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hitoshinka 2021年06月20日(日) 10:23:36履歴
作家の山本弘を会長とする文化人のサークル「と学会」*1が提唱した概念。「作者の意図とは異なる視点で楽しむことができる本」というのがその定義である。1995年に出版された書評集『トンデモ本の世界』(洋泉社)によって世間的にも知られるようになった。
だが実際に「作者の意図と異なる視点で楽しめる」というのがどういう場合かというと、つまるところ作者の無知や偏見、非論理性などをあざ笑うという意味であることが多い。そしてそのような書籍にはUFO・超能力・予言・陰謀論などを扱ったいわゆるオカルト本が多く、前掲『トンデモ本の世界』シリーズで紹介されたものもその種の本が多かったことから、オカルト本に対する蔑称としても使われるようになった。
しかしもちろんオカルト本に限った話ではなく、「作者の意図とは異なる視点で楽しめる」という定義を満たせばどんなジャンルの本でも含まれる。
実は、アニメやゲームの有害論・規制論を唱える本には、このトンデモ本に属するものが少なくなく、実際に「と学会」が書籍で紹介しているものも多い。
【ゲーム脳の恐怖】(『トンデモ本の世界T』にて紹介)はその代表でで、実際に香川県のネット・ゲーム依存症対策条例という、科学的根拠の全くない条例を作ってしまった香川県議会の議長・大山一郎もこの「ゲーム脳」に影響を受けたと自ら語っている。
また、【響け!ユーフォニアム】を【男根のメタファー】呼ばわりしてネット中の失笑を買った久美薫も、その根拠としてウィルソン・ブライアン・キイの『MediaSexploitation』を挙げている。
この本の邦題は『メディア・セックス』。どういう本かというと、著者キイが「世界中の色々なものに性的なサブリミナルメッセージが溢れている!」と主張する本で、根拠は「クラッカーのリッツの表面をよく見ると、SEXという文字が浮かんで見える。私には見える」などというものだ。要するに頭のおかしい人が妄想を本にしただけのもので、初代『トンデモ本の世界』でも触れられている立派なトンデモ本だ。
つまり、表現規制論者やメディア有害論者の主張に影響を与えている資料のもとをただせば、UFOやネッシーの実在を主張する本とさしてかわらないトンデモ本、ということは珍しくないのである。
これはメディア有害論そのものが、根拠にも知的人材にも不足しているため、オカルトまがいの妄想や疑似科学にその乏しい根拠を求めざるを得ないためだ。
そのことは、渡辺真由子という表現規制派の「元博士」はの言葉にありありと示されている。彼女は著書『「創作子どもポルノ」と子どもの人権: マンガ・アニメ・ゲームの性表現規制を考える』の中で「科学的根拠への拘泥にとどまるのではなく踏み込んだ議論を試みたい」と述べている。科学的根拠などないが規制を主張したいという本音を、これほどあからさまに口にするこの言葉だけで、同書をトンデモ本認定しても良いくらいである。なお彼女は同書での論文剽窃まで発覚し、その後博士号を剥奪されている。
「と学会」が発行書籍の中で取り上げている「メディア有害論」系トンデモ本の例
ウィルソン・ブライアン・キイ『メディア・セックス』株式会社リブロポート、1989(『トンデモ本の世界』)
ウィルソン・ブライアン・キイ『メディア・レイプ』株式会社リブロポート、1991(『トンデモ本の世界』)
エブリン・ケイ『子どものテレビこれでよいのか』聖文舎(『と学会白書〈VOL.1〉』
はやし浩司『ポケモン・カルト』三一書房、1998(『トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!』)
松沢光雄『日本人の頭脳をダメにした漫画・劇画』山手書房、1979(『トンデモ本の世界S』)
森昭雄【ゲーム脳の恐怖】NHK出版、2002(『トンデモ本の世界T』)
岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、2005(『と学会年鑑BROWN』)
草薙厚子『子どもが壊れる家』文藝春秋、2005(『と学会年鑑BROWN』)
『トンデモ本の世界R』には、『差別用語の基礎知識'99』という本も取り上げられているのだが、表現規制に関する本ではあるが有害論ではなく、本自体のクオリティの低さを理由とした収録でもない。同書中の「差別発言だ!差別表現だ!」という言い掛かりの事例(実在のもの)があまりに酷いものが多く、真面目できちんとした本でありながら「著者の意図とは異なる視点で笑えて」しまうという定義に合致したためである。
規制被害者としてのトンデモ本
トンデモ本は、特に典型であるオカルト本や疑似科学本は、必ずしも無害ではない。人種や民族・性的少数者などへの差別を正当化したり、間違った健康情報によって人命を脅かすこともある。
ではトンデモ本は規制(ないしは弾圧)されるべきだろうか?
