兵集団。団練は有力者が組織した街の防衛を司る私兵集団で、郷勇はそれらを統合し、政府の認可を受けた公認義勇軍である。
八旗・緑営制度の有名無実化に伴い、末期においては主力軍として運営され、後には軍閥の起源ともなった。

文化

各種族の文化が入り混じっている為、地域差が非常に激しい。宮廷のある盛京では、第7代武帝の時代に華やかな宮廷文化が栄え、各種族の建築様式を取り入れた壮麗な離宮群が築かれた。
宮廷においては皇帝のお膝元で数多の文人や芸術家が活躍し、詩賦・音楽・美術などあらゆる面で重要な傑作が多く残された。
一方識字率の上昇に伴い、民間においても優れた作品や芸術家が多数輩出されるなど、セリカの歴史上でも最も華やかな文化の花開いた時代と評価されている。

文芸文化

漢代における文芸文化は、主に宮廷に集う文人や詩人から始まったとされる。
禁城には文瀾閣をはじめとした図書館・蔵書楼が設けられ、そこに付随した研究機関において多くの文化人が作品を残した。(文瀾閣文化)
例えば人間出身の詩人である王靺鞨、或いはエルフ出身の詩人であるガル・マンブジなどは、漢代以前に栄えた文体を再度取り入れた擬古文詩の分野で活躍し、尚武の時代において顧みられてこなかった古典作品に再度脚光を当てた。
また、政治的風紀の弛緩した建安時代末期から明安時代にかけては、伝統的戯曲「京劇」や技巧と艶麗を極めた「宮体詩」などが大いに発展し、既存の儒教的な道徳を打破した耽美の時代が続いた。この頃に活躍したのは「両安十三絶」と呼ばれる詩人・脚本家達で、彼らは男女の恋愛や宮廷の華やかな生活を讃える詩や戯曲を皇帝や権臣の下で披露し、名声を博した。
しかし、光華時代に至って再度清新の気風が取り戻されると、これらの絢爛な文化は退廃的として弾圧の対象となった。これ以降文瀾閣においては儒教・礼楽を中心に政治的な学問を専門に扱う様になり、文人達による創作は民間へと移っていくことになる。
他方では民衆文化も花開き、都市では高い識字率のもと小説などの新文学、或いは庶民の娯楽として歌劇などが大いに発展した。平和を謳歌した貞観期や天佑前期などは、恋愛物語の極致と言われる「夢龍記」、街の講談から生じたとされる軍記物語「張家将」などの作品が生まれ、国の経済的発展に合わせて多彩な作品が世に送り出された。
しかし、その裏では貧困に喘ぐ下層の人々にスポットを当てた作品も多く生み出され、特に平帝の頃には「都城清明図」、「貧窮外記」、「山野骨道」などの世相を嘆き、憂世の不条理を糾弾する風刺文化が栄えた。これらの風刺文芸は章帝の時代において言論統制が弱まると盛んに出版される様になり、かつての清新の気風を取り戻そうという、「貞観回帰」運動の原点となった。
明帝以後の王朝末期においては、「渇水宮」などの揺らぐ漢朝の上流階級の退廃と悲劇を描いた退嬰文学、身分制度の崩壊を背景として、「寒門盛者」などの主人公が貧困から身を起こす立身譚、戯曲「龍蛇伝」他、身分の高い者が低い者と恋をする貴賤結婚譚などの文芸が盛んとなった。
また、動揺する国情の安定を望む民衆の間では、その頃に神話的な名声を得るに至った「将軍公主」李紫雲の生涯に題をとった長編白話小説「紅公主演義」などが持て囃され、京劇や講談の演目としても大いに人気を博した。(この他にも多くの李紫雲を扱った作品が残されているが、この作品が内容的にも文学的にも圧倒的に高い評価を得ている)

学問文化

漢代の伝統的な学問は主に儒教の古典を解釈し、新たな注釈を示す訓詁学の復興から始まり、その後中期の老荘思想
勃興を経て、最終的には西洋的な価値観に対抗するための新儒教の発生に至った。
これらの伝統的学問は人間から始まった華夷思想に、多種族の文化的な道徳を吸収していく形で発展し、また国際情勢の激変に対応するための、政治的理論としても研究が続けられた。
他方第7代武帝の時代には、外圧を跳ね除けるための海外技術の吸収、「西学」と総称される新たな分野が開拓された。西学の目標は所謂科学復興であり、かつての南北朝時代において絶頂を迎えた科学技術の研究を再度国をあげて行おうという思想の下、各地で学堂が建設された。

食文化

国の食文化について詳しく

被服文化

主として旧来の人間の服装が用いられているが、一部に遊牧民の影響が見られる。
中央の朝廷では、皇帝は人間でありながら、獣人種の文化を取り入れた被服(旗服)が用いられており、多様性の象徴とすると共に、大漢元来の諸種族連合政府的性質を表している。

建築文化

国の建築文化について詳しく

伝統芸能

国の伝統芸能について詳しく

社会

社会は複雑に絡み合った身分階層に分かれており、それぞれの身分毎に異なる生活様式や文化を持っている

皇族

皇族である李氏は、原則として永代に渡る特権階級たることが担保される。彼らは臣下を区分けする品階の外(超品)にあり、どれだけ位の低い皇族であっても、一等公爵から礼を受ける権利を持っていた。
皇帝の息子は親王、娘は公主の位を受け、終身に渡り俸禄を受ける権利を有している。
しかし、一部の親王・郡王家を除いて位をそのまま世襲することはできず、功績が無ければ一代ごとにその位を落としてゆき、十代の時点で爵位を失う。(爵位を失ってもそれは皇族の籍を失うことを意味せず、皇族として礼を受ける権利と種々の優遇措置は皇帝が把握できる限り限り与えられた)
爵位とそれに伴う恩典は当主と嫡子のみが引き継ぎ、その他の息子および女子は、皇族から別の家に嫁ぐか養子に出た時点で皇族を名乗る権利を失う。
しかし、それらの庶子は却って国に貢献しようとする者が多く、開元年間になると、歴史ある皇族家よりも、そうした次男以下の子供が家祖となった一族が多数を占めることになった。

