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czech_fantasy 2025年06月24日(火) 11:02:23履歴
| 第二次八洲海海戦 | |
![]() 砲撃を行う第一戦隊 | |
| 期間 | 1919年10月27日~28日 |
| 場所 | 八洲海 |
| 結果 | 皇国海軍の戦術的勝利・セリカ帝国軍の戦略的勝利 |
| 交戦勢力 | |
| 八洲皇国 | 漢朝セリカ帝国 |
| 指揮官 | |
| 山本辰斗 鈴原寛太 竹本勇武 広瀬忠 † 永野治 | エイドゥ† |
| 戦力 | |
| 戦艦 8 巡洋戦艦 6 装甲巡洋艦 2 防護巡洋艦 14 高速巡洋艦 10 巡洋艦 2 仮装巡洋艦 6 通報艦 4 駆逐艦 40 水雷艇母艦 2 水雷艇 30 計:124隻 | 戦艦 12 装甲艦8 防護巡洋艦 15 駆逐艦41 水雷艇50 計 126隻 |
| 損害 | |
| 巡洋艦 1沈没 仮装巡洋艦 1沈没 駆逐艦 1沈没 水雷艇 6沈没 戦死者 144名 負傷者 645名 | 戦艦 8沈没 装甲艦 5沈没 防護巡洋艦 11沈没 駆逐艦 3沈没 水雷艇 9沈没 戦艦 1自沈 装甲艦 2自沈 防護巡洋艦 2自沈 戦艦 2大破 装甲艦 1大破 防護巡洋艦 2大破 駆逐艦 4大破 戦艦 1被拿捕 装甲艦 1被拿捕 防護巡洋艦 3被拿捕 駆逐艦 1被拿捕 戦死者 211名 負傷者 756名 捕虜 5,420名 |
| 東洋・太平洋の戦い(WW1) | |
| 第2次ナンマドール危機ー霧都の戦い‐オスマン号追跡?‐ノ号船団‐北伐(李紫雲)‐第二次八洲海海戦‐中華沖海戦‐モンテルナ沖海戦(WW1)‐F作戦‐コマンド諸島の戦い‐豊北事変‐ヴェルテ沖海上護衛戦ー南湊強襲‐ポセイドン作戦ーノ��号船団‐ケッセル諸島ーマルコ群島攻略戦‐アルティ事件‐サン=ピエール島ー仙游戦争‐南山鳥島の戦い | |
第二次八洲海海戦は、光和15年に行われたセリカ帝国による豊洲奪還作戦、通称「北伐」の局地戦として行われた海戦。
八洲皇国陸軍と海軍の連携を防ぐ為に出撃したセリカ帝国海軍と、それを迎え撃つ皇国海軍との間で戦われた。
戦術的には練度と戦力で勝る皇国海軍が勝利を収めたが、その一方でセリカ帝国軍は陸側で勝利を積み重ね、皇国軍が拠点としていた豊洲南部の天洋港、長慶港を制圧することに成功。戦略的勝利を確保した。
20世紀前半に発生した第一次世界大戦と、それに乗じてセリカ帝国が企図した豊洲奪還作戦(「北伐」)により、八洲皇国とセリカ帝国とは戦争状態に入った。
セリカ側の最高司令官であった李紫雲は、国境に20万に達する精鋭部隊を集結させ、機動力と数を活かした縦深攻撃により一挙に豊洲を制圧することを目論んでいた。
そして、その障害となっていたのが本土を中心に強大な勢力を誇る皇国海軍であり、また陸軍の補給基地となっていた天洋・長慶の両大港である。
海軍により同港に援軍や物資が陸揚げされる、或いは海上から進撃する陸軍に対して砲撃支援が加えられた場合北伐軍が多大な損害を被ることは必死であったから、早期の豊洲全土解放を目指す紫雲にとって、二つの港を制し、また海軍の行動能力を封じることは作戦上必要不可欠だった。
セリカ側の最高司令官であった李紫雲は、国境に20万に達する精鋭部隊を集結させ、機動力と数を活かした縦深攻撃により一挙に豊洲を制圧することを目論んでいた。
そして、その障害となっていたのが本土を中心に強大な勢力を誇る皇国海軍であり、また陸軍の補給基地となっていた天洋・長慶の両大港である。
海軍により同港に援軍や物資が陸揚げされる、或いは海上から進撃する陸軍に対して砲撃支援が加えられた場合北伐軍が多大な損害を被ることは必死であったから、早期の豊洲全土解放を目指す紫雲にとって、二つの港を制し、また海軍の行動能力を封じることは作戦上必要不可欠だった。
・李紫雲(北伐軍大都督)
・エイドゥ(北洋水師提督)
・マングルダイ(第一任務部隊司令)
・杜松(第二任務部隊司令)
・アルトゥンガ(左軍副都督)
・ダイシャン(左軍副都督)
セリカ帝国側は、天洋・長慶の二つの港を攻略する為に、アルトゥンガ、ダイシャンを指揮官とする攻略部隊4万を派遣し、これに呼応してエイドゥ率いる北洋水師二個任務部隊が投入された。
北洋水師は弩級戦艦4隻、前弩級戦艦8隻以下、主力艦艇23隻、軽巡洋艦、水雷艇など補助艦艇47隻を投入して皇国本土を目指して進攻。また、道中でアルタイ帝国海軍のセリカ駐留艦隊を指揮下に加え、総計77隻の大艦隊となった。
