保慶元年(一九二〇年)五月某日。混沌満ちる夢境の、その中でもセリカ内地から最も遠い極北の地。多くの随員や兵士と共に数十日もの旅程を経て、李紅珠は夢境の中でも特に謎めいたそこへと至っていた。
「これは……」
そこで目の当たりにした光景に、彼女は言葉を失った。側に控えていた副官の劉子建も同様である。二人の乗る馬も、警戒心を露わに唸った。
彼らは今回、夢境に暮らす亜人の一派である銀腕族の元へ勅使として派遣されている。表向きの理由は銀腕族の朝貢を受け、その長を大漢に使える扎薩克として冊封するためだ。しかしそれならば大漢の方が、銀腕族が送った朝貢使を出迎えるのが通例である。
この冊封使の真の目的は、四年前の北伐により豊州を奪還して以来、回復しつつある北方領域への大漢の支配力を強化することであった。帝国北部国境を守護する燕雲都督たる紅珠を勅使とする人選も、それを言外に物語っている。
紅珠たちは夢境最北の地に暮らす銀腕族の元へ向かうという名目で、漢軍を引き連れ夢境を縦断。途中で他種族の集落へも立ち寄り、外藩地域への統制を引き締めていった。
そうして長い時間をかけ、ようやく銀腕族の城市である蓋土の近く、それを一望できる丘の上までたどり着いたのだが。
「そもそも、これは城市と呼んでいいのかしら」
「分かりません。ただ別の何に例えようにも、どうすればよいか」
紅珠と子建は言葉を交わす。
彼らの前には、硝子か鼈甲を思わせるような半透明の壁がそびえていた。それは山に匹敵するほど高くまで伸び、半円状に蓋土の街をすっぽりと覆っている。
その中に広がる風景も、街と呼ぶには憚られる異様さだ。大小様々な白い正方形が整然と配置され、光源不明の不思議な明るさで満たされてる。
「相変わらず不気味な場所だ」
吐き捨てるように呟いたのは、冊封使の随員であるジアンという女性だった。彼女は銀腕族とは別の亜人の一派、真女族の者である。セリカ内地の人間には不慣れな夢境北部の案内役として、真女族の都市彩蓮で紅珠一向に加わった。
「ジアン、あれは何? 蓋土とはいったいどういう都市なの?」
「申し訳ありません。私どもも、詳しいことは分からないのです。銀腕族めは他種族との交流を全く持たず、城市にも外部の者を一切入れようとしませんので」
紅珠の問いに、ジアンは厳しい顔つきのまま答えた。
「外部の者は一切入れない? それは困るわ。冊封しなきゃいけなんだから」
「流石に僕たちの入城を拒みはしないと思いたいですが。冊封使の来訪を伝えた先触れも、了承されたようですし」
いずれにせよ、ここまで来て引き返す理由はない。紅珠は心配げな顔をしつつも丘を下り、蓋土の街へと向かうのだった。
◆ ◆ ◆
幸いにも、紅珠たちの蓋土入りはすんなり受け入れられた。
大漢の使節が蓋土へ近づくと、どういう仕掛けか蓋土の壁に穴が生じ、銀腕族の一団が外へと出てきたのである。
銀腕族はみな、男性とも女性ともとれない中性的な顔立ちをしていた。そしてみな同じような顔立ちで背格好だ。太った者も痩せた者も、背の高い者も低い者も、美しい者も醜い者もおらず、大量生産される土産物屋の人形のように同じ姿をしている。
そして「銀腕」族という中字名の通り、礼服から覗くのはとても生物のものと思えない、光沢ある硬質の肌だった。
大漢の礼服を身に纏った彼らの中で、ひときわ立派な礼装の者が進みでた。
「勅使、燕雲都督、李和恵殿でいらっしゃいますか」
「ええ。あなたが銀腕盟の使者ね」
「はい。勅使様、およびその麾下のお方々の案内をいたします、イオタと申します」
流暢な官話でそう答えると、イオタは深く一礼した。
「例年通りであれば我々の方が入朝するところ、遠路はるばるようこそいらっしゃいました。謹んで勅使をお迎えいたします。歓待の準備は済んでおりますゆえ、どうぞこちらへ」
そう言って、イオタは半透明な壁の中、蓋土へと使節たちを招き入れた。
得体の知れない街へ足を踏み入れることに若干の抵抗を感じつつも、紅珠一行はその穴をくぐり抜ける。
中に入って改めて見ても、やはりその光景は異様としか言い様がなかった。紅珠に付き従う兵士達はみな百戦錬磨の八旗の精鋭であるが、その彼らもまたどこか不安げな顔つきで周囲の景色を伺っている。
遠目にも見えたとおり、建物ほどの大きさの様々な白い正方形が並べられている、ただそれだけの空間。素材は正体不明だが硬質で、紅珠たちが知る中では象牙に近いだろうか。
空が半透明の壁ですっぽり覆われているからか、北方地域夢境の更に極北であるにも関わらず気温は快適そのものだ。
だが、それにも増して不可思議なのは。
「ねえ、イオタ。この街、人がまったくいないようだけど」
「資源効率の観点から、我々は蓋土の機能維持に必要な場合に最低限の個体が活動し、通常は低機能状態で待機しています。勅使様の歓待は、大漢との友好関係構築が蓋土への外部干渉防止に効果的と推測されるため、十分な個体が適切に準備を整えておりますのでご安心を」
「低機能状態、ね。冬眠のようなものかしら」
蓋土の街は、あまりに静かだ。穴をくぐり抜けてから街の中心部へ向かうまでの道すがら、誰一人とも住人らしき銀腕族とすれ違わない。それどころか鳥も鼠も羽虫さえ見かけず、木が揺れる音も川のせせらぎも聞こえなかった。ただ漢軍の兵士達が行進する、甲冑の擦れ合う音と規則正しい足音が寒々しく響くのみである。
「到着いたしました」
やがてイオタは、ある建物で立ち止まった。
「蓋土へ滞在される間、お泊まりしていただく施設でございます」
「あら。やっと落ち着く建物を見られたわ。周りが周りだから、なんだか浮いているけど」
「外部の方が滞在されるのは滅多にないことですゆえ、ここ一つだけあれば十分なのです」
彼らの目の前には、セリカの様式で建てられた大きな屋敷があった。広々とした敷地に厩舎まで備えられ、中庭では海棠が美しい花を咲かせている。白一色の静謐な空間の中に突然現れたその屋敷は、まるでどこかから切り取ってきたかのような違和感があった。
「本日は既に晡時の終(十七時)でございますし、勅使様も長旅によりお疲れでございましょう。こちらにてお休みいただき、明日より冊封儀礼と宴を行う予定です。もちろんもてなしを怠るつもりはなく、本日の晚膳も相応しいものをご用意しております」
「ありがとう。あなたの言うとおり、彩蓮から移動続きで疲れていたところよ。お言葉に甘えて、休ませて貰うわ」
広大な敷地には複数の離れもあり、部下たちも十分収容できそうだった。紅珠は下馬し、部下たちにもこの屋敷で休むよう指示を出す。彼女自身は子建と共に、中庭に面した特に立派な部屋をあてがわれた。
その部屋も豪華な架子牀(セリカ式のベッド)や炕卓(オンドル上のテーブル)が備え付けられ、大漢貴族の邸宅として申し分ない造りである。
「今晩はゆっくり眠れそうで助かるわ。最近は野営続きだったから」
「はい。男所帯の軍の中では、郷主様は特に気苦労も耐えないでしょう。本当は営所や糧食も、もっとちゃんとしたものがご用意できれば良いのですが」
紅珠はベッドに腰掛け、嬉しそうに口を開いた。子建もそれに同調する。
「お母様も通った道だし、それくらいでへこたれる気はないんだけど。頑張らなくっちゃ」
ベッドに腰掛けたまま、彼女は被子(掛け布団)の裾をぎゅっと握った。彼女が憧れる母は、北漢事変や黄天戦争では寝る間も惜しんで戦場を駆けた。それに比べれば平時の行軍の環境など、なんと快適だろう。
「そういえば大都督が彩蓮の反乱を鎮圧したのは、ちょうど今の郷主様の年齢の頃でしたね。それ以来彩蓮は大漢によく仕え、夢境も中部以南はよく治まるようになったとか」
「今回のジアンのように、真女族は私たちに協力してくれる。お母様の徳あってのことだわ。私も銀腕族にしっかり大漢の威徳を見せて、忠誠を確かなものにしなくちゃね」