貴族

各種族には、かつて分裂していた時代の名残で貴族制度が強固に残っており、それぞれ独自の様相を呈する。
例えばゴブリンの貴族階級とは、純粋な腕力と智慧に優れたもので構成され、世襲は存在しない。その為特権階級というよりも指導者階級の色が強い。

官僚

別名士大夫。科挙と呼ばれる国家試験、或いは公的な推薦制度である秀才・孝廉制度によって取り立てられた官吏を指す。
一品〜九品までの流内官と、それ以下の流外官に大別され、流内官になるには秀才推薦や倍率数千倍の科挙合格が必須となる。
流外官は地方長官の権限によって採用される臨時雇の下級官僚であるが、末端の行政を担う重要な存在である。
また、実績を上げれば推薦を受けて秀才や孝廉として上級官僚になる資格を得られた。

多種併用制

多民族を内包した国家という性質上、それぞれの土地や種族に合った統治制度を敷く必要があった為、凡ゆる官庁では人間と他種族の数が同じになる様定員が設定されていた。
また、各種族の現住地とされた地域では、人間を除く五種族が優先的に登用された他、理藩院等でも人間より優遇された。

教育

国子監や京師大学堂を筆頭とする官営学校と、私営の私塾が教育の中心である。

テクノロジー

国の技術について。魔術などもここに

国民

国民は七つの種族に大別され、それぞれに居住地が定められ、それぞれの種族の慣習によって統治されている。それぞれの種族の位置付けは、
・人間…通常の人間。帝国の実質的支配種族。人口、領域ともに最大の種族集団。帝国総人口の七割前後を占める。君主は人間に対しては皇帝、天子を称し、彼らの制度を元に国を作った。
・獣人…「狩猟の民」にして、帝国第一の支配種族。帝国の北部に居住する獣の特徴を持つ人々の総称で、十を超える異なる種族が存在する。大漢成立以前から人間の領域に侵入して略奪や征服を繰り返してきた。皇室の李氏は、獣人と人間の系譜を引く混血の一族であることから、人間の制度を支配の基調にしつつも獣人の文化を取り入れた。
五感に特に優れ、嗅覚や聴覚を活かした斥候や間諜、或いは夜目と狩りのノウハウを使った夜襲などで大きな戦果を挙げている。人口は犬系獣人(狼など)と猫系獣人(虎など)の二大種族が特に多い。君主は獣人に対してはハーンを称する。雅称は満種人。
・エルフ…「森・山岳の民」。森で採集、狩猟生活を営む種族。魔力に長けており、帝国軍の魔導師部隊の中核を成す。君主はエルフの守護者を兼ねる。長耳人とも。
・ゴブリン…「洞窟・地下の民」。集団を形成し、不毛の大地を現住地とする略奪種族。統率性が高く、傭兵部隊としての強さは随一。君主はゴブリンの大首領を兼ねる。また、鉱山種族としても有名で、不毛の山に坑道を掘り進め、地下道を構築している。矮人とも。
・ドワーフ…「鍛治の民」。矮小な体躯を特徴とする種族。鍛治冶金を筆頭とする技巧に長けた種族で、人間が帝国を建国する際に武器を提供した。信仰心が厚く、天の神を熱心に崇めている。君主はドワーフの護法帝王(現地の呼称は不明)を兼ねる。鉄小人とも。
・鬼…「放浪・呪術の民」。人間の体躯をしているが、体色が著しく他の種族と異なる、また巨大な角と目を持つなど様々な相違点がある(非常に恐ろしげな見た目であるとされる)。定住地を持たず、あちこちの領域を移動する。呪術・医療を生業とする者が多く、多種族からは賎民扱いされていても国には欠かせない。君主は鬼のブグ・カガン(ボー・ハーン、巫術王の意)を兼ねる。
・夢境…遠い北の地の民。理藩院の統治下にない独自の「外藩」に分類され、中央政府の統治が及ばない強い自治権を持つ。正確には十二の都市国家を有する九つの種族から構成されているが、便宜上一つの人々として扱われている。

言語

言語体系は非常に複雑である。セリカ帝国の領域では、合計すると約100種類の言語・方言があるとされ、同じ言語の中でも意思疎通が困難な物が数多い。
特に北域の獣人語は、彼らが元来ルーツごとに分裂し、互いに同一の種族という意識が無かった為、方言を通り越して完全な別言語と化していた。漢王朝の祖たる高祖が現在の燕京周辺に居住していた猫系獣人達の方言(通称「南音」と呼ばれる、中世までの獣人語の方言)を基に「獣人語文語体」(獣文。満種語とも)を構築し、これが現在セリカで話される「獣人語」のルーツとなった。(尤も、獣人自体が人間に同化して埋没するにつれて獣人語は失われていき、王朝末期には母語話者は北域でもほとんど残っていなかった)
現在国家によって制定された公用語は次の七つである。

・盛京官話…盛京周辺で話されていた人間の言葉。内地の標準語。海外から見てセリカ語といえばこのことを指す。
・獣人語…燕京周辺に居住していた猫人部族の方言を基盤に成立した「獣人語文語体」をルーツとする言葉。「満種語」、「国語」とも呼ばれる。
・長耳語

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