・エイドゥ(北洋水師提督)
・マングルダイ(第一任務部隊司令)
・杜松(第二任務部隊司令)
・アルトゥンガ(左軍副都督)
・ダイシャン(左軍副都督)
セリカ帝国側は、天洋・長慶の二つの港を攻略する為に、アルトゥンガ、ダイシャンを指揮官とする攻略部隊4万を派遣し、これに呼応してエイドゥ率いる北洋水師二個任務部隊が投入された。
北洋水師は弩級戦艦4隻、前弩級戦艦8隻以下、主力艦艇23隻、軽巡洋艦、水雷艇など補助艦艇47隻を投入して皇国本土を目指して進攻。また、道中でアルタイ帝国海軍のセリカ駐留艦隊を指揮下に加え、総計77隻の大艦隊となった。
聯合艦隊旗艦:戦艦 伊勢
司令長官:山本辰斗大将
参謀長:岡田啓悟少将
・戦艦:伊勢 日向 日高 根室
[第二戦隊]
・巡洋戦艦:葛城 生駒 周防 伊予
[第六戦隊]
・防護巡洋艦:札内 青島 鳥羽 広島
[第七戦隊]
・防護巡洋艦:中津 宮津 箱根 草津
[第八戦隊]
・高速巡洋艦:豊原 大泊 真岡
[第一駆逐隊]
・松型駆逐艦:4隻
[第二駆逐隊]
・柳型駆逐艦:4隻
[第三駆逐隊]
・籾型駆逐艦:4隻
[第四駆逐隊]
・籾型駆逐艦:2隻
・桜型駆逐艦:2隻
・戦艦:三笠 宗谷 敷島 鹿島
[第四戦隊]
・巡洋戦艦:千代田 千歳
・装甲巡洋艦:筑波 日立
[第十戦隊]
・防護巡洋艦:幕別 新得 鹿追
[第十一戦隊]
・防護巡洋艦:塩見 幌延 高雄
[第十二戦隊]
・高速巡洋艦:内幌 静香 知取
[第五駆逐隊]
・桜型駆逐艦:4隻
[第六駆逐隊]
・桜型駆逐艦:4隻
[第七駆逐隊]
・浜風型駆逐艦:4隻
[第八駆逐隊]
・谷風型駆逐艦:2隻
・海風型駆逐艦:2隻
・巡洋艦:松島 吉野
[第二十三戦隊]
・仮装巡洋艦:新田丸 早瀬丸 苅田丸
[第二十四戦隊]
・仮装巡洋艦:馬島丸 中野丸 栄進丸
[第二十五戦隊]
・通報艦:雨宮 辰巳 永尾 宮端
[第二十八戦隊]
・水雷艇母艦:高輪
・水雷艇:12隻
[第十八駆逐隊]
・柳型駆逐艦:4隻
・高速巡洋艦:天草 奄美 豊川 木曽
[第二十七戦隊]
・水雷艇母艦:高槻
・水雷艇:18隻
[第十五駆逐隊]
・柳型駆逐艦:4隻
司令長官:山本辰斗大将
参謀長:岡田啓悟少将
第一艦隊(指揮官:竹本勇武中将)[第一戦隊]
・戦艦:伊勢 日向 日高 根室
[第二戦隊]
・巡洋戦艦:葛城 生駒 周防 伊予
[第六戦隊]
・防護巡洋艦:札内 青島 鳥羽 広島
[第七戦隊]
・防護巡洋艦:中津 宮津 箱根 草津
[第八戦隊]
・高速巡洋艦:豊原 大泊 真岡
[第一駆逐隊]
・松型駆逐艦:4隻
[第二駆逐隊]
・柳型駆逐艦:4隻
[第三駆逐隊]
・籾型駆逐艦:4隻
[第四駆逐隊]
・籾型駆逐艦:2隻
・桜型駆逐艦:2隻
第二艦隊(指揮官:鈴原寛太中将)[第三戦隊]
・戦艦:三笠 宗谷 敷島 鹿島
[第四戦隊]
・巡洋戦艦:千代田 千歳
・装甲巡洋艦:筑波 日立
[第十戦隊]
・防護巡洋艦:幕別 新得 鹿追
[第十一戦隊]
・防護巡洋艦:塩見 幌延 高雄
[第十二戦隊]
・高速巡洋艦:内幌 静香 知取
[第五駆逐隊]
・桜型駆逐艦:4隻
[第六駆逐隊]
・桜型駆逐艦:4隻
[第七駆逐隊]
・浜風型駆逐艦:4隻
[第八駆逐隊]
・谷風型駆逐艦:2隻
・海風型駆逐艦:2隻
第五艦隊(指揮官:広瀬忠少将、臨時編成)[第二十戦隊]
・巡洋艦:松島 吉野
[第二十三戦隊]
・仮装巡洋艦:新田丸 早瀬丸 苅田丸
[第二十四戦隊]
・仮装巡洋艦:馬島丸 中野丸 栄進丸
[第二十五戦隊]
・通報艦:雨宮 辰巳 永尾 宮端
[第二十八戦隊]
・水雷艇母艦:高輪
・水雷艇:12隻
[第十八駆逐隊]
・柳型駆逐艦:4隻
第一水雷戦隊(指揮官:永野治大佐)[第十四戦隊]
・高速巡洋艦:天草 奄美 豊川 木曽
[第二十七戦隊]
・水雷艇母艦:高槻
・水雷艇:18隻
[第十五駆逐隊]
・柳型駆逐艦:4隻
光和14年7月16日、北伐軍最高司令官である李紫雲は、総司令部を置いた燕京にて北伐の最終的な作戦案を決定する戦略会議を開いた。
この場で彼女は豊州全土解放の為の具体的な戦略構想、即ち「陸軍による縦深攻撃によって皇国の陸上戦力を覆滅し、並行して海軍によって水上戦力を封じ込める」、所謂「陸剣水盾」構想を諸司令官に対して明らかにした。
当初の計画では作戦の主眼はあくまで陸上の戦闘に置かれ、海軍は現存艦隊によって皇国本土の艦隊に圧力をかけるとともに、水雷艇などの補助艦艇による通商破壊程度の任務が与えられるのみだった。