見ていて、お母様。紅珠は決意を込めてそう呟く。
半透明の天蓋に覆われた上で、北斗七星は静かに瞬いていた。
◆ ◆ ◆
翌朝。気温や湿気の完璧に整えられた部屋で気持ちよく目覚めた紅珠は、隣のベッドで眠る子建を起こさないようにそっと机に向かった。
まだ随分早い時間のはずだが、蓋土の緯度と時期ゆえ陽光は既に差し込んでいる。宮燈をそっと灯せば、机の周囲は十分に明るくなった。
紅珠はそれを満足げに確認すると、持参してきた『兵法十三篇』を開いた。彼女の母である紫雲が記したこの兵法書は、紅珠にとってかけがえのないバイブルである。毎朝、何をするよりも早くこの本を開いて適当な一小節を読むのが、欠かせない日課だった。
何度も何度も読み返したから、内容自体は完全に頭に入っていると言って良い。それでも毎日開くのは、占いのような意味がある。適当に開いた一小節の内容は、母がその日心に留めておくべきものとして自分に示してくれたもののように思えるのだ。
(夢境の旅用に持ってきたのは『天見篇』、今日は『郷貨』の章ね)
開いた『天見篇』は戦争の前触れを解説したもので、『郷貨』は特に経済や産業についての章だ。
(「温飽足って則ち干戈の益を知らず、つまり衣食が満ち足りていれば戦は無意味と感じるという言葉がある。しかし実際には過剰に国が富むことで人心が堕し……」)
それを黙読すること約一刻(三〇分)。子建も目を覚まし、既に起きていた主を目に留めて慌てて飛び起きた。
「す、すみません! 郷主様が既にお目覚めだというのに、僕の方が眠りこけるなど」
「いいのよ。私の方が今日は早起きだったの。やっぱりよく眠れたみたい」
ばたばたと紅珠の着替えや化粧を用意する子建に笑って、彼女は『天見篇』に栞を挟んだ。そして外に広がる丁寧に整えられた中庭に何気なく目をやって、そこでふと頭に疑問が浮かんだ。
「ねえ子建。銀腕族は何のために、この城市を築いたのかしら」
「確かに不思議ですね。巨大な天蓋、謎の素材でできた正方形群、それにセリカ内地から遠く離れた地に完璧に再現された邸宅。尋常の技術力ではなさそうですが」
「亜人も含めてヒトはみな、目的があって行動を起こすわ。農業のために水路を引き、通商のために道を拓き、安全のために兵を養って城壁を建てる。でも銀腕族はこれほどの都市を打ち立てておきながら、外との交流は最低限で、内でも多くの者は冬眠している。何がしたいの? それとも、何もしたくないということ?」
多種族国家である大漢の高官として、紅珠も鬼や獣人、巨人など様々な種族について見識を深めてきたつもりだ。だが銀腕族はそのどれとも違う、得体のしれない存在だ。
「いずれにせよ、夢境の霧は払われつつある。大漢だけでなく、皇国やシルベリアも進出しているんだもの。そう遠くないうちに、蓋土の鎖国政策を維持することは不可能になるはずよ。そうなる前に、私たちが蓋土の手綱を握らなくてはいけないわ」
「はい。そのためにも、此度の冊封で大漢の権威を示さなくては」
「それもそうなんだけど、ただ銀腕族に他の種族と同じやり方が通じるかも不安よ。彼らは近代国際法とも華夷秩序とも亜人たちの弱肉強食の論理とも異なる、何か別の行動原理に従っている」
それが何なのか。紅珠にはさっぱり分からないが。いや、果たして銀腕族当人たちを除いて、この世にそれが分かっている者がいるのだろうか。
そんなことを考えつつ礼服に着替えた紅珠は、そこで一人の従者のことに思い至った。真女族の案内人、ジアンである。彼女も蓋土に入るのはこれが初めてのようだが、同じ夢境の亜人として何か知っていることがあるかもしれない。真女族と銀腕族の城市は比較的近いし、ジアンは宗主国大漢の勅使の随員に選ばれるだけあり彩蓮ではそれなりの地位の女性でもある。
彼女も同じ屋敷の別の部屋をあてがわれているはずだ。
時計を一瞥してまだ早い時間であるのを確認すると、紅珠は子建を連れてジアンの部屋へと向かった。
「ジアン、少し良いかしら」
「はい。郷主様、どうぞお入りください」
彼女は既に起きていて、紅珠が扉を開けると跪き出迎えた。
ジアンは彩蓮では女王の親衛隊の上将を務めており、寡黙だが礼節をよくわきまえて武人然とした女性である。淫魔の種族である真女族は放濫な者も多い中、彼女は珍しいタイプで、紅珠は非常に好感を寄せていた。
「突然ごめんなさい。実はあなたに、聞きたいことがあって。銀腕族について、何か私たちの知らないことがあれば教えてほしいの」
「左様でございますか。あいにく私も大したことは存じませんが、真女族に伝わる歴史や伝承の中にいくつか彼らにまつわるものがございます。それに関してであれば、お話できましょう」
「お願い」
紅珠がそう頼むと、ジアンは「どこからお話いたしましょうか」と少し悩んだものの、やがてゆっくり口を開いた。
「そもそも我々真女族、いや、他の種族も含めて夢境の亜人はみな銀腕族へ敵意を抱いております。今から三百年ほど前には多種族連合軍が蓋土を攻めたこともあったとか」
「意外ね。銀腕族は蓋土の中でずっと冬眠しているんじゃないの? そんなに色々な種族の恨みを買いそうには思えないけれど」
「ええ。彩蓮に残るいかなる史書を紐解いても、奴らはごく少数が外交のため出向く他は蓋土から出てきません。ただ史書には記されぬほど昔、銀腕族めは夢境全土を覆い尽くし、他の種族を殺戮し回っていたと言われております。確たる証拠のない伝承ではありますが、蓋土からほど遠い獣人や魚人たちでさえ、夢境の亜人の間に共通して残る伝承ですゆえ、真実であろうと私どもは信じているのです」
「殺戮、ねえ。今の蓋土の様子からは中々想像もできないけど、古代から現代までの間に何かがあったのかしら」
紅珠の目に映った蓋土の街は、死んだように静かだ。とても各地に軍を派遣し、暴虐の限りを尽くすような雰囲気は感じられない。
「それがいつ始まり、いつ終わったかも分かりません。ただ歴史時代が幕を開けた頃には銀腕族めは今のように蓋土を閉ざし、我々真女族や他の種族は惨禍の再来を恐れて奴らを滅ぼすべく、たびたび蓋土を攻めるようになったのです。最も古くは千年以上も前……」
そこからしばらく、紅珠と子建はジアンの話に耳を傾けた。しかしいかなる魔術も火砲も蓋土を覆う半透明の壁を破れず、ただ亜人たちが諦めて去ることの繰り替えしで、あまり有益な情報があるとは言えなかった。
「どういうことなの。銀腕族はまるで、甲羅に籠もった亀のようだわ。何もせず、何も語らず、されるがまま。他の亜人たちが信じる伝承が本当だったとして、古代に何が起こったの。ますます分からなくなったわ……」
紅珠は頭を抱える。子建とジアンも眉をひそめ、しかし彼女の疑問に答えられはしなかった。
◆ ◆ ◆
ジアンの部屋を後にした二人は準備を済ませ、屋敷を後にした。結局銀腕族について詳しいことは分からなかったが、時間が進むのは待ってくれない。
(夢境の種族の間に銀腕族とそれ以外という対立関係があると分かっただけでも収穫かしら。皇国らの外藩切り崩し工作に対抗する上で、重要な要素ではあるもの)
屋敷の前では既に漢軍の兵士達が隊列を組んで待機しており、イオタら銀腕族の出迎えの姿もあった。
「おはようございます、勅使様。辺境住まいの我々なりに最上の屋敷と晩膳を用意いたしましたが、至らぬ点がございませばどうかご容赦を」
「まさか。とても素晴らしいもてなしだったわ。ありがとう」
「勿体ないお言葉でございます。冊封儀礼の後にも宴を準備しておりますゆえ、どうぞご期待くださいませ」
そう言うとイオタは先導役として、他の銀腕族たちと共に隊列の先頭に立った。そのすぐ後ろ、漢軍の先頭に立って隊列を率いるのはもちろん紅珠である。