そうではない。「と学会」主要メンバーの志水一夫氏は以下のように述べている。
だが実際に「作者の意図と異なる視点で楽しめる」というのがどういう場合かというと、つまるところ作者の無知や偏見、非論理性などをあざ笑うという意味であることが多い。そしてそのような書籍にはUFO・超能力・予言・陰謀論などを扱ったいわゆるオカルト本が多く、前掲『トンデモ本の世界』シリーズで紹介されたものもその種の本が多かったことから、オカルト本に対する蔑称としても使われるようになった。
しかしもちろんオカルト本に限った話ではなく、「作者の意図とは異なる視点で楽しめる」という定義を満たせばどんなジャンルの本でも含まれる。
実は、アニメやゲームの有害論・規制論を唱える本には、このトンデモ本に属するものが少なくなく、実際に「と学会」が書籍で紹介しているものも多い。
【ゲーム脳の恐怖】(『トンデモ本の世界T』にて紹介)はその代表でで、実際に香川県のネット・ゲーム依存症対策条例という、科学的根拠の全くない条例を作ってしまった香川県議会の議長・大山一郎もこの「ゲーム脳」に影響を受けたと自ら語っている。
また、【響け!ユーフォニアム】を【男根のメタファー】呼ばわりしてネット中の失笑を買った久美薫も、その根拠としてウィルソン・ブライアン・キイの『MediaSexploitation』を挙げている。
この本の邦題は『メディア・セックス』。どういう本かというと、著者キイが「世界中の色々なものに性的なサブリミナルメッセージが溢れている!」と主張する本で、根拠は「クラッカーのリッツの表面をよく見ると、SEXという文字が浮かんで見える。私には見える」などというものだ。要するに頭のおかしい人が妄想を本にしただけのもので、初代『トンデモ本の世界』でも触れられている立派なトンデモ本だ。
つまり、表現規制論者やメディア有害論者の主張に影響を与えている資料のもとをただせば、UFOやネッシーの実在を主張する本とさしてかわらないトンデモ本、ということは珍しくないのである。
これはメディア有害論そのものが、根拠にも知的人材にも不足しているため、オカルトまがいの妄想や疑似科学にその乏しい根拠を求めざるを得ないためだ。
そのことは、渡辺真由子という表現規制派の「元博士」はの言葉にありありと示されている。彼女は著書『「創作子どもポルノ」と子どもの人権: マンガ・アニメ・ゲームの性表現規制を考える』の中で「科学的根拠への拘泥にとどまるのではなく踏み込んだ議論を試みたい」と述べている。科学的根拠などないが規制を主張したいという本音を、これほどあからさまに口にするこの言葉だけで、同書をトンデモ本認定しても良いくらいである。なお彼女は同書での論文剽窃まで発覚し、その後博士号を剥奪されている。
「と学会」が発行書籍の中で取り上げている「メディア有害論」系トンデモ本の例
ウィルソン・ブライアン・キイ『メディア・セックス』株式会社リブロポート、1989(『トンデモ本の世界』)
ウィルソン・ブライアン・キイ『メディア・レイプ』株式会社リブロポート、1991(『トンデモ本の世界』)
エブリン・ケイ『子どものテレビこれでよいのか』聖文舎(『と学会白書〈VOL.1〉』
はやし浩司『ポケモン・カルト』三一書房、1998(『トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!』)
松沢光雄『日本人の頭脳をダメにした漫画・劇画』山手書房、1979(『トンデモ本の世界S』)
森昭雄【ゲーム脳の恐怖】NHK出版、2002(『トンデモ本の世界T』)
岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、2005(『と学会年鑑BROWN』)
草薙厚子『子どもが壊れる家』文藝春秋、2005(『と学会年鑑BROWN』)
『トンデモ本の世界R』には、『差別用語の基礎知識'99』という本も取り上げられているのだが、表現規制に関する本ではあるが有害論ではなく、本自体のクオリティの低さを理由とした収録でもない。同書中の「差別発言だ!差別表現だ!」という言い掛かりの事例(実在のもの)があまりに酷いものが多く、真面目できちんとした本でありながら「著者の意図とは異なる視点で笑えて」しまうという定義に合致したためである。
規制被害者としてのトンデモ本
トンデモ本は、特に典型であるオカルト本や疑似科学本は、必ずしも無害ではない。人種や民族・性的少数者などへの差別を正当化したり、間違った健康情報によって人命を脅かすこともある。
ではトンデモ本は規制(ないしは弾圧)されるべきだろうか?
そうではない。「と学会」主要メンバーの志水一夫氏は以下のように述べている。
問題なのは(表向きの理由はなんであれ)もしこの本*2をきっかけに氏が大学から処分を受けるようなことにでもなったら、あたかも他の人々が彼の主張を正面から論駁できないために、不当に彼が迫害されたかのような印象を、世間に与えかねないということである。一九五〇年代のことだ。映画「十戒」に登場するような旧約聖書の天変地異的な軌跡は、太陽系の大異変の記録である、と主張した本が米国で大ベストセラーになったことがある。その本は、なにしろ、巨大なヘリウムの塊である木星から”汚れた雪ダルマ”と言われる彗星が誕生し、それが地球のような固い大地を持った現在の金星になったのだと主張する、「瓢箪から駒」よりも荒唐無稽な本であった。そこであまりのデタラメぶりに憤慨した同国の科学者たちは、教科書会社でもあった出版元への執筆拒否をにおわせた抗議という圧力をかけることになった。彼らの抗議により、ベストセラー街道を驀進中だったにもかかwらず、その本は絶版にされた。また、その本に好意的なコメントを(おそらくは一種のつきあいで)寄せていた科学者が職を失うという事件まで発生している。では、絶版によって、かの本は信用を失ったであろうか?答えはノー。科学者たちの抗議と”絶版””追放”という結果が、かえってその本に”殉教者の雰囲気”を与えてしまったのだ。出版元を変更して刊行された改訂版は、その後もベストセラーを続け、現在ではその種の本の”古典”とまで呼ばれるようになってしまった(もっとも、おかげで今は、その本に対する態度を見れば、その人が疑似科学にどの程度の免疫を持っているかがわかるという、リトマス試験紙かツベルクリン反応のような存在になっているのではあるが――もちろん”その本”とは、ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』である)。疑似科学を力で押さえつけるようなことは、百害あって一利なし。むしろ事態を悪化させることになりかねない。この実例は、そのことを雄弁に物語っている。(『トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!』より)
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