が、北洋水師提督であるエイドゥや、任務部隊司令であるマングルダイなどは頑強に主力艦隊の出撃を主張した。彼らを始めとする海軍の軍人達は、二十数年前に皇国相手に大敗を喫して以来、雪辱の機会に恵まれず、また紫雲の様な英雄を輩出することもできず、その地位が低下する一方であることを危惧していた。
言うなれば彼らは軍の政治的理由によって出撃を請うたわけである。
紫雲は当初海軍の出撃を物資の浪費として却下する方針だったが、その後考えを改め、17日に策定された最終的な作戦計画に主力艦隊同士による艦隊決戦と、それによって皇国海軍の行動能力を封殺する構想を加え、予算と訓練計画を決定した。
その後、9月1日に行われた御前会議によって北伐の計画は裁可され、セリカ帝国軍が動き出した。
北洋水師の諸艦隊は8月15日までに母港を出港し、燕京に程近い威海衛に回航、そして9月20日に宣戦布告が行われ、陸上部隊が進撃を開始するのに合わせて砲撃支援のために出撃した。
この場で彼女は豊州全土解放の為の具体的な戦略構想、即ち「陸軍による縦深攻撃によって皇国の陸上戦力を覆滅し、並行して海軍によって水上戦力を封じ込める」、所謂「陸剣水盾」構想を諸司令官に対して明らかにした。
当初の計画では作戦の主眼はあくまで陸上の戦闘に置かれ、海軍は現存艦隊によって皇国本土の艦隊に圧力をかけるとともに、水雷艇などの補助艦艇による通商破壊程度の任務が与えられるのみだった。
が、北洋水師提督であるエイドゥや、任務部隊司令であるマングルダイなどは頑強に主力艦隊の出撃を主張した。彼らを始めとする海軍の軍人達は、二十数年前に皇国相手に大敗を喫して以来、雪辱の機会に恵まれず、また紫雲の様な英雄を輩出することもできず、その地位が低下する一方であることを危惧していた。
言うなれば彼らは軍の政治的理由によって出撃を請うたわけである。
紫雲は当初海軍の出撃を物資の浪費として却下する方針だったが、その後考えを改め、17日に策定された最終的な作戦計画に主力艦隊同士による艦隊決戦と、それによって皇国海軍の行動能力を封殺する構想を加え、予算と訓練計画を決定した。
その後、9月1日に行われた御前会議によって北伐の計画は裁可され、セリカ帝国軍が動き出した。
北洋水師の諸艦隊は8月15日までに母港を出港し、燕京に程近い威海衛に回航、そして9月20日に宣戦布告が行われ、陸上部隊が進撃を開始するのに合わせて砲撃支援のために出撃した。
10月13日、国境に構築された皇国軍の防衛ラインを突破した紫雲は、豊州南部と中部の物流をコントロールする二つの港、天洋と長慶の制圧を企図した。これらを落とせば旅順鳳凰要塞を中心とする豊州南部の戦力は内陸に孤立し、援軍を受けられないまま早期に覆滅し得るはずであった。
紫雲は麾下の将帥であるアルトゥンガとダイシャンの二将軍に兵を預けて攻撃させると共に、海軍には当初の計画の通り皇国本土の艦隊が港への支援を行なえない様に封殺することを命じた。
紫雲は麾下の将帥であるアルトゥンガとダイシャンの二将軍に兵を預けて攻撃させると共に、海軍には当初の計画の通り皇国本土の艦隊が港への支援を行なえない様に封殺することを命じた。
1919年4月18日に第一次世界大戦が開戦すると八洲皇国政府は同盟国であるアルビオン連合王国の要請を受けてアルタイに対して宣戦布告。皇国の目的は太平洋に点在するアルタイ統治下にあるいくつかの諸島と南方大陸植民地であった。また、5月下旬に二重帝国がアルタイ側で参戦すると皇国は連合王国と共同で二重帝国の租界が置かれていた霧都を攻略し(霧都の戦い)、同都市の暫定的な統治権を得た。一方でアルタイ戦線では均衡状態が続き連合王国は皇国政府へノルドニアへの派兵を要請。当初、皇国政府はこの案には懐疑的であったが最終的に戦後のアルタイ領分割統治に参加することを見返りに派兵を決定。ひとまず先遣隊として神坂什蔵陸軍中将を指揮官とする遣騎州軍先遣隊が組織され、ノルドニア方面への展開を開始した。(ノ号船団)
この際、船団護衛の任につくべく再編された聯合艦隊第三艦隊はそのままノルドニア近海に派遣され、各国の商船を護衛した他アルタイ海軍とも戦闘を行うことになる。
また、連合王国は当時存在していたアルタイ領太平洋諸島や南方大陸のアルタイ植民地への派兵も皇国に対して打診しており、軍令部と聯合艦隊司令部は中華沿岸と中部太平洋方面で活動する一部艦艇を残してほぼ全ての所属艦艇を横須浜鎮守府及び呉島鎮守府の周辺に集結させ、作戦の発令に備えた。8月31日には大本営より作戦指示が下り、第一艦隊は太平洋方面へ、第二艦隊は陸軍の輸送船団を伴ってノルドニア方面への進出が決定。10月初旬を目標とし出撃準備が開始。第一艦隊には最新鋭の戦艦が加えられ、9月14日には保崎鎮守府へ移動。第二艦隊も参加艦艇の整備を進めていた。