「行きましょう。軍楽隊、吹奏開始! 出発よ!」
「「しゅぱーつ!!」」
兵士たちは命令を復唱し、それを同時に嗩吶と銅鑼の音が鳴り響いた。小銃を抱えた兵士たちは一糸乱れぬ動きで行進を開始する。先頭には八旗の各ニルが掲げる大旗と黄竜旗がはためき、軍楽隊は高らかに行進曲を奏で始める。
漢軍の意向を現地住民に知らしめるための、華やかな行進。しかし彼らが行く道は昨日と同様に一人の姿も見えない。
しかし街の中心部、ひときわ大きな正方形の付近に近づくと、おそらく今日こうして漢軍を出迎えるためだけに起こされたのであろう銀腕族たちが集まり、整然と居並んで漢軍の行進を見守っていた。
漢軍の行進は正方形の手前で止まる。そこからは紅珠と子建を含む数人の高官のみが、儀礼上に入るのが習わしだが。
「この正方形、どこかに入り口があるの?」
紅珠はいぶかしげに、つるつるとした真っ白な壁面を眺めた。しかしイオタが手をかざすと、継ぎ目などなかったはずの壁面にすっと穴が開く。
「どうぞこちらへ」
イオタに促されるまま、紅珠らは正方形の中に入った。中も白一色で何もない空間が広がっているだけだが、今日のために準備したのかセリカ式の燭台や敷物などが用意され何ともアンバランスな雰囲気を醸し出している。
「このような殺風景な場所で詔書を受け取るご無礼を、どうぞお許し下さい。我々は相互に接続された並列思考回路を共有しているため、いわゆる王に相当する個体や、それ専用の空間を持ちません。大漢より冊封を受ける役割の個体という意味での王はおりますが。今回勅使様方をお迎えするにあたり場所を検討した結果、蓋土の根幹とも言うべき動力施設が適切と判断し、可能な限り改装した次第です」
「並列思考……? まあいいわ。普通であれば無礼と憤るところだけど、街の様子からして泊まった屋敷以外の建物はみんなこうみたいだもの」
「ありがとうございます」
そんな急ごしらえの謁見の間では、左右にずらりと豪華な身なりの銀腕族が並び、中央には一際立派な衣装の者が控えていた。
「勅使燕雲都督、栄積郷主殿下ご入来!」
イオタが声を張り上げると、謁見の間にいる銀腕族らは一斉に平伏した。楽隊が音楽を奏でる中、紅珠たちはゆっくりとその中を進んで行く。
やがて中央で跪く銀腕族の前へとたどり着くと、彼が顔を上げ口を開いた。
「かねてより偉大なる大漢皇帝陛下により、銀腕盟扎薩克の地位を拝受しております、ゼータと申します」
「燕雲都督、李和恵よ。これより陛下の勅令を伝達するので、謹んで詔を受けるように」
「はっ。謹んで詔を承ります」
「『朕大漢皇帝の名において、汝の朝貢を受け入れ、褒美として善陀蓋土郡王(サンダラガイツギュンワン)に封ず。また九旗の長は格別の恩寵を以て何も奉恩鎮国公に封ず…以上、欽此(かくのごとし)』」
「謹んでお受け致します。皇帝陛下万歳万歳万々歳」
「「皇帝陛下万歳万歳万々歳!」」
盛京へ朝貢使を迎えて行う儀礼に比べればあまりに簡素であるが、出先ということを考慮すれば仕方がない。もっともこの数十年は大漢の衰退に伴って、通常の冊封儀礼も以前と比べてはるかに簡素になっているのだが。
「こちらはこの度の朝貢品目録になります。叙爵への感謝を込めまして、この通り朝貢いたします」
「皇帝陛下の方よりも、爵位の栄進を祝う引き出物を下賜するわ。目録を受け取りなさい」
例年、蓋土の朝貢品の多くは金剛、紅玉、蒼玉などの宝石が占める。また大漢では精錬が難しい鈦(チタン)や軽銀(アルミ)などの金属、そして高純度の鋼鉄、赤銅、活字合金などの合金も、工業化を進める近年の大漢にとって重要であった。
大漢側が用意した下賜品は、大量の金銀や絹織物と言った奢侈品、書物や雅楽の楽器、礼服など多岐に渡る。そのどれもが一級品であり、大漢の国力を如実に示すものであった。
列強による国土の蚕食に苦しむ大漢では、一時期は朝貢品を上回る価値の下賜品を用意できないほどであったが、李紫雲の活躍により持ち直したここ十数年ほどは、再び下賜が入貢を上回る状態となっている。
紅珠は朝貢品の目録を見てそれを確認したが、目録の最後に見慣れない品名を見つけた。
「朝貢品の内容は大変結構。ただ一つ、この『龍胚』というのは如何なる品物かしら。前回までの朝貢品には含まれていない物ね」
「『龍胚』は莫大な熱を引き出すことが可能な動力であり、現在は龍の眷属を除くヒト属にのみ起動権限が与えられています。我々の役割は龍の眷属からこれを保護すると共に、権限を有する個体が蓋土を訪れた際、同個体に起動の意思を確認することにあります」
質問に対して返ってきた答えは、なんとも要領を得ないものだった。銀腕族の言葉はたまに、何の説明もないまま謎の単語が混入することがある。漢語に対応する単語がない専門用語まみれの海外の学術書を、無理やり訳した文章を読んでいる気分だ。
そんな紅珠の反応を察したようで、ゼータは言葉を続けた。
「実物をご覧いただければ、ご理解が早いかと思われます。この後は勅使様をおもてなしするため宴を用意しておりますが、よろしければ先に『龍胚』を確認いたしますか」
「確かにそれが良さそうだわ。そうしましょう」
「では、イオタがご案内いたします。こちらへ」
ゼータがそう言った途端、それまで継ぎ目も見当たらなかった床の一部に穴が開く。例によって穴の中も白一色で、螺旋階段が下へ続いているようだった。
◆ ◆ ◆
イオタに先導され、紅珠は子建ら部下たちと共に螺旋階段を降りる。
「先のゼータ殿の言では、『龍胚』とやらを働かせる権限は人間のみに与えられている、あなたたち銀腕族は『龍胚』の保護が役割である、ということですが」
灯りもないのに光で満たされた階段は、かなり深くまで続いているようだ。道中の無言を破ったのは、険しい顔をした子建だった。
「はい」
「その言い方だと、『龍胚』はあなたたちが作成ないし採集した品物ではないように聞こえますが。別の誰かが権限を設定し、あなたたちにその保護を命じた、ということですか」
「その通りでございます。我々は管理者により承認された手順に従っております」
床は硬質の素材であるのに、不思議と反響はしない。一同の規則的な足音が、軽くコツコツと音を立てるだけだ。
「それは誰? その者も蓋土にいるの?」
今度は紅珠が尋ねた。
「我々の管理者は蓋土には存在しません。『龍胚』の保護は五三九万四三五〇日前に設定され、それ以降は新たな指令はありません」
さらりと出てきた数字に、思わず紅珠と子建は顔を見合わせる。正確な年数は暗算できないが、五百万日なんて一万年をゆうに超えてしまうだろう。
「それなら、いったいどこにいるのよ」
「我々を製造、運用していた民族集団は既に絶滅しています。我々の管理権限は『龍胚』に連動しているため、現在は管理者は存在しません」
絶滅とはまた不穏な単語が出たが、イオタの声音はまるで感情がこもっていない。気の遠くなるほど壮大な話を、彼はまるで明日の予定を確認するかのように淡々と告げた。
いきなりそんな話をされたら、紅珠はおそらく嘘をつくなと一蹴しただろう。しかし昨日からずっと、彼女は異様な蓋土の風景と技術を目の当たりにし続けている。
「それは……」
「到着いたしました」
紅珠は続きの質問をぶつけようと声を上げたが、それと同時にイオタも口を開いた。
階段の下には、複数の硬質の素材を組み合わせた重厚な扉があった。その先に『龍胚』とやらが置いてあるのだろう。なにげなく紅珠はそう思って扉をみやり、そして一瞬遅れて強烈な違和感に気づく。
「ここだけ急に、扉?」
紅珠は思い出す。蓋土の半透明の壁も正方形の建物の壁も、扉など作らず壁が自動的に開く謎の技術が使われていたはずだ。なぜここで、わざわざ扉が出てくるのか。
「設計者の感傷だと推測されます」
「それは、あなたたちの管理者だった者たち?」