順調に出撃準備を進めていた皇国海軍であったが、9月20日に李紫雲による北伐が始まると、中華沖で情報収集活動を行っていた哨戒艦から北洋水師が遼西半島付近に進出している旨の報告が入る。北伐の発生を受けて大本営は念の為、作戦計画の見直しを行い、出撃は一時見合わせとなった。
この際、船団護衛の任につくべく再編された聯合艦隊第三艦隊はそのままノルドニア近海に派遣され、各国の商船を護衛した他アルタイ海軍とも戦闘を行うことになる。
また、連合王国は当時存在していたアルタイ領太平洋諸島や南方大陸のアルタイ植民地への派兵も皇国に対して打診しており、軍令部と聯合艦隊司令部は中華沿岸と中部太平洋方面で活動する一部艦艇を残してほぼ全ての所属艦艇を横須浜鎮守府及び呉島鎮守府の周辺に集結させ、作戦の発令に備えた。8月31日には大本営より作戦指示が下り、第一艦隊は太平洋方面へ、第二艦隊は陸軍の輸送船団を伴ってノルドニア方面への進出が決定。10月初旬を目標とし出撃準備が開始。第一艦隊には最新鋭の戦艦が加えられ、9月14日には保崎鎮守府へ移動。第二艦隊も参加艦艇の整備を進めていた。
順調に出撃準備を進めていた皇国海軍であったが、9月20日に李紫雲による北伐が始まると、中華沖で情報収集活動を行っていた哨戒艦から北洋水師が遼西半島付近に進出している旨の報告が入る。北伐の発生を受けて大本営は念の為、作戦計画の見直しを行い、出撃は一時見合わせとなった。

通報艦“鵬翔丸”
北伐の発生を受けて9月21には新海に停泊中であった旅順艦隊麾下の通報艦“鵬翔丸”は直ちに出航。華北沖を目指して針路を北へ向けた。同艦は24日にはライヒ極東領の青河へ入港。補給を行い、翌25日には針路を更に北の豊洲沖に定めた。
この頃北洋水師は北伐軍を海上から支援するべく山海関の沖合に進出しており、26日には早くも北洋水師の巡洋戦隊を補足。一度天洋へ入港しようとするが、北伐軍が既に防衛線を突破しつつある情報を入手すると北洋水師の本隊を探すべく南西に針路をとった。
10月1日の午前3時頃、鵬翔丸の前部見張り員は11時方向に灯火を確認。月明かりを用いて判別するために大きく回頭しながら接近し、およそ400mまで近づき漢朝側の補給船である事を確認。威嚇射撃を開始し拿捕をしようと試みたが、夜が明けつつあった5時頃に前方12000m先に航行中の艦影及び煤煙を発見し急速離脱。離脱時に双眼鏡で確認したところ、戦艦と思われる艦影を多数視認したためこれを北洋水師本隊と推定。一度見失うが、正午頃に再び接触し旅順要塞に対し『我、敵ノ本隊ト接触ス』と打電。夕方まで北洋水師本隊の後方を航行したが、午後5時46分に更に数十隻の艦影と煤煙を自船の右舷後方9000m付近に確認。旅順要塞に『敵艦隊、終結シツツ有リ。警戒セヨ』と打電し、自船の現在位置を伝えた後に針路を反転。この時、北洋水師本隊に合流しつつあったのは山海関砲撃に参加していた部隊であり、支隊を率いていた杜松第二任務部隊司令は北洋水師提督エイドゥに鵬翔丸を攻撃するよう提言するが却下されている。
鵬翔丸は翌日も艦隊に接触。その後も離脱と接触を繰り返し、豊洲沖で行動していた敵艦が徐々に北洋水師本隊へ合流していることを確認。軍令部に向けて急報を打電するが、10月4日に北洋水師本隊は別働隊を切り離し威海衛に針路を向けた。鵬翔丸の艦内では本隊を追跡するか別働隊を追跡するかで大いに揉めたが、結果として別働隊の追跡を決定。5日午前2時に別働隊から距離300mまで接近する。これは深い霧による偶発的な出来事であった。
別働隊は鵬翔丸を発見すると、威嚇射撃の後に砲撃を開始。鵬翔丸もまた反撃するも被弾し見張用のマストが折れる。
鵬翔丸は機関出力を最大にし、全速力で離脱。間一髪でこの危機を切り抜け、同日の夕方には再度接触に成功し、別働隊の針路を旅順と断定。しかし再び別働隊に補足され、総攻撃を受ける。砲撃の結果、通信マストが切断され機関にも被弾。通信不能状態となったが、通信が途切れるその時まで鵬翔丸は旅順に向けて打電を続けていた。
通信不能となった鵬翔丸は別働隊に砲撃を与えながら奇跡的に離脱。艦尾は浸水しており、辛うじて航行できる状態にあった。
その後の鵬翔丸は低速ながらも皇国本土を目指し、10月12日に白樺州の豊中港に辿り着いている。
北伐軍の陸上部隊は皇国陸軍参謀本部の予想に反して凄まじい速度で進軍を続けており、10月1日の時点で開戦当初の防衛線は壊滅。補給上の結節点であった山海関が陥落すると関東軍はやむを得ず前線をさらに後方へ下げることとなり、前線部隊に大きな混乱をもたらした。
こうした動きの中で北伐軍の中でも先行していた仙道部隊は旅順への襲撃を実施。旅順要塞は海軍によって管理されており、宇垣一旅順要塞司令は軍令部に対し港内に停泊中の旅順艦隊を白樺州又は本土へ退避させるよう打診。これは前哨戦にて海軍の泊地が攻撃を受け、砲艦や水雷艇を破壊された前例を受けての判断で宇垣は後に自書“海軍戦争論白書”にて『かつての北洋水師もまた旅順攻防戦の最中に停泊させていた多くの艦艇を喪った。(北伐軍の侵攻速度は)予想外の速さだ。このままでは此処(旅順)が戦場になるのも時間の問題だ。いたずらに艦を失うくらいなら、さっさと逃がして戦力を温存し、奴らを一網打尽にするべきだろう』と書き記している。
当時の旅順艦隊は防護巡洋艦“津軽”を旗艦とし、高速巡洋艦“石狩”他、春風型駆逐艦4隻、砲艦2隻、病院船1隻から編制されていた。旅順要塞の司令官は同時に旅順艦隊の指揮権も保有していたため、宇垣は軍令部の指示を待ちつつ、通報艦“鵬翔丸”からの報告からいずれ来襲するであろう北洋水師分艦隊に備えた。
10月5日に鵬翔丸からの通信が途切れると宇垣は軍令部の指示を待たずに艦隊に対し全艦出港を指示。その直後に軍令部からも旅順艦隊の保崎への即時引揚命令が下った。
10月6日午前6時、旅順艦隊は旅順港を出港。艦隊の指揮権は旗艦“津軽”艦長の太田勝弘大佐に引き継がれた。艦隊は太田大佐の指揮の下、針路を南東に向けるが同日正午頃に艦隊外縁にて警戒任務についていた駆逐艦“時風”が煤煙を多数確認。同時刻に北洋水師別働隊は八洲海方面に向けて航行する小規模艦隊を補足。別働隊を率いてきた杜松第二任務部隊司令はこれを旅順艦隊であるとし、全艦に突撃命令を出す。
太田大佐は補足された以上もはや逃げられないと悟り、艦隊の針路を反転させる。また、同時に病院船“北條丸”に離脱をするよう信号を送る。北條丸は元の針路を維持しつつ増速。同船は10月12日に横須浜港に無事入港している。
針路を北西に向けた旅順艦隊と北洋水師別働隊の両艦隊は距離を縮め、午後2時34分に距離7200mの地点で砲戦が始まった。砲戦では両艦隊に損害が生じ、午後2時40分に砲艦“大牟田”が被弾。右舷に大きく傾きながら戦列を離れ、午後2時46時に駆逐艦“早風”が艦橋付近に被弾し戦闘不能状態となる。旅順艦隊は被害を受けつつも別働隊に接近し、距離2000mの地点で反航戦の状態に持ち込む。
また、別働隊の損害も少なからず出ており艦隊の戦闘を航行していた駆逐艦“猫龍”が集中砲火を受け転覆。当時皇国海軍が使用していた伊号火薬は北洋戦争で猛威を奮った鶴舞火薬が改良されたもので、同火薬の欠点であった不安定性を可能な限り低くしつつ威力は同等のものであり、一度被弾すればほぼ確実に出火するように調整されていた。
午後3時50分、艦隊同士は距離1200mまで接近。先に仕掛けたのは北洋水師側で仙道の術式が刻印された魚雷である“衝天雷”を発射。旅順艦隊の最後尾を進む砲艦“武生”に直撃、武生はたちまち炎に包まれ爆沈した。太田大佐の乗艦する津軽にも衝天雷は迫ったが船底を掠めただけで、間一髪難を乗り越えた。
このままでは敵の雷撃により全滅しかないと判断した太田大佐は正面突破による離脱を決意。速力の速い石狩を先頭に健在する全ての艦艇を反航しながら単縦陣ですすむ北洋水師別働隊の中央を突破させ、自身の座乗する津軽は正面突破援護のために現在の針路を維持しつつ敵旗艦と思われる装甲艦を砲撃する作戦を各艦に通達する。また、太田大佐は同時に離脱後の会合地点を白樺の大鴨居岬沖とし、離脱より24時間以内に会合地点に津軽が現れなければ残存艦艇のみで保崎鎮守府を目指すよう指示を出した。
午後4時14分、高速巡洋艦“石狩”を先頭に合計4隻が針路をほぼ直角に曲げ、北洋水師別働隊に肉薄。別働隊は旅順艦隊の突然の出来事に混乱し、一時的に隙が生まれる。杜司令は突撃する4隻に砲撃するよう発行信号を出すが、味方同士の距離が近く、同士討ちの危険性があったため各艦は砲撃することができなかった。津軽は4隻の離脱中に速射砲を乱射し、艦隊中央付近に水柱を大量に出現させ北洋水師の艦艇が離脱部隊に狙いを定めることができないようにすると共に魚雷を旗艦と思われる装甲艦に向けて発射。この装甲艦こそ杜司令の乗る装甲艦“天安”であり、魚雷は船尾に命中。機関に一時的とはいえ深刻なダメージを与えることに成功する。混乱の最中で4隻は戦闘海域より無事離脱。津軽もまた海域より離脱を図るが、旗艦が攻撃されたことにより怒り狂った別働隊の水雷艇部隊に執拗に追跡され魚雷攻撃や速射砲による砲撃を受ける。水雷艇部隊は周辺が完全に暗くなった午後7時頃に追跡を中止したが、それまでの攻撃により津軽は重篤な損害を受け機関の出力が低下。また、無線室が砲撃を受けたことにより通信も不能となり、羅針盤にも不調をきたしてしまった。