「ええ。扉。門。あちら側とこちら側を区別する目印。この施設の設計者はそれを意識し、象徴的な意味をこの扉に込めたのでしょう。我々には理解できない思考様式です」
イオタはそう言って、なんの感傷もなさげに扉に手をかざした。紅珠の知らない言語で短いメッセージが流れ、扉はゆっくりと左右に開閉していく。
その扉をくぐり、イオタは中へ入っていった。紅珠はそれに続こうとしたが、子建がそれを制止する。
「郷主様。先に僕が」
「分かったわ。ありがとう」
そうして子建が先に中に入り、周囲に危険がないか警戒する。
扉の先には大きな部屋があった。もはや部屋というより、建物を丸ごと一つぶち抜いたような面積。だがそこに鎮座する巨大なモノのせいで、部屋の中はむしろ圧迫感が酷かった。
子建のあとに少し遅れて、紅珠も部屋に入る。
そこにあったのは、人の背の数倍もある巨大な炉であった。
紅珠がとっさに想像したのは、いわゆるダルマストーブとかホオズキストーブと呼ばれる胴長の鋳物ストーブ。それに太いパイプや謎の計器がごちゃごちゃと大量にくっつき、いまにも彼女たちを押しつぶさんばかりの機械の塊となっている。
「これが『龍胚』ね」
「正確には今皆様に見ていただいているのは、それを収めた制御装置です」
イオタは炉の覗き窓を指し示す。
紅珠がその中を見ると、そこでは何かの臓器のような大きな塊が、紫や緑色の炎を発しながら煌々と燃え盛っていた。その塊に近づくほど、まるで度の合わない眼鏡を使った時のように景色がゆがみ、あまり長時間見つめていると目がおかしくなりそうだ。
「夢境に生息する生物の中でも、特に膨大な魔力を有する生物です。その生命力と魔力の源となる臓器が『龍胚』。厳密には異なるものですが、龍の心臓と考えていただいても大きな問題はありません」
「龍の心臓。あなたたち、龍を殺したの!?」
セリカや夢境を含む極東地域では、龍は一般に瑞獣として人々に崇められる存在である。それをまるで動物を殺して肉や毛皮を採集するかのように扱うなど、紅珠らにとっては到底信じられることではない。
それになりより、神にも等しい存在である龍を簡単に殺せるものか。天を駆け膨大な魔力を振るう龍は、夢境の中でも間違いなく最強の生命体であるはずだ。
しかし
「それなら、夢境の亜人たちが銀腕族と敵対していたというのも納得できますね。彼らは僕らセリカ人以上に、龍を深く信奉していますから」
信じられないという顔をしながらも、子建はそう分析した。もしも銀腕族が資源として龍を狩っていたというのなら、これまで聞いた話の辻褄もあってくる
「はい。管理者たちは我々に命じ、龍を狩猟して『龍胚』を採取していました。その過程で管理者と我々は、龍やそれに従う者たちと対立しています。それでも『龍胚』から得られる莫大な魔力、またそれを変換して作り出す熱力や電力は、蓋土がこれを利用して繁栄した都市である以上不可欠でした」
「その力を、今後は大漢に差しだそうというわけ」
「現状の説明としては、そうなります。我々は蓋土を訪れたヒト属が『龍胚』を手にするまで、それを保護することを役割としています。今回は冊封のため、勅使様がいらっしゃいましたので」
その言葉通りなら、銀腕属が紅珠に『龍胚』の管理権を渡そうとするのは、大漢への忠義からではなさそうだ。ただ人間が来たら管理権を委譲を提案するという手順に従っているだけ。
紅珠と子建の脳裏にまず浮かんだのは、近年夢境に進出を進める皇国である。もし彼らが蓋土に来ることがあれば、銀腕属は同じように『龍胚』を渡そうとするだろう。そしてもし皇国人たちが頷けば。
「無限の魔力、熱力、電力……」
思わず紅珠の口から呟きが漏れる。
「『龍胚』を利用すれば、船は一度の補給もなく世界中を動き回れます。広大なセリカの家々はみな一晩中明かりが灯り続け、何百もの製鉄所を止めることなく動かすことができます。そしてその力を直接兵器として用いれば、一発で都市を滅ぼし、気候さえ変える威力となります。これは推測ではなく、事実としてかつての管理者の文明水準はその水準にありました」
イオタの話しぶりは相変わらず淡々としたものだ。だがその言葉は、紅珠の心を揺さぶるに十分であった。
なにせその力があれば、大漢の窮状など一瞬でひっくり変える。それは漢朝復興を願う紅珠にとって、この上ない悲願なのだ。
しかも逆に、ここで紅珠がそれを断ったとして、それでこの話が終わるわけではない。皇国もシルベリアも夢境に進出を始めているのだ。もし列強諸国が『龍胚』を手にしたら? もはや大漢は二度と、列強相手の力関係を覆せなくなるだろう。
「勅使様、これが『龍胚』でございます。もちろん今決断なさらずとも問題ございません。管理権は生体認証に依りますが、一旦上にお戻りになったあとでも可能です」
その声を聞きながら、紅珠は逡巡する。無限の魔力、その力が大漢にどれほどのものをもたらすか。
「いや、良いわ。決めた」
「郷主様!」
その即決ぶりに、子建は驚いて声を上げた。だが紅珠には迷いはない。
「『龍胚』。その管理権、私に渡しなさい」
◆ ◆ ◆
その後。改めて歓迎の宴が行われ、数日にわたって諸々の儀式や朝貢品、下賜品の受け渡しを済ませて、やっと紅珠たちは帰路に就くことになった。
そうは言っても蓋土は夢境の最北。帰りも彩蓮を始め、夢境の各都市を逗留しながらの長旅だ。
兵士達は口々に、何とも面妖な街だった、ようやく退散することができると言い合い、胸をなで下ろしている。
その背後にそびえる半透明の円蓋は、紅珠たちが入る前と変わらず白い町を包み込んでいた。
先頭の方で隊列を率いていた子建は、ちらりとその街に目をやった。そして自分の前を行く紅珠に視線を戻す。
「蓋土、本当に驚くべき街でしたね。正直なところ、僕はまだあそこで見聞したことが夢のように感じられます」
「私もよ。信じられない話の連続だったもの」
もうこりごりだわ、とため息をつく紅珠に、子建も苦笑で応じた。
「しかし驚きました。まさか郷主様が、『龍胚』の廃棄をお命じになるとは」
そう。紅珠は蓋土の地下で、確かに『龍胚』の管理権限を手に入れた。そして速やかに銀腕族らに、それを廃棄し関連技術も全て処分するように命じたのだった。
銀腕族らは特に抵抗もせず、『龍胚』はつつがなく硝子で固められた上で地下二〇〇引(約六〇〇メートル)へ埋められた。
「正直、心惹かれなかったと言えば嘘になるわ。銀腕族の話を信じるなら、あれ一つで大漢を取り巻く国際関係をひっくり返せる。でも、本当にそれで留まるの? 大漢全土を覆い尽くしてもお釣りが来るような無限の動力。間違いなく、今の人類の手に余る」
決断のとき、紅珠の脳裏によぎったのはやはり母だった。
思い出せ。彼女は紫龍雷や人工毒龍を好んだか? 人の理を超えた技術に縋って目先の勝利を手に入れたところで、母の墓標に胸を張って報告に行けるだろうか。
もし『龍胚』の技術が流出すれば? あるいは大漢で内紛が起こり、王朝が分裂したら? 複数の国家がその力で武装し争いあえば、どれほどの被害が出るか分からない。
「あれだけの技術を持っていながら、結局蓋土の管理者とやらは絶滅した。人の理性では制御できない高度な技術なんて、身を滅ぼすだけなんだわ」
「なるほど。流石、郷主様は深くお考えです。……先の大戦を思い出すお言葉ですね」
「そうね」
戦車、毒瓦斯、戦闘機、機関銃。近代兵器の破壊力もまた、古代の超兵器に勝るとも劣らない凄惨さを持ちつつある。武人と英雄の時代は終わり、戦場は地獄となった。
(それでも私は、大漢を守り続けたい。人の手で、私の手で。どうか見ていて、お母様)
紅珠は寒々しい夢境の天を仰いだ。
そして再び前を向き、蓋土の方を振り返ることはなかった。
「これは……」