この海戦において北洋水師別働隊は旅順艦隊を事実上の戦闘不能にさせたと確信。杜司令は本隊及び李将軍の本営に向けて旅順艦隊が壊滅したことを告げる電文を送っている。
しかし、実際のところ旅順艦隊は砲艦1隻を失ったのみで早期に戦列を離れた砲艦“大牟田”と駆逐艦“早風”は低速ながらも南を目指し、大牟田はライヒ極東領青河に、“早風”は皇国占領下の霧都へ入港。石狩に率いられた離脱部隊は大鴨居岬の沖合4kmの地点で約2日待機した後に保崎港へ到着。津軽は北へ向かい、豊中港へ入港し通信機能と羅針盤を修理してから保崎へ帰還した。
こうした動きの中で北伐軍の中でも先行していた仙道部隊は旅順への襲撃を実施。旅順要塞は海軍によって管理されており、宇垣一旅順要塞司令は軍令部に対し港内に停泊中の旅順艦隊を白樺州又は本土へ退避させるよう打診。これは前哨戦にて海軍の泊地が攻撃を受け、砲艦や水雷艇を破壊された前例を受けての判断で宇垣は後に自書“海軍戦争論白書”にて『かつての北洋水師もまた旅順攻防戦の最中に停泊させていた多くの艦艇を喪った。(北伐軍の侵攻速度は)予想外の速さだ。このままでは此処(旅順)が戦場になるのも時間の問題だ。いたずらに艦を失うくらいなら、さっさと逃がして戦力を温存し、奴らを一網打尽にするべきだろう』と書き記している。
当時の旅順艦隊は防護巡洋艦“津軽”を旗艦とし、高速巡洋艦“石狩”他、春風型駆逐艦4隻、砲艦2隻、病院船1隻から編制されていた。旅順要塞の司令官は同時に旅順艦隊の指揮権も保有していたため、宇垣は軍令部の指示を待ちつつ、通報艦“鵬翔丸”からの報告からいずれ来襲するであろう北洋水師分艦隊に備えた。
10月5日に鵬翔丸からの通信が途切れると宇垣は軍令部の指示を待たずに艦隊に対し全艦出港を指示。その直後に軍令部からも旅順艦隊の保崎への即時引揚命令が下った。
10月6日午前6時、旅順艦隊は旅順港を出港。艦隊の指揮権は旗艦“津軽”艦長の太田勝弘大佐に引き継がれた。艦隊は太田大佐の指揮の下、針路を南東に向けるが同日正午頃に艦隊外縁にて警戒任務についていた駆逐艦“時風”が煤煙を多数確認。同時刻に北洋水師別働隊は八洲海方面に向けて航行する小規模艦隊を補足。別働隊を率いてきた杜松第二任務部隊司令はこれを旅順艦隊であるとし、全艦に突撃命令を出す。
太田大佐は補足された以上もはや逃げられないと悟り、艦隊の針路を反転させる。また、同時に病院船“北條丸”に離脱をするよう信号を送る。北條丸は元の針路を維持しつつ増速。同船は10月12日に横須浜港に無事入港している。
針路を北西に向けた旅順艦隊と北洋水師別働隊の両艦隊は距離を縮め、午後2時34分に距離7200mの地点で砲戦が始まった。砲戦では両艦隊に損害が生じ、午後2時40分に砲艦“大牟田”が被弾。右舷に大きく傾きながら戦列を離れ、午後2時46時に駆逐艦“早風”が艦橋付近に被弾し戦闘不能状態となる。旅順艦隊は被害を受けつつも別働隊に接近し、距離2000mの地点で反航戦の状態に持ち込む。
また、別働隊の損害も少なからず出ており艦隊の戦闘を航行していた駆逐艦“猫龍”が集中砲火を受け転覆。当時皇国海軍が使用していた伊号火薬は北洋戦争で猛威を奮った鶴舞火薬が改良されたもので、同火薬の欠点であった不安定性を可能な限り低くしつつ威力は同等のものであり、一度被弾すればほぼ確実に出火するように調整されていた。
午後3時50分、艦隊同士は距離1200mまで接近。先に仕掛けたのは北洋水師側で仙道の術式が刻印された魚雷である“衝天雷”を発射。旅順艦隊の最後尾を進む砲艦“武生”に直撃、武生はたちまち炎に包まれ爆沈した。太田大佐の乗艦する津軽にも衝天雷は迫ったが船底を掠めただけで、間一髪難を乗り越えた。
このままでは敵の雷撃により全滅しかないと判断した太田大佐は正面突破による離脱を決意。速力の速い石狩を先頭に健在する全ての艦艇を反航しながら単縦陣ですすむ北洋水師別働隊の中央を突破させ、自身の座乗する津軽は正面突破援護のために現在の針路を維持しつつ敵旗艦と思われる装甲艦を砲撃する作戦を各艦に通達する。また、太田大佐は同時に離脱後の会合地点を白樺の大鴨居岬沖とし、離脱より24時間以内に会合地点に津軽が現れなければ残存艦艇のみで保崎鎮守府を目指すよう指示を出した。