そこで目の当たりにした光景に、彼女は言葉を失った。側に控えていた副官の劉子建も同様である。二人の乗る馬も、警戒心を露わに唸った。
彼らは今回、夢境に暮らす亜人の一派である銀腕族の元へ勅使として派遣されている。表向きの理由は銀腕族の朝貢を受け、その長を大漢に使える扎薩克として冊封するためだ。しかしそれならば大漢の方が、銀腕族が送った朝貢使を出迎えるのが通例である。
この冊封使の真の目的は、四年前の北伐により豊州を奪還して以来、回復しつつある北方領域への大漢の支配力を強化することであった。帝国北部国境を守護する燕雲都督たる紅珠を勅使とする人選も、それを言外に物語っている。
紅珠たちは夢境最北の地に暮らす銀腕族の元へ向かうという名目で、漢軍を引き連れ夢境を縦断。途中で他種族の集落へも立ち寄り、外藩地域への統制を引き締めていった。
そうして長い時間をかけ、ようやく銀腕族の城市である蓋土の近く、それを一望できる丘の上までたどり着いたのだが。
「そもそも、これは城市と呼んでいいのかしら」
「分かりません。ただ別の何に例えようにも、どうすればよいか」
紅珠と子建は言葉を交わす。
彼らの前には、硝子か鼈甲を思わせるような半透明の壁がそびえていた。それは山に匹敵するほど高くまで伸び、半円状に蓋土の街をすっぽりと覆っている。
その中に広がる風景も、街と呼ぶには憚られる異様さだ。大小様々な白い正方形が整然と配置され、光源不明の不思議な明るさで満たされてる。
「相変わらず不気味な場所だ」
吐き捨てるように呟いたのは、冊封使の随員であるジアンという女性だった。彼女は銀腕族とは別の亜人の一派、真女族の者である。セリカ内地の人間には不慣れな夢境北部の案内役として、真女族の都市彩蓮で紅珠一向に加わった。
「ジアン、あれは何? 蓋土とはいったいどういう都市なの?」
「申し訳ありません。私どもも、詳しいことは分からないのです。銀腕族めは他種族との交流を全く持たず、城市にも外部の者を一切入れようとしませんので」
紅珠の問いに、ジアンは厳しい顔つきのまま答えた。
「外部の者は一切入れない? それは困るわ。冊封しなきゃいけなんだから」
「流石に僕たちの入城を拒みはしないと思いたいですが。冊封使の来訪を伝えた先触れも、了承されたようですし」
いずれにせよ、ここまで来て引き返す理由はない。紅珠は心配げな顔をしつつも丘を下り、蓋土の街へと向かうのだった。
◆ ◆ ◆
幸いにも、紅珠たちの蓋土入りはすんなり受け入れられた。
大漢の使節が蓋土へ近づくと、どういう仕掛けか蓋土の壁に穴が生じ、銀腕族の一団が外へと出てきたのである。
銀腕族はみな、男性とも女性ともとれない中性的な顔立ちをしていた。そしてみな同じような顔立ちで背格好だ。太った者も痩せた者も、背の高い者も低い者も、美しい者も醜い者もおらず、大量生産される土産物屋の人形のように同じ姿をしている。
そして「銀腕」族という中字名の通り、礼服から覗くのはとても生物のものと思えない、光沢ある硬質の肌だった。
大漢の礼服を身に纏った彼らの中で、ひときわ立派な礼装の者が進みでた。
「勅使、燕雲都督、李和恵殿でいらっしゃいますか」
「ええ。あなたが銀腕盟の使者ね」
「はい。勅使様、およびその麾下のお方々の案内をいたします、イオタと申します」
流暢な官話でそう答えると、イオタは深く一礼した。
「例年通りであれば我々の方が入朝するところ、遠路はるばるようこそいらっしゃいました。謹んで勅使をお迎えいたします。歓待の準備は済んでおりますゆえ、どうぞこちらへ」
そう言って、イオタは半透明な壁の中、蓋土へと使節たちを招き入れた。
得体の知れない街へ足を踏み入れることに若干の抵抗を感じつつも、紅珠一行はその穴をくぐり抜ける。
中に入って改めて見ても、やはりその光景は異様としか言い様がなかった。紅珠に付き従う兵士達はみな百戦錬磨の八旗の精鋭であるが、その彼らもまたどこか不安げな顔つきで周囲の景色を伺っている。
遠目にも見えたとおり、建物ほどの大きさの様々な白い正方形が並べられている、ただそれだけの空間。素材は正体不明だが硬質で、紅珠たちが知る中では象牙に近いだろうか。
空が半透明の壁ですっぽり覆われているからか、北方地域夢境の更に極北であるにも関わらず気温は快適そのものだ。
だが、それにも増して不可思議なのは。
「ねえ、イオタ。この街、人がまったくいないようだけど」
「資源効率の観点から、我々は蓋土の機能維持に必要な場合に最低限の個体が活動し、通常は低機能状態で待機しています。勅使様の歓待は、大漢との友好関係構築が蓋土への外部干渉防止に効果的と推測されるため、十分な個体が適切に準備を整えておりますのでご安心を」
「低機能状態、ね。冬眠のようなものかしら」
蓋土の街は、あまりに静かだ。穴をくぐり抜けてから街の中心部へ向かうまでの道すがら、誰一人とも住人らしき銀腕族とすれ違わない。それどころか鳥も鼠も羽虫さえ見かけず、木が揺れる音も川のせせらぎも聞こえなかった。ただ漢軍の兵士達が行進する、甲冑の擦れ合う音と規則正しい足音が寒々しく響くのみである。
「到着いたしました」
やがてイオタは、ある建物で立ち止まった。
「蓋土へ滞在される間、お泊まりしていただく施設でございます」
「あら。やっと落ち着く建物を見られたわ。周りが周りだから、なんだか浮いているけど」
「外部の方が滞在されるのは滅多にないことですゆえ、ここ一つだけあれば十分なのです」
彼らの目の前には、セリカの様式で建てられた大きな屋敷があった。広々とした敷地に厩舎まで備えられ、中庭では海棠が美しい花を咲かせている。白一色の静謐な空間の中に突然現れたその屋敷は、まるでどこかから切り取ってきたかのような違和感があった。
「本日は既に晡時の終(十七時)でございますし、勅使様も長旅によりお疲れでございましょう。こちらにてお休みいただき、明日より冊封儀礼と宴を行う予定です。もちろんもてなしを怠るつもりはなく、本日の晚膳も相応しいものをご用意しております」
「ありがとう。あなたの言うとおり、彩蓮から移動続きで疲れていたところよ。お言葉に甘えて、休ませて貰うわ」
広大な敷地には複数の離れもあり、部下たちも十分収容できそうだった。紅珠は下馬し、部下たちにもこの屋敷で休むよう指示を出す。彼女自身は子建と共に、中庭に面した特に立派な部屋をあてがわれた。
その部屋も豪華な架子牀(セリカ式のベッド)や炕卓(オンドル上のテーブル)が備え付けられ、大漢貴族の邸宅として申し分ない造りである。
「今晩はゆっくり眠れそうで助かるわ。最近は野営続きだったから」
「はい。男所帯の軍の中では、郷主様は特に気苦労も耐えないでしょう。本当は営所や糧食も、もっとちゃんとしたものがご用意できれば良いのですが」
紅珠はベッドに腰掛け、嬉しそうに口を開いた。子建もそれに同調する。
「お母様も通った道だし、それくらいでへこたれる気はないんだけど。頑張らなくっちゃ」
ベッドに腰掛けたまま、彼女は被子(掛け布団)の裾をぎゅっと握った。彼女が憧れる母は、北漢事変や黄天戦争では寝る間も惜しんで戦場を駆けた。それに比べれば平時の行軍の環境など、なんと快適だろう。
「そういえば大都督が彩蓮の反乱を鎮圧したのは、ちょうど今の郷主様の年齢の頃でしたね。それ以来彩蓮は大漢によく仕え、夢境も中部以南はよく治まるようになったとか」
「今回のジアンのように、真女族は私たちに協力してくれる。お母様の徳あってのことだわ。私も銀腕族にしっかり大漢の威徳を見せて、忠誠を確かなものにしなくちゃね」
見ていて、お母様。紅珠は決意を込めてそう呟く。
半透明の天蓋に覆われた上で、北斗七星は静かに瞬いていた。
◆ ◆ ◆
翌朝。気温や湿気の完璧に整えられた部屋で気持ちよく目覚めた紅珠は、隣のベッドで眠る子建を起こさないようにそっと机に向かった。
まだ随分早い時間のはずだが、蓋土の緯度と時期ゆえ陽光は既に差し込んでいる。宮燈をそっと灯せば、机の周囲は十分に明るくなった。
紅珠はそれを満足げに確認すると、持参してきた『兵法十三篇』を開いた。彼女の母である紫雲が記したこの兵法書は、紅珠にとってかけがえのないバイブルである。毎朝、何をするよりも早くこの本を開いて適当な一小節を読むのが、欠かせない日課だった。
何度も何度も読み返したから、内容自体は完全に頭に入っていると言って良い。それでも毎日開くのは、占いのような意味がある。適当に開いた一小節の内容は、母がその日心に留めておくべきものとして自分に示してくれたもののように思えるのだ。
(夢境の旅用に持ってきたのは『天見篇』、今日は『郷貨』の章ね)
開いた『天見篇』は戦争の前触れを解説したもので、『郷貨』は特に経済や産業についての章だ。
(「温飽足って則ち干戈の益を知らず、つまり衣食が満ち足りていれば戦は無意味と感じるという言葉がある。しかし実際には過剰に国が富むことで人心が堕し……」)
それを黙読すること約一刻(三〇分)。子建も目を覚まし、既に起きていた主を目に留めて慌てて飛び起きた。
「す、すみません! 郷主様が既にお目覚めだというのに、僕の方が眠りこけるなど」
「いいのよ。私の方が今日は早起きだったの。やっぱりよく眠れたみたい」
ばたばたと紅珠の着替えや化粧を用意する子建に笑って、彼女は『天見篇』に栞を挟んだ。そして外に広がる丁寧に整えられた中庭に何気なく目をやって、そこでふと頭に疑問が浮かんだ。
「ねえ子建。銀腕族は何のために、この城市を築いたのかしら」
「確かに不思議ですね。巨大な天蓋、謎の素材でできた正方形群、それにセリカ内地から遠く離れた地に完璧に再現された邸宅。尋常の技術力ではなさそうですが」
「亜人も含めてヒトはみな、目的があって行動を起こすわ。農業のために水路を引き、通商のために道を拓き、安全のために兵を養って城壁を建てる。でも銀腕族はこれほどの都市を打ち立てておきながら、外との交流は最低限で、内でも多くの者は冬眠している。何がしたいの? それとも、何もしたくないということ?」
多種族国家である大漢の高官として、紅珠も鬼や獣人、巨人など様々な種族について見識を深めてきたつもりだ。だが銀腕族はそのどれとも違う、得体のしれない存在だ。
「いずれにせよ、夢境の霧は払われつつある。大漢だけでなく、皇国やシルベリアも進出しているんだもの。そう遠くないうちに、蓋土の鎖国政策を維持することは不可能になるはずよ。そうなる前に、私たちが蓋土の手綱を握らなくてはいけないわ」
「はい。そのためにも、此度の冊封で大漢の権威を示さなくては」
「それもそうなんだけど、ただ銀腕族に他の種族と同じやり方が通じるかも不安よ。彼らは近代国際法とも華夷秩序とも亜人たちの弱肉強食の論理とも異なる、何か別の行動原理に従っている」
それが何なのか。紅珠にはさっぱり分からないが。いや、果たして銀腕族当人たちを除いて、この世にそれが分かっている者がいるのだろうか。
そんなことを考えつつ礼服に着替えた紅珠は、そこで一人の従者のことに思い至った。真女族の案内人、ジアンである。彼女も蓋土に入るのはこれが初めてのようだが、同じ夢境の亜人として何か知っていることがあるかもしれない。真女族と銀腕族の城市は比較的近いし、ジアンは宗主国大漢の勅使の随員に選ばれるだけあり彩蓮ではそれなりの地位の女性でもある。
彼女も同じ屋敷の別の部屋をあてがわれているはずだ。
時計を一瞥してまだ早い時間であるのを確認すると、紅珠は子建を連れてジアンの部屋へと向かった。
「ジアン、少し良いかしら」
「はい。郷主様、どうぞお入りください」
彼女は既に起きていて、紅珠が扉を開けると跪き出迎えた。
ジアンは彩蓮では女王の親衛隊の上将を務めており、寡黙だが礼節をよくわきまえて武人然とした女性である。淫魔の種族である真女族は放濫な者も多い中、彼女は珍しいタイプで、紅珠は非常に好感を寄せていた。
「突然ごめんなさい。実はあなたに、聞きたいことがあって。銀腕族について、何か私たちの知らないことがあれば教えてほしいの」
「左様でございますか。あいにく私も大したことは存じませんが、真女族に伝わる歴史や伝承の中にいくつか彼らにまつわるものがございます。それに関してであれば、お話できましょう」
「お願い」
紅珠がそう頼むと、ジアンは「どこからお話いたしましょうか」と少し悩んだものの、やがてゆっくり口を開いた。
「そもそも我々真女族、いや、他の種族も含めて夢境の亜人はみな銀腕族へ敵意を抱いております。今から三百年ほど前には多種族連合軍が蓋土を攻めたこともあったとか」
「意外ね。銀腕族は蓋土の中でずっと冬眠しているんじゃないの? そんなに色々な種族の恨みを買いそうには思えないけれど」
「ええ。彩蓮に残るいかなる史書を紐解いても、奴らはごく少数が外交のため出向く他は蓋土から出てきません。ただ史書には記されぬほど昔、銀腕族めは夢境全土を覆い尽くし、他の種族を殺戮し回っていたと言われております。確たる証拠のない伝承ではありますが、蓋土からほど遠い獣人や魚人たちでさえ、夢境の亜人の間に共通して残る伝承ですゆえ、真実であろうと私どもは信じているのです」
「殺戮、ねえ。今の蓋土の様子からは中々想像もできないけど、古代から現代までの間に何かがあったのかしら」
紅珠の目に映った蓋土の街は、死んだように静かだ。とても各地に軍を派遣し、暴虐の限りを尽くすような雰囲気は感じられない。
「それがいつ始まり、いつ終わったかも分かりません。ただ歴史時代が幕を開けた頃には銀腕族めは今のように蓋土を閉ざし、我々真女族や他の種族は惨禍の再来を恐れて奴らを滅ぼすべく、たびたび蓋土を攻めるようになったのです。最も古くは千年以上も前……」
そこからしばらく、紅珠と子建はジアンの話に耳を傾けた。しかしいかなる魔術も火砲も蓋土を覆う半透明の壁を破れず、ただ亜人たちが諦めて去ることの繰り替えしで、あまり有益な情報があるとは言えなかった。
「どういうことなの。銀腕族はまるで、甲羅に籠もった亀のようだわ。何もせず、何も語らず、されるがまま。他の亜人たちが信じる伝承が本当だったとして、古代に何が起こったの。ますます分からなくなったわ……」
紅珠は頭を抱える。子建とジアンも眉をひそめ、しかし彼女の疑問に答えられはしなかった。
◆ ◆ ◆
ジアンの部屋を後にした二人は準備を済ませ、屋敷を後にした。結局銀腕族について詳しいことは分からなかったが、時間が進むのは待ってくれない。
(夢境の種族の間に銀腕族とそれ以外という対立関係があると分かっただけでも収穫かしら。皇国らの外藩切り崩し工作に対抗する上で、重要な要素ではあるもの)
屋敷の前では既に漢軍の兵士達が隊列を組んで待機しており、イオタら銀腕族の出迎えの姿もあった。
「おはようございます、勅使様。辺境住まいの我々なりに最上の屋敷と晩膳を用意いたしましたが、至らぬ点がございませばどうかご容赦を」
「まさか。とても素晴らしいもてなしだったわ。ありがとう」
「勿体ないお言葉でございます。冊封儀礼の後にも宴を準備しておりますゆえ、どうぞご期待くださいませ」
そう言うとイオタは先導役として、他の銀腕族たちと共に隊列の先頭に立った。そのすぐ後ろ、漢軍の先頭に立って隊列を率いるのはもちろん紅珠である。
「行きましょう。軍楽隊、吹奏開始! 出発よ!」
「「しゅぱーつ!!」」
兵士たちは命令を復唱し、それを同時に嗩吶と銅鑼の音が鳴り響いた。小銃を抱えた兵士たちは一糸乱れぬ動きで行進を開始する。先頭には八旗の各ニルが掲げる大旗と黄竜旗がはためき、軍楽隊は高らかに行進曲を奏で始める。