午後4時14分、高速巡洋艦“石狩”を先頭に合計4隻が針路をほぼ直角に曲げ、北洋水師別働隊に肉薄。別働隊は旅順艦隊の突然の出来事に混乱し、一時的に隙が生まれる。杜司令は突撃する4隻に砲撃するよう発行信号を出すが、味方同士の距離が近く、同士討ちの危険性があったため各艦は砲撃することができなかった。津軽は4隻の離脱中に速射砲を乱射し、艦隊中央付近に水柱を大量に出現させ北洋水師の艦艇が離脱部隊に狙いを定めることができないようにすると共に魚雷を旗艦と思われる装甲艦に向けて発射。この装甲艦こそ杜司令の乗る装甲艦“天安”であり、魚雷は船尾に命中。機関に一時的とはいえ深刻なダメージを与えることに成功する。混乱の最中で4隻は戦闘海域より無事離脱。津軽もまた海域より離脱を図るが、旗艦が攻撃されたことにより怒り狂った別働隊の水雷艇部隊に執拗に追跡され魚雷攻撃や速射砲による砲撃を受ける。水雷艇部隊は周辺が完全に暗くなった午後7時頃に追跡を中止したが、それまでの攻撃により津軽は重篤な損害を受け機関の出力が低下。また、無線室が砲撃を受けたことにより通信も不能となり、羅針盤にも不調をきたしてしまった。
この海戦において北洋水師別働隊は旅順艦隊を事実上の戦闘不能にさせたと確信。杜司令は本隊及び李将軍の本営に向けて旅順艦隊が壊滅したことを告げる電文を送っている。
しかし、実際のところ旅順艦隊は砲艦1隻を失ったのみで早期に戦列を離れた砲艦“大牟田”と駆逐艦“早風”は低速ながらも南を目指し、大牟田はライヒ極東領青河に、“早風”は皇国占領下の霧都へ入港。石狩に率いられた離脱部隊は大鴨居岬の沖合4kmの地点で約2日待機した後に保崎港へ到着。津軽は北へ向かい、豊中港へ入港し通信機能と羅針盤を修理してから保崎へ帰還した。
旅順沖海戦に先立つ10月5日、軍令部は横須浜にて待機中の第二艦隊に対し豊洲沖への出撃を命令。第二艦隊を指揮する鈴原貫太中将は幕僚との会議の結果、通報艦“鵬翔丸”の情報をもとに御國付近に一時進出した後に豊洲沖にて北洋水師を補足、巡洋艦を主体とした高速艦による漸減邀撃戦術をとることを決定。早くも10月6日に先遣隊として第十戦隊と第七駆逐隊が新京湾より、続く7日に旗艦敷島をはじめとした第二艦隊主力が横須浜港より出撃。途中、駿府湾にて待機していた複数の駆逐隊と合流しつつ、御國における主要な軍港である殷川をひとまずの目標とした。航海は順調に進み、先遣隊は11日に御國東部の釜府港に、本隊は14日に殷川港に到着した。
一方、陸での戦いは相変わらず皇国側が不利なままであり、12日には後方における補給集積地であって柳春が陥落すると多くの部隊が補給不全を起こし当初より防衛の任に当たっていた多数の部隊が壊滅。陸軍参謀本部は急遽反攻作戦として“ケ号作戦”を立案し、作戦の実行に際して海軍に対して天洋・長慶の二港への補給物資の輸送任務を行うよう要請した。これを受けて軍令部は輸送船団及び護衛部隊の編成に取り掛かるが輸送船として徴用していたものの多くは既に豊洲防衛の増援部隊を乗せて白樺州へ出航しており、新たに民間より船舶を借り上げる必要があった。その為、陸軍参謀本部に対し1週間から2週間の準備期間を設けるよう通達する。陸軍側はこれに反発したが、代替案として鉄道院と豊洲鉄道が物資輸送の為の特別列車を運行することを提案し、参謀本部は海軍の準備期間を承諾した。輸送船団の護衛には既に豊洲沖に展開した第二艦隊の他、本土近海を第一水雷戦隊が担当することとし、国内の海運会社より貨物船を徴用し、新京湾内の各港に集結させた。
順調に船団の編成を進めていた軍令部であったが、10月16日に旅順より驚くべき情報が齎される。旅順艦隊が脱出した後も旅順要塞では、航続距離が短く本土へ退避することができなかった魚雷艇等の小型艦艇を用いての哨戒活動が続けられていたが、哨戒部隊は北洋水師の総数が日を追う事に増加していることを確認。また、仙道部隊による旅順襲撃作戦中に捕虜となった北伐軍の兵士が「北洋水師は輸送船団を伴って皇国本土を襲撃する」と話したことから宇垣司令をはじめとする旅順要塞司令部は軍令部に対し数週間以内の北洋水師主力による本土攻撃作戦の可能性が高いとする内容の電文を送信した。