漢軍の意向を現地住民に知らしめるための、華やかな行進。しかし彼らが行く道は昨日と同様に一人の姿も見えない。
しかし街の中心部、ひときわ大きな正方形の付近に近づくと、おそらく今日こうして漢軍を出迎えるためだけに起こされたのであろう銀腕族たちが集まり、整然と居並んで漢軍の行進を見守っていた。
漢軍の行進は正方形の手前で止まる。そこからは紅珠と子建を含む数人の高官のみが、儀礼上に入るのが習わしだが。
「この正方形、どこかに入り口があるの?」
紅珠はいぶかしげに、つるつるとした真っ白な壁面を眺めた。しかしイオタが手をかざすと、継ぎ目などなかったはずの壁面にすっと穴が開く。
「どうぞこちらへ」
イオタに促されるまま、紅珠らは正方形の中に入った。中も白一色で何もない空間が広がっているだけだが、今日のために準備したのかセリカ式の燭台や敷物などが用意され何ともアンバランスな雰囲気を醸し出している。
「このような殺風景な場所で詔書を受け取るご無礼を、どうぞお許し下さい。我々は相互に接続された並列思考回路を共有しているため、いわゆる王に相当する個体や、それ専用の空間を持ちません。大漢より冊封を受ける役割の個体という意味での王はおりますが。今回勅使様方をお迎えするにあたり場所を検討した結果、蓋土の根幹とも言うべき動力施設が適切と判断し、可能な限り改装した次第です」
「並列思考……? まあいいわ。普通であれば無礼と憤るところだけど、街の様子からして泊まった屋敷以外の建物はみんなこうみたいだもの」
「ありがとうございます」
そんな急ごしらえの謁見の間では、左右にずらりと豪華な身なりの銀腕族が並び、中央には一際立派な衣装の者が控えていた。
「勅使燕雲都督、栄積郷主殿下ご入来!」
イオタが声を張り上げると、謁見の間にいる銀腕族らは一斉に平伏した。楽隊が音楽を奏でる中、紅珠たちはゆっくりとその中を進んで行く。
やがて中央で跪く銀腕族の前へとたどり着くと、彼が顔を上げ口を開いた。
「かねてより偉大なる大漢皇帝陛下により、銀腕盟扎薩克の地位を拝受しております、ゼータと申します」
「燕雲都督、李和恵よ。これより陛下の勅令を伝達するので、謹んで詔を受けるように」
「はっ。謹んで詔を承ります」
「『朕大漢皇帝の名において、汝の朝貢を受け入れ、褒美として善陀蓋土郡王(サンダラガイツギュンワン)に封ず。また九旗の長は格別の恩寵を以て何も奉恩鎮国公に封ず…以上、欽此(かくのごとし)』」
「謹んでお受け致します。皇帝陛下万歳万歳万々歳」
「「皇帝陛下万歳万歳万々歳!」」
盛京へ朝貢使を迎えて行う儀礼に比べればあまりに簡素であるが、出先ということを考慮すれば仕方がない。もっともこの数十年は大漢の衰退に伴って、通常の冊封儀礼も以前と比べてはるかに簡素になっているのだが。
「こちらはこの度の朝貢品目録になります。叙爵への感謝を込めまして、この通り朝貢いたします」
「皇帝陛下の方よりも、爵位の栄進を祝う引き出物を下賜するわ。目録を受け取りなさい」
例年、蓋土の朝貢品の多くは金剛、紅玉、蒼玉などの宝石が占める。また大漢では精錬が難しい鈦(チタン)や軽銀(アルミ)などの金属、そして高純度の鋼鉄、赤銅、活字合金などの合金も、工業化を進める近年の大漢にとって重要であった。
大漢側が用意した下賜品は、大量の金銀や絹織物と言った奢侈品、書物や雅楽の楽器、礼服など多岐に渡る。そのどれもが一級品であり、大漢の国力を如実に示すものであった。
列強による国土の蚕食に苦しむ大漢では、一時期は朝貢品を上回る価値の下賜品を用意できないほどであったが、李紫雲の活躍により持ち直したここ十数年ほどは、再び下賜が入貢を上回る状態となっている。
紅珠は朝貢品の目録を見てそれを確認したが、目録の最後に見慣れない品名を見つけた。
「朝貢品の内容は大変結構。ただ一つ、この『龍胚』というのは如何なる品物かしら。前回までの朝貢品には含まれていない物ね」
「『龍胚』は莫大な熱を引き出すことが可能な動力であり、現在は龍の眷属を除くヒト属にのみ起動権限が与えられています。我々の役割は龍の眷属からこれを保護すると共に、権限を有する個体が蓋土を訪れた際、同個体に起動の意思を確認することにあります」
質問に対して返ってきた答えは、なんとも要領を得ないものだった。銀腕族の言葉はたまに、何の説明もないまま謎の単語が混入することがある。漢語に対応する単語がない専門用語まみれの海外の学術書を、無理やり訳した文章を読んでいる気分だ。
そんな紅珠の反応を察したようで、ゼータは言葉を続けた。
「実物をご覧いただければ、ご理解が早いかと思われます。この後は勅使様をおもてなしするため宴を用意しておりますが、よろしければ先に『龍胚』を確認いたしますか」
「確かにそれが良さそうだわ。そうしましょう」
「では、イオタがご案内いたします。こちらへ」
ゼータがそう言った途端、それまで継ぎ目も見当たらなかった床の一部に穴が開く。例によって穴の中も白一色で、螺旋階段が下へ続いているようだった。
◆ ◆ ◆
イオタに先導され、紅珠は子建ら部下たちと共に螺旋階段を降りる。
「先のゼータ殿の言では、『龍胚』とやらを働かせる権限は人間のみに与えられている、あなたたち銀腕族は『龍胚』の保護が役割である、ということですが」
灯りもないのに光で満たされた階段は、かなり深くまで続いているようだ。道中の無言を破ったのは、険しい顔をした子建だった。
「はい」
「その言い方だと、『龍胚』はあなたたちが作成ないし採集した品物ではないように聞こえますが。別の誰かが権限を設定し、あなたたちにその保護を命じた、ということですか」
「その通りでございます。我々は管理者により承認された手順に従っております」
床は硬質の素材であるのに、不思議と反響はしない。一同の規則的な足音が、軽くコツコツと音を立てるだけだ。
「それは誰? その者も蓋土にいるの?」
今度は紅珠が尋ねた。
「我々の管理者は蓋土には存在しません。『龍胚』の保護は五三九万四三五〇日前に設定され、それ以降は新たな指令はありません」
さらりと出てきた数字に、思わず紅珠と子建は顔を見合わせる。正確な年数は暗算できないが、五百万日なんて一万年をゆうに超えてしまうだろう。
「それなら、いったいどこにいるのよ」
「我々を製造、運用していた民族集団は既に絶滅しています。我々の管理権限は『龍胚』に連動しているため、現在は管理者は存在しません」
絶滅とはまた不穏な単語が出たが、イオタの声音はまるで感情がこもっていない。気の遠くなるほど壮大な話を、彼はまるで明日の予定を確認するかのように淡々と告げた。
いきなりそんな話をされたら、紅珠はおそらく嘘をつくなと一蹴しただろう。しかし昨日からずっと、彼女は異様な蓋土の風景と技術を目の当たりにし続けている。
「それは……」
「到着いたしました」
紅珠は続きの質問をぶつけようと声を上げたが、それと同時にイオタも口を開いた。
階段の下には、複数の硬質の素材を組み合わせた重厚な扉があった。その先に『龍胚』とやらが置いてあるのだろう。なにげなく紅珠はそう思って扉をみやり、そして一瞬遅れて強烈な違和感に気づく。
「ここだけ急に、扉?」
紅珠は思い出す。蓋土の半透明の壁も正方形の建物の壁も、扉など作らず壁が自動的に開く謎の技術が使われていたはずだ。なぜここで、わざわざ扉が出てくるのか。
「設計者の感傷だと推測されます」
「それは、あなたたちの管理者だった者たち?」
「ええ。扉。門。あちら側とこちら側を区別する目印。この施設の設計者はそれを意識し、象徴的な意味をこの扉に込めたのでしょう。我々には理解できない思考様式です」