軍令部はこの情報に驚愕し、16日に軍令部総長、海軍大臣そして連合艦隊司令長官による三長官会議が実施された。会議では山本辰斗連合艦隊司令長官が待機中の第一艦隊をさらに出撃させ、豊洲沖又は八洲海で艦隊決戦を挑む事を主張。一方で内藤裕次郎海軍大臣は漸減邀撃作戦を引き続き行い、第一艦隊は出撃させない意向を見せた。山本司令長官と内藤海軍大臣はお互いの意見を譲らず、対立を続けており、伊万里三郎軍令部総長も意見を決めかねていた。会議は他の参謀を巻き込み、長期化するに見えたがその時旅順より新たな電文が送られてくる。電文の内容は北洋水師本隊にアルタイ海軍が合流したことを伝えるものであった。もはや敵の総数は本土周辺にて活動可能な皇国海軍の艦艇と同等かそれ以上のものになったことは明白となり、伊万里軍令部総長は本土への上陸だけは決して避けなければならないと話し、内藤海軍大臣も意見を変え、山本司令長官に賛同。会議は豊洲沖及び八洲海西部を戦闘海域と想定した艦隊決戦による、敵艦隊の撃滅を目指す方向で決定した。これを受けて軍令部は聯合艦隊司令部と共同で作戦の立案を開始。第一艦隊に即応待機を命じ、御國にて待機中の第二艦隊も同様の体制を整えるよう通達した。
また、旅順の哨戒部隊だけでは敵を完全に補足することが困難であると考えた山本司令長官は太平洋での情報収集のために鶴舞要港部にて待機中だった偵察部隊を急遽第五艦隊として編成し、艦隊の司令に広瀬忠少将を任命。第五艦隊は直ちに鶴舞港を出航し豊洲沖での偵察活動を開始した。
一方、陸での戦いは相変わらず皇国側が不利なままであり、12日には後方における補給集積地であって柳春が陥落すると多くの部隊が補給不全を起こし当初より防衛の任に当たっていた多数の部隊が壊滅。陸軍参謀本部は急遽反攻作戦として“ケ号作戦”を立案し、作戦の実行に際して海軍に対して天洋・長慶の二港への補給物資の輸送任務を行うよう要請した。これを受けて軍令部は輸送船団及び護衛部隊の編成に取り掛かるが輸送船として徴用していたものの多くは既に豊洲防衛の増援部隊を乗せて白樺州へ出航しており、新たに民間より船舶を借り上げる必要があった。その為、陸軍参謀本部に対し1週間から2週間の準備期間を設けるよう通達する。陸軍側はこれに反発したが、代替案として鉄道院と豊洲鉄道が物資輸送の為の特別列車を運行することを提案し、参謀本部は海軍の準備期間を承諾した。輸送船団の護衛には既に豊洲沖に展開した第二艦隊の他、本土近海を第一水雷戦隊が担当することとし、国内の海運会社より貨物船を徴用し、新京湾内の各港に集結させた。
順調に船団の編成を進めていた軍令部であったが、10月16日に旅順より驚くべき情報が齎される。旅順艦隊が脱出した後も旅順要塞では、航続距離が短く本土へ退避することができなかった魚雷艇等の小型艦艇を用いての哨戒活動が続けられていたが、哨戒部隊は北洋水師の総数が日を追う事に増加していることを確認。また、仙道部隊による旅順襲撃作戦中に捕虜となった北伐軍の兵士が「北洋水師は輸送船団を伴って皇国本土を襲撃する」と話したことから宇垣司令をはじめとする旅順要塞司令部は軍令部に対し数週間以内の北洋水師主力による本土攻撃作戦の可能性が高いとする内容の電文を送信した。
軍令部はこの情報に驚愕し、16日に軍令部総長、海軍大臣そして連合艦隊司令長官による三長官会議が実施された。会議では山本辰斗連合艦隊司令長官が待機中の第一艦隊をさらに出撃させ、豊洲沖又は八洲海で艦隊決戦を挑む事を主張。一方で内藤裕次郎海軍大臣は漸減邀撃作戦を引き続き行い、第一艦隊は出撃させない意向を見せた。山本司令長官と内藤海軍大臣はお互いの意見を譲らず、対立を続けており、伊万里三郎軍令部総長も意見を決めかねていた。会議は他の参謀を巻き込み、長期化するに見えたがその時旅順より新たな電文が送られてくる。電文の内容は北洋水師本隊にアルタイ海軍が合流したことを伝えるものであった。もはや敵の総数は本土周辺にて活動可能な皇国海軍の艦艇と同等かそれ以上のものになったことは明白となり、伊万里軍令部総長は本土への上陸だけは決して避けなければならないと話し、内藤海軍大臣も意見を変え、山本司令長官に賛同。会議は豊洲沖及び八洲海西部を戦闘海域と想定した艦隊決戦による、敵艦隊の撃滅を目指す方向で決定した。これを受けて軍令部は聯合艦隊司令部と共同で作戦の立案を開始。第一艦隊に即応待機を命じ、御國にて待機中の第二艦隊も同様の体制を整えるよう通達した。
また、旅順の哨戒部隊だけでは敵を完全に補足することが困難であると考えた山本司令長官は太平洋での情報収集のために鶴舞要港部にて待機中だった偵察部隊を急遽第五艦隊として編成し、艦隊の司令に広瀬忠少将を任命。第五艦隊は直ちに鶴舞港を出航し豊洲沖での偵察活動を開始した。
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baluca19911225
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