イオタはそう言って、なんの感傷もなさげに扉に手をかざした。紅珠の知らない言語で短いメッセージが流れ、扉はゆっくりと左右に開閉していく。
その扉をくぐり、イオタは中へ入っていった。紅珠はそれに続こうとしたが、子建がそれを制止する。
「郷主様。先に僕が」
「分かったわ。ありがとう」
そうして子建が先に中に入り、周囲に危険がないか警戒する。
扉の先には大きな部屋があった。もはや部屋というより、建物を丸ごと一つぶち抜いたような面積。だがそこに鎮座する巨大なモノのせいで、部屋の中はむしろ圧迫感が酷かった。
子建のあとに少し遅れて、紅珠も部屋に入る。
そこにあったのは、人の背の数倍もある巨大な炉であった。
紅珠がとっさに想像したのは、いわゆるダルマストーブとかホオズキストーブと呼ばれる胴長の鋳物ストーブ。それに太いパイプや謎の計器がごちゃごちゃと大量にくっつき、いまにも彼女たちを押しつぶさんばかりの機械の塊となっている。
「これが『龍胚』ね」
「正確には今皆様に見ていただいているのは、それを収めた制御装置です」
イオタは炉の覗き窓を指し示す。
紅珠がその中を見ると、そこでは何かの臓器のような大きな塊が、紫や緑色の炎を発しながら煌々と燃え盛っていた。その塊に近づくほど、まるで度の合わない眼鏡を使った時のように景色がゆがみ、あまり長時間見つめていると目がおかしくなりそうだ。
「夢境に生息する生物の中でも、特に膨大な魔力を有する生物です。その生命力と魔力の源となる臓器が『龍胚』。厳密には異なるものですが、龍の心臓と考えていただいても大きな問題はありません」
「龍の心臓。あなたたち、龍を殺したの!?」
セリカや夢境を含む極東地域では、龍は一般に瑞獣として人々に崇められる存在である。それをまるで動物を殺して肉や毛皮を採集するかのように扱うなど、紅珠らにとっては到底信じられることではない。
それになりより、神にも等しい存在である龍を簡単に殺せるものか。天を駆け膨大な魔力を振るう龍は、夢境の中でも間違いなく最強の生命体であるはずだ。
しかし
「それなら、夢境の亜人たちが銀腕族と敵対していたというのも納得できますね。彼らは僕らセリカ人以上に、龍を深く信奉していますから」
信じられないという顔をしながらも、子建はそう分析した。もしも銀腕族が資源として龍を狩っていたというのなら、これまで聞いた話の辻褄もあってくる
「はい。管理者たちは我々に命じ、龍を狩猟して『龍胚』を採取していました。その過程で管理者と我々は、龍やそれに従う者たちと対立しています。それでも『龍胚』から得られる莫大な魔力、またそれを変換して作り出す熱力や電力は、蓋土がこれを利用して繁栄した都市である以上不可欠でした」
「その力を、今後は大漢に差しだそうというわけ」
「現状の説明としては、そうなります。我々は蓋土を訪れたヒト属が『龍胚』を手にするまで、それを保護することを役割としています。今回は冊封のため、勅使様がいらっしゃいましたので」
その言葉通りなら、銀腕属が紅珠に『龍胚』の管理権を渡そうとするのは、大漢への忠義からではなさそうだ。ただ人間が来たら管理権を委譲を提案するという手順に従っているだけ。
紅珠と子建の脳裏にまず浮かんだのは、近年夢境に進出を進める皇国である。もし彼らが蓋土に来ることがあれば、銀腕属は同じように『龍胚』を渡そうとするだろう。そしてもし皇国人たちが頷けば。
「無限の魔力、熱力、電力……」
思わず紅珠の口から呟きが漏れる。
「『龍胚』を利用すれば、船は一度の補給もなく世界中を動き回れます。広大なセリカの家々はみな一晩中明かりが灯り続け、何百もの製鉄所を止めることなく動かすことができます。そしてその力を直接兵器として用いれば、一発で都市を滅ぼし、気候さえ変える威力となります。これは推測ではなく、事実としてかつての管理者の文明水準はその水準にありました」
イオタの話しぶりは相変わらず淡々としたものだ。だがその言葉は、紅珠の心を揺さぶるに十分であった。
なにせその力があれば、大漢の窮状など一瞬でひっくり変える。それは漢朝復興を願う紅珠にとって、この上ない悲願なのだ。
しかも逆に、ここで紅珠がそれを断ったとして、それでこの話が終わるわけではない。皇国もシルベリアも夢境に進出を始めているのだ。もし列強諸国が『龍胚』を手にしたら? もはや大漢は二度と、列強相手の力関係を覆せなくなるだろう。
「勅使様、これが『龍胚』でございます。もちろん今決断なさらずとも問題ございません。管理権は生体認証に依りますが、一旦上にお戻りになったあとでも可能です」
その声を聞きながら、紅珠は逡巡する。無限の魔力、その力が大漢にどれほどのものをもたらすか。
「いや、良いわ。決めた」
「郷主様!」
その即決ぶりに、子建は驚いて声を上げた。だが紅珠には迷いはない。
「『龍胚』。その管理権、私に渡しなさい」
◆ ◆ ◆
その後。改めて歓迎の宴が行われ、数日にわたって諸々の儀式や朝貢品、下賜品の受け渡しを済ませて、やっと紅珠たちは帰路に就くことになった。
そうは言っても蓋土は夢境の最北。帰りも彩蓮を始め、夢境の各都市を逗留しながらの長旅だ。
兵士達は口々に、何とも面妖な街だった、ようやく退散することができると言い合い、胸をなで下ろしている。
その背後にそびえる半透明の円蓋は、紅珠たちが入る前と変わらず白い町を包み込んでいた。
先頭の方で隊列を率いていた子建は、ちらりとその街に目をやった。そして自分の前を行く紅珠に視線を戻す。
「蓋土、本当に驚くべき街でしたね。正直なところ、僕はまだあそこで見聞したことが夢のように感じられます」
「私もよ。信じられない話の連続だったもの」
もうこりごりだわ、とため息をつく紅珠に、子建も苦笑で応じた。
「しかし驚きました。まさか郷主様が、『龍胚』の廃棄をお命じになるとは」
そう。紅珠は蓋土の地下で、確かに『龍胚』の管理権限を手に入れた。そして速やかに銀腕族らに、それを廃棄し関連技術も全て処分するように命じたのだった。
銀腕族らは特に抵抗もせず、『龍胚』はつつがなく硝子で固められた上で地下二〇〇引(約六〇〇メートル)へ埋められた。
「正直、心惹かれなかったと言えば嘘になるわ。銀腕族の話を信じるなら、あれ一つで大漢を取り巻く国際関係をひっくり返せる。でも、本当にそれで留まるの? 大漢全土を覆い尽くしてもお釣りが来るような無限の動力。間違いなく、今の人類の手に余る」
決断のとき、紅珠の脳裏によぎったのはやはり母だった。
思い出せ。彼女は紫龍雷や人工毒龍を好んだか? 人の理を超えた技術に縋って目先の勝利を手に入れたところで、母の墓標に胸を張って報告に行けるだろうか。
もし『龍胚』の技術が流出すれば? あるいは大漢で内紛が起こり、王朝が分裂したら? 複数の国家がその力で武装し争いあえば、どれほどの被害が出るか分からない。
「あれだけの技術を持っていながら、結局蓋土の管理者とやらは絶滅した。人の理性では制御できない高度な技術なんて、身を滅ぼすだけなんだわ」
「なるほど。流石、郷主様は深くお考えです。……先の大戦を思い出すお言葉ですね」
「そうね」
戦車、毒瓦斯、戦闘機、機関銃。近代兵器の破壊力もまた、古代の超兵器に勝るとも劣らない凄惨さを持ちつつある。武人と英雄の時代は終わり、戦場は地獄となった。
(それでも私は、大漢を守り続けたい。人の手で、私の手で。どうか見ていて、お母様)
紅珠は寒々しい夢境の天を仰いだ。
そして再び前を向き、蓋土の方を振り返ることはなかった。
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baluca19911225
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